転生弁慶、仁王立ちで庇うたびに女装ショタ上司が曇っていく 作:なほやん
一ノ谷の翌朝、陣屋を出ると戸口に義経が立っていた。
「髪、ハゲがぐしゃぐしゃにしたんだからね」
あの櫛を、胸に押しつけられた。
「ハゲが梳かして」
義経は返事も待たずに、くるりと俺に背を向けて座った。背中まで伸びた髪に櫛を入れると、すぐに引っかかる。腕を上げるたびに、胸に巻いた布の下であばらが軋んだ。
「下手くそ♡」
鎧武者なら放り投げられるのに、髪の絡まり一つほどけない。毛先から少しずつほどいていき、やっと最後まで櫛が通ると、義経は振り返った。
「明日も、やって」
それが、日課になった。
一ノ谷から京へ戻ると、今度は京の仕事が待っていた。義経は兄貴から町の警固を任され、朝から晩まで人の訴えを聞いていた。荷を奪われた商人、畑を馬に踏まれた百姓。戦に勝った大将のところへ来るのは、祝いを言うやつばかりじゃなかった。
夏の終わりには俺のあばらはすっかり治り、櫛ももう、ほとんど引っかからなくなっていた。
「ねえハゲ、午後、市に行こう」
「訴えは」
「町の人の顔を見るのも、仕事だよ」
ヒゲとチビも連れて四人で出た。大通りの人混みで、荷を担いだ男が義経の頭へぶつかりそうになる。俺とヒゲが同時に身を屈めて割り込み、頭をぶつけ合った。
「俺の方が先に庇った!」
「拙者の方が先でござる!」
義経が腹をよじって笑っていた。
市では、ヒゲが反物を並べた店の前から動かなくなった。藍と茶、二反を広げては畳み、また広げている。
「武蔵坊殿。どちらが母上に似合い申そうか」
「ヒゲの母ちゃん、見たことねえし」
「母上は、拙者にそっくりでござる」
「兄上より拙者の方が似ておりまする」
チビが干し柿をくわえたまま割り込んだ。
「どっちに似てるんだよ!」
「では、武蔵坊殿の目で」
「ヒゲにそっくりなら、こっちだろ」
俺は茶色を適当に指さした。
同じ店の奥には、小袖も並んでいた。手柄の褒美が懐にあるから、今度は吉次に借りなくていい。義経にもらった鎧の礼を、まだ何も返していなかった。
薄い青の小袖があった。棚から引き出してもらうと、外の光で、川の浅瀬みたいな色になる。隣で干し柿をかじっている義経に当ててみた。
「なに?」
「動くな。分かんなくなる」
兄貴の白みたいな艶はないし、上等かどうかも知らない。ただ、似合っていた。
「親父、これくれ」
「へい。思い人への贈り物でございますか」
隣で、干し柿をかじる音が止まった。
思い人。そんな大層なもんじゃねえ。たぶん。
包みを受け取って、義経に突き出した。
「鎧の礼だ。あれには全然、足りねえけど」
「ふうん」
義経は小袖を広げて、日に透かした。それから自分で畳んで、胸に抱えた。
「荷物、持ってやるよ」
「やだ」
出した手の行き場がなくなって、頭を掻いた。
市を歩くあいだ、義経は何度か懐に手をやっていた。
帰りは五条橋を渡った。ヒゲとチビは先を歩いていく。橋の真ん中で、義経の足が止まった。
俺が薙刀の峰でへし折った欄干は、新しい木に替わっていた。義経がそこに手を掛けた。袂にはもう刀の山はなく、人と荷車が途切れず通っていく。あの夜、こいつはこの欄干の上に立って、俺を見下ろしていた。今は青い小袖の包みを胸に抱えて、橋の下の川を見ている。
「ねえ。役目って、何だろうね」
「なんだよ、急に」
義経は包みを片手に持ち替えて、懐から文を出した。
「
「いん? けびいし?」
「院は、法皇様。検非違使は、京の町を守る役。なったら、判官って呼ばれるんだって」
「今やってるやつじゃねえか」
「今は、兄上に京を任されてるだけ。畑を踏まれた人にも、鎌倉の返事が来るまで待てって言うしかない」
「兄貴は、なんて」
「まだ言ってない。僕の名で、引き受けたいんだ」
兄貴に黙って、法皇から役をもらう。
「それ、兄貴と揉めねえか」
「揉めると思う。勝手に動くなって、言われてるし」
義経の目は、川から、橋を行き交う人へ移っていた。籠を背負った男。子供の手を引いた女。あの中の誰かが、明日また訴えに来る。
「弁慶は自分で決めて五十の前に立った。僕だけ、みんなに待てって言い続けるのは、やだ」
兄貴の顔色より、橋を渡るやつらの顔を見てる。いつの間にか、ちゃんと大将になってやがる。
「役目は決まってる。俺が殴られて、お前が殴る。十年前から、そうだろ」
「だから、その言い方!」
義経がけらけら笑った。
文を懐にしまって、欄干に手を戻した。しばらく俺の顔を見ていた。
川風が吹いて、今朝俺が梳いた髪がひと筋、義経の頬にかかった。指でよけてやると、義経はよけられるままにしていた。
「十年だね」
義経は、泣きそうな顔で笑った。俺の口の端も、勝手に上がっていた。
笑ったまま、義経は懐からもう一通の文を出した。
