転生弁慶、仁王立ちで庇うたびに女装ショタ上司が曇っていく 作:なほやん
「おかえり、九郎」
義経は残りの十歩を駆けていって泰衡の胸に飛び込み、そのまましばらく動かなかった。
「ただいま、次郎」
泰衡の手が義経の背から上がって、短くなった襟足の上で止まった。
——殿が疲れて帰ってきたら、その時は頼むぜ。
七年前、平泉を発った朝の自分の声が、まだ耳に残っていた。
義経の肩越しに目が合うと、泰衡は何も言わずに、小さく一度うなずいた。
俺が
「前と変わらぬ見事な坊主頭ですね」
「どういう安心の仕方だ」
手を差し出したのは、前世の癖だった。泰衡は俺の手を見下ろして、何かの作法だと思ったのか、両手でがっしりと握り返してきた。
その夜、昔と同じ広間で宴があった。上座の
「よう戻った! よう戻った、九郎殿! 武蔵坊も、よう戻った!」
膳が来るなり、俺は飯をかっこんだ。また毒見? と覗き込んでくる義経に、腹が減ってるだけだと返して、空になった椀を上座へ掲げる。
「うまい! もう一杯!」
「変わらぬ見事な喰いっぷりじゃ! もっと持ってこい!」
秀衡殿が膝を叩いて笑い、広間じゅうが笑った。泰衡まで袖で口を隠して肩を震わせている。笑いが引くと、秀衡殿は盃を置いた。
「夏の終わりに、
秀衡殿の痩せた手が、灯りの下でまた目に入った。奥州は、俺が死ぬ国だ。殺しに来るなら鎌倉で、それを今止めていられるのは、この手しかない。
「おう、出ます!」
「それでこそじゃ! 九郎殿もいかがかな?」
「えー。どうしようかな」
義経が横目で俺を見た。
「よいよい、ゆっくり考えるがよい! 今宵はよう休め! 泰衡、二人を館へ案内してやれ!」
「はい、父上」
宴のあと、泰衡が案内してくれたのは、衣川のほとりの館だった。部屋が三つと、
台所の棚に、漆の椀が三つ並んでいた。黒と、朱と、黒に金の筋。
「お二人に一つずつと思ったのですが。どれがよいか、決めきれませんで」
義経が噴き出した。
「次郎、変わんないね」
泰衡は困ったように笑うと厩へ回って、壁に立てかけてあった薙刀を両手で持ってきてくれた。
「父が、武蔵坊にはこれがなくては、と」
受け取った柄が、手のひらにずしりと沈んだ。
「ありがてえ。秀衡殿によろしく言っといてくれ」
「はい。では、私はこれで。今夜はゆっくりお休みください」
泰衡を門まで見送って
「今夜は寝ていいんだよ」
「何かあったらどうすんだ」
「前に平泉に来た時も、三晩寝ずの番したよね。今は大丈夫だから、弁慶」
義経が袖を引いた。
「薙刀は枕元だぞ」
「はいはい」
引かれるまま夜具まで連れていかれて横になり、その夜は外の足音を一つも数えずに眠った。
川の音で目を覚ますと、隣の夜具から手が伸びてきて俺の袖を引いた。
「梳かして」
起き上がって櫛を取った。吉野で切った髪は、櫛を入れるとすぐに毛先へ抜けてしまう。それでも同じところを何度も梳いているうちに、義経は俺の膝へ頭を落とした。
「ありがと」
そう言って起き上がると、義経は縁側に紙を広げた。
「与一への返事」
「なんて書くんだよ」
覗き込むと、表書きには『もう一人のメスガキさんへ』とあった。
「ばれないように、ね」
「中身は」
「メスガキは、ハゲと二人で暮らしてます♡」
「……与一が怒るぞ」
「いいの。自慢だもん」
義経が筆をこっちへ差し出した。
「弁慶も、なんか書いて」
筆を受け取って、一行だけ足した。
『退屈でいい。退屈なら、死なねえ』
