呪いの世界に厄災は歩く 作:杜王町民
久世新一が高専を去ってから、数年が過ぎていた。
二十三歳になった久世の名前は、すでに呪術界で広く知られていた。もっとも、それは呪霊を祓う術師としてではない。捕縛しようとすれば術師の側に死人が出る、極めて危険な呪詛師としてだった。
高専からはこれまで何度も追手が差し向けられている。そのたびに久世は逃げたわけでも、正面から戦ったわけでもなかった。ただ歩いているだけで、近づこうとした術師が転び、飛来物に襲われ、時には建造物の倒壊にまで巻き込まれた。遠距離から監視すれば機材が故障し、移動経路を予測して先回りしても、捕縛のために距離を詰めようとした途端に事故が起きる。
つい数日前にも、高専は住宅街で久世を包囲した。直接後を追わず、移動経路を予測して三方向から先回りする作戦だったが、結果は失敗。久世へ近づいた術師が飛来した小石で負傷したのを皮切りに、看板が落下し、自動販売機の金属板まで吹き飛んだ。
結局、久世は誰にも触れられることなく、その場を歩き去った。
何年経っても、誰が相手でも変わらない。厄災は久世へ近づく者を排除し続けた。
だからもう、久世は疑っていなかった。
自分を殺せる人間など、ほとんど存在しない。
あの五条悟でさえ、自分を追えば無事では済まない。その考えは長い年月と幾度もの成功を経て、久世の中では確信ですらなく、当たり前のことになっていた。
その数年間で、ワンダー・オブ・Uにも一つだけ変化があった。
高専を離れてしばらくした頃、ある日突然、老人の姿を取ることをやめたのだ。黒い帽子も、モノクルも、口髭も、杖も消え、久世が高校生の頃に初めて目にした、黒を基調とする機械的な人型へと戻った。
理由を尋ねた久世に、ワンダー・オブ・Uはただ、「人間の中を歩くには、あの姿の方が都合がよかった。それだけだよ」と答えた。
久世もそれ以上は気にしなかった。姿が変わったところで厄災は変わらず、ワンダー・オブ・Uも以前と同じように自分のそばにいる。それだけで十分だった。
*
住宅街での捕縛作戦が失敗してから三日後、久世は人気のない再開発地区を歩いていた。
建設途中で計画が止まったらしい商業施設には仮設のフェンスが残され、剥き出しの骨組みが夜空へ伸びている。工事車両も作業員も見当たらず、周囲に聞こえるのは遠くを走る車の音くらいだった。
久世の少し後ろを、ワンダー・オブ・Uが歩いている。
「露骨すぎるだろ」
久世が呟いても返事はなかった。
「三日前に失敗したばっかなのに、今度はこんな場所に呼び出すって。罠ですよって言ってるようなもんじゃん」
数時間前、久世の携帯へ一通の短いメッセージが届いた。記されていたのは場所と時間だけで、送り主の名前すらない。それでも、誰が待っているのかは簡単に想像できた。
普通なら無視してもよかった。
それでも来たのは、もう高専を怖がる必要などないと思っていたからだ。むしろ今度は何を試してくるのか、少し楽しみですらあった。
「なあ、今回は何人くらいいると思う?」
久世が後ろを振り返る。
「私に聞くことかね」
「予想だよ」
「興味がない」
「相変わらずだな」
久世は笑って前を向き、そのまま商業施設の奥へ入っていった。
本来なら吹き抜けになる予定だったらしい広い空間へ足を踏み入れた瞬間、周囲の照明が一斉に点灯する。
「うわ、眩し」
目を細めながら見上げると、二階、三階、そして外周部分に複数の人影があった。ただし全員が久世から十分な距離を取り、誰一人として近づいてこようとはしない。
「やっぱり、お前らか」
久世が笑うと、どこからか拡声器越しの声が響いた。
『久世新一』
「はいはい」
『その場から動くな』
「それ毎回言うな」
『今回は誰もお前を追わない』
その言葉に、久世は少しだけ目を細めた。
改めて周囲を見る。出入口にも術師はいるが、確かに誰もこちらへ向かってこない。
『ここへ来たのはお前自身だ。我々は事前に配置についている』
「三日前と同じじゃん」
『違う』
