転生弁慶、仁王立ちで庇うたびに女装ショタ上司が曇っていく 作:なほやん
屋島から、義経とはあまり口をきかなくなった。櫛だけは毎朝寄越される。黙って髪を梳いて、黙って返す。うそつき、と言われた時の顔が、櫛を通すたびに浮かんだ。
平家は屋島を捨てて西へ逃れ、長門の
決戦の前の晩、舟の上で眠れずにいると、義経が隣に来て座った。
ヒゲは前に立って、少し笑って死んだ。
その誉れの横で、こいつは泣いていた。
「前に出ないでって言っても、どうせ出るんでしょ」
返事をしないでいると、義経は膝を抱えて、暗い海の方を向いた。
「でも、死なないで」
義経は俺の袖の端を掴んで、そのまま放さなかった。
* * *
夜明けに、義経が舟の上の郎党たちへ言った。
「朝のうちは、潮が平家の味方をする。舟を寄せ合って、潮が変わるまで耐えて。変わったら、一気に押すよ」
後ろでは、鎌倉から付いてきた目付が、帳面を広げて聞いていた。
向こう岸が見えるほど狭い海峡なのに、水は川より速く流れていた。平家の舟はその流れに乗って矢を浴びせ、こっちの舟の脇を抜けていく。
舟の真ん中に、チビと与一が並んで膝をついた。二人の間に、俺も膝をついた。ヒゲがいつもいた場所だ。
箙から矢を抜いて、チビの手へ渡す。次は与一の手へ。二人が身を起こして射るたびに、その前へ腕を出して、飛んでくる矢を籠手で払った。払い損ねた一本が、肩の鎧で跳ねた。
全員守る。俺も死なない。
屋島では一本も通さないと得意になった。今日は、得意にならない。
与一は矢を受け取るたびに、一度だけこっちを見た。何も言わずに、次を番えた。
昼が近づくと、流れてきた折れ矢が船縁の横で止まり、やがて逆へ滑り始めた。
「潮が変わるよ!」
義経が舳先に立った。
「舵取りを射って。それから、漕ぎ手も」
「漕ぎ手まで……?」
後ろで、梶原の筆が止まった。
郎党たちの手も止まった。漕ぎ手は、鎧も着ていない。
義経は、海から目を離さなかった。
「長引けば、こっちの漕ぎ手がもっと死ぬ。今日で終わらせる。射って」
二度目は、誰の手も止まらなかった。
矢が平家の舟の艫へ降った。舵を失った舟が流れに回されて横腹を見せ、そこへ味方の舳先がぶつかっていく。義経が指す方へ、次々に道が開いた。
足を止めてから叩く。ネトゲなら、俺だってこうしただろう。それでも、櫓を握ったまま倒れていく男たちからは、目を逸らさなかった。
後ろで、梶原が帳面に筆を走らせた。
義経は振り返らなかった。
向こうの大きな舟で、年寄りの女が子供を抱き上げている。その頬へ顔を寄せた次の瞬間、二人とも舟から消えた。赤い袖が水に広がり、波に引かれて沈んでいった。
「見つけたぞ! 義経ぇ!」
声に振り向くと、横付けにした舟から教経が乗り込んできていた。
チビと与一の矢が飛んだ。教経は一本を太刀で払い、肩に刺さったもう一本には目もくれずに、こっちへ向かってくる。二の矢を番えるより早く、大太刀がもう目の前にあった。
振り下ろされた大太刀を薙刀の柄で受けると、重みで足が床板を踏み割った。
こいつが、ヒゲを殺した。
「受け止めるかぁ!」
教経は笑って、もう一度大太刀を振りかぶった。
咄嗟に身を沈めると、刃が頭の上の風を裂いて船縁に食い込む。
瞬間、背後で軽い足音が床を蹴った。
「弁慶、僕を投げて」
振り向かなくても、義経が何をしたいのかが分かる。
薙刀を床へ突き立て、半身になって両手を組んだ。小さな足が、そこへ乗る。
「殿、今だ!」
放り上げた。
青い小袖が教経の頭を越えざまに、太刀の峰で兜を一つ叩き、隣の舟の舳先へ下りた。
「こっちだよ、教経」
「ようやく俺の名を呼んだな! 義経ぇ!!」
教経が、声を立てて笑った。
俺には目もくれず、追って跳ぶ。
一艘。義経が跳んだ後の舳先を、教経の大太刀が叩き割る。二艘。傾いた船縁を駆け上がる。三艘目で、横から来た矢が青い袖を裂いた。四艘、五艘、六艘、七艘。触れた舟が揺れ始める前に、もう次へ移っている。
義経がヘイトを引いてやがる。それは俺の仕事だろうが。
漕ぎ手の手から櫓をもぎ取って、漕いだ。舟が跳ねるように前へ出る。舳先でチビと与一が弓を引くが、矢は跳ぶ教経の背中の後を追うばかりだった。
