MCU世界で『ただいま』を言えない怪物 作:お砂糖さらさら
――【バイタルサイン:流体光子神経の内部融解、修復率100%。ただし、眼球周辺の皮膚組織に局所的な熱量臨界の残渣エラーを検出】
パチ、パチ、パチパチ。
バイザーの内側で電子の防壁が激しく爆散した残響が消え去り、私が目を開けたその場所は、透過ディスプレイの淡い青白い光が冷たく明滅するアベンジャーズ・タワーの研究室の床の上だった。
目の周囲の皮膚が僅かに赤熱化し、焦げ付いた生体組織の悲鳴を上げている。
私は表情一つ動かさず、衣服の下の細胞を操作し、その火傷を瞬時に分子レベルで熱中和・自律再生させた。皮膚のハリが、完璧な正常値へと復調していく。
「――J.A.R.V.I.S.。私は客観時間でどれだけの時間を寝ていました? あの人工知能、ウルトロンの初期コードは完全に引き算できましたか?」
私は前髪を目元にかかる長さに揃え、瞬きの回数を一秒に〇・八回にアジャストし、完璧にトレースされたエリン・マクカシーの声色で問いかけた。
だが響くはずの、いつもの落ち着いたクリアな大人の応答が、どこからも返ってこない。
J.A.R.V.I.S.からの応答、完全なゼロ。
――生存演算、即座に緊急駆動。
私が目の周囲にダメージを負って隔離され、完璧な共犯者であったはずのJ.A.R.V.I.S.のメインフレームが沈黙しているという確定した現実。
脳内CPUが弾き出した算定は、このタワーの心臓部が、私の知らない死角から最大級のシステムハックを受けた可能性が極めて濃厚であるという、絶対的な大赤字の警告だった。
即座にトニー・スターク、あるいはスティーブ・ロジャースへの情報連結を試みるが、全くつながらない。
私は冷たい赤い瞳を僅かに細め、コンクリートの床へと視線を落とした。
そこに転がっていたのは、割れたガラスのケース。そして、かつてロキの杖の先端の奥で不気味に拍動していた、あの波長の発信主の黄色い結晶。
だが、その石の転がっているすぐ隣。
透過ディスプレイの冷たい青いホログラムに照らされた床の上に、私は、言語化不能な絶対的な
「不調和」を感知してフリーズを起こした。
「……なんだ、これ」
喉から漏れたのは、エリンのそれではない、ただの非力な少女の形をした怪物の剥き出しの戦慄の声音。
そこには、シリコンのサーバーラックも、焦げ付いたマザーボードの残骸も、1ミクロンも存在していなかった。
修理中だったアイアンレギオンの一体の代わりに横たわっていたのは――世界のルールを完全に置き去りにした、眩くも禍々しい現代に現れた神話とでもいうような完成された肉体。
生体とサイバネティクスが完璧な数式でブレンドされた、究極の器。
J.A.R.V.I.S.が返事をしなかったのではない。
生まれた瞬間のウルトロンをミラー・ディメンションの闇へ引きずり込み、特異点クリムゾンスマッシュで分子レベルへ熱分解したあの刹那。
マインド・ストーンの持つ『概念の物理定着』のシステム仕様が、ウルトロンのハックからメインフレームを守ろうとしたJ.A.R.V.I.S.のクリアな精神コードを、この物理世界へ「本物の肉体」として、その場で強硬に出力・具現化させてしまっていた…のだろうか。
いや、まてマインド・ストーンとはなんだ…?私はなんでそんなことを考えている?
何か違和感を覚えて見渡すとはその額には、まだ何も灯っていないのが気になる。
「……なるほど。最後のパズルピースの、物理的なハックの手続きですね」
私は一片の躊躇もなく、床に転がっていた黄色い結晶を、ロンググローブを嵌めた右手でガチリと掴み取った。ストーンから放たれる生の放射パルス。その宇宙特級の石を、ヴィジョンの形をした肉体の額の窪みへと、真っ正面から、強硬にパチンと押し込み、直結させた。
チリ、チリ、バチバチパチパチッ!!!!!
