呪いの世界に厄災は歩く 作:杜王町民
第1話 厄災
人には、どうしようもない不運というものがある。
道を歩いていて転ぶ。頭上から物が落ちてくる。通りかかった車が跳ねた小石が、偶然こちらへ飛んでくる。どれも珍しい出来事ではないし、誰かに責任を求めるようなものでもない。ただ、その時、その場所にいた人間の運が悪かった。それだけの話だ。
しかし、それらが立て続けに起きたなら。しかも、ある一人の人間を追いかけた時だけ起きるとしたら。
果たしてそれを、ただの不運と呼んでいいのだろうか。
「追うな!」
夜の住宅街に怒声が響いた。
路地の出口に立っていた男が、反射的に足を止める。黒いスーツを着た補助監督だった。その前方では、一人の呪術師が塀を飛び越えようとしている。
「分かってる!」
そう返した直後、呪術師は前方へ伸ばしかけた足を引いた。
数十メートル先で街灯の下を、一人の若い男が歩いている。
久世新一。二十三歳。元呪術師。現在は呪術界から呪詛師として指名手配されている男だった。
久世の少し後ろには、もう一つ人影がある。
人影、と呼ぶには少々異様だった。
人型ではある。二本の脚で立って、二本の腕を持っている。さらには、黒い衣服に黒い帽子、マフラーを纏い、杖を持っている。しかし、その顔は明らかに人間のものではない。黒を基調とした機械的な顔だ。
高専の記録上では、久世新一の生得術式に付随する自律型式神。
識別名称――ワンダー・オブ・U。
ただし、その名称をいつ、誰がつけたのかについて、高専側の資料には明確な記述がなかった。
「距離を維持しろ! 絶対に接近するな!」
補助監督の指示に、呪術師は小さく舌打ちした。
そんなことは言われるまでもない。
久世新一を追跡する。あるいは、あの式神を追跡する。その行為そのものが、術式の発動条件になる。久世がまだ呪術師として活動していた頃から、高専側はその性質を把握している。久世や式神へ近づこうとした者。その行く先を追った者。明確な敵意を持って攻撃しようとした者。
それらの人間には、何らかの形で『事故』が起こる。
建築物の落下。
交通事故。
転倒。
破損。
飛来物。
いずれも、現象だけを見れば現実に起こり得るものだ。
問題は、その頻度と威力だった。
「……分かってても面倒くせえ術式だな」
呪術師が低く呟いた。
今回の任務は久世の捕縛。しかし、追えば術式が発動するため直接追跡することはできない。
そこで高専側は、久世の移動先を事前に予測し、複数の術師を先回りさせる方法を取った。
今も三方向から包囲網を狭めている。久世を追うのではなく、あらかじめ待つ。理屈の上では、これならば術式の対象にはならないはずだった。
「三班、配置完了」
イヤホンから声が入る。
「一班も所定位置。対象はそっちへ向かっている」
「了解」
呪術師は息を殺した。
久世はまだこちらに気付いていない。
歩く速度も変わらずその背後の式神も、一定の距離を保ったまま無言で続いている。
あと十秒。
久世が交差点へ入れば、左右と前方を封じられる。
追跡する必要すらない。
完璧な待ち伏せだった。
少なくとも、そのはずだった。
久世が交差点へ入る。
「今だ!」
三方向から術師が姿を現した。
久世が足を止め面倒そうに頭を掻いた。
「あー……またお前らか」
一人の術師が久世の前方に立つ。
「久世新一。大人しく投降しろ」
「毎回それ言うよな」
「抵抗するな」
「抵抗してないだろ」
久世は両手を軽く上げた。
「俺、ずっと歩いてただけだぞ」
別の術師が後方を塞ぐ。
式神――ワンダー・オブ・Uは、その術師へ一瞬だけ顔を向けた。
「対象確保に入る」
イヤホンから指示。
前方の術師が一歩踏み出した。
その瞬間。
道路の向こうから、甲高い音が聞こえた。
全員がそちらを見ると、大型トラックが一台交差点へ向かってくる。
ただ走っているだけで異常な速度でなく、運転手もこちらを気にしている様子はない。
その時、トラックの右前輪が道路の小さな段差を踏んだ。
タイヤの下にあった石が弾き飛ばされる。
大きさは親指の先ほどのただの小石だった。
それが、異常な速度で飛んできた。
「――ッ!」
前方の術師が顔を逸らす。
小石が頬を掠め、後ろの電柱へぶつかりコンクリートが僅かに欠けた。
「今の……」
呪術師たちの動きが止まる。
久世だけが、うんざりしたような顔をした。
「だからさ」
視線を前方の術師へ向ける。
「来んなって」
