転生弁慶、仁王立ちで庇うたびに女装ショタ上司が曇っていく 作:なほやん
第二十一話 二人
安宅の関を越えてから、北の海沿いを歩いた。越後の浜でも出羽の山でも、寺の軒を借りるたびに外の足音を数えて、浅く眠った。
峠を東へ下りきった夕暮れに、
義経が自分の袖を見下ろして、それから俺を見上げた。
「僕たち、どろどろだね」
笑った義経の頬で、乾いた泥がひび割れた。こんな格好でヒゲとチビの母上に会うわけにはいかない。ふと見ると、雪の残る川岸から白い湯気が立ち上っている。岩の間をのぞくと、湯が湧いていた。夕暮れの湯には、誰もいない。山伏の装束を岩に掛けて身を沈めると、安宅から歩き通した足の裏がじんと痺れて、峠からずっとこわばっていた肩がやっと下りた。
「入るよ」
振り向きかけた首を岩の方へ戻すと、後ろで帯をほどく音がした。泥で固まった着物を岩に掛ける音まで、やけに大きく聞こえる。
「一緒にか」
「今さら隠すとこある?」
声だけはいつもの調子なのに、湯に入ってくる水音はずいぶんゆっくりだった。義経が俺から腕一本ぶん離れた所に沈み、肩まで浸かってから俺の顔を横から覗き込む。
「顔、赤いね♡」
「お前も赤いぞ」
「……湯のせいだもん」
義経の目が湯の中へ下りた。
「やっぱり、おっきいね♡」
「見んな!」
頭まで湯に潜った。息が続かなくなって浮き上がると、義経は口まで湯に沈んだまま、目だけで笑っていた。それから手が伸びてきて、俺の頭を撫でる。
「月が出た」
「お前が剃ったんだろ!」
義経のすくった湯が、俺の頭から額へ、鼻へと流れ落ちた。
「何すんだ」
「磨いてる。よく光るように」
義経はけらけら笑いながら、いつの間にか腕一本の間を詰めていた。
「チビと会ったら、あの青い小袖、ちゃんと返してもらえよ」
「うん。継ぎ目、ほつれてないといいな」
義経は顎まで湯に沈んだ。
「与一がいたら、絶対一緒に入ってきてたね」
「来ても追い出す。今ごろ下野で威張ってんだろ」
「静は?」
「俺がお前を泣かせたら、攫いに来るんだとよ」
「じゃあ、泣かせないでね♡」
義経は湯を掻き分けて、俺の後ろへ回った。
「背中、流してあげる」
「頼む」
後ろで湯の音が止んだ。しばらくして、手のひらが肩甲骨のあたりに当たった。ゆっくり、上から下へ動いていく。
「ここ」
後ろから義経の指先が左の肩を押した。
「京を出た日の山道。初めての矢」
振り返ると、義経が湯の縁から腕を伸ばして、岩に掛けた自分の着物の懐を探っていた。戻ってきた手のひらに、錆びた
「その時の」
「なんでそんなもん持ってんだ!?」
「お守りだもん」
義経が鏃を懐へ戻した。俺が岩へ向き直ると、指がまた背中に置かれ、肩から二の腕へ下りた。
「ここは宇治川。七本の最後の一本で、いちばん深かった」
右手を取られて、手のひらを上に向けられた。
「ここは、平泉の篝火」
後ろから腕が回ってきて、背中いっぱいに湯より熱いものがくっついた。息を詰めると、指があばらの上で止まった。
「ここは一ノ谷。骨だから、見えないけど」
腕がほどけて、指が背中の真ん中へ戻った。
「ここは、
声が少しだけ小さくなった。
「なんで、全部覚えてんだよ」
「僕が覚えてないと、消えちゃうでしょ」
息を吸ったら、湯気が喉に詰まった。
「はい、交代」
振り向くと、義経はもう背中を向けていた。湯気の中の白い背中に、俺が
指で、触れた。
「これは、俺のだ」
義経は何も言わずに肩越しに笑った。
岩に掛けた手拭いを取って湯に浸し、絞って、三本の痕にそっと当てた。擦らずに、当てて、離して、また当てた。義経の肩が一度だけ小さく跳ねて、それから力が抜けた。
「振り返らなくても分かるよ。弁慶がどんな顔してるか」
手拭いを当てる手が、止まった。
「ハゲがそんな顔しないの♡」
それきり義経は黙って、俺に背中を流させた。
* * *
湯から上がり、乾いた泥を叩き落とした着物を着直して、その足で信夫の佐藤の館を訪ねた。縁側に出てきた女の人を見て、一目で分かった。目元はヒゲで、口元はチビだ。縁側の下に膝をついて、茶色の反物を差し出した。