声と同時に、久世の足元で何かが光った。
「……結界?」
地面に刻まれていた術式が浮かび上がり、それに呼応するように施設の周囲へ薄い膜が広がっていく。やがて出入口まで覆われ、久世を内側へ閉じ込めた。
『お前を追う必要はない。お前からここへ入った。そして我々は、一歩も近づかない』
久世は周囲を見回し、やがて吹き出した。
「考えたな」
これまでの捕縛では、久世へ近づこうとした術師が厄災に襲われた。ならば、最初から誰も近づかなければいい。久世自身をあらかじめ用意しておいた場所へ誘い込み、そのまま閉じ込める。
理屈は分かる。
「でも、結局俺を捕まえるためなんだろ?」
その瞬間、二階から悲鳴が上がった。
「ぐっ……!」
配置についていた術師の足元で固定されていた鉄板が突然外れ、傾いた。術師は咄嗟に避けたものの、その先に置かれていた工具箱を蹴り飛ばす。散らばった工具の一本が床を滑り、別の術師の足へぶつかった。
体勢を崩した術師の手が、結界を維持していた札から離れる。
薄い膜の一部が揺らいだ。
「ほら、言っただろ」
久世が笑う。
別の場所では照明が弾け、破片が術師たちへ降り注いだ。
誰も久世を追っていない。誰も近づいてすらいない。それでも自分を捕らえようとしている。久世にとっては、それだけで十分だった。
『配置を崩すな!』
「無駄だって」
久世はゆっくりと出口へ向かって歩き始める。
「追うとか追わないとか、そういう言葉遊びじゃねえんだよ。俺を捕まえようとして、俺の邪魔して、行くところを塞いでる」
久世が進むたび、周囲で異変が起きた。術師の持っていた呪具が突然折れ、結界を支える設備に亀裂が走り、貼り付けられていた札の一枚が理由もなく燃え上がる。
「全部一緒なんだよ」
結界が大きく揺らぎ、やがて一か所に人が通れるほどの穴が開いた。
「じゃ、今回も失敗ってことで」
片手を上げ、久世はその穴へ向かって歩き出した。
誰も追ってこない。
追えばどうなるのか、全員が知っている。
久世にとっては、それも当然の光景だった。今日も自分は捕まらない。そして、これから先も誰にも止められない。
「行くぞ」
何気なく後ろへ声をかける。
返事がなかった。
久世はそのまま歩き続けた。
三歩。
四歩。
そこで、足を止めた。
自分の足音しか聞こえない。
振り返る。
ワンダー・オブ・Uは、少し離れた商業施設の中央に立ったままだった。
「……何してんの? 行くぞ」
返事はない。
久世が怪訝そうに眉を寄せた次の瞬間、ワンダー・オブ・Uはゆっくりと身体の向きを変えた。
出口とは反対方向へ。
そのまま歩き始める。
「おい。そっちじゃねえよ」
止まらない。
「おい」
いつものように無視しているだけだと思った。
ワンダー・オブ・Uが久世の命令に従わないことなど、今に始まったことではない。呼んでも来ない。何を言っても無視する。勝手にどこかへ行くことさえあった。
それでも、最後には戻ってくる。
気づけば自分の後ろにいる。
それが何年もの間、当然だった。
「戻れ。聞こえてんだろ」
それでも、黒い背中は遠ざかっていく。
久世の眉間に皺が寄った。
「ワンダー・オブ・U!」
声が施設内へ響く。
その名を怒鳴ったのは、もしかすると初めてだった。
ワンダー・オブ・Uの足が止まる。
久世は僅かに息を吐いた。
だが。
振り返らない。
「どこ行くつもりだよ」
しばらくして、返事があった。
「君に告げる必要があるのかね」
久世から表情が消えた。
「……は?」
「私は、私の行きたい場所へ行く」
「何言ってんだよ」
笑い飛ばそうとして、笑えなかった。
妙な感覚が胸の奥に残った。
「お前は俺の式神だろ」
返事はない。
「なあ」
久世が一歩進む。
「戻ってこいよ」
さらに一歩。
二階から突然、怒鳴り声が飛んだ。
「久世!」
久世が苛立ったように見上げる。
「そいつを追うな!」
何を言っているのか、一瞬分からなかった。
「……は?」
「止まれ! それ以上そいつを追うな!」
追う。
