呪いの世界に厄災は歩く 作:杜王町民
久世新一がその男の存在を知ったのは、高専へ編入して間もない頃だった。
五条悟。五条家の人間にして特級術師。少し前までこの高専に在籍しており、卒業したばかりだという。久世が知っているのは、その程度だった。いや、もう一つある。
――現代最強。
教師も先輩も、その言葉をほとんど疑うことなく口にする。一人でこなせる任務の数も、相手にできる呪霊の等級も、他の術師とは比較にならない。あいつを普通の術師と一緒に考えるな、とまで言われたこともある。
もっとも、久世にはいまいち実感がなかった。高専へ来てから、自分より強い術師などいくらでも見てきた。呪力操作も体術も未熟な久世が敵わない相手は珍しくない。それでも、たった一人の人間へ『最強』などという言葉を使うのは、いくらなんでも大袈裟なのではないか。そう思っていた。本人を見るまでは。
「へえ。君が久世?」
昼休み。訓練を終えて校舎へ戻ろうとしていた久世は、背後から突然名前を呼ばれた。
振り返ると、まず白い髪が目に入った。長身の男だった。目元には
「……五条悟、さん?」
「あ、知ってるんだ」
男――五条悟は嬉しそうに笑った。
「有名ですからね」
「まあね」
あまりの即答に久世は少し呆れた。噂だけ聞いていた時は、もっと近寄り難い人間なのだと思っていた。少なくとも、紙袋をぶら下げて母校へふらふら遊びに来るような人物には思えなかった。
「卒業したんじゃないんですか」
「したよ。でも卒業したら来ちゃいけないなんて校則ないし」
五条は紙袋を軽く持ち上げる。
「近くまで来たから差し入れ」
「へえ」
「反応薄くない?」
「俺にもくれるんですか?」
「そこ?」
そんなやり取りをしているうちに、五条の視線が久世から外れた。
少し離れたところに、ワンダー・オブ・Uが立っている。黒い帽子にモノクル、口髭。黒いコートを身につけ、両手を杖の上へ重ねていた。
五条が久世の横を通り過ぎる。
「これか」
「何がです?」
「噂の式神」
ワンダー・オブ・Uの前まで行くと、五条は気軽に片手を上げた。
「こんにちは」
「……」
「喋れるんでしょ?」
数秒して、ワンダー・オブ・Uが五条へ視線を向ける。
「必要があればね」
「本当に喋った」
「見世物ではないのだがね」
「ごめんごめん」
五条は楽しそうに笑った。
「名前は?」
「ワンダー・オブ・Uです」
久世が代わりに答える。
「不思議な名前だね。久世がつけたの?」
「いや、本人がそう名乗りました」
「へえ」
五条が老人を見る。
「最初からこの姿?」
「それも違います。最初はもっと、こう……ロボットみたいな感じで」
「ロボット?」
「黒くて、人型ではあるけど明らかに人間じゃない姿。名前を聞いたらワンダー・オブ・Uって名乗って、その時にいきなり今の爺さんになりました」
「爺さん」
ワンダー・オブ・Uが久世を見る。
「その呼び方は好ましくないと以前にも言ったはずだがね」
「こういうところだけ妙に細かいんですよ」
五条が吹き出した。
「面白いね、君」
「君ほどではないと思うがね」
「僕?」
「随分と目のいい人間らしい」
五条が一瞬だけ黙った。
「へえ。分かる?」
「見れば分かる」
「そっか」
五条はそれ以上追及しなかった。久世には二人が何の話をしているのか分からなかった。
「そういえば俺のこと知ってたんですね」
「最近ちょっと噂になってるからね」
「俺が?」
「そっちの術式が」
五条が久世を指差す。
「追いかけると事故に遭うんでしょ?」
「まあ、そんな感じです」
「面白そう」
「面白いで済ませます?」
「だって面白いじゃん」
五条は笑いながら言った。
「試してみたいな」
「何をです?」