「武蔵坊弁慶と申します。こちらは、九郎様。
受け取った反物を広げて、母上は端の黒ずんだ穴を指でなぞってから肩に当てた。
「似合いまするか」
「はい」
額を地面につけた。
「
母上の手が反物の上で止まった。
「忠信は、京で討たれました。判官様の青い小袖を着たままだったそうでございます。十日ほど前に、知らせが」
——必ず、会いましょう。
地面についた手の下で、砂を握りしめた。
顔を上げると、隣で義経が笈を背負ったまま地面に両手をついていた。俯いた首に短くなった襟足が見えた。
「死ぬのは許さないって、言ったのに。命令だって、言ったのに」
母上は縁側から下りてきた。
「あの子らは、文に九郎様と武蔵坊殿のことばかり書いてよこしました。力比べで負けた、次は負けぬ、と。武蔵坊殿は九郎様の髪を梳かれる、拙者もやってみたい、と」
横で義経が袖で顔を覆って、肩を震わせていた。
「楽しそうでございました。ずっと」
母上はそれから義経の方を向いた。
「あの子は、九郎様のお役に立てましたか」
「僕の代わりに、京へ行ってくれました。僕の前に、立ってくれました」
義経は地面に額をつけた。
「僕が、行かせました」
母上は長いこと黙っていて、それから深く頭を下げた。
「あの子の望んだことでございましょう」
翌朝、母上に連れられて佐藤家の
振り向くと、義経は膝の上で両手を握っていた。
「チビを行かせたのは、僕だよ。弁慶じゃない」
「俺も、待ってるって言った。必ず生きて来いって言って、行かせた」
義経は答えずに、
「いいの?」
「もう、お前には担がせねえ」
義経は笈を見て、それから俺を見た。
「僕も弁慶には担がせない」
本堂を出ると、先に出ていた母上が懐から文を出し、俺の頭に一度目をやってから義経に差し出した。
「
『メスガキさんとハゲさんへ』とだけある表書きを、義経が指でなぞった。
「与一だ」
その場で封を切って、読み上げる。
『私はおうちまで逃げ切ったよ。偉いでしょ♡ でも家の周りにお侍がずっと張りついてて、門から一歩も出られないの。退屈で死にそう』
読むのを止めて、泣きそうな顔のまま噴き出した。
退屈で死にそう、か。退屈なら、死なねえ。
『なるしすとさんは、山の奥で捕まって、鎌倉で舞ったんだって。しづやしづ、って。今は、どこかに閉じ込められてるみたい』
「
義経は文の端を握ったまま、何も返さずに続きを読んだ。
『チビとはもう会えたかな。落ち着いたら、みんなでいつか会いに来てね』
そこで声が止まった。義経は文を持つ手を下ろし、鼻をすすってから、最後の一行を読んだ。
『もう一人のメスガキより』
それから文を畳んで、懐にしまった。
母上は寺の門の外の道へ目をやった。
「平泉へ行かれるなら、うちの者を先に走らせて、お着きを知らせておきます」
それから少し声を落とした。
「秋口から鎌倉の使いが幾度も平泉へ通っております。
「次郎は、どうしてるの」
「次郎……ああ、
鎌倉の使い、と聞いて隣を見た。義経も黙ってこっちを見ていた。
母上に向き直った義経が、深々と頭を下げた。
「継信と忠信を、僕に預けてくださって、ありがとうございました」
「こちらこそ。継信の反物を、ここまで届けてくださって。どうか、お気をつけて」
北へ四日歩くと、平泉の町の屋根が道の先に見えてきた。
義経が隣で足を止め、俺の顔を見上げた。
「最初に平泉へ向かった時、弁慶、道の真ん中で叫んでたよね。死ぬとこじゃねーか! って」
「覚えてんのかよ」
「あの時は意味わかんなかったけど、今ならわかる」
義経は俺から目を逸らさなかった。
「怖い?」
嘘をつく理由は、もうない。
「ちょっとな」
「大丈夫。僕が一緒だから」
その時、道の先から蹄の音が近づいてきた。錫杖を握り直して、義経の前へ出る。一騎で来た男がこっちを見るなり馬を飛び下りて、駆けてきた。
「九郎!」
泰衡は、息を切らしながら十三年前と同じように目尻を下げて笑っていた。
第五部「平泉(二)」に合わせて、第二部を「平泉」から「平泉(一)」に直しました。
いよいよ運命の地。最後までよろしくお願いいたします!