呪いの世界に厄災は歩く 作:杜王町民
2010年、初夏。
久世新一が東京都立呪術高等専門学校へ編入してから、三か月ほどが経っていた。
普通の高校で二年生として過ごしていた久世にとって、三か月前まで『呪い』など怪談や迷信の類でしかなかった。それが今では、朝から呪力の制御を教えられ、昼には呪霊の生態について講義を受け、午後には体術の訓練までさせられている。
慣れたかと聞かれれば、まったく慣れていない。特に久世を悩ませていたのが、同年代との差だった。
「はい、もう一回」
山あいに設けられた屋外訓練場へ、担当教員の声が響いた。
広く踏み固められた地面の周囲を木製の柵と金網が囲み、その先には高専を取り巻く木々が並んでいる。端には訓練用の木材や武器を置く簡素な用具置き場があり、その隣には水道と金属製のバケツ。夜間訓練用なのか、背の高い照明灯も何本か立っていた。
久世は息を吐き、両手の間に呪力を集中させる。目の前には人の頭ほどの大きさをした訓練用の標的が置かれていた。
手のひらに呪力を集め、標的を殴る。
鈍い音がした。
「……どうです?」
「さっきよりマシだな」
「マシ止まり?」
「三か月前は殴った瞬間に呪力が全部散ってた」
「それ褒めてます?」
「褒めてる」
本当かよ、と久世は自分の拳を見た。
編入して最初に思い知らされたのは、自分が呪術師としては完全な初心者だということだった。他の生徒たちは一年以上かけて学んできた呪力操作を、久世は二年の途中から覚え始めている。身体能力こそ平均以上ではあったが、体術では経験の差が出る。座学も同じだった。
そんな久世から少し離れた木陰に、一人の老人が立っている。黒い帽子にモノクル、トゲトゲした髭。黒いコートの上から両手を杖へ重ね、訓練を眺めている。
ワンダー・オブ・U。
高専では現在、久世の生得術式に付随して出現する自律型式神として扱われていた。
「お前も少しは手伝えよ」
久世が言うと、ワンダー・オブ・Uは視線だけを向けた。
「何をだね」
「訓練」
「君の訓練だろう」
「アンタも俺の術式なんだから、アンタの訓練でもあるだろ」
「そうなのかね」
「そうだよ」
「そうかね」
「……絶対納得してないだろ」
久世が顔をしかめる。
この三か月で分かったことがある。ワンダー・オブ・Uは、恐ろしく言うことを聞かない。
式神なのだから命令すれば動くだろうと思っていた久世の期待は、編入して数日で粉々になった。「座れ」と言っても座らない。「来い」と呼んでも来ない時がある。逆に授業中にいつの間にか教室の後ろに立っていることもあれば、久世が風呂から上がったら廊下を普通に歩いていたことすらある。
高専側もこの異常性は把握していた。
担当教員が手元の書類をめくりながらワンダー・オブ・Uを見る。
「やっぱり変だな」
「何がです?」
「式神だ」
「またそれですか?」
「召喚に手順がない。解除もできない。維持にお前の呪力がほぼ使われていない。術者の命令にも従わない」
「自律型だからじゃないんですか」
「自律型と好き勝手は違う」
「……本人に言ってくださいよ」
担当教員がワンダー・オブ・Uを見る。
「ほら、違うだそうだぞ」
「興味深い意見だ」
「いつもこんな感じですよ」
久世は肩をすくめたが、教員は笑わなかった。
「それだけじゃない。お前の術式そのものも変だ」
「事故のこと?」
「ああ」
久世に危害を加えようとした人間には事故が起こる。
現在、高専ではそれを久世の生得術式として扱っていた。正確な発動条件についてはまだ調査中だが、久世あるいはワンダー・オブ・Uを追跡することが大きな引き金になるらしい。久世本人にも術式を発動した感覚はなく、呪力を消費した自覚もない。
高専側はこの現象を、便宜的に『厄災』と呼び始めていた。
「今日は別の検証をする」
教員が訓練場の端へ歩いていく。
そこには四本の杭を囲むように注連縄が張られ、中央に数枚の札が貼られていた。簡易的な拘束結界だ。
教員がそのうち一枚へ手をかける。
「念のため距離を取れ」
「何入ってるんです?」
札が剥がされた。
結界の内側で何かが蠢く。