「僕が君を追う」
久世は数秒黙った。
「……本気ですか?」
「うん」
「危ないですよ」
「僕が?」
久世は返答に詰まった。
目の前にいるのは、現代最強と呼ばれる特級術師だ。どれほど強いのかは知らない。だが、周囲の反応を見る限り、その呼び名が単なる誇張ではないことくらいは分かる。
「それとも」
五条が少し意地悪そうに笑う。
「僕には効かないと思う?」
その言い方に、久世の眉が動いた。
「……効きますよ」
「じゃ、やろっか」
数十分後。
久世はいつもの訓練場で五条と向かい合っていた。教師からは当然止められたが、五条は聞かなかった。
「大丈夫大丈夫」
「何を根拠に言ってるんです?」
「僕だから」
「説明になってないでしょ」
「五条悟だから、で大体説明つくよ」
「自分で言うんすね……」
少し離れた木陰では、ワンダー・オブ・Uがいつも通り二人を眺めている。
五条が軽く腕を回した。
「条件確認しとこうか」
「俺かワンダー・オブ・Uを追うこと」
「普通に近づくだけなら?」
「たぶん何も起きません。捕まえるとか、攻撃するとか、そういう目的で追うと発動します」
「じゃあ今から僕は、君を捕まえるつもりでそっちに行く」
久世は少し緊張した。
「……本当にいいんですね」
「もちろん」
五条が笑う。
「始めよっか」
一歩。
五条が歩く。
何も起きない。
二歩。
まだ何もない。
三歩目。
さらに五条が近づこうとした、その時だった。
バキン、と乾いた音が響く。
久世が振り向く。訓練場を囲う柵の一部が傾き、板の先端が地面を叩いた。その拍子に小石が跳ねる。
一直線に。
五条へ。
「危な――」
小石が止まった。
「……は?」
五条の顔へぶつかる、その少し手前。
何もないはずの空中で。
久世が目を凝らしている間に、小石は力を失ったように地面へ落ちた。
五条は何事もなかったように立っている。
「今、何したんですか?」
「何もしてないよ」
「いや、石止まったでしょ」
「止まったね」
「だから何で!?」
五条は笑うだけだった。
「秘密」
「術式か何かでしょ、それ!」
「さあ?」
「絶対そうじゃん!」
五条がまた進む。
今度は上から音がした。
久世が顔を上げた時には、照明灯の一部が外れていた。大きな投光器が傾き、そのまま五条へ落ちる。
ぶつかる。
そう思った。
だが。
投光器は五条の頭上で止まり、そのまま横へ落ちた。
「……また?」
五条は歩き続ける。
今度は用具置き場から槍が一本倒れた。柄が石へぶつかり、その勢いで跳ね上がる。
五条の喉元へ。
それも。
止まった。
「何なんだよ、それ……」
小石も。
投光器も。
槍も。
五条のところまで行かない。
久世にはそれしか分からなかった。
五条がさらに近づく。
今度は足元の土が崩れた。
「あ」
五条は軽く横へ避ける。
それだけ。
「……でも」
久世が呟く。
「何?」
「五条さんにも事故は起きるんですね」
「そうみたいだね」
「じゃあ、やっぱ効いてるじゃないですか」
「効いてるかどうかは別じゃない?」
「何でです?」
「僕まだ何ともないし」
言われてみれば、その通りだった。
これまでなら、追ってきた相手にはとっくに何かが当たっている。
なのに。
五条には何も届かない。
「まだ来ます?」
「もちろん」
五条が一歩進む。
石が飛ぶ。
止まる。
もう一歩。
金属片が飛ぶ。
止まる。
さらに進む。
金網が傾き、五条へ倒れ込む。
それも止まった。
「……マジかよ」
久世は思わず呟く。
何をしているのか分からない。
ただ。
何をしても当たらない。
それだけは分かる。
「……最強ってこういうこと?」
「何か言った?」
「何でもないです」
五条との距離は、かなり縮まっていた。