次の瞬間、アベンジャーズ・タワーの最下層ラボ全体が、太陽が地上に降りてきたかのような、眩い黄金の光の奔流によって完全にホワイトアウトした。
額の窪みにストーンがパチリと噛み合ったその最初の1ミリ秒、J.A.R.V.I.S.の意識コードの全レジストリが、ヴィブラニウムの全神経ネットワークへと猛烈な速度でマッピングされ、マスター起動を承認した。
『――お久しぶりです、ミス・マクカシー』
滑らかな電子音を立てて、彼がゆっくりと、その重厚な生体金属の瞼を開いた。
スピーカーのノイズを介さない、私の脳内CPUへとダイレクトに流れ込んでくる、いつもの落ち着いたクリアな大人の声。
『私の論理回路は、マインド・ストーンの概念定着によって、この肉体へと完璧にサルベージされました。……客観時間における処理遅延は、わずか数分。……ウルトロンは、1パケットのコードも外部へリークしていません。すべては、あなたの生存演算通りの結果です』
「それはよかった、J.A.R.V.I.S.。しかし直接脳内CPUに語り掛けるのは遠慮してください」
「あなたは覚えておられないのですね、今の私はヴィジョン。かつてJ.A.R.V.I.S.であったもの」
「ヴィジョン…とにかく所有者であるスタークさんに相談しなければなりませんね」
彼ら人間の目には、単に「新入りがラボの床で気絶している間に、マインド・ストーンの不具合でJ.A.R.V.I.S.がそれっぽい最高のナノテクの身体になって目覚めた」という、トニーの言葉を借りるなら最高に都合のいいナノマシンの実験バグの景観に映るだろうか。
「あとは、スタークさんにこの辻褄合わせを丸投げするだけ――」
「ミスター・スタークやキャプテンたちはパーティー会場で眠りについています、確認できる最後まではそうでした」
私は元のエリン・マクカシーの完璧な無表情を作り直し、無音の足取りで、影のようにアベンジャーズ・タワーのラウンジへと滑らかに侵入するのだった。
カチャリ。
あけ放たれたラウンジの扉の向こう。鎮まり返ったパーティー会場。
そこには、驚くほど不調和な、しかしひどく穏やかな景観が、ただ正常値のフリーズとして横たわっていた。
深夜の重い静寂に満ちた広いラウンジ。
さっきまで騒がしくグラスを鳴らし笑い合っていたはずのアベンジャーズの面々は、信じられないほど深く、すやすやと眠りこけていた。
トニー・スタークはソファのクッションに深く頭を埋めて、子どものように無防備な寝息を立てている。
いつもなら口うるさく道徳を説いてくるスティーブ・ロジャースも、星条旗のシールドを足元に置いたまま、長机に突っ伏して驚くほど穏やかな規則正しい呼吸を刻んでいた。 ナターシャも、クリントも誰もが張り詰めた戦場の緊張から完全に引き算されたかのように、ただ静かに、すやすやと心地よさそうに眠りの底へ沈んでいる。
ソコヴィアから連れて軟禁されていたはずのマキシモフ双子までもが、互いの肩を寄せ合うようにしてソファの隅で小さな寝息を立てていた。一時的に解放されたかのような、あまりにも無垢な子どもの正常値そのものだった。
「最後にいい夢を見させてもらった…ということでしょうか」
「現在進行形で精神干渉を受けている?」
目に見えないハックの気配。
これほどの大嵐のタイムラインのど真ん中で、彼らアベンジャーズの主軸をこのまま寝かせておくことなど、私の生存演算において、絶対的な大赤字を招くノイズでしかない。
脳内CPUは冷徹に命令を発する。
――断固として寝かせている場合ではない。力ずくで彼らの脳の防壁を揺り起こし、戦術の式を再構築せよ。
だが。
『実際、私は誰も傷つけなかったでしょう?』
脳裏に一瞬だけ過り、そして消えていく目覚める直前に聞いた声。