その言葉だけが、不自然なほどはっきり耳へ残った。
久世はゆっくりと前を見る。
ワンダー・オブ・Uが歩いている。
その背中へ向かって。
自分が近づいている。
追っている。
「いや……」
久世の口から、小さく声が漏れた。
「違うだろ」
足元で、パキ、と乾いた音がした。
視線を落とす。
床に転がっていた一本のボルトを、靴で踏んでいた。
ただそれだけだった。
次の瞬間。
ボルトが視界から消えた。
「ッ!」
頬に熱が走る。
久世は反射的に顔を背けた。
数歩よろめきながら頬へ触れると、指先に血がついた。
「……は?」
何が起きたのか分からなかった。
床を見る。
さっき踏んだボルトが、数メートル先に転がっている。
「何だよ、これ……」
高専の術師たちは誰も動いていない。
誰も久世へ近づいていない。
久世の視線がゆっくりとワンダー・オブ・Uへ戻る。
歩いている。
こちらを見ることもなく。
「……偶然だろ」
呟いた。
誰に言ったのかは、自分でも分からなかった。
「こんなの」
ワンダー・オブ・Uとの距離が少しずつ開いていく。
久世は一歩踏み出した。
頭上で。
ギィ、と嫌な音がした。
反射的に見上げる。
天井から吊られた仮設照明が揺れている。
「……おい」
固定具が一つ外れた。
続いて、もう一つ。
「ちょっと待て」
久世が後ろへ下がろうとした瞬間、照明器具が落下した。
「――ッ!」
横へ飛ぶ。
避けた。
そう思った。
肩に何かが触れた。
それだけだったはずなのに、次の瞬間、身体が床へ叩きつけられた。
「ぐぁっ!」
視界が一瞬白くなる。
肩から腕へ激痛が走り、息が止まった。
「……っ、何だよ……」
身体を起こそうとして右腕へ力を入れる。
動かない。
少し動かしただけで、骨の奥まで焼けるような痛みが走った。
久世の呼吸が浅くなる。
一度目はボルト。
二度目は照明。
偶然。
そう思おうとした。
だが。
頭の中に、これまで何度も見てきた光景が蘇っていた。
自分を追った人間。
落ちる物。
外れる金具。
あり得ない角度で飛ぶ破片。
全部。
同じだった。
「……違う」
久世が首を振る。
「違うだろ」
ワンダー・オブ・Uは遠ざかっていく。
「待て」
返事はない。
「待てよ!」
久世は立ち上がった。
その瞬間、二階から再び声が飛ぶ。
「久世、やめろ!」
「黙れ!」
「追うな!」
「黙れって言ってんだろ!」
叫びながら、久世はワンダー・オブ・Uへ向かう。
認めたくなかった。
いや。
認めれば。
これまで自分が信じてきたものが全部崩れる。
厄災は自分の術式だった。
ワンダー・オブ・Uは自分の式神だった。
自分を追う者だけが厄災に遭う。
だから自分は安全だった。
だから。
自分は最強だった。
「お前は俺のだろ!」
久世が走り出す。
バキ、と足元が割れた。
右足が床材へ沈み込み、身体が前へ投げ出される。咄嗟についた左手の真下には割れたガラスがあり、掌へ深く突き刺さった。
「ぐっ!」
勢いは止まらない。
肩から鉄骨へ激突した。
肺の空気が一気に押し出される。
「が……っ!」
声にならない。
床へうずくまり、咳き込む。
口の中に鉄の味が広がった。
それでも顔を上げる。
ワンダー・オブ・Uは歩いている。
何事も起きていないかのように。
「待て……!」
立ち上がろうとする。
脚が震える。
肩はまともに動かない。左手からも血が流れ、床へ赤い跡を落としている。
それでも久世は立った。
「ふざけんなよ……」
息を切らしながら、前へ進む。
「何年一緒にいたと思ってんだよ……」
高校生だった頃。
初めて姿を見た。
高専へ入り、訓練場で自分を見ていた。
初めて人を守れた任務にもいた。
三枝が死んだ夜にも。
高専を出た時にも。
呪詛師になった後も。
ずっと。
ずっと自分のそばにいた。
「戻れよ……!」
返事はない。
「ワンダー・オブ・U!」
久世が再び走ろうとした。
その時だった。
上から。
ミシ、と音がした。
小さな音だった。
だが久世の身体が止まった。
ゆっくり見上げる。