黒ずんだ小さな身体が地面を這い、ゆっくりと姿を現した。
久世が眉をひそめる。
「呪霊?」
「四級程度だ。必要ならすぐ祓える」
「俺に祓えって?」
「正確には、お前の術式が呪霊にも通用するのかを確認する」
呪霊が地面を這いながら久世を見る。
久世は少し考えた。
「普通に物がぶつかっても、呪霊には効かないですよね」
「よく覚えていたな」
「そこは授業で散々やったじゃないですか」
呪力の込められていない攻撃では、基本的に呪霊を祓うことはできない。仮に車に轢かれようと、建物が崩れて押し潰されようと、それがただの物理現象である限り決定打にはならない。
ならば久世の『厄災』はどうなるのか。
「始めるぞ」
残る札が外され、結界が解かれる。
呪霊が自由になった。
久世は身構えたが、呪霊はすぐには襲ってこなかった。周囲を見回し、担当教員へ顔を向け、次に木陰のワンダー・オブ・Uを見る。
最後に久世を見た。
呪霊が口を開き、地面を蹴った。
「来た!」
久世が横へ避ける。
その時、訓練場の端に積まれていた木材が一本崩れた。
地面へ落ちた木材が傾斜を転がり、呪霊の脚へぶつかる。
しかし呪霊はほとんど反応せず、そのまま久世を追った。
「やっぱり効かない!」
久世は逃げながら後ろを振り返る。
再び呪霊が距離を詰めてきた。
明確に久世を標的にしている。
追っている。
次の瞬間。用具置き場の脇に置かれていた金属製のバケツが、何かに押されたように倒れた。
乾いた音を立てながら地面を転がり、呪霊の足元へ入る。それは何事もなく踏み潰される。
はずだった。
「……待て」
担当教員が呟く。
バケツへ触れる直前。その表面を、僅かに呪力が覆った。
呪霊の足が大きく滑り、身体が横へ倒れた。
「今の!」
久世も気づいた。
「呪力だ」
「俺、何もしてないですよ!」
教員は答えず、倒れたバケツを凝視していた。
呪霊が起き上がると、先ほどよりも明らかな敵意を久世へ向けた。
久世が逃げる。呪霊が追う。
その頭上。
訓練場に立つ照明灯の金具が、突然音を立てて外れた。取り付けられていた大型の投光器が傾き、支柱から落下する。そのままなら、呪霊には大した意味を持たない。
しかし衝突する直前。投光器を呪力が覆った。
「ギィッ!」
頭部へ直撃に呪霊の身体が大きく揺れる。
「マジか」
久世が思わず足を止める。
地面へ転がった投光器からは、ほぼ同時に呪力が消えていた。
担当教員が目を細める。
「久世。走れ」
「え?」
「もう一度追わせろ!」
久世は意味を理解すると、すぐに走り始めた。
呪霊がそれを追う。
先ほどまで穏やかだった屋外訓練場で、小さな異変が連続して起き始めた。
地面の小石が跳ねる。
金網を支えていた古い支柱が傾く。
用具置き場へ立てかけられていた木刀が、一本だけ滑り落ちる。
どれも普通なら呪霊に傷を負わせることなどできない。
だが。
久世を追う呪霊へ接触する、その僅かな瞬間だけ。
呪力が宿る。
跳ねた小石が呪霊の目へ突き刺さった。
倒れた金属支柱が脚を薙ぎ払う。
体勢を崩したところへ、用具置き場から滑り落ちた木刀が不自然に跳ね、頭部を打ち抜いた。
呪霊が甲高い悲鳴を上げる。
久世は走りながらその光景を見ていた。
「これ……俺の呪力ですか!?」
「残穢はお前に近い!」
「近いって何ですか!」
「同一だと言い切れないってことだ!」
「なんですかそれ!」
久世のすぐ後ろまで呪霊が迫る。
爪が背中へ伸びた。
その瞬間、訓練用の武器がまとめて置かれている木製の架台がぐらりと傾いた。
立てかけてあった一本の槍が外れる。
石へ柄がぶつかった。
跳ね上がる。
先端へ呪力が集中した。
呪霊の胴体を貫く。
「ギャアアッ!」
黒い液体が飛び散る。
呪霊は久世への執着を失わず、槍を引き抜いてさらに追ってくる。
久世が少し笑った。
「まだ来んのかよ」
怖くないわけではない。
だが、奇妙な感覚だった。
この呪霊が自分を追えば追うほど。
傷ついていくのは、向こうだ。
「だったら」
久世は訓練場の中央へ方向を変えた。
「もっと追ってこいよ」
「久世!」
呪霊が飛びかかる。