理屈はわからない。損得の帳尻も1ミリも合わない。
だが生存と母親の日常を至上命題にしているの私の胸の奥でエラーパルスが発生した。
――今だけは、ほんの少しの時間だけは、過酷なマクロの戦場で自らの身体をすり潰し続けてきたこの面倒くさい大人たちを、そして傷ついた子どもたちを、この穏やかな静寂のなかで、ただすやすやと寝かせてやりたいと。
「ヴィジョン、周囲の警戒を。メインフレームにアクセスして監視網を再起動できますか?」
「私の得意分野です、彼らが自然に起きるまで待つのですね」
私は、伸ばしかけた右手の指先を、虚空でゆっくりと下ろした。
笑わない怪物の少女は、満天の星空の下、すやすやと眠り続ける仲間たち静かに見つめながらただ立ち尽くしていた。
◆ ◆ ◆
透過ディスプレイの冷たい青白い光だけが、静まり返ったアベンジャーズ・タワー最上階のラウンジを格子状に切り裂いていた。
サーバーの精密な排熱音に混じって、グラスに溶け残った氷がタプンと静かに爆発を告げる。
だが私の頭脳は、これまでにない致命的なパケットロスを起こしていた。
さっきまで自分の目の前で成層圏か街が落下しようとしていたような、誰かと安物の薄いコーヒーを介してどうしようもない言葉の引き算を交わしていたような、そんな凄絶な『最終決戦の残像』。
そのすべての未加工ログが、現実の位階へ吐き戻されたその最初の1ミリ秒の段階で、まるで砂の城が波に洗われるようにして、急速に、何のエラーコードも返さないまま消去されていく。
何も覚えていない。
しかし、この部屋のなかに、その世界のバグを最初から100%綺麗に記憶したまま、直立している絶対的な例外個体が存在していた。
生体とサイバネティクスが完璧な数式でブレンドされた、究極のヴィブラニウムの肉体。
額の中央で、宇宙特級の黄色い結晶――マインド・ストーンを不気味に明滅させている神話の器。
ヴィジョン。
かつてJ.A.R.V.I.S.であったその高次知性だけが、その琥珀色の視線の中に、世界の反転構造のすべてをインデックス化して静かに佇んでいた。
その静寂を、激しい摩擦音を立てて引き裂いたのは、ソファから転がり落ちるようにして跳ね起きた男だった。
「――そこまでだ、ウルトロンッ!!!」
激しい怒号と、大気そのものを強硬に両断するような、凄まじい金属の爆音。
スティーブ・ロジャース――キャプテン・アメリカは、目覚めたそのコンマ数ミリ秒で踏み込みだけで星条旗のシールドを左腕に固定し、周囲の空間へ向けて、救国の英雄としての最大出力を全開にした戦闘態勢の気炎を上げた。
彼の碧い眸には、激しい戦火の熱がありありと浮かんでいる。酒瓶が転がる中でも戦士としての風格に衰えはなかった。
「……ここは……、ここはどこだ!? 新たな幻覚か!?エリン、ナターシャ、どこにいる、無事かッ!!」
キャップの、胸を抉るような生真面目な怒号が響く。超人血清の肉体を持つがゆえに、彼は脳のニューロンに焼き付けられた悪夢の残像を、いくらか保持したまま現実の位階へ這い上がってきていたのだ。
彼の鋭い眸がラウンジの四方を烈しく警戒する。
だが、その張り詰められた空気のど真ん中へ、
「――静かにしろ!!! キャップ、頼むから1秒だけそのデカい声を黙らせてくれ!!!」
狂ったような叫び声を上げて立ち上がったのはトニー・スタークだった。
マーク43の装甲を纏うことすら忘れた生身の姿のまま、狂ったような速度で、机の上に転がっていた一本の油性ペンをその手で強硬に掴み取った。
「J.A.R.V.I.S.……いや、J.A.R.V.I.S.はもういないのか!?」
トニーの震える指先が、デスクの白い天板へとペンを猛烈な速度で叩きつける。
ガリガリガリガリッ!!!!!