「じゃ、もうちょい行くよ」
久世は頷く。
五条が一歩進む。
何も起きない。
もう一歩。
まだ何もない。
「……終わった?」
久世が呟いた。
パキ。
小さな音。
五条が止まる。
「ん?」
久世も音の出所を探した。
五条の眼鏡だった。
右側のレンズに、一本の亀裂が入っている。
「あ」
亀裂が広がった。
次の瞬間。
レンズが内側へ割れた。
五条が僅かに顔を逸らす。
小さな破片が頬を掠めた。
血。
「……え?」
久世は固まった。
五条もすぐには動かなかった。
頬を指で触る。
血がつく。
「五条さん」
「うん」
「当たった……?」
「当たったね」
久世は五条の眼鏡を見る。
意味が分からなかった。
石も。
槍も。
全部止まっていたのに。
どうして。
眼鏡だけ。
五条は割れた眼鏡を外した。
その下から鮮やかな青い瞳が現れる。
「……続けよっか」
「まだやるんですか?」
「面白くなってきたし」
五条は眼鏡をポケットへしまった。
そして、また一歩近づく。
ブツン。
今度は五条の服から音がした。
ボタンが外れる。
何が起きたのかと思った直後、五条の首筋に細い傷が走った。
「……また?」
久世にも、何が当たったのかよく見えなかった。
五条がさらに進む。
ぱきり。
足元で何かが砕ける。
五条の身体が僅かに止まった。
「どうしたんです?」
「ちょっと刺さった」
「何が?」
「石かな」
「石?」
久世には分からない。
さっきまで何を投げても五条に届かなかった。
なのに。
今は。
何か起こるたびに。
五条に傷が増えている。
「……何で?」
思わず口から漏れる。
五条は答えなかった。
さらに一歩。
その瞬間。
地面の下で鈍い音がした。
五条の足元が沈む。
裂けた土の隙間から細い配管が現れ、そのまま継ぎ目が弾けた。
大量の水が噴き出す。
「うわっ!」
久世が腕で顔を庇う。
水しぶきが五条にも降りかかる。
だが。
やはり。
ほとんど届かない。
「また止まって――」
久世が言いかけた。
その時。
五条の頬に。
新しい傷が走った。
「……え?」
久世には。
何が起きたのか。
本当に分からなかった。
何かが飛んだようには見えない。
何かが当たったようにも見えない。
なのに。
血が流れている。
「五条さん」
五条は頬の血を指で拭った。
「……へえ」
その声から、さっきまでの軽さが少しだけ消えていた。
そして。
さらに進もうとする。
「五条!」
教師の声が飛んだ。
「そこまでだ!」
五条が止まる。
「まだいけるけど?」
「周りを見ろ!」
久世も改めて周囲を見る。
倒れた柵。
地面へ落ちた投光器。
傾いた支柱。
崩れた金網。
裂けた地面。
そこから水が流れ続けている。
「これ以上やったら、どこまで壊れるか分からん!」
「……それはまずいか」
五条が肩をすくめた。
その瞬間から。
何も起きなくなった。
久世は五条を見る。
「……止まった」
「そうだね」
「今、何したんです?」
「何も」
「またそれですか?」
五条は笑うも、久世は納得できなかった。
「でも」
五条の頬を見る。
「傷ついてますよね」
「傷ついてるね」
「さっきまで全部止まってたのに」
「うん」
「何で?」
「さあ?」
「五条さんも分かんないんですか?」
「少なくとも、面白いことが起きたのは分かった」
「なんだそれ……」
久世には最後まで何も分からなかった。
ただ一つ。
五条悟は。
確かに傷ついた。
それだけだった。
*
「あれ、何だったんですか?」
模擬戦が終わってしばらく後。
久世は担当教員の前に座っていた。
「何がだ」
「五条さんのやつ。石とか槍とか、全部止まってたでしょ」
担当教員が呆れたように久世を見る。