墨が乾くのを待っていると、門の方で
「九郎、弁慶どの。奥へ」
「何事だ」
「お早く!」
義経が俺の手を引いて台所へ駆け込み、床板を上げた。先に段を下りた義経に続いて、肩をすぼめて穴をくぐる。頭の上で、泰衡が板を戻した。真っ暗な中で足音が近づいてきて、俺たちの真上で止まる。上がり
「梶原殿、遠いところを」
「判官殿を匿う者がおると聞き申した」
「この館に住んでおりますのは、坊主とその供の者だけでございます」
泰衡の声が真上から降ってくる。暗がりで、義経の指が俺の袖を握った。握られて初めて、自分の息が浅くなっているのに気づいた。床板の軋む音の後、帳面より薄い紙の鳴る音がした。
「もう一人の、メスガキさんへ。……これは」
「近くの
しばらく何の音もしなかった。それから帳面に筆の走る音がして、閉じる音がした。
「
梶原の声は平坦だった。
足音が床を渡って、遠ざかっていく。蹄の音が聞こえなくなっても、板はなかなか上がらなかった。やっと上がった板の向こうで、泰衡が与一への文を膝に載せたまま、框に腰を落としていた。
「聞いていたか」
「うん」
「よく来るのだ」
義経は泰衡の前に膝をついた。
「守ってくれて、ありがとう」
泰衡は黙って首を振った。
「次郎、お昼まだでしょ」
義経が台所へ立った。飯の炊ける匂いに汁の匂いが混じったころ、三つの椀によそって戻ってきて、黒に金の筋の椀を泰衡の前に置く。泰衡はその椀を両手で持って、一口食べたところで目を上げた。
「九郎は飯までうまいのか!」
「村で覚えたの」
「最初は鍋の底まで真っ黒だったけどな」
「言わないでよ!」
「汁も見事だ。もう一杯」
空の椀を差し出す泰衡の横で俺もすすってみると、菜の切り方も塩の加減も、納屋でチビが作ってくれたのと同じだった。
食べ終えた泰衡を、義経と二人で厩まで送った。義経が与一への文を頼むと、泰衡は下野へ行く商人の荷に紛れさせますと言って、それを懐にしまった。
「さっきの、助かった」
「
泰衡は馬の首を撫でた。
父がいるうちは、か。
「なあ、次郎。俺がもし死んだら、義経を頼むぜ」
右の
「いってえ!」
声と一緒に涙がこぼれると、義経だけが笑った。
「縁起でもないこと言うハゲは、こうだから!」
「すまねえ……」
「弁慶の泣き所、だね♡」
……その言葉、俺が元かよ。
泰衡もやっと笑って、馬の首を二度撫でた。
「もちろんです」
それから、三日に一度は泰衡が館へ来て義経の飯を食っていくようになった。
* * *
夏の終わり、毛越寺の庭に縄が張られた。延年の舞が済み、見物はそのまま縄の周りへ流れてくる。上座の秀衡殿は
「おい! 俺の相手はいねえのか!」
見物の輪がしんと静まった。
「拙者が!」
輪の中から、一人が縄をくぐってくる。若いくせに、頭をつるりと剃り上げて顎には髭を伸ばしている。背は俺の肩ほどだが、首が太く、腿が張っていて、一目で強いと分かった。組んだ途端に、ずしりと重さが来る。
「お前、どっかで会ったか?」
「拙者の名は、小太郎。今は泰衡様にお仕えしておりまする。十三年前の夜、
篝の下で、義経の首にしがみついて震えていた子供を、覚えている。
「あの時の子か! でかくなったな!」
「体だけではございませぬ。あの夜から、お三方に学びました。武蔵坊殿のように立ち、九郎様のように抱え、継信殿のように——起こす!」
小太郎の足の裏が地面を噛み、腕が俺の胴を巻く。下から突き上げられて、踵が浮きかけた。見物から悲鳴まじりの声が上がる。