先ほどの厄災で壊れた結界設備。その近くに固定されていた鉄骨が、僅かに傾いている。
「……嘘だろ」
ボルトが一本、外れた。
カラン。
床へ落ちる。
鉄骨がさらに傾く。
「久世!」
術師の声。
久世は横へ動こうとした。
だが、足元には先ほど割れた床材が散らばっている。
靴底が滑った。
「っ!」
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
鉄骨が落ちる。
久世は反射的に身体を捻った。
間に合わない。
凄まじい音とともに、左脚へ衝撃が走った。
「――あああああああッ!」
絶叫が施設内に響いた。
久世の身体が床へ崩れる。
左脚の上に、鉄骨が落ちていた。
足首から先が見えない。
膝はあり得ない方向を向いている。
「ぁ……ぐ……っ」
呼吸ができない。
痛い。
ただ、それだけしか考えられなかった。
額から汗が噴き出す。
身体が震える。
床を掻く指にも力が入らない。
それでも。
目だけは。
ワンダー・オブ・Uを追った。
まだ歩いている。
「……待て」
声が掠れる。
ワンダー・オブ・Uは止まらない。
「おい……待てって……」
久世は腕だけで身体を前へ引きずった。
動くたびに、潰れた脚へ激痛が走る。
喉の奥から呻き声が漏れる。
それでも進む。
数センチ。
また数センチ。
床へ血の跡が伸びていく。
二階にいる術師たちは誰一人動かなかった。
助けに入れば。
自分たちも厄災へ巻き込まれるかもしれない。
そして何より。
久世自身がまだ、ワンダー・オブ・Uを追っている。
「待てよ……」
久世の声が震えた。
怒鳴っていた声ではなかった。
「行くなよ……」
その声に。
ワンダー・オブ・Uが足を止めた。
初めて。
久世の方へ振り返る。
久世も動きを止めた。
何年も自分のそばにいた存在。
見慣れたはずの姿。
なのに。
今は。
まったく知らないものを見ているようだった。
「何で……」
喉が震える。
「何で俺に、こんな……」
ワンダー・オブ・Uは答えない。
「俺は……お前の式神だぞ」
返事はない。
「俺が死んだら……お前だって消えるだろ」
無言。
「なあ」
久世の声に、初めてはっきりと恐怖が混じった。
「戻ってこいよ……」
手を伸ばす。
届かない。
今までなら。
呼ばなくても近くにいた。
それなのに今は。
数メートル先にいるだけのワンダー・オブ・Uが、どうしようもなく遠かった。
「俺が……」
息を吸う。
胸が痛む。
「俺がここまで来れたのも……お前がいたからだろ……」
ワンダー・オブ・Uは静かに見ている。
「だったら……」
久世の顔が歪む。
「何で……」
答えはない。
久世の中で、恐怖が怒りへ変わった。
「俺を……裏切ったのか……?」
ワンダー・オブ・Uは、しばらく久世を見下ろしていた。
「裏切る?」
その声には怒りも、嘲笑も、憐れみもなかった。
本当に。
ただ意味が分からないとでも言うような声音だった。
「私は一度も、君に従った覚えはないが」
久世の表情が止まった。
「……は?」
「君は私を式神と呼んだ。高専の者たちも、そう呼んでいた」
「だって……」
「私は一度でも、自分が君の式神だと言ったかね」
久世は何かを言おうとして、口を開いた。
声が出ない。
頭の奥から。
忘れていた記憶が蘇る。
高校生だった頃。
初めてこの存在へ名前を尋ねた。
――ワンダー・オブ・U。
――ワンダー・オブ・U。それが私の名だ。
その後。
自分は聞いた。
アンタ、俺の式神なんだよな。
答えは。
――今は、それで構わない。
「……あ」
久世の顔から血の気が引いた。
違う。
肯定されていない。
一度も。
式神だとは。
自分に従うとも。
自分のものだとも。
一度も。
「じゃあ……」
久世の唇が震える。
「何なんだよ……」
ワンダー・オブ・Uは久世を見る。
「私は最初に名乗ったはずだ」
あの日と。
まったく同じ調子で。
「ワンダー・オブ・U。それが私の名だ」
久世は動けなかった。
痛みのせいではない。