「今日、鎌倉からも来たんだ。兄上が、僕のお嫁さんを決めたって」
こいつが、嫁をもらう。考えたこともなかった。勝手に、この先もずっと俺が髪を梳くもんだと思っていた。
「嫁、どんなやつなんだ」
「知らない。会ったこともないし。興味ない」
その一言にほっとした自分が、嫌だった。
「僕が誰かと結婚しちゃっても、いいの?」
答えられなかった。義経は川の方へ顔を向けて、待っていた。橋の下で、水の音だけがしている。
義経の片手は、鎌倉の文を握っている。欄干に置かれたもう片方の手へ、指を伸ばした。
嫁を兄貴が決めた。判官だけでも揉めるのに、俺まで揉め事の種になってどうする。
指は、あと一寸のところで止まった。引っ込めて、頭を掻いた。
「帰るぞ、殿」
「明日も、髪梳かしてね」
「……おう」
それなら、家来のままでもできる。
* * *
判官の宣旨を受けに行く朝、門の前で義経が振り返った。袖を継いだ兄貴の白ではなく、市で俺が選んだ青を着ている。両手を広げて、袖を垂らしてみせた。
「どう?」
「似合ってる」
両手がゆっくり下りて、袖が口元を隠した。
「ふうん。すぐ戻るから、これ持ってて」
懐から出した櫛を、俺の手に押しつける。そのまま、門を出ていった。
ついていきたかったが、院の御所に、薙刀を担いだ坊主は上げられないらしい。
櫛を手の中で転がす。嫁が来たら、こいつの出番もなくなるのかもしれない。
転がしては眺め、眺めては転がしているうちに、日が西へ傾いていた。
門の方で、砂利が鳴った。もう戻ったのかと顔を上げると、見慣れない若いのが一人で庭へ入ってくるところだった。
「
与一は義経よりも背が低く、十六、七に見えた。桜色の小袖に、白い頬のえくぼ。細い指の付け根に硬い弓だこがなければ、どこの姫が迷い込んだのかと思っただろう。
長年、殿を見てきたから分かる。こいつも、男だ。
「
庭の隅で弓の手入れをしていたチビが、すっと進み出た。
「弓の名手と聞き及びまする。腕前を見せていただきとうござりまする」
言うなり、松の枝に扇を挿して射た。矢は要を割り、扇は枝から落ちる。郎党たちがどよめいた。
「やるね」
与一も新しい扇を挿して、弓を引いてすぐ放した。
扇は落ちなかった。矢が要の真ん中を貫いて、枝へ縫い留めている。今度は、誰もどよめかなかった。
「……そなたも、やりまするな」
チビは干し柿を一つ出して乱暴にかじった。
与一はまっすぐこっちへ歩いてきて、俺の前で止まった。
「見てた? 今の」
「なかなかだな」
「でしょー。あなたが弁慶さん? 腕、太いね♡」
両手で俺の腕を取って、しなだれかかってくる。
「一人で百人追い返したって、京じゃもっぱらの噂だよ?」
「五十だ。それに、俺一人じゃねえ」
「ねえ、盾が得意なんでしょ? 私の前に立ってよ。受けるたびに、いっぱい褒めてあげるから♡」
守るたびに、褒めてもらえる。前世からずっと、俺が欲しかったものだ。
義経は守っても嬉しそうな顔はしない。
宇治川では泣かれて、一ノ谷では叱られた。
褒めてくれたのは、俺が生きて戻ったことだけだ。
なのに、俺はあいつを守りたい。
そうだ。もうわかっている。
俺が今あいつを守りたいのは、褒められたいからじゃない。
毎朝あいつの髪を梳いてきた櫛を、与一に取られていない方の手で握った。
「くっつくな」
腕を引き抜くと、与一は目をぱちぱちさせて俺の顔を見上げた。それから、にっこり笑った。
「九郎様が戻ったらお願いしてみようかな、弁慶殿を私にくださいって」
「行かねえよ」
与一が目を丸くした。郎党たちも、こっちを見た。
「俺は殿の盾だ。褒めてもらえなくたって、殿が誰を嫁にもらったって、ほかの誰のもんにもならねえ。だいたい——」
止まらなかった。
「殿の方が、お前よりかわいい!」
ヒゲが手を打った。
「よくぞ申された!」
「よくぞ申された」
チビまで、干し柿をかじりながら真顔で頷いた。
「ちぇー。ケチ」
与一は唇を尖らせて、郎党たちの方へ戻っていった。
門の方で、砂利を踏む音がした。
振り返ると、門の下に青い小袖が立っていた。
「殿!? 聞いてたのかよ!?」
義経は答えなかった。袖で口元を隠したまま、耳まで赤くなっていく。
それから、ぱっと駆け出した。俺の横をすり抜けて、縁側の奥へ。
「おい、殿!」
櫛を握ったまま、追いかけた。郎党たちの笑い声が、背中の方で大きくなった。
廊下の角を曲がると、義経が背を向けて立っていた。
「……殿、どこから聞いてた」
「盾のとこから」
全部、聞かれてた。
髪を揺らしながら義経がくるりと振り向いた。
「僕の方が、かわいいんだ♡」
その顔は赤いまま、にんまり笑っていた。
次回、このにんまり笑顔を曇らせます。
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