教経が舟の端で止まった。次の舟との間が、潮に引かれて開いていく。その向こうに、義経が立っている。朝から潮を見ていたあいつが、最後に選んだ舟だ。
「そこかぁ!」
教経は、それでも跳んだ。縁に届きかけた手を、義経の太刀が打ち払う。教経の体が、開いた潮の間へ落ちた。水柱が上がり、泡が流れに引かれていった。
漕ぎ寄せた舟の縁から、義経の舟へ跨いだ。
「八艘も跳ぶやつがあるか」
「だって、追いかけてくるんだもん」
隣で、泡の消えた水を見下ろした。義経が、長く息を吐いた。
見回すと、平家の舟はもう散り散りだった。舵を失って回る舟の上から、武者たちが次々に海へ飛び込んでいく。その間を、白旗の舟が埋めていく。
勝った、のか。
その瞬間、水が盛り上がった。
船縁に濡れた手が掛かる。這い上がった教経が、両腕で義経と俺を抱えた。
「何を……!」
「死出の山の供をしやがれ!!」
天地がひっくり返った。
視界が濁ってから、水中に引き摺り込まれたのだと気がついた。
水が鼻へ入る。冷たい。耳の奥で泡が鳴る。
泡の向こうに青い袖。義経が教経の腕を押している。脇差へやったその手が、腕ごと胴へ締めつけられた。
指をねじ込む。剥がせない。刀は、締められた腕の下で抜けない。
三人で回る。光が遠ざかっていく。
義経の口から、泡が一つこぼれた。
押し返す手が、弱くなる。
死ぬ。
義経が。
義経の指が、俺の袖を弱く掴んだ。
その細い腕を、教経の手が上から掴み直して深みへ引いた。
止められない。どうしたら。
違う。止められる。
殺す。
教経を、ここで。
身をよじり、教経の首へ両手を回した。
篝火の痕の残る手のひらの下で、脈が打っている。
両手に力を入れた。
手の中で、骨が軋んだ。砕けていく。それでも、緩めなかった。
太い枝が折れるような音がした。
教経の指がほどけ、腕が開く。義経が脇差で鎧の紐を切り、脱ぎ捨てた。青い袖が、上へ離れていく。
浮かびながら、義経がこっちへ手を伸ばした。指先が、届かなかった。
水面が、遠い。
あいつのくれた重さが、俺を下へ引いていく。
腰の刀を抜いて、鎧の肩紐に当てた。
紐を切った。胴の紐も切った。黒い鎧が、暗い方へ沈んでいく。
上から、白い手が伸びてきた。
その手を、掴んだ。
引かれる。頭が水の外へ出た。
息を吸ったつもりが咳になった。喉から海水が逆流し、また波をかぶる。
「掴まられよ!」
声がして、チビと与一の手で二人まとめて舟へ引きずり上げられた。
義経を見た。毎朝俺が梳いている髪が、頬と首に張りついている。その下で、紫の唇が咳のたびに震えていた。
抱き寄せようと伸ばした自分の手を見て、指が止まった。
俺はついさっき、この手で人を殺した。
そう思った瞬間、義経の方から俺にしがみついてきた。
「弁慶」
返事ができなかった。喉が、海水で焼けていた。
義経の額が、俺の胸に当たった。髪も、頬も、首に回ってきた腕も、海と同じに冷たい。なのに触れ合ったところだけがじわりと温かくなっていく。止まったままの俺の手の先で、薄い背中が膨らんでは、しぼみ、また膨らんだ。
息をしている。
顔が熱かった。目から出るものが、頭からかぶった海水と混ざって、顎から落ちていく。胸に埋まった義経の顔のあたりからも、しゃくり上げる音がした。
冷えきった指が、首を締めていた俺の手を探り当てた。手のひらの篝火の痕を、親指で一度なぞった。それから、その手を自分の背中へ押し当てる。
「離さないで、弁慶」
「ああ。離すかよ、義経」
背中に置かれた手に、力を入れた。今度も、緩めなかった。
それから義経の指が、俺の頬に触れた。
「……あったかい」
横から腕が俺たちの肩に回ってきた。チビと与一だった。チビは声も立てずに泣いていて、与一も鼻をすすった。波が来るたびに、舟が四人を持ち上げては下ろした。
周りで赤い旗が倒れ、白旗の舟から鬨の声が上がる。あの女が抱いて沈んだのは八歳の帝だったと、あとで聞いた。
こうして、平家は滅んだ。
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