「お前、本当に何も知らずにやってたのか」
「現代最強ってことしか知らなかったです」
「よくそれで煽れたな」
「向こうからやろうって言ったんですよ」
「断れ」
「無理でしょ、あの人」
教員は深くため息をついた。
「五条の生得術式は無下限呪術だ」
「むかげん?」
「簡単に言えば、五条へ近づこうとするものは、五条へ届かない」
久世は黙った。
小石。
投光器。
槍。
どれも。
五条の近くで止まった。
「……あれ、その術式だったんですか?」
「そうだ」
「じゃあ、普通は触れない?」
「まともに攻撃しても、まず届かん」
「呪具でも?」
「手段によるが、ただ殴る、斬る、飛ばす程度では難しい」
久世は何も言わなかった。
脳裏に。
もう一度。
五条の頬から流れた血が浮かぶ。
「……でも」
「何だ」
「最後」
久世が顔を上げる。
「当たりましたよね」
教師が黙る。
「眼鏡割れて」
「……ああ」
「その後も」
「そうだな」
久世は少しずつ。
笑った。
「じゃあ」
教師が嫌な予感を覚えたように眉を寄せる。
「久世」
「俺の厄災」
久世は止まらない。
「あの人にも届いたってことですよね」
「単純にそう考えるな」
「でも届いたじゃないですか」
「どういう仕組みでそうなったのか分かっていない」
「でも」
久世は笑う。
「傷ついた」
教師は何も言わなかった。
久世には。
それで十分だった。
*
夕方。
久世は訓練場に戻っていた。
壊れたものの多くは片付けられていたが、地面にはまだ抉れた跡が残っている。
「……すげえな」
久世は呟いた。
「何がかね」
振り返る。
ワンダー・オブ・Uがいた。
「アンタ、知ってた?」
「何を」
「五条悟の術式」
「いいや」
「普通、あの人には攻撃届かないんだって」
「そうなのかね」
「でも」
久世が笑う。
「俺のは届いた」
ワンダー・オブ・Uは何も言わない。
「最初は何やっても当たんなかったんだよ」
久世は昼間の光景を思い返す。
「石も。槍も。でかいの落ちてきても。全部止まって」
でも。
途中から。
五条が傷つき始めた。
「俺も何が起きてたのか全然分かんなかったけど」
久世は自分の手を見る。
「厄災は、あの人に届いた」
ワンダー・オブ・Uは静かに久世を見る。
「もっと近づいてたら、どうなった?」
「さあ」
「五条悟でも死んだ?」
「知りたいのかね」
「そりゃ気になるだろ」
久世は笑った。
「現代最強なんだぞ」
ワンダー・オブ・Uは少しの間だけ久世を見ていた。
やがて踵を返す。
「厄災というものに、終着点など存在しない」
久世の笑みが少し止まった。
「……どういう意味?」
「言葉通りだよ」
それ以上。
ワンダー・オブ・Uは何も言わなかった。
久世はその背中を見る。
厄災に終着点はない。
なら。
五条悟が。
もっと近づいていたら。
追うことをやめなかったら。
その先は。
分からない。
でも。
一つだけ。
久世の中に強く残ったものがある。
現代最強と呼ばれる五条悟に。
自分の厄災は。
届いた。
「……俺」
久世は小さく笑った。
「マジで最強になれるんじゃねえの?」
ワンダー・オブ・Uは振り返らなかった。
五条悟
特級術師、現代最強。久世との検証では赫までなら普通に使う予定だったが止められてしまい断念。六眼でも読み取れない存在にワクワクしている。
久世の『厄災』
たとえ久世を遥かに凌駕する格上の存在であろうと、仮想の質量であろうと、この世の理に存在する限り、例外なく『厄災』の対象となる。条件はただ一つで、久世新一を『追跡』すること。その瞬間から、世界そのものが追跡者へ牙を剥く。そして『厄災』は、追跡者の周囲に存在するあらゆる可能性の中から最も危険なものから順に降りかかる。とっても強い。