呪いの世界に厄災は歩く 作:杜王町民
久世新一が高専へ編入してから、半年が経った。
最初の頃こそ呪力操作ひとつ満足にできず、基礎訓練では同級生に遅れを取っていた久世だったが、実戦に関してだけは話が違った。
任務へ出れば結果を残した。
三級呪霊。二級呪霊。複数体同時。
そのどれも、久世を標的にした時点で『厄災の流れ』へ引きずり込まれた。
瓦礫が落ちる。
足場が崩れる。
跳ねた石が急所へ飛び込む。
壊れかけていた設備が、その瞬間だけ狙い澄ましたように敵へ襲いかかる。
相手が呪霊であれば、接触する直前に物体へ呪力が宿る。
それが誰の呪力なのか。どういう原理で付与されているのか。未だに詳しいことは分かっていない。
それでも。
強い。その事実だけは、疑いようがなかった。
「また久世か」
任務報告書を受け取った教師が、呆れたように言った。久世は椅子へ座り、机の向こうにいる教師を見ていた。
「またって何ですか」
「三日で二件だぞ」
「任務振ったのそっちでしょ」
「……普通はもう少し疲れる」
「俺、走ってるだけですからね」
悪びれる様子もなく答える。
教師は報告書へ視線を戻した。今回の任務は、住宅街に発生した二級呪霊の討伐だった。
久世と三枝の二人で向かい、現場到着から二十分足らずで祓っている。
被害なし。
負傷者なし。
建物への損害は多少あったが、一般人への被害はゼロ。
結果だけを見れば完璧だった。
「三枝は?」
「医務室」
教師が顔を上げた。
「負傷したのか?」
「軽い打撲ですよ。呪霊に殴られたとかじゃなくて、俺から離れようとして壁にぶつかっただけ」
「それはそれでどうなんだ」
「本人にも言いましたよ」
久世が笑う。少し離れた窓際には、ワンダー・オブ・Uが立っていた。
黒い帽子。モノクル。杖。
相変わらず、報告には一切興味がない様子で外を眺めている。教師は一度だけそちらを見た後、久世へ視線を戻した。
「最近、随分慣れてきたな」
「何が?」
「任務だ」
「まあ」
久世は背もたれへ身体を預ける。
「やること分かってきたんで」
「追わせるだけ、か」
「言い方雑だなぁ」
「違うのか?」
久世は少し考えた。
「……まあ、ほとんど合ってますけど」
敵を見つける。
敵意を向けさせる。
自分を追わせる。
それだけ。
難しい術式操作もいらない。呪力を大量に消費する必要もない。領域のような特殊な技術も必要ない。相手が久世を追えば。それで終わる。
「でも効率いいでしょ」
「効率だけ見ればな」
「ならいいじゃないですか」
教師はすぐには答えなかった。久世はその沈黙を不思議そうに見る。
「何です?」
「いや」
教師は報告書を閉じた。
「最近のお前は、自分が傷つかない前提で話をするようになったなと思ってな」
「傷ついてないですから」
「今はな」
「これまで一度もですよ」
久世は笑った。
「俺を追った奴が勝手に先に死ぬんだから」
教師の表情がわずかに険しくなるが、久世はそれに気づかなかった。
「次の任務決まったら呼んでください」
椅子から立ち上がる。
「暇なんで」
「座れ」
「え?」
「まだ話は終わってない」
久世は仕方なく座り直した。
「お前の術式について、上から意見が来てる」
「また検査?」
「違う」
教師は少し言葉を選んだ。
「……単独任務を増やす案が出ている」
久世の目が僅かに輝いた。
「マジですか」
「あくまで案だ」
「いいじゃないですか」
「お前は二年だぞ」
「でも実際、一人でいけるでしょ」
即答だった。
教師が久世を見る。
「……そう、思うか」
「思いますよ」
今までの任務を考えれば当然だった。三枝や他の術師と組む意味がないとは思わない。
ただ、久世が標的になった方が戦いやすい。
むしろ誰かが一緒にいることで、久世以外へ呪霊の注意が向く方が面倒だった。
「他の奴がいると、そいつを守る動きもしなきゃいけないし」
以前なら。