「まだ追跡は――」
術師が言い終える前に、頭上で鈍い音が鳴った。
全員が見上げる。
交差点脇のビル。その二階部分に取り付けられていた看板が、ゆっくりと傾いている。
固定金具の一つが外れた。そして、もう一つ。
「離れろ!」
看板が落下し、その場にいた術師たちが散開する。
凄まじい音と共に看板が道路へ叩きつけられ、破片が四方へ飛び散った。その一つが先ほど久世へ近づいた術師の足へ直撃する。
「ぐっ!」
男が膝をつく。
「……やっぱり発動してる」
別の術師が呟いた。
「追ってないぞ!」
「捕縛する意思そのものか?」
「違う。久世へ近づこうとした時点で――」
久世がため息をつく。
「お前らさぁ」
誰も動かない。
「何回やれば分かるんだよ」
その声には怒りすらなかった。
「俺を捕まえたい。俺に近づきたい。俺を逃がしたくない」
久世は足元に落ちた看板の破片を跨ぐ。
「言葉が違うだけで、結局やってることは同じだろ」
前方の術師が睨みつける。
「術式を解除しろ」
「無理」
「なら式神を消せ」
「それも無理」
「ふざけるな」
「いや、本当に」
久世は後ろを見る。
ワンダー・オブ・Uは無言で立っていた。
「こいつ、俺の言うことあんまり聞かねえんだよ」
「式神だろうが」
「俺もそう聞いてる」
「……何?」
その僅かな戸惑いを見て、久世は笑った。
「別に珍しくないだろ。自律型なんだから」
そして再び歩き出す。
一人の術師が反射的に前へ出ようとした。
「待て!」
仲間が止める。
一歩。
たったそれだけだった。
しかし近くの自動販売機から突然、大きな破裂音が響いた。
内部で何かがショートしたらしい。
火花と共に金属製のパネルが外れ、凄まじい勢いで飛んでくる。
術師が咄嗟に身を伏せるとパネルはその頭上を通過し、背後の塀へ突き刺さる。
「……クソ」
誰も久世を追わなかった。
追えなかった。
久世は一度だけ振り返り、立ち尽くす術師たちを見た。
「じゃあな」
そして何事もなかったかのように歩き去っていく。
その後ろを、ワンダー・オブ・Uが静かについていった。
*
久世新一が、自分の周囲で起きている現象を初めて異常だと認識したのは、高校二年の春だった。
それ以前にも、不自然な事故は何度も起きていた。小学生の頃、自分を殴ろうとした同級生が階段から落ちた。中学生の頃、金を要求してきた上級生が久世を追いかけ、道路へ飛び出したところで自転車と衝突した。
高校に入ってからも、似たようなことは続いた。
不思議なことに、事故に遭うのは決まって久世へ何かをしようとした人間だった。
最初は怖かった。
自分が何かをしているのではないか。
そんなことを考えた時期もあった。
だが、久世には事故を起こした感覚などない。
何かを念じているわけでもない。
誰かが怪我をするたびに、本人も驚いていた。
やがて、それにも慣れた。
自分は少し運がいい。
久世はそう考えるようになった。
その認識が変わったのは、放課後の校舎裏だった。
「お前、最近調子乗ってね?」
三人の男子生徒に囲まれていた。
久世には、何の話か分からなかった。
「別に」
「その態度だよ」
一人が久世の胸倉を掴む。
「ちょっと痛い目見た方がいいんじゃね?」
残りの二人が笑った。
久世は小さくため息をつく。
「やめた方がいいと思うけど」
「あ?」
「こういう時、なんか起きるから」
「何言ってんだ、お前」
男が拳を振り上げる。
その瞬間だった。
ブツン、と頭上で何かが切れる音がした。
久世が顔を上げる。
校舎脇を通っていた電線が一本、垂れ下がってきた。
「え」
男が振り返る。
遅かった。
電線が肩へ触れる。
激しい火花。
「ぎゃあああああッ!」
男が地面へ倒れる。
残りの二人が悲鳴を上げ、慌てて距離を取った。
久世自身も動けなかった。
「……またかよ」
胸倉を掴まれていた部分を見下ろす。
事故。
また事故だ。
しかし、今回はそれだけではなかった。
誰かに見られている。
そんな感覚がした。
久世が顔を上げると、少し離れた場所。
校舎の角に、それは立っていた。
人間ではなかった。
二本の腕。二本の脚。
人間に似た形をしている。
だが、明らかに違う。
機械を思わせる黒い身体。奇妙な頭部。表情と呼べるものはなく、こちらを見ているのかすら久世には分からない。
それでも。
見られている。
久世にはそう感じられた。
「……何だ、お前」
返事はなく異形は動かない。
「久世新一君」
