転生弁慶、仁王立ちで庇うたびに女装ショタ上司が曇っていく 作:なほやん
組み伏せる。顎を押し上げる。掻く。
京へ上る道中、馬の背でその三つを何度も繰り返した。藁で覚えた手だ。人でも、できる。
殺すのは僕がやるだと? 冗談じゃねえ。今度は俺がやる。やってやる。
「武蔵坊殿。先ほどから何をぶつぶつと」
「稽古だよ。頭の中の」
「頭の中の敵は、首を差し出してくれますゆえ」
* * *
明けて正月、
岸で馬を降りていると、義経が竹の皮の包みを放ってよこした。開くと握り飯が二つ入っていた。塩を振っただけで、具も何も入っていない。
「腹が減ってたら、踏ん張れないでしょ」
二つとも立ったまま平らげた。
「これ、渡んのか」
「渡るよ」
義経は馬の上から川を見ていた。上流を見て、下流を見て、また上流を見る。対岸の旗ではなく、水の筋を見ている。
「上から斜めに入って、流れに乗って対岸へ寄せる。綱は、杭の間が広いところで切って」
伝令が走っていく。聞いた郎党から順に顔つきが変わった。
それから、義経は俺を見た。
「弁慶は、川の真ん中で止まって。みんなが渡り切るまで、そこにいて」
「おう」
義経にもらった十貫の鎧が肩にずしりと来た。
「お先に
ヒゲの馬が俺の横をすり抜けて水へ入っていく。俺も荷馬の腹を蹴った。
冷たいを通り越して、痛い。流れが腹まで来て荷馬の体ごと横へ持っていかれそうになる。荷馬は首を低くして一歩ずつ川底を踏んだ。
すぐ横を渡っていた郎党の馬が川底の杭に脚を取られた。馬が横倒しになり、人も馬も白い水に呑まれて、それきりどこにも浮かんでこなかった。
昨日の晩、鍋の向かいで笑っていた弥五郎だった。
対岸の土手の上に弓が並び、矢が降ってきた。流れに足を取られた兵はよけることもできない。すぐ前で、胸に矢を受けた男が声も出さずに水へ落ちた。
手を伸ばした。指の先を鎧の紐が流れていった。
このままじゃ、みんなこうなる。
ネトゲの画面みたいに、川を真上から見下ろしている気がした。
敵の射線。味方の位置。カバー。視界。
——ここだ。
分かってるぜ、義経!
手綱を引いて荷馬を止めた。流れの真ん中、土手の射手と後ろから渡ってくる味方のちょうど間だ。荷馬は腹まで水に浸かり、首を低くして動かなくなった。その首に覆いかぶさるように、体を大きく広げる。流れが荷馬ごと俺を押す。十貫の重さが俺を鞍に押しつけて離さない。
肩に、腕に、矢が当たる。胴に来たものは鎧が弾いて、かん、かん、と乾いた音がする。額の上で、がん、と鳴った。首ごと後ろへ持っていかれかけて踏みとどまる。兜の鉢に当たった矢が水に落ちていった。
左の二の腕に一本、深く入った。痛え。超痛え。山道で初めて食らった時と、何も変わらない。
それでも、荷馬の首を押さえる手は緩めなかった。
あいつのくれた重さが、俺を包んでいる。
「俺の後ろに付け!」
後ろから渡ってきた郎党が、荷馬の陰に身を寄せた。
土手の弦が、そろって鳴った。矢が来る。俺に当たる。止む。射手が次の矢を番える間、川には流れの音しかない。また鳴る。
大技の後には、隙がある。弦が鳴った。矢が鎧を叩いた。止んだ。
「今だ! 行け!」
俺の陰から郎党が飛び出し、流れを突っ切って向こう岸へ上がっていく。次の弦が鳴る前に、後ろの連中がまた俺の陰へ入ってくる。俺の陰から出た者は、それきり一人も水に落ちなかった。
向こう岸の土手の下に、味方が固まっていく。ヒゲが刀を抜き、チビはその後ろから矢を射返した。
何度目かの陰に入ってきたのは、義経の黒い馬だった。
義経が俺を見上げた。何か言いかけたところで弦が鳴り、矢が俺の肩で跳ねた。止んだ。
俺が口を開く前に、黒い馬は俺の陰から飛び出していた。向こう岸へ駆け上がった義経が、太刀を抜いた。
「押せ!」
義経が先頭で駆けた。敵が槍を突き出す前に、もうその脇にいる。太刀が一度光るたびに敵の列に穴が一つ開いた。穴が広がって敵の列が崩れると、あとは坂を転がる石みたいだった。
俺はまだ川の真ん中にいた。後ろからは、まだ渡ってくる。
しんがりの最後の一人が、俺の陰を抜けていった。それを見届けてから荷馬の首を対岸へ向けた。
矢を生やしたまま岸へ上がった時には、もう勝っていた。
最初に来たのは匂いだった。血と泥と、腹の中身の匂いが川風に混ざっている。川原が人で埋まっていた。立っている者は少ない。倒れて動かない者と、倒れてまだ動いている者の方がずっと多い。あちこちで
喉の奥に酸っぱいものがせり上がってきた。山道で人が死ぬのを見た時も、こうなった。あの時はこの世界に来てまだ何日目かで、死んだ男がどこの誰かなんて考えもしなかった。十年近く、ここで飯を食ってきた。母親を呼んでいるあの声の先にも、どこかのおたけがいる。
飲み込んだ。吐かねえ。今日は、やるって決めて来たんだ。
