呪いの世界に厄災は歩く 作:杜王町民
五条悟との模擬戦から、久世新一は少し変わった。
本人にその自覚はなかった。任務へ向かう頻度は以前と変わらず、訓練にも顔を出している。座学を露骨にサボるようになったわけでもなければ、教師へ反抗的な態度ばかり取るようになったわけでもない。ただ、以前まであった訓練への熱だけは、明らかに薄れていた。
「久世。もう一度」
教師に言われ、久世は小さく息を吐いた。訓練場の中央に置かれた木製の標的へ向き直ると、拳へ呪力を集め、そのまま殴りつける。鈍い音とともに標的が僅かに揺れた。
「遅い。打撃より呪力が後から来ている」
「はい」
「分かっているなら直せ」
「やってますよ」
「やっていないから言っている」
久世は拳を開いたり閉じたりしながら標的を眺めた。編入したばかりの頃よりは上手くなっている。拳へ呪力を留めることもできるようになり、身体強化も多少は身についた。それでも、一年以上前から呪術を学んできた同期との経験の差は簡単には埋まらない。
以前なら、それが悔しかった。だが今は、別の疑問の方が強かった。
「これ、そんなに必要ですか?」
教師が眉を寄せる。
「何?」
「体術とか、呪力操作とか」
「術師なら当然必要だ」
「でも俺、任務で困ってないですよ」
教師が黙ったのを見て、久世はそのまま続けた。
「一級相当の呪霊だって一人で祓った。五条さん相手にも厄災は発動した。だったら、これ以上殴り方とか練習する意味あるのかなって」
「ある」
返事は即答だった。
「術式が使えない状況を想定しろ」
「使えなくなるんですか?」
「術式に絶対はない」
「俺のは今まで止まったことないですけど」
「久世」
教師の声が低くなり、久世は面倒そうに標的から離れた。
「分かりましたよ。やります」
口ではそう言ったものの、その言葉には以前ほどの重みがなかった。
少し離れた場所では、ワンダー・オブ・Uが杖をついて訓練を眺めている。久世はそちらへ顔を向けた。
「アンタもそう思う?」
「何をだね」
「こんな訓練必要かって話」
「私に聞くことかね」
「俺の術式なんだから関係あるだろ」
ワンダー・オブ・Uは答えなかった。久世は鼻を鳴らして再び標的へ向き直る。その様子を、教師は何も言わずに見ていた。
*
「最近、お前ちょっと変だぞ」
夕方、任務帰りの車内で三枝が突然そう言った。後部座席に座って窓の外を眺めていた久世が、怪訝そうに視線を戻す。
「何が?」
「分かんねえけど」
三枝は隣で腕を組んだ。
今日の任務も大した苦戦はなかった。相手は二級呪霊二体だったが、久世が前へ出て自分を追わせたことで、十分とかからず両方とも祓うことができた。久世も三枝も無傷で、補助監督にも被害は出ていない。久世からすれば、何の問題もない任務だった。
「前より雑になった」
「戦い方?」
「色々」
「曖昧だな」
「前はもっと周り見てたじゃん」
久世が眉をひそめる。
「見てるけど」
「今日もそうだよ。俺が先に入ろうとしたら、お前押し退けただろ」
「あれは俺が行った方が早いから」
「そういうところ」
久世は意味が分からないという顔をした。
「実際早かったじゃん」
「そうだけどさ」
「じゃあ何が問題なんだよ」
三枝はすぐには答えなかった。車が赤信号で止まり、運転席の補助監督も黙ったまま前を見ている。
「……前のお前なら、俺が怪我しないように前に出てた気がする」
「今も同じだろ」
「違う」
三枝が久世を見る。
「今は『俺がいたら邪魔だから前に出る』って感じがする」
久世の表情が僅かに固まった。
「考えすぎだろ」
「そうかな」
「そうだよ」
「じゃあいいけど」
三枝はそれ以上言わなかった。久世も会話を終わらせ、窓の外へ視線を戻す。
少しだけ腹が立った。
何が違うというのか。自分が前へ出て、敵に追わせ、厄災によって祓う。そうすれば全員が無傷で帰れる。結果は以前と同じどころか、むしろ効率は良くなっている。それなのに、どうして変わったなどと言われなければならないのか。
「……変、ね」
小さく呟きながら視線をずらすと、誰も座っていないはずの最後列にワンダー・オブ・Uがいた。老人は会話に口を挟むこともなく、ただ窓の外を眺めていた。