その言葉には別の意味があった。
自分が囮になれば、仲間を守れる。
自分が前に立てば、仲間が傷つかずに済む。
だが今の久世の言葉は、少し違った。
「俺一人の方が早いですよ」
教師は何も言わなかった。
*
その機会は、思っていたより早く訪れた。
一週間後。
久世は郊外にある地下駐車場へ来ていた。本来の任務は、二級呪霊の討伐。
補助監督の調査では、近隣で交通事故が多発しており、その原因となる呪霊が地下駐車場へ潜んでいる可能性が高いとのことだった。
今回は久世一人。
もちろん完全な単独ではなく、帳の外には補助監督が待機している。だが、内部へ入る術師は久世だけだった。
「初単独任務か」
久世は駐車場の入口から地下へ続く坂道を見下ろした。
「意外と早かったな」
隣にはワンダー・オブ・U。
「緊張しているのかね」
「俺が?」
「他に誰がいる」
「してないよ」
久世は笑った。
「むしろ楽」
「楽?」
「誰か守らなくていいから」
それを聞いたワンダー・オブ・Uが僅かに顔を向けた。
「以前とは随分違うことを言う」
「何が?」
「君はかつて、自分が前へ出れば他人を守れると言っていた」
「それとこれとは別だろ」
久世は地下へ歩き始める。
「守る奴がいなきゃ、自分のことだけ考えればいいってだけ」
「なるほど」
「それに」
久世は振り返る。
「どうせ俺、死なないし」
ワンダー・オブ・Uは答えなかった。
地下駐車場へ入る。天井は低く、蛍光灯の一部が点滅している。ところどころに車は残されているが、人影はない。
久世はゆっくり歩いた。
奥に呪力の気配。
以前より分かるようになった。
「ワンダー・オブ・U」
「何かね」
「呪霊がどこにいるか分かる?」
「分かる」
久世が足を止める。
「分かるの?」
「ああ」
「じゃあ教えろよ」
「何故?」
「任務だからだよ!」
老人は何も言わない。
「ったく……」
久世は一人で進む。
車と車の間。
柱の陰。奥へ進むほど、空気が重くなる。
そして。
ガリ、と音がした。何か硬いものを擦るような音。
久世が右を見る。
停められたワゴン車の向こうで巨大な影が動いた。
「……見つけた」
姿を現した呪霊は、事前情報とは大きく違っていた。
久世よりも遥かに大きい。
四足。
背中から複数の腕が生えている。
腹部には人間の顔のようなものが無数に浮かび、それぞれが小さく呻いていた。
久世の表情から笑みが消える。
「これ、本当に二級?」
ワンダー・オブ・Uが答える。
「君たちの分類について、私は詳しくないのでね」
「……役に立たねえな」
呪霊が久世を見る。空気が震える。
久世にも分かった。
これはただの二級ではない。これまで戦ってきた呪霊より、明らかに強い。
「……一級?」
呪霊が吠えた。
久世は反射的に身構えるも、一瞬で距離を詰められた。
「速っ――」
腕が振るわれる。
久世は咄嗟に横へ飛んだ。爪が背後の車体を裂き、金属が紙のように捲れ上がる。
「いやいやいや」
久世は立ち上がった。
「聞いてねえって、こんなの」
呪霊が向き直る。
久世は一歩下がった。
怖い。
そう感じたのは久しぶりだった。
これまでの呪霊とは違う。一度捕まれば、あっさりと死ぬ。その事実を理解した。
それでも、久世の口元が上がった。
「でも」
呪霊がこちらへ向かってくる。
「俺を追うんだろ?」
踵を返す。
走る。
呪霊も追った。
その瞬間。
厄災が始まった。
天井に固定されていた蛍光灯が外れる。
呪力。落下。
呪霊の背中へ直撃するも、止まる様子はない。
「効き弱っ!」
久世の表情が引きつる。
いつもの二級なら、今ので大きく怯んでいるはずだった。
さらに走る。その背後で、呪霊の複数ある腕の一本が床へ触れた。
次の瞬間。
久世の右足が滑った。
「うわっ!?」
ほとんど踏ん張ることすらできない。足が前へ流れ、久世は危うく転びかけた。
「なんだ!?」