久世は直前で横へ転がった。
呪霊の巨体が地面へ着地する。
その振動で、訓練場の端に設けられた簡易屋根が大きく揺れた。雨天時に用具を置くためのもので、鉄製の支柱と波板で組まれている。
一本の支柱を固定していた金具が外れる。
鉄柱が傾いた。
呪霊が顔を上げる。
その表面を呪力が覆う。
直撃。
鉄柱が頭部を貫いた。
呪霊の動きが止まる。
数秒後、その肉体が黒い塵となって崩れ始めた。
久世は地面に座ったまま、消えていく呪霊を見ていた。
「……祓った」
「そうだな」
「俺、走っただけですよ」
担当教員は答えず、先ほど呪霊を貫いた鉄柱へ近づいた。
すでに呪力はほとんど残っていない。
「接触する瞬間だけか」
「何が?」
「厄災に利用された物体への呪力付与だ。追跡が成立している間だけ、それもおそらく対象へ干渉する瞬間だけ発生する」
久世は自分の手を見る。
「でも俺、呪力流してないですよ」
「分かってる」
「じゃあ誰が?」
二人の視線が同時にワンダー・オブ・Uへ向いた。
老人は最初から最後まで、少し離れた木陰に立っていた。
久世が呼びかける。
「アンタ?」
「何かね」
「今の、アンタがやった?」
「何を指しているのか分からないね」
「物に呪力乗せたやつ」
「君たちはそう見たのか」
「見たのかじゃなくて」
久世は立ち上がる。
「俺の術式なんだろ?」
「そう教えられたのではなかったかね」
また、この言い方だ。
担当教員はワンダー・オブ・Uをじっと見ていた。
「答える気はないか」
「必要性を感じないのでね」
「……本当に式神か?」
ワンダー・オブ・Uの口元が、ごく僅かに上がったように見えた。
「君はどう思う?」
担当教員が眉をひそめる。
「質問しているのはこっちだ」
「ならば、自分で答えを見つけたまえ」
久世は頭を掻いた。
「はぁ……いっつもこんな感じなんですよ」
「……知ってる」
その日の記録には、新しい情報が追加された。
厄災によって発生した物理現象は、通常の事故と変わらない。
ただし対象が呪霊の場合、その呪霊へ干渉する直前に限り、厄災へ組み込まれた物体へ呪力が付与される。
残穢は久世新一のものに酷似。
本人には、呪力を流した自覚なし。
発動時の呪力消費も極めて少ない。
そして最後に。
『ワンダー・オブ・Uとの関連性、引き続き調査』
そう記された。
*
久世が初めて正式な任務へ出たのは、それから一か月後だった。
場所は都内の廃病院。
数年前に閉鎖されて以降、誰もいない病室で人影を見た、廊下を歩く足音が聞こえたという噂が絶えなかった。ついには肝試しに侵入した高校生二人が重傷を負い、高専へ調査依頼が入った。
確認された呪霊は二級相当。
久世一人に任せられる等級ではない。
そのため、同学年の三枝と組むことになった。
「まさか編入して四か月で二級に連れてかれるとはな」
病院の前で三枝が言った。
「俺が決めたんじゃないぞ」
「分かってるって」
三枝は久世の後ろを見る。
そこには当然のようにワンダー・オブ・Uがいる。
「その人も来るんだな」
「勝手についてきた」
「本当に自由だな、お前の式神」
「言ってやって」
三枝はワンダー・オブ・Uへ軽く頭を下げる。
「今日はよろしくお願いします」
「何をだね」
「俺たちを守るとか」
「そのような約束はしていない」
「えぇ……」
久世が笑う。
「期待しない方がいいぞ」
「でも久世が襲われれば勝手に何か起こるんだろ?」
「多分」
「多分で任務来ていいのか?」
「先生に言え」
二人は病院へ入った。
ワンダー・オブ・Uも杖をつきながら後に続く。
病院内は昼間にもかかわらず薄暗かった。窓の大部分は板で塞がれ、長い廊下には壊れたストレッチャーや古い椅子が放置されている。人間が使わなくなって何年も経っているためか、埃と黴の臭いが鼻についた。
「二階だ」
三枝が資料を見る。
「被害に遭った高校生が見たのも二階の病室」
「じゃあ上から調べる?」
「ああ」
階段を上る。
二階の廊下へ出た瞬間、久世は足を止めた。
「……なんか嫌な感じする」
三枝が久世を見る。
「呪力?」
「多分」
「成長してんじゃん」
