転生弁慶、仁王立ちで庇うたびに女装ショタ上司が曇っていく 作:なほやん
毎朝、義経の髪を梳いた。梳くたびに、狭間で人の骨を砕いた手応えを思い出すことが減っていった。代わりに思い出すのは、えらかったよ、の方だ。
「ねーねー、弁慶。僕の方が、かわいいんでしょ?」
あの日から、毎朝これだ。背中越しに顔だけこっちへ向けてくる。
「前向け。梳けねえ」
振り向いたままなので、肩を掴んで前を向かせた。
「無理やりしないで♡」
「はいはい」
庭の方から、視線を感じた。
厩の前で、
縁側の端では与一が弓の弦を張り替えながら、こっちを横目で見ていた。
張りすぎた弦が、ぶつりと切れた。
義経がくすりと笑って、厩の方へ声を張った。
「ヒゲ。平家に勝ったら、黒、一日貸してあげる」
「まことでござるか!」
ヒゲは真っ赤な顔で頭を下げてから、懐を押さえた。
「では、その一日で、平泉の母上に反物を届けとうござる」
「一日じゃ着かないでしょ」
義経が笑って、俺もつられて笑った。
「お前は、勝ったら何すんだ」
義経は櫛の通った髪を指で梳きながら、少し考えた。
「兄上に会いに行く。よくやったって、今度は文じゃなくて、顔を見て言ってもらう」
「それから?」
その目が俺の膝の上の櫛へ落ちた。
「……それからは、内緒」
あの橋で嫁の文を見せられた日から、鎌倉からの連絡は途絶えた。義経が月ごとに書く文に、返事のないまま年が明けた。兄貴が決めた嫁も京へ上ってこず、平家へは別の大将が向かったと聞いている。
その二月の朝、門の方で馬が止まった。使いの差し出す文に、鎌倉の封がある。やっと来た返事だった。
義経が文を開いて、一度だけ読んでから丁寧に巻き直した。
「行こう。平家を討つよ」
京の鍛冶が打ち直した鎧を着込むと、肩に十貫の重さが戻ってきた。
* * *
平家は四国の
「風が強いなら、早く着く」
義経は五艘だけで岸を離れた。
沖へ出ると、闇の中で舟が持ち上がって、落ちた。腹の底が置いていかれる。舷を越えた波が頭から降ってきた。冷たいより先に、塩が目に沁みる。鎧の中まで水が入って、十貫が十五貫になった。
風が帆柱を鳴らしていた。船頭の怒鳴り声も、すぐ横で千切れて聞こえない。
舟の真ん中で、ヒゲが黒い馬の首を抱えていた。馬が嘶いて暴れるたびに首を抱え直して、何か話しかけている。
義経は舳先に立ったまま、一度も振り返らなかった。濡れた髪が頬に貼りついて、目だけが暗い海の先を見ていた。
夜明け前に舟底が砂を擦った。四国の浜だった。義経は砂に枝で線を引いた。
「屋島の陣は、海を向いてる。平家は、僕らが舟で来ると思ってる」
枝が陣の裏の山をなぞった。
「だから、山から行く」
「また山か」
「煙を立てれば、大軍に見える」
義経がこっちを見て、にっと笑った。
「弁慶の真似」
夜通し山を越え、翌朝、屋島の陣を見下ろす尾根に出た。後ろから煙が何本も上がっている。陣の中で平家の兵が煙を指さして騒ぎ始めた。
俺の真似で、平家が浮き足立っている。
「行くよ」
山から馬ごと陣へ突っ込んだ。太刀を合わせる前に陣は空き、平家は我先に舟へ逃げていった。その船縁に弓が並び始めた。一艘の舳先に、左の眉から頬へ刀傷の走った大男が立っている。一ノ谷の
「義経ぇ! 一ノ谷の続きをやろうぜ! それとも、臆したか!」
義経の手が手綱を握り直した。一ノ谷では、この声を追いかけた。
「追わない。陣はもう取った。あとは下がれば、僕らの勝ちだよ」
海から矢が飛んできた。
「下がるよ。陣屋の陰まで」
俺は荷馬を回して、義経と海の間に入った。ヒゲが左隣へ来た。
矢を兜で弾く。肩で受ける。
荷馬の首を低く抑え、体を大きく広げた。弦が鳴る。矢が鎧を叩いて、砂へ落ちる。止んだ間に、半歩下がる。また鳴る。後ろで義経の馬の蹄が少しずつ遠ざかっていく。
十貫の鎧は、一本も通さなかった。
やっぱりな。奥州の外なら、俺は死なねえ。
振り返ると、義経の馬は俺の陰を抜けて、陣屋まであと少しだった。俺と陣屋の間に、海から丸見えの砂が一筋あった。
あと一歩だ。
舳先で教経が大弓を引き絞った。鏃の先は、俺じゃない。義経の背中だ。
「殿!」
荷馬の腹を蹴った。こいつは首を一度振ってからでないと走らない。
左からヒゲの馬が義経と舟の間へ飛び込む。
ヒゲの方が、半歩前だった。
隣で、ヒゲの肩が跳ねた。
は?