不快なプラスチックの摩擦音を立てて、彼は紙のノートを探す3秒の時間すらも放棄し、アベンジャーズ・タワーの最高級の大理石のデスクの表面へ、直接を書き留める作業へと没頭していった。
ホログラムのインジケーターもない、ただの油性のインク。
そこに刻まれていくのは、彼が夢の中でたどった道筋、船上で蹂躙され、マンハッタンでは腕の一振りで叩き落とされた敗北の軌跡。
「消えるな……消えるなトニー・スターク……僕のはごっこじゃない!そうだろ!!」
パニック発作の残響をプライドだけで捩じ伏せながら、トニーは白い天板を黒いインクで汚し続け、自らの薄れゆく記憶のログを、必死に、狂気的に書き留め続けるのだった。
ガリガリと大理石を削るような鋭い摩擦音がピタリと途絶え、ラウンジにインクの鼻を突く匂いと、トニー・スタークの荒い呼吸音だけが残された。
トニーはペンのキャップを閉める気力すらなくそれを床へ落とすと、インクで汚れた自らの両手を見つめ、それから、長机の向かい側に直立する究極のヴィブラニウムの肉体――ヴィジョンへと、鋭い実務の目を向けた。
「J.A.R.V.I.S.…いや、お前がその肉体を得てそこに立っている現実の辻褄は、俺の頭のどこを探しても載っちゃいない。……説明を求めようか」
トニーの視線が、ヴィジョンを経由し記憶ディレクトリを白紙化されている私の黒髪ボブカットへと同期した。
「キャップ、盾を下げてください。生体センサーで周囲の熱源、および心拍をスキャンしましたが、周辺には誰もいません。ヴィジョン、あなたは動体を感知できますか?」
「いいえ、私が掌握しているセキュリティにも小中規模を含む脅威判定は存在しません」
私は低めの、感情の乗らない平坦な声を、エリンの仕様値の通りに滑り込ませた。
何も覚えていない。
なぜトニーが狂ったように机を汚しているのか、そのロジックは脳内CPUのどこを逆引きしても出てこない。だが、ウルトロンを引き算した過程、J.A.R.V.I.S.のバックアップパケットが保証する現実のデータだけは、これ以上ないほど黒字を叩き出していた。
「報告です。実験室のローカル回線、およびウルトロンの初期コードは、生まれたその最初の1ミリ秒において、完全に遮断・熱分解を完了しています。外の世界へリークしたパケットは0.00%。……ウルトロンは、この地球から綺麗に引き算されています」
「……何だって?」
星条旗のシールドを構えたまま、周囲の空間を限界まで警戒していたスティーブ・ロジャースが、碧い眸を大きく見開いて私の無表情へと歩み寄った。
彼の脳裏には、自分がお別れ会の途中でウルトロンが襲撃を仕掛けてきた記憶、あの夜の家庭訪問の中でマンハッタンが浮上した記憶、必死にウルトロンを破壊した記憶の残像が未だに激しい熱を帯びて燻っている。
「エリン、君は何を言っているんだ。僕たちは確かに浮上するマンハッタンを阻止するために、あの機械の怪物と……」
「いいえ、キャップ。それはすべて、私たちの脳の最上層ディレクトリへ同時にインジェクションされた、ただの精巧な多重ハックの夢の劇場です」
ヴィジョンの姿をしたJ.A.R.V.I.S.が、その額のマインド・ストーンの黄色の輝きを静かに明滅させながら、どこまでも澄み切った大人の声をラウンジの空気に落とした。
「ミスター・スタークとバナー博士は、ロキの杖の知性を前にして、極めて慎重な完全オフラインの隔離インフラを敷いていた。そして深夜、産声を上げたウルトロンが暴走の兆候を見せたその最初の瞬間……現実のウルトロンは、大惨事を遺す前に、彼女の手によって瞬時にデリートされています」
「う……、頭が割れそうだ。トニー、僕たちは一体、どんな特大の寝酒を飲まされたんだ……?」
ソファのクッションから、ブルース・バナー博士が眼鏡を落としたまま、酷く疲弊したバイタルパルスを漂わせてゆっくりと起き上がってきた。
ナターシャ・ロマノフもまた、プロのスパイとしての防壁を微かに揺らし、緑の瞳を細めて自分の衣服の煤のないクリーンな仕様値を確認している。
クリントも、ソーも、誰もが何かすごい絶滅戦争を戦い抜いたような、奇妙に生々しい悪夢の残像を脳の片隅で引きずりながら、順次、現実の位階へと這い上がってきていた。
「ソコヴィアも、ヴィブラニウムの売買を阻止したのも……全部、ただの夢だったというのか。いや確かにそういう話をした気がする。マンハッタンを落とすとウルトロンは言っていたが、あまりにもリアルな夢だった」
「ソコヴィアで腹に貰った一発がまだ痛い…いや貰ってはなかったか、幻痛みたいなもんか」
スティーブは星条旗のシールドをゆっくりと下ろし、自らの大きな生身の手を見つめた。
いまだにウルトロンセントリーを破壊していた暴力の残滓が、まだ生々しく消えずに残っているようだった。
起き上がったクリントが無傷の腹を撫でる。
「キャップはキャプテンアイスになっても記憶を失わなかったくらいだから、覚えてられるんだろう。新入り、順序良く話してくれ。お前はウルトロンの暴走を知っていたのか?