靴底を見る。油でも水でもない。床にも何かが付着している様子はなかった。
なのに、踏み込んでも、まるで氷の上に立っているように足が滑る。
呪霊が迫る。
久世は滑りながら近くの柱へ手を伸ばし、どうにか身体を支えた。
爪が鼻先を掠める。
「っぶな……!」
呪霊はそのまま久世へ腕を伸ばす。
久世は柱を蹴った。
だが、蹴った足にも力が入らない。滑る。
「これ……」
久世が床を見る。
先ほど呪霊が触れた場所。そこから先だけ、明らかに足が利かない。
「摩擦が……?」
ワンダー・オブ・Uが少し離れた場所から答えた。
「そのようだね」
「分かってんなら早く言え!」
「君が聞かなかったのでね」
「今そういうのいいから!」
呪霊が再び床へ手をついた。
その直後。
近くに停まっていた車が僅かに動いた。
傾斜はほとんどない。
それなのに、タイヤが地面を滑るようにしてゆっくりと動き始める。
久世はそれを見て、ようやく理解した。
「……ああ」
周辺で多発していた交通事故。
ブレーキが利かなかった。
曲がりきれなかった。
突然車体が滑った。
もし、この呪霊が道路やタイヤから摩擦を奪っていたのなら。
「なるほどな」
久世が呟いた。
「事故が多いわけだ」
呪霊が吠える。
久世は再び走り出した。滑る床を避け、まだ摩擦の残っている場所を選ぶ。
背後から呪霊が追ってくる。
その時。
駐車場に停められていた別の車のサイドブレーキが外れた。
こちらは、僅かな傾斜で車が動き出す。
呪霊の横腹へ向かい、衝突直前。車体へ呪力が宿った。
激突。
轟音。
車が横転した。
「よし!」
久世が足を止める。
次の瞬間。
横転した車が内側から弾け飛んだ。
「マジかよ!」
呪霊が姿を現す。
無傷ではない。身体の一部が大きく抉れている。
だが、それでも動いている。むしろ先ほどよりも強い敵意が久世へ向けられていた。
「一級ってこんな硬いのか……!」
久世は再び走る。
呪霊が床へ触れた。その先の摩擦が消える。
久世は寸前で気づき、進路を変えた。
だが遅く、片足が滑る。
「くそっ!」
体勢が崩れる。
背後から爪が迫った。
その瞬間。
久世の足元のコンクリートが欠けた。
「――ッ!」
滑っていた足が段差へ引っ掛かり、久世の身体が前へ倒れる。
爪が頭上を通過した。
「え」
結果的に避けられた。
そのまま転がり、久世が振り返る。
呪霊の腕が柱へ激突していた。
古い柱に亀裂が走る。
その上の天井を支えていた一部が崩れると、瓦礫が落下し呪霊を押し潰した。
「……助かった」
久世は荒い息を吐く。
今のは危なかった。
呪霊の術式で足を取られていた。あの瞬間、床が欠けていなければ。爪は確実に届いていた。
すると、瓦礫が動いた。
「まだ!?」
呪霊が這い出てくる。
身体の半分近くが傷ついているが、それでも久世へ向かってくる。
久世も立ち上がったが脚は震えている。
「しつこいな、お前」
怖い。
術式もある。
速い。
硬い。
これまで戦った相手とは明らかに違う。
それでも、追ってくる。
なら。
「俺には勝てない」
久世が呟いた。
そう自分へ言い聞かせるように。
「お前が俺を追ってる限り」
再び走り出す。
呪霊が追う。
床から摩擦が消える。
久世が滑る。
それでも厄災が先に呪霊へ降りかかる。
事故。
事故。
事故。
駐車場にあるもの全てが、少しずつ呪霊を傷つけていく。
消火設備が破裂する。
呪力を含んだ金属片が突き刺さる。
天井から配管が落下する。
呪力を纏い、呪霊の身体を貫く。
車止めが砕け、その破片が弾丸のように飛ぶ。
一つでは足りない、二つでも、三つでも。
厄災は止まらない。呪霊が追跡をやめない限り。
永遠に続く。
やがて。
呪霊の片脚が崩れた。
身体が傾き、最後まで伸ばされていた腕が床へ触れる。
周囲から摩擦が消えた。
だが、もう遅い。そこへ、先ほどの攻撃で損傷していたコンクリート柱が倒れた。