自分の中にあった何かが。
完全に崩れた。
その時。
カラン。
小さな音がした。
久世の肩が震える。
ゆっくりと視線を向けた。
鉄骨から外れたらしい、小さな金属片が床を転がっていた。
ほんの数センチほどの部品。
それだけだった。
だが。
久世には分かった。
「……やめろ」
金属片はゆっくりと傾斜を転がる。
カラ。
カラ。
カラ。
施設内が静まり返っているせいで、その小さな音だけが異様にはっきり聞こえた。
久世の呼吸が速くなる。
「待て」
逃げようとする。
だが左脚は鉄骨の下。
右腕もまともに動かない。
左手を床につく。
傷口が開き、力が抜ける。
身体はほとんど動かなかった。
「おい……」
金属片が近づく。
ゆっくり。
あまりにもゆっくり。
それでも。
確実に。
「誰か……」
久世が周囲を見る。
術師たちと目が合った。
誰も動かない。
動けない。
「おい!」
声が裏返った。
「助けろよ!」
返事はない。
「何見てんだよ! 助けろ!」
二階の術師の一人が僅かに身体を動かした。
その隣の術師が腕を掴む。
止めた。
久世の目が見開かれる。
「ふざけんな……!」
金属片が段差へ近づく。
あと少し。
「俺は……」
久世は必死に身体を引きずる。
動かない。
「俺はこんな……」
段差。
金属片がぶつかった。
カン。
跳ねる。
その瞬間。
久世には。
時間が止まったように思えた。
小さな金属片が。
ゆっくりと。
こちらへ飛んでくる。
「……待ってくれ」
声が震えていた。
怒りはもうなかった。
ただ。
死にたくない。
それだけだった。
久世はワンダー・オブ・Uを見る。
「なあ……」
ワンダー・オブ・Uは動かない。
「待ってくれよ……」
何年も一緒にいた。
だから。
最後くらい。
助けてくれるのではないか。
そんな考えが。
まだ。
どこかに残っていた。
「ワンダー・オブ――」
音が響いた。
久世の言葉が途切れる。
身体が僅かに揺れた。
それから。
動かなくなった。
施設内には、しばらく何の音もなかった。
誰も声を出さない。
誰も近づかない。
先ほどまで高専の捕縛作戦を笑い、自分を止められる者などいないと信じていた男が、瓦礫と血の中で動かなくなっている。
久世新一。
二十三歳。
数年間、高専から幾度追手を差し向けられても捕まらなかった呪詛師。
その最期は。
誰かとの戦いですらなかった。
やがて、一人の術師が掠れた声を出した。
「……死んだのか」
答える者はいない。
別の術師が久世の身体を見た。
そして。
その向こうへ視線を移す。
「……待て」
声が震えた。
「何で……」
ワンダー・オブ・Uはまだそこにいた。
久世は死んだ。
それなのに、高専が久世新一の生得術式に付随する式神として扱ってきた存在は消えない。
形を崩すこともない。
力を失った様子もない。
久世が生きていた時と何一つ変わらない姿で、そこに立っている。
「久世が……死んだのに」
「式神が……」
ワンダー・オブ・Uが術師たちへ顔を向ける。
全員が息を呑んだ。
誰も近づかない。
誰も追わない。
目の前で見たばかりだった。
久世新一ですら。
ワンダー・オブ・Uを追った瞬間から。
厄災に呑まれた。
ワンダー・オブ・Uが歩き出す。
壊れた結界を越える。
止める者はいない。
足音だけが遠ざかっていく。
やがて。
夜の闇へ消えた。
「……あれは」
術師の一人が呟いた。
だが、その先の言葉は出てこなかった。
式神ではない。
そう断定するには、まだ何も分からない。
久世の術式とは無関係だ。
そう言い切ることもできない。
ただ。
それまで信じていた説明では。
もう説明できない。
久世新一は死んだ。
それでも。
ワンダー・オブ・Uは消えなかった。
久世新一の物語は、そこで終わった。
だが。
ワンダー・オブ・Uは夜の街を歩いていく。
人が呪いを生み、呪いが人を喰らい、それを術師たちが祓う世界を。
何者にも従わず。
誰の所有物にもならず。
厄災は。
歩き続ける。
久世新一
一級呪詛師、死亡。