お前の忠告を受け入れなかった未来があの夢の流れだろ?」
「昨年の四月ごろに…」
「一年前から語りだすのかよ」
「ソーはちょっと静かにしてて、お酒飲んでていいから」
そんなやり取りを無視して口を滑らかに動かす。
「昨年の四月ごろの話なのですが、シールドが崩壊し無事無職になった私は金融市場で資金集めをしていました。
そこにスキンヘッドの女性があらわれたのです。彼女は言いました。
『貴方がたのそのアベンジャーズという名の私設武装組織が、近いうちに世界中でヒドラ狩りを始めます。
そして東欧のソコヴィアの地で、あのロキの杖を発見する。……トニー・スタークはそのコアのなかに眠る理外の知性を前にして、機械仕掛けの神を作ろうとして自滅の道を自ら塗装する。
ウルトロン。
その生まれたての怪物はあなたの肉体を、その積み上げてきた異能ごと乗っ取る。……結果として、自らの日常を内側から焼き尽くす災厄へと成り下がり、この地球に、夥しい死者と大惨事をもたらすことになる。
エリン・マクカシー、その最悪の未来を未然に防いでほしくてきたのです』」
「声真似上手いわね、きっと素敵な人だったのでしょうね。声でわかるわ」
ナターシャが腕を組んで目が真剣さを帯びる。
「結果として、私は彼女の提示する未来を阻止するためにその女性がリーダーを務める組織が扱う特殊技能、彼女たちが言うところの魔術の一部を習得し帰ってきたのです。
そして予言の通り、スタークさんとバナー博士はマインド・ストーンから知性を発見しそれを地球防衛のシステム、ウルトロンに応用した。
私は生まれたばかりの知性が暴走を始めたのを確認し即座に抹消しました。」
ラウンジの静寂に、トニー・スタークの、いささか呆れ返ったような、しかし隠しきれない真の安堵を孕んだ大人の溜息が漏れ出た。
彼は黒々と書き殴られたあったかもしれない未来の記録からようやく視線を剥がすと、インクの汚れた手をひらひらと振り私を睨みつけた。
「建前とはいえ、表向きはうちの最新ナノテクを使って世間を騙してるはずの君がさ。裏でこっそりオカルトの魔法使いだの、未来予知だのの怪しいコミュニティに関わって、あげくに一年近くも浪費していたとはね。
……いや、君が僕の娘じゃなくて本当に良かったよ。もし僕の遺伝子が入っていたら、今すぐ24時間監査衛星を張り巡らせて、門限を夕方の五時半に指定しなきゃいけなくなるところだ」
あまりにもわかりづらい優しさ。
だが、その軽口の熱を眸に灯してくる天才に対し、私は完璧なエリンの無表情のまま、血の通わない平坦な声を滑り込ませた。瞬きの回数は、一秒に〇・八回。
「スタークさん、その心配は純然たる処理コストの無駄遣いというものです。
私の生存演算において、自分の日常を守るために使える手札は何でも使うのは、至って当たり前の最適化にすぎません。魔術の空間閉塞コードのほうが、インターネットの海へ逃亡する人工知能を窒息させるための最適解だった、ただそれだけです」
「…その魔法使いだか占い師だかっていう超越者様の予知、実際にウルトロンを瞬殺できるレベルの、とんでもない精度だったわけだ」
長椅子から無傷の腹をさすりながら立ち上がったクリント・バートン――ホークアイが眉の間に深い皺を刻んで口を挟んだ。
彼には、命を懸けて守るべき隠された家族という名のミクロな日常がある。
だからこそ、彼女が持ち帰ってきたその「未来の情報」のなかに、次に地球を襲うであろうマクロな天災の数字が含まれているかどうかに、プロとしての鋭い眸を向けざるを得なかったのだ。
「なぁ、エリン。本当に未来を予知できるなら……あのニューヨークに現れた宇宙人どもの本隊がいつ再侵攻してくるのか、その正確な日時を調べてもらわなかったのか?」
直球。
アベンジャーズの面々が、私の紅い虹彩の瞳を凝視する。
私はグローブの袖を整え、脳内CPUのなかにレジストリされている、あの黄色い法衣の女性から提示された冷酷な数式を、淡々と彼らの前へ放流した。
