転生弁慶、仁王立ちで庇うたびに女装ショタ上司が曇っていく 作:なほやん
六年、何も起きなかった。
平泉に着いた頃は三晩寝ずに身構えていたのに、今では縁側で昼寝までしている。
寝ている間に頭へ墨で「番犬」と書かれた時は、三日洗わなかった。あいつの字だったから。
変わったことも、ある。人前では、あいつを「殿」としか呼ばなくなった。
きっかけは、たぶんあの上着だ。「主君として」と言われて押しいただいた時、ありがたく頂戴します、と言った自分の声は、知らない男の声だった。継ぎの曲がったその上着を、今も冬になると着ている。
篝火の夜から、館の連中は俺を「忠臣」と呼ぶ。最初は背中がむずがゆかった。でも、褒められるのは悪くなかった。正直、調子に乗った。俺がしゃんとしていれば、殿はよい家来をお持ちだ、と皆が言う。
前世のことは夢で見た話みたいに遠くなった。ギルドの連中の名前はもう一人も思い出せない。覚えているのは、チャット欄に流れた『ナイスカバー!』の文字だけだ。その文字と「さすが武蔵坊殿」の声がいつの間にか同じものに聞こえるようになった。
三年目の正月、広間で「ハゲ、こっち」と呼ばれた時は、郎党の列で腰を浮かせかけた。殿の隣は俺の座るとこじゃねえ、と断ると、隣の男が感心したように頷いた。俺も頭を下げた。
顔を上げると、あいつが俺のために空けていた席に、干し柿が一つ置かれていた。
宴のあいだ、あいつが笑うたびに顔を上げた。俺の知らない話で笑っていた。一度こっちを向きかけたので、先に目を逸らした。干し柿は宴が終わるまでそこにあって、誰も座らなかった。俺も、座らなかった。
皆が広間を出てから、あの席へ行って、干し柿を懐に入れた。
湯殿に誘われて、メスガキ、と言いかけて飲み込んだ時、あいつは続きを待っていた。それきり、誘ってこなくなった。
それでも二人きりなら、まだ「うるせえ」が口から出る。あいつも笑って、俺の肩を枕にする。重いぞ、と言えば、ハゲの頭ほどじゃないよ、と返ってくる。
廊下に人の足音がすると、俺は先に起き上がった。あいつの頭を肩から下ろして、殿、と呼ぶ。何の用だか知らねえが、もう少し遅く来ればよかったのに。
この夏の初めの朝も、縁側で寝転がっていた。隣で、あいつが背中まで伸びた髪に、俺のやった櫛を何度も通していた。小袖は、今年も女物だった。六年かけて、ショートカットの美少女はロングヘアの美少女になっていた。
あいつは櫛を置いて、俺の隣に寝転んだ。肩に頭が乗って、長い髪が俺の腕にまで広がる。いい匂いがした。
「ねえ。僕、もう子供じゃないんだよ?」
知ってる。知ってるから困ってるんだろうが。
子供じゃないなら、この肩の重さは何だ。この匂いは何だ。どう返せば、殿と家来のままでいられる。
結局、「はいはい」で逃げた。いつもの「ざーこ♡」が返ってきて、ほっとした。
奥州で死ぬという話も、前世と一緒に遠くなった。未来が、変わったのかもしれない。俺がいたから、なのか?