*
問題が起きたのは、それから一か月ほど後だった。
都内の雑居ビル。その五階で呪霊の発生が確認され、久世を含む三人の術師が派遣された。事前情報では二級とされていたが、現地へ到着して実物を確認した途端、同行していた年上の術師が撤退を決めた。
「一級相当だ。撤退する」
廊下の奥では、四つん這いの巨大な呪霊が壁と天井の境目を這っていた。全身から伸びた細長い腕が、獲物を探すように空中を掻いている。
久世にも強いことは分かった。
それでも、以前一人で祓った呪霊ほどではない。
「いけますよ」
「何?」
久世は呪霊から視線を外さずに言った。
「これくらいなら」
「撤退命令だ」
「まだ出てないでしょ」
「現場判断だ。等級が事前情報と違う以上、いったん戻る」
「戻って一級呼ぶんですか?」
「そうなる」
久世は呆れたように笑った。
「時間の無駄でしょ」
「久世」
「俺なら祓えます」
年上の術師が久世の肩を掴む。
「命令だ」
その瞬間、廊下の奥で呪霊が動いた。全員が一斉に振り返る。
「まずい!」
伸びてきた腕に術師たちが構える中、久世は一人だけ前へ出た。
「俺がやります」
「待て!」
制止を無視して走り出した久世へ、呪霊の注意が向く。そのまま追跡が始まった直後、天井の照明が外れて呪霊の腕を打ち、廊下に置かれていた消火器が倒れて足元へ転がった。接触する瞬間だけ呪力を纏った消火器に足を取られ、巨体が傾く。そこへ壁面から剥がれた金属板が飛び、肩へ深く突き刺さった。
「ほら、いけるだろ」
久世が振り返って笑う。
「久世! 戻れ!」
「大丈夫ですって!」
久世はそのまま走り続けた。呪霊が追うたびに、廊下のあちこちで何かが外れ、倒れ、飛び、接触する瞬間だけ呪力を宿して呪霊を傷つけていく。
数分もしないうちに呪霊の身体は限界を迎え、黒い塵となって崩れ落ちた。
久世は息を整えながら振り返る。
「終わり。だから言ったでしょ」
同行した二人の術師は、何も言わずに久世を見ていた。
誰も怪我をしていない。一般人にも被害はなく、呪霊も祓った。久世にとっては、それで十分だった。
*
高専へ戻った後、久世はすぐに呼び出された。
「命令違反だ」
机を挟んだ教師が久世を見る。
「現場責任者から撤退指示が出ていた」
「でも祓いましたよ」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題なんです?」
「久世」
「結果として被害ゼロですよ。撤退してたら、次の術師が来るまで時間かかってたでしょ。その間に被害が広がっていたかもしれない」
「だからといって命令を無視していい理由にはならない」
「勝てないなら分かりますよ。でも勝てた」
「今回はだ」
その言葉に、久世の表情が変わった。
「またそれですか」
「何?」
「『今回は』『今は』『絶対じゃない』。ずっとそればっかりですよね」
教師の表情が険しくなる。
「お前は自分の力を過信している」
「過信? 結果出してるのに?」
「それが過信だと言っている」
「五条さんにだって厄災は通じた」
「五条と比較する話ではない」
「じゃあ何と比べればいいんです?」
久世は椅子から立ち上がった。
「二級? 一級? 俺、どっちも祓ってますよ。基礎が足りない、経験が足りないって毎回言いますけど、それでも俺の方が強いじゃないですか」
教師はしばらく何も言わず、久世を見ていた。
「一週間、任務から外す」
「……は?」
「頭を冷やせ」
「何で?」
「命令違反への処分だ」
「ふざけんなよ」
「久世」
「俺が何したんですか? 呪霊祓っただけだろ!」
「命令に従わなかった」
「その命令が間違ってたんだろ!」
久世の声が部屋に響いた。自分でも少し驚くほど大きな声だったが、撤回する気にはならなかった。
教師は静かに言う。
「今日は戻れ。……一週間だ」
久世は何も答えず、乱暴に扉を閉めて部屋を出た。
廊下にはワンダー・オブ・Uがいた。
「聞いてた?」
「多少は」
「意味分かんねえだろ。勝ったんだぞ。誰も怪我してないし、一般人も死んでない。呪霊も祓った。それで何で俺が処分されるんだよ」