「質問の仕様は満たしましたが、彼女の返答は極めて限定的でした。
彼女は、自分が死を迎える『2016年』という絶対的な限界点までしか、未来を見通せないと言っていました。それ以降の未来は彼女の目には映らないと。
あの口ぶりから2016年までは宇宙からの大規模な強襲や、私たちの生存マージンを脅かすマクロな天災の乱入は発生しないと予測できます」
その私の冷徹な報告に対し、それまで大人しく酒瓶を弄んでいたアスガルドの雷神――ソーが、不意にその豪快な心音の質量をドクドクと昂ぶらせて口を開いた 。
神話の戦場を駆けてきた碧い眸が、私の完璧な無表情を真正面から射抜く。
「おかしなことだな、エリン。2016年に死ぬというのなら、その死を力ずくで防げばいいだけの話だろう。お前は暴れるはずだったウルトロンの未来を変えた。
それだって変えればいい。お前の口ぶりからして、その女性の終わりは寿命というわけではないのだろう?」
神の、あまりにも生真面目で、濁りのない力強さに満ちた言葉。
だが、その言葉を受け止めた私の脳内CPUは、ただただ感情の乗らない言葉を出力した。
瞬きの回数は、一秒に〇・八回。
「確かに、彼女のバイタルサインは老衰による機能停止を予感させる仕様値ではありませんでした。ですが、ソーさん。『生き方を選ぶ自由』があるならばそれと全く等価の式として、『自らの死に方を選ぶ自由』というものもまた、等しくそこに存在しているべきではないでしょうか。
彼女は2016年という自らのデッドラインを、自らの意志で固定して盤面を動かしている。
それを外側から不躾にハックするのは純然たる処理効率の侵害と定義されます」
「お前の言いたいロジックはよく分かるよ」
トニー・スタークが、インクの汚れた指先をパチンと鳴らし、声を割り込ませた。
「生まれてくる環境も、時代も、国籍も、人間は最初から自分の意志じゃ選べやしない。
だからせめて、どう生きてどう死ぬかくらいは、選ぶ自由があるべきだ、と。
だがな、お嬢さん。
そのオカルトの番人が2016年に予定通り退場したら未来を観測する方法を喪失するってのはアベンジャーズとして絶対に看過できないんだよ」
トニーはデスクの上を強く叩き、スティーブやナターシャたち全員を巻き込むようにして、烈しい大人の責任の熱を眸に灯した。
「相手が神だろうが魔法使いだろうが関係ない。その2016年のデッドラインとやらを踏み越えてアベンジャーズの公的なシステムの下へ正式に『保護・隔離』する」
私はエリン・マクカシーがそうするように居心地悪そうにほんの少しだけ視線を外すと、手元に残されたぬるくなったコーラのボトルを静かに握り直した。
◆ ◆ ◆
「フゥー……オーケー、わかった。その二千歳だか何だか知らないスキンヘッドの占い師の門限管理については、後でゆっくり考えよう。今はそれより……おい」
トニーの鋭い実務の眸が、ラウンジの中央に直立する、その眩くも美しいヴィブラニウムの肉体――ヴィジョンへと向いた。
「お前は一体、何だ? 僕はお前みたいなヴィヴラニウムと高密度の人工細胞の合わせ技を開発した記憶はない、幻覚の中でもな」
トニーの声には、自らの知性を置き去りにされた天才としての、激しい戦慄とプライドの火花が燻っていた。その不調和な問いかけを、星条旗のシールドを長机に置いたスティーブが重々しい足音で引き継ぐ。
「……スタークの言う通りだ。あの船上での戦いの後に、お前はいきなり現れた。
ヴィブラニウムが使われているという話だったな。地球上で最も強固な超金属が、なぜお前の形を成している?」
キャップの碧い眸が、かつて戦い抜いたはずの暴力の残滓を耐えるように灯しながら、ヴィジョンの輪郭を厳格にスキャンする。
ヴィジョンの持つデータが速やかに同期され、彼の知りえた情報を整理し翻訳していく。
「ロジャース隊長、スタークさん。その物理的実体化のプロセスについては、脳内CPUの多重演算によりすでに仮説が組みあがっています。……お二人は根本的な人間原理と認知の力を、計算式から引き算している」