音はしなかった。鎧の継ぎ目に太い矢が一本、胸の方へ深く埋まっている。羽根がまだ震えている。
ヒゲがこっちを見る。何か言おうとして、言葉の代わりに血がこぼれた。
手を出す。届かない。ヒゲは俺と反対側へ傾き、手綱を握ったままゆっくり砂へ落ちていった。
頭が、動かなかった。
体だけが動いた。馬から飛び降りてヒゲを鎧ごと肩に担ぎ上げる。海へ背中を向けて陣屋の方へ歩く。走れば揺れて、傷が開く。十貫の鎧が後ろから来る矢を弾いた。
後ろで水を蹴る音がした。
「佐藤継信! その首、貰い受ける!」
振り向くと、まだ前髪の残る小柄な武者が、刀を抜いて浅瀬を駆けてくる。目は俺の肩のヒゲを見据えている。
すぐ横でチビの弦が鳴った。武者は三歩も来ないうちに倒れた。幼い顔が水に伏せたまま動かなくなった。
何も思わなかった。肩の上のヒゲの重さしか、分からなかった。
チビの次の矢はもう舟の上の教経を向いていた。
教経が舟から浅瀬へ飛び下り、倒れた童を抱き上げた。チビは弦を引き絞ったまま、放たなかった。教経はそのチビを長いこと見ていた。
「引け」と教経が舟へ言った。
舟が沖へ退いていき、矢はもう来なかった。
ヒゲを陣屋の陰へ下ろした。
* * *
陣屋の床へ敷いた筵に、ヒゲを寝かせた。義経が頭を膝に抱え、チビは兄の手を握っている。俺が傷へ押し当てた布はすぐに赤くなった。
「もっと布を」
言うと、誰かが差し出した。重ねても血は止まらなかった。
ヒゲの口が動いたので、義経が顔を近づけた。
「継信。聞こえるよ」
ヒゲは義経を見て、苦しそうな顔のままほんの少し笑った。
「……武士の、誉れ」
そこで咳をした。チビが兄の口元を拭った。
ヒゲの頭を抱えた義経の袴が、膝から赤く濡れていく。
「しっかりして。血は、すぐ止まるから」
義経の声は最後の方がかすれていた。
前に立って、矢を受けて、誉れだと言って死ぬ。
これ、俺じゃん。
ヒゲの目が俺へ動いた。
「半歩、先で……ござった」
いつもの返事が、出なかった。
ヒゲは、次の息をしなかった。
そんなもん勝ちじゃねえ、と言えばよかった。俺の方が先だと、嘘でも言えばよかった。
「兄上」
チビが呼んだ。握った手を両手で包み直して、もう一度呼んだ。俺はまだ布を押さえていた。義経の涙がヒゲの顔に落ちても、手を離せなかった。
しばらくして、義経が顔を上げた。
「弁慶。お坊さん、でしょ」
鎧の下から出た僧衣の袖を見た。俺は坊主じゃない。お経なんか一つも知らない。それでも義経は俺の返事を待っていて、チビも顔を上げていた。
前世で一度だけ、じいちゃんの葬式に出たことがある。覚えているのは坊さんの背中を見ながら、今夜のレイドに間に合うかどうかばかり考えていたことだ。
あの時の声を必死に思い出した。
「南無阿弥陀仏」
その次が出てこない。宇治川の川原でヒゲが介錯の前に唱えていたのも、この一句だけだった。
「南無阿弥陀仏」
知っているところだけ、もう一度言った。チビが頭を下げ、義経も手を合わせた。そこでやめるわけにはいかなくなって、俺は何度も繰り返した。
陣屋の戸が勢いよく開いて、外の歓声がどっと流れ込んできた。
「ねえ、弁慶さん! 見てた? 扇、一矢で——」
そう言いかけた与一が、頬を赤くして弓を掲げたまま戸口で止まった。
横たわったヒゲを見た。手を握ったままのチビを見た。泣いている義経を見た。
掲げた弓がゆっくり下りた。
与一は何も言わなかった。戸を後ろ手に閉めると、浜の歓声が遠くなった。
土間の隅に膝をついて弓を床に置き、手を合わせた。
俺は念仏を止めなかった。知っている一句をまた繰り返した。
隅から小さな声がひとつ重なった。
念仏が終わると、チビが兄の荷をまとめた。ヒゲの胸元から出した包みを開くと、茶色の反物が見えた。京の市で俺が適当に指さした方だった。端に矢の通った穴が一つ開いて、そこだけ黒く染まっていた。チビは砂を払い、畳み直して自分の懐へしまった。
日が落ちる前に近くの寺から僧が来た。義経は弔いと墓を頼み、それから陣屋の外につないでいた黒い馬を連れてきた。
「この馬も、ここへ置いてください。継信に、貸すって約束したから」
僧が手綱を受け取ると、馬は義経の袖へ鼻を寄せた。義経は一度だけその首を撫でて、手を離した。チビは兄と一緒に寺へ行き、与一も黙ってその後ろについていった。陣屋には俺と義経だけが残った。外ではまだ、与一を讃える声がしていた。
俺が梳いてやった髪の先が、血で固まっている。
義経は泣いていた。声も立てず、顔も拭わずに。
「継信は、勝ったよ」
そこで声が割れた。義経は唇を噛んで、それでも最後まで言った。
「弁慶より、先に、庇えた」
返事をしようとすると、止まらない血を押さえていた手の感触が戻ってきた。
「弁慶は」
目はこっちを見ないままだった。
「弁慶は、勝たないで」
「……おう」
義経がやっとこっちを見た。
「うそつき」
俺が死んだら、こいつはこうやって泣くのか。
その肩へ手を伸ばしかけて、下ろした。
与一の予想以上の人気に驚いております。
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