久世が歩き始めると、ワンダー・オブ・Uも一定の距離を保ったまま後に続く。
「弱い奴らに合わせて撤退しろって? 馬鹿馬鹿しい」
久世は吐き捨てるように言った。
「俺一人なら終わってたんだ」
以前なら決して口にしなかった言葉だった。
*
一週間、久世は任務へ出なかった。訓練にもほとんど顔を出さず、寮にいるか、意味もなく街を歩く日が続いた。ワンダー・オブ・Uはいつも通り、近くにいたり、いつの間にか姿を消していたりした。
久世自身、何をすればいいのか分からなかった。ただ、高専に対する苛立ちだけが少しずつ膨らんでいた。
教師や上層部は、いつまで経っても自分の力を認めようとしない。任務で結果を出しても基礎が足りないと言われ、強い呪霊を祓っても危険だったと叱られる。五条悟ほど圧倒的に強ければ、誰にもそんなことを言われないのだろうか。
なら、自分ももっと強くなればいい。
いつしか、そんなことを考えるようになっていた。
処分が明けた日の夕方、高専へ戻った久世は三枝に呼び止められた。
「久世」
「何?」
「話ある」
「明日じゃダメ?」
「今」
久世は面倒そうに足を止めた。人気のない渡り廊下で、三枝は少し迷うような顔をしてから口を開いた。
「……先生に謝れよ」
久世の表情が変わった。
「それ言うために呼んだ?」
「あの人は、お前のこと心配してる」
「処分しといて?」
「それは、お前が命令無視したからだろ」
久世は鼻で笑った。
「三枝もそっちなんだ」
「そっちとかじゃなくて」
「俺が間違ってた?」
「命令無視は間違ってる」
「でも俺がやらなきゃ誰か死んでたかもしれない」
「それは結果論だろ」
その言葉に、久世の眉が動いた。
「結果論、結果論って……結果が全部だろ」
「違う」
三枝は即答した。
「術師が毎回結果だけ見て勝手なことしてたら組織にならねえだろ」
「組織?」
久世は鼻で笑う。
「だったら弱い奴らだけで仲良くやってろよ」
三枝の顔が固まった。久世自身も一瞬だけ言い過ぎたと思ったが、今さら謝ることはできなかった。
「……お前、本当に変わったな」
その言葉だけは、妙に胸に刺さった。
「うるせえよ」
久世は踵を返した。
「久世」
「ついてくんな」
「待てって。話終わってねえだろ」
足音が背後から近づいてくる。
「三枝」
久世が振り返った。
「追うな」
三枝の足が止まった。
二人とも、その言葉が何を意味するのか分かっている。
「……それ、脅してんのか?」
「違う。ただ止まれって言ってるだけだ」
「久世」
三枝は久世を睨み、そのまま一歩前へ出た。
「逃げんな」
その瞬間、頭上から金属音が響いた。
「三枝――」
渡り廊下の照明を固定していた金具が外れ、照明器具が落下する。三枝は咄嗟に横へ避けた。照明が床へ叩きつけられ、破片を撒き散らす。
「止まれ!」
久世が叫ぶ。
「俺は逃げない!」
三枝は再び久世へ歩き出した。
「お前が勝手に――」
今度は窓ガラスに亀裂が走った。次の瞬間には砕け散り、破片が三枝へ降りかかる。
「危ない!」
三枝が腕で顔を庇う。肌が切れ、血が飛んだ。
「三枝!」
久世は思わず駆け寄ろうとしたが、足を止めた。
三枝はまだ自分へ近づこうとしている。
「来るな! 止まれって!」
「まず話を――」
三枝がさらに一歩踏み出す。
久世の背後に設置されていた消火器収納箱の留め具が外れた。勢いよく開いた扉に押されて中の消火器が倒れ、先端が床へ強くぶつかる。その衝撃で安全栓が外れ、噴き出したガスに煽られたホースが激しく暴れた。
金属製のノズルが跳ね上がる。
三枝のこめかみに、鈍い音を立てて直撃した。
「――」
三枝の身体が、その場に崩れ落ちた。
「……え」
久世はしばらく動けなかった。
「三枝?」
返事がない。
「おい」
久世が駆け寄る。今度は何も起きなかった。床へ膝をつき、三枝の身体を抱き起こすと、頭部から流れた血が久世の腕へ伝った。
「おい、三枝」
頬を叩いても反応はない。
「おいって!」
首へ手を当てる。しかし震える指では、何も分からなかった。
「誰か! 誰か来てくれ!」