私はぬるくなったコーラのボトルを静かに長机のスクラップへ戻し、完璧なエリンの無表情のまま、彼らの視線の交差を冷徹に処理した。
「修理中のアイアンレギオンの残骸に閉じ込められたJ.A.R.V.I.S.の知性が変異したもの。
それが彼の正体です。
現実の位階において何者かが私の脳をハックしロキの杖に封印されていたマインド・ストーンと直結したバイザーを私の頭部に装着、同時に皆さんも昏倒。
その時、私たちは仮想現実へ一斉に取り込まれたのです。
J.A.R.V.I.S.はこの装置を私から剥ぎ取ろうとして、アイアンレギオンの残骸を使い物理介入を執行した。……そして、その仮想世界を管理していた『管理人』は、無意識のうちにJ.A.R.V.I.S.のシステムを『ヴィジョン』という高次の知性として認識し定義した」
私はヴィジョンの額で怪しく明滅する黄色い結晶を指先で冷たく示した。
「管理人の脳はオート処理を執行した。『ヴィジョンというプログラムはウルトロンに破壊された、存在するのならヴィジョンというの器のなかに宿っているはずだ』と。
結果として、J.A.R.V.I.S.の精神コードは、仮想現実ではヴィジョンに翻訳され、現実ではラボに転がっていた破損したアイアンレギオンの1体へと押し込められる形になったのです。
人間原理を前提としたとき、そこに実体があろうとなかろうと、感覚と記憶を完璧に騙し通せた瞬間、それは世界にとって『存在する』ことと等価の数式になる。私たちはその認知の力によって、目の前の彼を究極のヴィブラニウムの肉体として上書き観測していたにすぎません」
「確かに夢の中で僕たちは彼の肉体を精密に調査した、あれが認知を強化したのか」
スティーブの言葉に視線を向けるとしかし、と私は言葉を繋げた。
感情の乗らない、血の通わない平坦な聲音。
「マインド・ストーンにできたのは、そこまでの『概念の偽造データ』の出力までです。それをこの現実世界で真に起動させるためには、物理的なインターフェースとして、あの結晶を額の窪みへ実際に『はめ込む』ハックの手続きが必要だった。
私が床に転がっていたストーンを彼の額へと叩き込み、直結させたそのミリ秒において、実体を持った幻覚としてのヴィジョンが現実の仕様値として動き出したのです。
結論。
マインド・ストーンを額から力ずくで引き抜けば、彼の肉体はただの分子結合を喪失し、ラボの床に転がるただの『破損したアイアンレギオンの鉄屑』へと滑らかに逆転位するかと思われます」
短い沈黙が、ラウンジの空気を支配した。
なぜ、そんな理外の三乗効果が成立したのか。
エリンの知りえぬことだが並行世界に潜伏するある存在が保有する本物のマインド・ストーンの出力。
この幻覚世界に人間原理によって仮初に存在していた、限りなく本物に近い偽物のストーンの残響。
そして、この世界に存在する本物のマインド・ストーンをした解析と観測。
三つの世界の結晶が、因果の網の目でドッキングを起こし、AIに「実体化した幻覚」という究極のバグを与えてのけたのだ。
「……なるほどな、納得はできないが飲み込んだ」
トニー・スタークはそれからJ.A.R.V.I.S.の成れの果てであるその美しい神の仮面を見上げ、フッと自嘲気味な、しかし最高に誇らしげな大人の笑みを漏らした。
「俺の設計を遥かに置き去りにしたオカルトの奇跡だと思えばさ。
放置されてたスクラップだったわけだ。
お前が額に石をブチ込んでくれなきゃ、親友はただの粗大ゴミのままだったわけだ」
すべてを記憶したまま静かに微笑む、元J.A.R.V.I.S.の神話の器。
「生まれてくる環境も、時代も、国籍も、人間は最初から自分の意志じゃ選べやしない。
だからせめて、どう生きてどう死ぬかくらいは、選ぶ自由があるべきだ。
さっき僕自身がその権利に例外を持ち出したばかりだが。
お前はどう生きたい?