ヒゲが倒れた敵の間を歩いていた。まだ息のある者の前で膝をつき、短く念仏を唱えてから刀を動かす。次の者へ行く。顔色ひとつ変えない。
「武蔵坊殿も、御慈悲を」
短い念仏がまた聞こえた。
川原の端に木曽方の若い兵が倒れていた。元服したばかりくらいの年だ。腹が割けていて、押さえた手の間から、見ちゃいけないものが見えていた。
目が合った。
「頼む」
かすれた声だった。
「とどめを」
腰の刀を抜いた。組み伏せる必要はない。顎を押し上げるだけでいい。藁なら、何十回もやった。
刀の先が若い兵の喉の上で止まった。そこから先へ、一寸も進まない。
藁の目は、頼んでこなかった。
「頼む」
若い兵がもう一度言った。それから、自分で顎を上げた。
——頭の中の敵は、首を差し出してくれますゆえ。
差し出されている。顎も押し上げなくていい。あとは、掻くだけだ。
刀の先が震えた。
横から義経が俺の前に出た。膝をつき、若い兵の目を見て小さく頷く。それから、刀を一度だけ動かした。
若い兵の手から力が抜けた。義経は立ち上がり、刀を拭って鞘に納めた。一度もこっちを振り返らなかった。
喉までせり上がったものを、もう一度飲み込んだ。あいつにもらった握り飯だった。
* * *
その夜、京の宿所で木曽の大将が近江で討たれたと聞いた。勝ち戦の酒が回って、表の方が騒がしい。広間を覗くと酒の輪は鎌倉を出た時より小さく、鍋を囲む顔がいくつか足りなかった。
俺は部屋に戻って、抜いたままの刀を膝に置いていた。刃には何もついていない。矢はまだ七本とも刺さったままだった。手当てする連中は、歩けもしない負傷者につきっきりだ。俺は後回しでいい。
戸が開いた。義経は敷居の前で止まらなかった。またいで、俺の前に座った。白い袖に乾いた血が残っていて、湯の入った桶と布を提げていた。
「抜いてないね」
「勝手に抜くなって、言われたからな」
義経は俺の肩に手を当てて、一本目の矢を握った。抜けた。息が詰まった。超痛え。義経はすぐに布で傷を押さえた。
「やってやるって、決めてたんだけどな」
義経は答えずに、二本目を握った。
「決めてたんだよ。稽古もした。お前にだけ、やらせねえって」
「知ってる」
二本目が抜けた。義経は俺の膝の刀を見ていた。
「三十七人」
「……何がだよ」
「今日、弁慶が守ってくれた人の数」
顔を上げた。
「僕が数えてた間だけで、それだけ。みんな、今夜ちゃんと生きてる」
表の騒ぎが急に耳に入ってきた。笑い声の中に、ヒゲにからかわれているチビの声が混じっていた。
あいつも今日、俺の後ろを渡った。
もっと早く川の真ん中に立っていれば。もっと前に出ていれば。俺が止まる前に矢を受けて沈んだあいつらも、今夜あの輪にいたんじゃないのか。
「次は、もっと前に出る。そしたら、もっと守れるだろ」
七本目の矢は、二の腕の深いやつだった。それを握った義経の手が、一度止まった。握り直して、抜いた。
「そうじゃない——」
そこで、口が閉じた。続きは出てこなかった。
布で押さえた上から、あいつの額が俺の腕に触れた。熱かった。布が少し湿った。泣いていた。離れないまま、声がした。
「弁慶が川の真ん中にいたから、僕は向こう岸で斬れた」
俺は、最後の一人が渡るまで川にいる。岸に上がる頃には、もう勝っている。
——僕が、考える。
「お前、最初から」
喉が詰まった。
俺は頭を下げた。膝の刀に額がつくほど、深く。
義経は少しだけ声を落とした。
「僕の作戦の中で、盾でいて」
「ああ」
俺が止めて、こいつが斬る。鎌倉の稽古場で笑われたやり方は、今日、川の真ん中で回っていた。
傷を押さえた義経の手は、それきり離れなかった。
* * *
半月ほどして、矢の傷はほとんどふさがっていた。縁側で腕を回していると、義経が後ろから覗き込んだ。
「もう硬くなってる」
義経は、傷の跡を指先でさすった。
「回復早すぎ♡」
「言い方!」
義経はけらけら笑った。
こんな声で笑うのは、久々に聞いた気がした。
その昼、鎌倉から兄貴の文が届いた。広間で文を開いた義経の顔がぱっと明るくなった。
「よくやった、って」
郎党たちが沸いた。ヒゲは目を潤ませて、兄君が殿を、と言ったきり後が続かない。そのまま皆、酒を取りに散っていった。
広間に残った義経は、まだ続きを読んでいた。明るかった顔がそのままの形で止まった。
「どうした」
「京では、勝手に動くな、ってさ」
義経は同じところをもう一度読んだ。肩が少しだけ落ちた。何て声をかければいいのか分からなくて、俺はふさがりかけた二の腕の傷を指で掻いた。
義経は文を繰った。
「それと、次は平家。一ノ谷だって」
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