「強えな、小太郎! だが、足りねえ!」
浮いた踵を地面へ叩き戻し、帯を掴んで腰を落とす。突き上げてくる力をそのまま横へ流してひっくり返すと、小太郎は土の上で大の字になって空を見上げた。
「さすがですな、御坊」
「お前もな。押しても動かねえのは、ヒゲ以来だ」
手を差し出すと小太郎はそれを掴みかけて、俺の手のひらの火傷を見た。
「これは、あの夜の」
「もう痛くねえよ」
小太郎は俺の手を両手で握って立ち上がり、そのまま顔を伏せた。握った手の甲に、涙がぽたりと落ちた。
「小太郎、強くなったね」
顔を上げれば、縄の外で義経が手を振っていた。
「覚えておいでで!」
「ヒゲはいいけど、ハゲにはならないでね」
見物がどっと笑った。義経は笑いながら、帯に手を掛けた。
「じゃあ、僕も出ようかな」
着物を脱ぎ捨てて褌一つになると、見物の輪がざわっと揺れた。
「ひ、姫君……?」
「いや、男だ。……男だよな?」
十三年たっても、見物の目は納得していないらしい。上座で秀衡殿が盃を掲げた。
「よく出てくれた! 相手は!」
「もちろん、そこの坊主」
義経が俺を指さして、縄をくぐってきた。
「じゃあ、負けた方が言うってことで」
「何をだよ」
「わかってるくせに」
縄の内側をぐるりと歩きながら、義経が俺を見上げた。
「僕に勝ったことないもんね♡」
「今日勝ってやるよ!」
見物の輪から囃す声が飛ぶ中で、義経が舌を出した。
「ざーこ、はーげ♡」
「このメスガキが! わからせてやる!」
踏み込んだ。
義経の身体が、ふわりと浮いた。
俺の腕が足元を通り過ぎるより先に、義経は跳んで頭の上を越えていく。振り向けばもういない。五条の橋の夜は、かすりもしなかった。
二度目に跳ぶ前、義経の右の爪先が少しだけ沈む。降りてくる所へ先に手を出すと、義経の褌に指が掛かった。
「わ」
見物がどよめいた。
義経は褌を掴まれたまま身をひねり、俺の手首を蹴って抜けると、着地して笑う。
「なんで分かったの」
「ずっと見てたからな」
義経の顔が少し赤くなった。組んでは離れ、また組んだ。義経が跳び、俺が掴み、義経が抜ける。払えば潜り、潜れば抱え、抱えれば肩を蹴られる。
いつの間にか、周りの声は聞こえなくなっていた。聞こえるのは、お互いの息と、足の裏が土を掘る音だけだった。
どちらの肩も大きく上下しはじめたころ、縄の端まで下がった義経が、腰を落として俺をまっすぐ見る。跳ばずに、正面から飛び込んできた。両腕で受け止めて、そのまま抱え上げた。軽い。
こつん、と頭のてっぺんを指で叩かれた。
「はい、僕の勝ち」
「相撲に、頭叩いたら勝ちなんてねえよ」
抱えたまま縄際まで二歩運び、腕を伸ばして外の土に義経の足を下ろした。
「え」
上座で秀衡殿が盃を置いて立ち上がった。
「この一番、坊主の勝ちじゃ!」
見物の輪が割れるように沸いた。見事じゃ、見事な勝負じゃ、と四方から声が飛ぶ。義経は縄の外に立ったまま、自分の足を見下ろしていた。
「約束だぞ。負けた方が言うんだろ」
「ずるい」
義経が俺の首に両腕を回してしがみついてきた。顔を肩に埋めて、上げようとしない。汗で濡れた額と春より伸びた髪の先が、俺の顎をくすぐった。
歓声は鳴りやまないのに、それがだんだん遠くなっていく。
そして耳元で、俺にしか聞こえない声がした。
「……好き」
篝火の痕の残る手のひらを、義経の背中に当てた。首に回った腕が、ぎゅっと締まった。