その夏の終わり、縁側で昼寝をしていたら、足音で目が覚めた。
「
「伊豆の
吉次はそこで一度唾を飲んだ。
「ですが、石橋山というところで平家方に敗れ、今は、行方が知れぬと」
隣を見ると、
なのに、義経は何も言わなかった。しばらく南を見て、それから縁側に座り直した。
「そう」
それだけだった。吉次が戸惑った顔で俺を見た。六年前のこいつなら、誰より先に走り出していたはずだ。
兄貴。義経について俺が知っている、数少ないことの一つだ。あの夜、言えなかったこと。
——兄貴と、揉める。
いや。六年、何も起きなかったんだ。兄貴とだって、きっと上手くやる。それに、あの夜のこいつの顔を、俺は覚えている。会ったことない、と言いながら、暗がりの向こうをずっと見ていた。
「行けばいいじゃねえか」
義経がこっちを見た。
「会いたかったんだろ、兄貴に」
義経はしばらく俺の顔を見ていた。何か言いかけて、やめた。
「うん」
それから立ち上がって、もう一度南を向いた。
「兄上のところへ行く」
その日のうちに義経は館の広間で
「今はまだ早い。平家の世は、そう簡単には崩れぬ。兵衛佐殿は石橋山で敗れたばかりだ。負ければ、源氏の子は皆、首を刎ねられる」
秀衡殿はそこで一度息をついた。
「九郎殿。ここにおればよい」
六年前、宴の夜に聞いたのと同じ言葉だった。
秀衡殿の後ろに控えた
義経が口を開いた。
「六年、何もしないでいさせていただきました。ありがとうございました。でも、兄上が戦っているのに、俺だけここにはいられません」
義経は両手をついて頭を下げた。
「行きます」
顔を上げてからは一度も目を逸らさなかった。
俺は何も言わなかった。殿が何かするなら、俺が前に立つ。何もしねえなら、隣で昼寝する。市で、そう言った。
六年、昼寝をした。
今度は、前に立つ番だ。
広間が静かになった。秀衡殿は長いこと黙っていた。
「拙者も、お供つかまつる」
ヒゲが進み出ると、その隣に、いつもヒゲの後ろで黙って稽古を見ていた小柄な若者が並んだ。弟の
「兄上が行くなら、拙者も」
「……並ぶと、ますます兄弟に見えねえな」
「よく言われまする」
兄弟の声が揃った。
「殿のお供なら、俺一人で十分だ!」
「
「なんだと!?」
秀衡殿が目を閉じた。それから、ゆっくりと開けて、目を逸らさずにいる義経を見た。
「……止めて聞く顔では、ないな」
そう言って、秀衡殿は少しだけ笑った。
「継信、忠信。九郎殿に従え」
出発の前の晩、荷馬の世話をしに厩へ行くと、先に来ていた泰衡が灯りを一つだけ柱に掛けて、義経の馬の
「
昔と同じ、丁寧な声だった。毎日のように顔を合わせてきたのに、こいつと二人きりで話すのは、たぶん初めてだ。
「父は、九郎どのを留めたい。九郎どのは、行きたい」
泰衡は鬣を撫でる手を止めなかった。
「私は、父の顔も立てたい。九郎どのの望みも叶えたい。行かせたくない、とも思う」
そこで少し笑った。
「私は、何ひとつ選べないのです」
馬三頭を連れてきた時と同じ顔だった。ただ、今度のは笑えなかった。
こいつは完璧な男だと思っていた。六年、嫌なところが一つも見つからなかった。だからどこか信じきれなかった。
なんだ。こいつも、迷うのか。
「選ばなくていいんじゃねえの」
「え?」
「殿は、どうせ自分で選ぶ。お前は、見送ってりゃいい」
泰衡は少し驚いた顔をした。それから、声を立てずに笑った。
* * *
厩からの帰り、義経の部屋の前を通ると灯りがついていて、あいつが旅の支度をしていた。
「ねえ、弁慶」
「なんだよ」
「一緒に寝る?♡」
誘われたのは、あの湯殿の時以来だ。
……一緒に。
寝る。
いや、明日から旅だ。旅の夜は寒い。固まって寝る。それだけだ。……たぶん。