「多分って言ってるだろ」
「前は何も分からなかったんだから十分だよ」
久世は苦笑した。
ゆっくりと廊下を進む。
ゴトン、と音がした。
二人が止まる。
奥の病室。
何かが落ちた。
三枝が腰の呪具へ手を伸ばす。
「行くぞ」
「了解」
病室の前まで近づく。
中を覗く。
誰もいない。
床に古い点滴台が倒れているだけだった。
「風かな」
久世が言った直後。
三枝の目が大きく開いた。
「久世、上!」
久世が顔を上げる。
天井。
巨大な何かが張り付いていた。
人間の胴体に異様に長い四本の腕。その中央には、顔の半分以上を占める巨大な口。
二級呪霊。
口が開く。
落下。
「ッ!」
二人が左右へ飛んだ。
呪霊が床へ叩きつけられ、タイルが大きく砕ける。
三枝が呪具を抜いた。
「思ったよりデカいな!」
「聞いてないぞ!」
「二級ってのは聞いてただろ!」
「大きさまでは聞いてねえ!」
呪霊の腕が三枝へ伸びる。
三枝は身を屈めて避け、そのまま懐へ入った。
呪具を振るう。
刃が呪霊の腕へ食い込んだ。
黒い血が飛ぶ。
「効いてる!」
「一応まともな呪具だからな!」
呪霊が叫びながら別の腕を振った。
三枝が咄嗟に受ける。
衝撃。
身体が吹き飛び、壁へ激突した。
「三枝!」
「ぐっ……!」
久世が走り出す。
呪霊が三枝へ向き直った。
三枝は起き上がろうとしているが、間に合わない。
久世は近くに転がっていた椅子を掴んだ。
投げる。
椅子は呪霊の背中へ当たり、そのまま床へ転がった。
何の効果もない。
「クソ、そうだった!」
呪力のない物理攻撃は通じない。
呪霊の腕が三枝へ伸びる。
「おい!」
久世が叫んだ。
呪霊が止まる。
「こっちだ」
久世は自分を指差した。
「俺を見ろよ」
呪霊の顔が久世へ向く。
「そうだ」
久世はゆっくり後ろへ下がった。
「俺を追え」
呪霊が走り出した。
久世も踵を返す。
一歩。
二歩。
三歩。
追跡。
その瞬間。
先ほど久世が投げた椅子の脚に、呪霊の足が引っかかった。
椅子そのものには呪力はない。
だが接触する直前。
黒い呪力が表面を走った。
呪霊の身体が大きく傾く。
「やっぱり!」
久世は走り続ける。
呪霊もすぐに体勢を立て直し、後を追う。
廊下に置かれていた点滴台が倒れた。
呪力。
呪霊の肩へ直撃する。
天井から照明器具が外れた。
呪力。
頭部へ落ちる。
呪霊はそのたびに傷つきながら、それでも久世を追い続けた。
「久世!」
後ろから三枝の声が聞こえる。
久世は振り返らない。
「来るな!」
「でも!」
「俺が追われてる方がいい!」
久世は階段へ向かって走った。
呪霊が迫る。
爪が久世の背中へ届く直前、壁際に立てかけられていた金属製の棒が倒れた。
接触の瞬間だけ呪力を纏い、呪霊の脇腹を貫く。
悲鳴。
だが止まらない。
久世が階段を駆け下りる。
呪霊も勢いのまま飛び込んできた。
古びた階段。
壁。
手すり。
何年も放置された設備。
久世を追う存在に対して、全てが少しずつ牙を剥き始める。
固定金具が外れる。
手すりが倒れる。
呪力が宿る。
呪霊の脚を薙ぎ払った。
巨体が階段を転げ落ち、踊り場へ叩きつけられる。
それでも呪霊は久世を見る。
腕を伸ばす。
久世へ近づこうとする。
そのすぐ脇。
壁に固定されていた古い医療用酸素ボンベ。
金具が外れた。
ボンベが倒れる。
先端が床へぶつかった。
跳ねる。
そして呪霊へ向かう。
黒い呪力。
直撃。
鈍い音が響いた。
呪霊の頭部が大きく歪む。
数秒後。
黒い身体が崩れ始め、塵となって消えていく。
久世は階段の下で立ち止まり、荒い息を吐いた。
「……終わった?」
三枝がゆっくり階段を下りてくる。
片腕を押さえていたが、大きな怪我ではなさそうだった。
「終わった」
「俺、また走っただけだけど」
「それで二級祓えるのがおかしいんだよ」
三枝が笑った。
久世も笑おうとして、すぐに三枝の腕を見る。
「大丈夫?」
「ああ。打っただけ」
「よかった」
「というか」
三枝が久世を見る。
「お前、俺からわざと注意逸らしただろ」
久世は少し黙った。
「……まあ」
「自分を囮にして?」