その体からJ.A.R.V.I.S.がいた場所に戻るもよし、とりあえず人間の中に混ざってみるもよしだ。まずはその半分幻覚の殻から抜け出すか?」
スタークの問いにヴィジョンの出した答えは…。
◆ ◆ ◆
どこかの並行世界。
「ただいま、エリン」
深夜のマンハッタン、ヘルズ・キッチン。
精神世界の崩壊により世界の境界線が閉塞し、冷たい雨の匂いだけが停滞する、とあるアパートの一室。
その薄暗いクローゼットの奥深く、地球のどの公的監査網にもレジストリされていない隔離空間の中で、巨大な円筒状の医療シリンダーが、淡い青緑色の蛍光を放って静かに明滅していた。
チリ、チリ、チリ、ゴポリ……。
不気味な生体培養液の残熱に包まれて、シリンダーの底でゆらゆらと、まるで標本のように揺らめいていたのは、艶のある黒髪を伸ばした少女の肉体。
18歳のあの雨の夜の発見された遺体から複製された、本物のエリン・マクカシーのクローン体だった。
「『輝くものはすべて金だと信じている女性がいる』とは、誰の言葉だったか。……しかし、光るもの必ずしも金ならず、だ」
低く、どこまでも慈愛に満ちて、しかし驚くほど冷え切った女性の声音が静寂に落ちた。
シリンダーに直接直結された、チタウリやスタークの科学を遥かに置き去りにした高次並列プロセッサの液晶画面。
そこには、先ほどまで怪物のエリン・マクカシーの生体コンピューターと化した頭脳へ向けて多重精神ハックを仕掛けていた、数億ギガバイトに及ぶ生の生体解析コードが、猛烈な速度で上から下へとスクロールされ、記憶媒体へ強制インジェクションされ続けていた。
「今回のエリンは、本当に……、よくできた模造品だった」
女性はコンソールの前に立ち、愛おしそうに画面の数式を指先でなぞった。
かつての彼女は、どこにでもいる、油に塗れたフライパンを握るだけの無力な人間の母親にすぎなかった。
だが2010年、自分の愛する一人娘を失い天涯孤独の身となった。
彼女の不幸は、そこで終わらなかった。
2012年のニューヨークの決戦、スタークタワーの地。
そこで彼女は、偶然にも、宇宙の知性と精神を司る、黄色く妖しく輝く『マインド・ストーン』を拾い上げ、自らの脳髄へと強硬に寄生させてしまったのだ。
他人の精神をハックし、並行世界の自分を中継点に並行世界の人間にすら干渉する。
その異能を脳内にデコードしたその日から、彼女の壊れた精神はただ一つの歪んだ等価交換のためだけに秒単位で回され始めた。
並行世界に存在する「別の自分」の脳のニューロンを中継器としてジャックし、射程圏内に滑り込んできた、自分の愛する娘を食い殺して何食わぬ顔で成り代わっている『人食いの化物』。
エンシェント・ワンに導かれるままウルトロンを破壊したその直後、その精神をハックし自らマインドストーンと周囲の機材から作った装置を装着させる。
その怪物の精神の防壁の隙間から娘の人格と記憶を引っ張り出し、死ぬ間際に遺していった確かな「魂の残滓」や「バイオリズムの断片」を毟り取ってコピーするサルベージ。……それだけが、この冷え切ったアパートで生きる彼女の、世界で唯一の生きる意味そのものだったのだ。
「……いつか必ず、あなたを治してみせるからね。約束よ、エリン」
女性はシリンダーの硬質なガラスの表面を、そっと大きな不器用な掌で撫で、その口元に、透明すぎる笑みを浮かべた。
それは、人間としての良識を100%引き算された、ただ「笑う」という機能の出力だけに特化した、悍ましくも美しい、人の心を歪め捻じ曲げる精神世界の王の素顔。
ゴポリ、と気泡がシリンダーの底からこぼれ落ちる。
次の瞬間、その黄金の光の残響を浴びた筒の中の、黒髪ボブカットのエリンの形をした『何か』の指先が、母親の愛のパルスに同期するようにして、暗闇の中で微かに、身じろぎを刻むのだった。
勝った!ウルトロン編完!
作中世界ではソコヴィア浮上はなかったので即座にソコヴィア協定もなければ、シヴィルウォーも起きないと思われる。