突然、背後から声をかけられ久世が振り返る。
そこにはスーツ姿の男が立っていた。
「誰?」
「少し話がしたい」
男は倒れている生徒を確認した後、久世の後方へ目を向けた。
異形を見ている。久世はそのことに気付いた。
「……あれ、見えてるの?」
「ああ」
スーツの男が僅かに眉を寄せる。
「やはり君にも見えているのか」
「何なんだよ、あれ」
「それも含めて説明する」
男は名刺を取り出した。
そこには、久世が聞いたこともない学校名が書かれていた。
東京都立呪術高等専門学校。
「君には、おそらく術式がある」
「……術式?」
それが久世新一と呪術界との最初の接触だった。
*
数日後。
久世は駅前で再び異形を見つけた。補助監督からは、高専で詳しく検査を受けるように言われていた。
事故を引き起こしているものが何なのか。あの異形は何なのか。
まだ正式な結論は出ていないものの、久世の生得術式に付随して発現した式神である可能性が高いという。
自律型式神。
術者が命令しなくても勝手に行動するタイプ。
説明を聞いた久世も、一応は納得していた。
問題は、その式神が本当に勝手だったことだ。
呼んでもいないのに現れる。気が付けば近くにいる。そして何も言わず、どこかへ歩いていく。
「……俺の式神なんだよな?」
夕方の交差点。
異形は信号の向こう側にいた。
信号が青になり、久世は人混みを抜けて近づいた。
「おい」
反応はない。
「聞こえてんの?」
異形がゆっくりと顔を向けた。
「やっぱ分かってんじゃん」
久世はその隣に立つ。
「高専の人から、アンタは俺の式神だって言われたんだけど」
異形は何も言わない。
「違うの?」
沈黙。
久世は少し考え、別の質問をした。
「そういや、名前あんの?」
その瞬間。異形の動きが止まった。
「名前」
初めて声が聞こえた。
低く、落ち着いた男の声だった。
久世は思わず一歩下がる。
「喋れんのかよ」
「君が聞かなかったのでね」
「いや普通、式神の方から喋るだろ」
「そういうものかね」
「知らねえけど……」
久世は改めて異形を見る。
「で、名前は?」
僅かな沈黙。
やがて、それは答えた。
「ワンダー・オブ・U」
「……ワンダー?」
「ワンダー・オブ・U。それが私の名だ」
その言葉と同時だった。
異形の輪郭が揺らいだ。
「……え?」
久世が目を見開く。
黒い機械的な身体が、ゆっくりと別の形へ変わっていく。
頭部。
身体。
腕。
脚。
まるで最初からそこに人間が立っていたかのように、異形の姿が老人へ置き換わっていく。
黒い帽子。
右目のモノクル。
トゲトゲした髭。
黒いコート。
片手には杖。
数秒後。
そこに立っていたのは、どこから見ても人間の老人だった。
久世はしばらく言葉を失っていた。
「……何それ」
老人がこちらを見る。
「何、とは?」
「いや、その姿だよ!」
久世は思わず老人の周囲を一周した。
「さっきまでロボットみたいだっただろ!」
「ロボット?」
「そこじゃねえよ」
久世が顔をしかめる。
「なんで人間になったんだ?」
「こちらの方が都合がいい」
「何の?」
老人は駅前を行き交う人々へ視線を向けた。
「人間社会で行動する上で、異形の姿を晒し続けることに利点はない」
「……式神のくせに、そんなこと気にすんの?」
老人は久世を見た。
「式神」
「ああ」
「彼らは私をそう呼んでいるのかね」
「そうだけど」
「なるほど」
「何だよ」
老人は答えなかった。
久世は少し苛立ち、腕を組む。
「じゃあワンダー・オブ・U……長いな」
「好きに呼びたまえ」
「じゃあ爺さん」
「それは却下しよう」
即答だった。
久世は思わず吹き出す。
「そういうのは嫌なんだな」
「当然だろう」
「変な式神」
老人は杖をつき、歩き始めた。
久世も何となくその横についていく。
少し歩いたところで、久世はふと思い出した。
「そうだ」
「何かね」
「さっきの話」
「……」
「アンタ、俺の式神なんだよな?」
老人が足を止めた。
久世も止まる。
ワンダー・オブ・Uは数秒だけ、久世を見た。
「……今は」
「ん?」
「それで構わない」
久世は眉をひそめた。
「何だよ、その言い方」
「言葉通りだ」
再び歩き出す。
久世はその背中を見て、呆れたように息を吐いた。
「本当に変な奴だな」
この時の久世は、その言葉を深く考えなかった。
自律型式神。
意思を持ち、勝手に行動する特殊な存在。
少し癖が強いだけ。
その程度の認識だった。