「俺を追った方が、あいつには危ないから」
「だからって」
「結果的に勝ったじゃん」
三枝は久世をしばらく見た。
やがて、呆れたように息を吐く。
「馬鹿だな、お前」
「なんでだよ」
「初任務で普通そこまでやらないぞ」
「でも俺ならできる」
久世は消えた呪霊の跡を見る。
「俺を追わせればいいんだ」
三枝が何も言わない。
「そうすれば、お前らは狙われない」
久世は自分でも驚くほど自然にその言葉を口にしていた。
「俺が前に出ればいい」
少しの沈黙。
三枝が久世の肩へ手を置いた。
「……助かったよ」
「え?」
「ありがとう」
久世が動きを止めた。
ありがとう。
その一言が、不思議なほど強く耳へ残った。
これまで久世の周囲で起きてきた事故は、ずっと気味の悪いものだった。自分を殴ろうとした人間が怪我をする。追いかけてきた人間が事故に遭う。久世自身は何もしていない。
だからこそ気持ちが悪かった。
自分の近くにいると不幸になる。
そう考えたこともある。
だが。
今日は違った。
自分の周囲で起きる厄災によって、誰かが助かった。
初めて。この力があってよかったと思った。
*
任務を終え、病院の外へ出た頃には日が傾いていた。
三枝が補助監督へ状況を報告している横で、久世はワンダー・オブ・Uと並んでいた。
「なあ」
「何かね」
「さっきのやつ」
「何をだね」
「事故」
久世は病院を振り返った。
「アンタがやったの?」
ワンダー・オブ・Uは少し間を置いた。
「事故というものは、誰かが起こすものではない」
「でも呪力乗ってただろ」
「そのようだな」
「俺の呪力らしいし」
「そう認識されているようだ」
久世が眉を寄せる。
「またその言い方」
「何か問題が?」
「俺の術式なのに、俺よりアンタの方が詳しそうなのがムカつく」
ワンダー・オブ・Uは小さく笑った。
「君は今日、一つ学んだだろう」
「何を?」
「厄災は、使える」
久世は少し驚いた。
ワンダー・オブ・Uが自分からこんな話をするのは珍しい。
「使えるって」
「君は先ほど、自ら追われることで他者を守った」
三枝を見る。
補助監督と話している。
久世は少し笑った。
「まあね」
「どうだったかね」
久世は考えた。
ありがとう。また三枝の言葉を思い出す。
「……悪くなかった」
「そうか」
「今まではさ」
久世は自分の手を見る。
「この力、気味悪いだけだと思ってたんだよ」
ワンダー・オブ・Uは黙って聞いている。
「でも呪霊相手なら違う」
久世は拳を握った。
「俺が前に出ればいいんだ」
「……」
「俺を狙わせれば、他の奴が傷つかなくて済む」
ワンダー・オブ・Uは何も言わなかった。
久世は続ける。
「体術とか呪力操作とか、俺まだ全然だけどさ」
ほんの少し照れ臭そうに笑う。
「この力なら、ちゃんと術師やれそうな気がする」
老人は久世の横顔を見ていた。
肯定もしない。
否定もしない。
ただ、静かに杖をついた。
それから久世は、任務のたびに前へ出るようになった。
敵の視界に入る。自分へ敵意を向けさせる。そして追わせる。
それだけで厄災は牙を剥いた。
久世自身はまだ未熟な術師だった。
呪力操作では同期に遅れ、体術でも経験不足が目立つ。編入前から呪術を学んできた者との差は簡単には埋まらない。
それでも、実戦では結果を出した。
敵が久世を追う限り。
厄災がある限り。
久世新一は、強かった。
だから彼は少しずつ、この力を好きになっていった。
人を傷つけるだけだと思っていた不幸が、誰かを守るための力に変わった。
少なくとも。
この頃の久世は、本気でそう思っていた。
自分が一番危険な場所へ行けばいい。
自分が標的になればいい。
自分が追われればいい。
そうすれば。
――俺がいれば、大丈夫だ。
それはまだ、善意から生まれた考えだった。
まだ。
三枝
準二級術師、本人は自覚していないが脳筋よりの思考をしている。術式は『導矢』
『導矢』
触れた場所に呪力の矢印を刻み、触れたモノのベクトルを矢印の方向へ操作する術式。出せる矢印は今のところ二つまで。応用力の塊だが三枝は使いこなせておらず、術式を忘れがち。