轟音。
呪霊の身体を押し潰す。
なおも腕が伸びる。
久世へ。あと少し。あと数メートル。
指先が床を掻く。
だが摩擦を失った床では、身体を前へ進めることすらできない。
久世は立ち止まり、その腕を見た。
「無理だよ」
呪霊が這おうとする。
「お前」
久世は笑っていた。
「俺には辿り着けない」
天井から最後の一片が落ちた。
呪力が宿り、呪霊の頭部を貫いた。
呪霊の動きが止まる。
そして、黒い身体が崩れ始めた。
久世はその場に立ち尽くした。
長い間、何も言わなかった。
やがて。
「……勝った」
息を吐く。
一級相当。
これまでとは明らかに格上。
それを。
一人で祓った。
「勝ったぞ」
ワンダー・オブ・Uを見る。
「見てた?」
「見ていた」
「一級だぞ、多分」
「そのようだな」
「もっと何かないの?」
「何を求めているのかね」
「すげえとか」
「……」
「いや、もういい」
久世は笑った。
身体に大きな怪我はない。
転んだ時に擦った掌。それだけ。
あれだけ強い呪霊と戦って。
その程度。
「やっぱ俺、強いわ」
ワンダー・オブ・Uが久世を見る。
「君が?」
「は?」
「いや」
老人は杖をつく。
「何でもない」
久世が眉を寄せる。
「なんだよ」
「任務は終わったのだろう」
「ああ」
ワンダー・オブ・Uが出口へ向かう。
久世はその背中をしばらく見た。
「……俺が、だろ」
小さく呟き、後を追った。
*
高専へ戻った久世は、一級相当の呪霊を単独で祓ったことで教師たちを驚かせた。
任務自体が二級想定だったため、現地判断で撤退しても責められる状況ではなかった。
それを久世は一人で祓った。
「無茶をするな」
報告を聞いた教師の第一声はそれだった。
「勝ったじゃないですか」
「結果論だ」
「でも勝った」
「久世」
「俺、ほとんど怪我してないですよ」
かすり傷のついた掌を見せる。
「一級相当ですよ?」
教師が黙る。
その沈黙が、久世には肯定に聞こえた。
「俺ならもっと上いけるんじゃないですか」
「何?」
「一級術師」
久世は笑っている。
「なれますよね」
「等級は呪霊を祓った数だけで決まるものじゃない」
「でも実力はある」
「お前自身の基礎はまだ二年生の平均以下だ」
その言葉に久世の笑顔が僅かに消えた。
「……でも」
「呪力操作も体術も未熟だ。それは事実だ」
「だから何です?」
教師が久世を見る。
「何?」
「基礎が下手でも、俺の方が強いですよね」
一瞬、部屋が静かになった。久世自身も、口にしてから少し驚いた。
だが、間違ったことを言ったとは思わなかった。
「今日の呪霊、普通の二年じゃ勝てないでしょ」
教師は答えない。
「でも俺は勝った」
ワンダー・オブ・Uが部屋の隅に立っている。
「だったら」
久世は続ける。
「結果出してる方が強いじゃないですか」
教師は長く息を吐いた。
「今日はもう休め」
「……はい」
久世は少し不満そうに部屋を出た。
夕方の廊下。
窓の外が赤く染まっている。
久世は歩きながら、自分の拳を見る。
呪力操作は同期より下手。
体術だって特別ではない。
術式についても、自分ではほとんど操作できない。
だが。
だから何だ。
実戦で勝つのは自分だ。自分より呪力操作が上手い奴が負けるような相手を、自分なら倒せる。
久世は少し笑った。
「結局」
誰に言うでもなく呟く。
「強けりゃいいんだろ」
少し後ろを歩いていたワンダー・オブ・Uが、その言葉を聞いていた。
しかし、
何も言わなかった。
止めもしない。
諭しもしない。
ただ。
いつものように、久世新一の少し後ろを、静かに歩いていた。
久世の中にあった考えは、少しずつ形を変え始めていた。
俺がいれば、大丈夫だ。
それはいつしか。
俺がいれば、十分だ。
そんな考えへと変わりつつあった。
地下駐車場の呪霊
野生の一級呪霊、触れた対象から摩擦を奪う術式持ち。