あいつは首を傾げてこっちを見ている。返事を待っている顔だった。
「……誘惑すんな」
あいつはいつものけらけらより少しだけ短く笑い、それから俺の手を取った。手のひらを上に向けて、篝火の痕を親指でなぞる。
「まだ残ってる」
「もう痛くねえよ」
「知ってる」
知ってると言ったくせに、指は離れなかった。
「弁慶は、来なくていいよ」
手のひらを見たまま、あいつが言った。
「戦になったら、今度は相手を殺さなきゃいけない。弁慶にはできないでしょ」
橋の上でも、山道でも、宿でも、俺は一人も殺していない。こいつは全部、隣で見ていた。でも、殺さずに済んだのは、どれも相手が逃げてくれたからだ。戦で来る相手は、逃げない。この六年、薙刀は稽古でしか振っていない。
心配されている。殿に、俺が。
逆だろ。
「だから——」
「守るだけだ。どこへ行ったって、俺が殿の前に立つ」
あいつが口を閉じた。答えになっていない、という顔だった。
なってるだろ。なってる、はずだ。
手のひらに、あいつの額が触れた。ほんの一瞬だった。
胸のあたりが妙に落ち着かない。
……もう、相撲のせいにはできない。
それでも、こいつは殿だ。
あいつが顔を上げた。
「ざーこ♡」
「うるせえ」
部屋を出てから、自分の手のひらを見た。火傷の痕の上に、あいつの額の熱がまだ少し残っていた。
* * *
出発の朝はよく晴れていて、門の外には人が集まっていた。六年前、泰衡に「腰はもういいのか」と聞かれていた与作が、腰をさすりながら手を振っている。
「九郎様、お達者で」
「武蔵坊様の分も、握り飯を多めに入れときましたで!」
秀衡殿は門まで来なかった。来れば止めてしまうから、と吉次が言った。館の高いところに人影が一つ見えたが、こっちを見ているのかどうかは遠くて分からなかった。代わりに泰衡が立っていた。
泰衡は義経の前に進み出て、六年前、
「九郎」
どの、が付いていなかった。
「疲れたら、いつでも帰ってこい」
義経は何も言わずに泰衡を見つめたまま、懐に手を入れた。何かに触れて、そのまま止まった。
「うん。次郎も、元気で」
義経の方も、どの、を付けなかった。
ああ。こいつは、いいやつだ。
「泰衡」
初めて名前で呼んだ。奥州で死ぬ、という話が一瞬だけ頭をよぎった。もう関係ねえ。
「殿が疲れて帰ってきたら、その時は頼むぜ」
「もちろんです」
泰衡は少しだけ困ったように笑った。
義経が馬に乗り、ヒゲと忠信がその後ろについた。俺も荷馬に
義経が馬上から俺たちを見比べた。
「ハゲと、ヒゲと、チビだね」
「……ちび、でござるか」
忠信が真顔で自分の頭の上に手をやった。兄とまったく同じ顔だった。
義経が一度だけ振り返った。平泉の屋根の向こうに、朝日を跳ね返す川が見えた。
俺は荷馬の腹を軽く蹴った。
「こういう時は、こう言うんだろ? ——いざ、鎌倉!」
「……いや、兄上がいるの、鎌倉じゃないけど」
義経が呆れた顔でこっちを見た。
「よう分からぬが、威勢がよいでござるな!」
「お、分かるかヒゲ。さすがだな」
ヒゲが拳を突き上げると、忠信もつられて上げた。義経は呆れた顔のまま、それでも、小さく拳を上げた。
「いざ、鎌倉!」
四人の声が、平泉の朝に揃った。
第二部 完
四人で出発!? と思われるかもしれませんが、『吾妻鏡』では兄・頼朝のもとに着いた義経は「弱冠一人」。まさかの「総勢一名参陣!!」です。ちなみに佐藤兄弟は、秀衡があとから追いかけさせたそうです……
第二部、お付き合いいただきありがとうございました! いよいよ源平の戦いが始まります。
第三部もよろしくお願いします!
お気に入り、高評価をしていただけるととっても嬉しいです!