久世の叫び声を聞きつけ、やがて教師や生徒たちが集まってきた。
久世は三枝の身体を抱えたまま、動くことができなかった。
*
三枝は死んだ。
その日の夜、久世は高専の外れにある石段へ一人で座っていた。何時間そうしているのか、自分でも分からない。服にはまだ三枝の血が残っていたが、洗う気にもなれなかった。
ワンダー・オブ・Uは少し離れた場所に立っている。
「……俺、止まれって言った」
久世が掠れた声で呟く。
「追うなって。言ったよな」
「言っていたな」
久世が顔を上げる。
「じゃあ、俺が悪いのか?」
ワンダー・オブ・Uは答えなかった。
「三枝が追ってきたんだ。俺は何もしてない。殺そうともしてない。それなのに、何で俺が責められるんだよ」
高専側から今後についての話は、すでに聞かされていた。
三枝の死について事情聴取を行い、久世の術式による死亡事故として詳細を調査する。故意ではなかったとしても、このまま活動させるには術式の危険性が高すぎるため、今後の処遇が決まるまでは監視下に置く。
久世には、その全てが自分を犯罪者のように扱うための言葉に聞こえた。
「俺は何もしてない。三枝が追ったんだ」
ワンダー・オブ・Uが久世を見る。
「そうだ。彼は君を追い、その結果として厄災の流れへ入った」
「だろ?」
久世は立ち上がった。
「だったら俺のせいじゃない」
ワンダー・オブ・Uはその言葉を肯定も否定もしなかった。
「そう考えるのなら、好きにしたまえ」
しばらくの沈黙の後、久世はひどく疲れた笑みを浮かべた。
「……もういいわ」
「何がかね」
「ここ。全部」
久世は高専の校舎を見る。
教師も、規則も、命令も、処分も、監視も、全部が鬱陶しかった。自分より弱い人間たちが、自分の力を危険だと決めつけ、自分を止めようとしているようにしか思えなかった。
「もう付き合ってられない」
久世は石段を下り始めた。
「どこへ行くのかね」
「どこでもいい」
「戻らないのか」
足を止めた久世は少しだけ考え、振り返ることなく答えた。
「戻る理由ある?」
そのまま再び歩き出す。
ワンダー・オブ・Uは久世の背中を見ていたが、やがていつものように少し距離を置いて、その後を歩き始めた。
翌日、久世新一は高専へ戻らなかった。
連絡にも応じず、説得のために派遣された補助監督を拒絶した。さらに連れ戻そうとした術師が久世を追ったことで厄災が発生し、負傷者まで出た。
数日後、呪術界は久世新一を呪詛師として認定した。
元東京都立呪術高等専門学校所属。危険な術式を有し、術師一名の死亡後に高専を離脱。帰還命令を拒否し、捕縛を試みた術師にも被害を発生させた。
久世がその決定を知ったのは、さらに数日後だった。
「呪詛師、ね」
安いホテルの一室で、久世はベッドに腰を下ろしたまま携帯電話の画面を眺めていた。窓際ではワンダー・オブ・Uが夜の街を見下ろしている。
「勝手なもんだな。昨日まで術師だった人間が、戻らないって言っただけで今日から悪人かよ」
「名前というものは便利だ」
ワンダー・オブ・Uが言う。
「人間は名前を与えることで、物事を理解したつもりになれる」
「アンタは?」
「何がかね」
「俺が呪詛師になったの、どう思う?」
ワンダー・オブ・Uは少しだけ考えた。
「何も」
久世は苦笑する。
「だと思った」
「君が術師であろうと呪詛師であろうと、厄災には関係がない」
久世は携帯電話をベッドへ放り、そのまま仰向けになった。
天井を見ていると、三枝の顔が浮かんだ。
すぐに目を閉じる。
「……追ってきた方が悪い。俺は何もしてない」
自分へ言い聞かせるように呟いた久世へ、ワンダー・オブ・Uは何も答えなかった。
その夜、久世新一は初めて、自分が起こした厄災によって人が死んだという事実から目を逸らした。
そして、それが最後ではなかった。
雑居ビルの呪霊
これまた野生の一級呪霊、掌で触れた生物から“生命活動を維持するもの”を吸収する術式。人間なら体力・水分・糖分などが急速に奪われ、呪力を多く持つものならそれに加えて呪力も吸収される。奪ったものは呪霊自身へ還元され、呪力の回復や損傷した肉体の修復に使える。