転生弁慶、仁王立ちで庇うたびに女装ショタ上司が曇っていく 作:なほやん
相撲のあとも衣川の館の朝は何も変わらなかった。
「来年の相撲も、出るの」
「出る。再来年もな」
退屈でいい、と与一へ送った通りの日々が続いた。十月の終わり、
俺たちが枕元に呼ばれた時には、秀衡殿はもう細い声しか出せなくなっていた。俺の手を取って、泰衡と並んだ息子たちを順に見る。
「九郎殿を大将軍として、国の
俺の手を握る秀衡殿の手を、泰衡はずっと見ていた。秀衡殿はそれから俺の後ろに座っていた弁慶へ目を移した。
「武蔵坊。わしの倅も、頼む」
「……任せてください」
秀衡殿は笑って目を閉じた。俺の手を握ったその指が、夜が明ける前に冷たくなった。ほどいて顔を上げると、泰衡はまだ、その手を見ていた。
次の晩から、弁慶はまた薙刀を抱えて戸口で眠った。
その年の暮れ、
自分の耳で聞きたいと頼んで、俺と弁慶は広間の隣の間に隠れていた。襖は指一本ぶんだけ開けておいた。
広間の上座には、秀衡殿の代わりに泰衡が座っていた。喪の色の衣の襟が首から浮いている。梶原は二通の文を順に広げた。
「宣旨を伝える。陸奥の藤原泰衡は、
梶原は文を巻くと、帳面を開いて筆を構えた。
「さて。
泰衡の膝の上で、手が握られた。
梶原は筆を止めて、声だけを和らげた。
「判官殿を差し出されれば、陸奥と出羽は御館の跡のまま泰衡殿にお任せすると、鎌倉殿は仰せでござる。鎌倉殿が後ろに立たれるお方の下になら、御兄弟も立ちましょう」
握られていた手が、開いた。もう一度、握られた。
「一門の者と、
「承った。だが、鎌倉殿もそう長くはお待ちになりますまい」
梶原が帰っても、泰衡は上座から立たなかった。
襖の陰で、隣の弁慶が長い息を吐いた。
その夜、喪に入ってから初めて、泰衡が衣川の館へ来た。俺の炊いた飯をいつもの椀で食べはじめて、半分ほどのところで箸が止まる。椀を見たまま、泰衡は何も言わなかった。
「兵をまとめよう。次郎とご兄弟と、僕で。南の山に堀を切って、鎌倉をそこで止める」
顔を上げた泰衡は、頬が痩せて、目だけが強かった。
「大将軍は次郎がやって。僕は次郎の下で兵を動かす」
泰衡の目が一瞬揺れた。
「私が九郎の上に」
「うん。秀衡殿の跡を継いだのは、次郎でしょ」
泰衡は自分の手を見下ろして、やがて首を振った。
「……それは、できぬ」
弁慶が箸を置いた。
「なら、逃げるぞ。義経は俺が担いで連れていく」
「逃げたら、次郎が僕を逃がしたって言われて、平泉が焼かれるよ」
弁慶の拳が膝の上で握られたまま動かなかった。
泰衡は残りの飯をかき込もうとしてやめ、椀を置いた。
「また来る。その時は、残さず食べるから」
口の端だけで笑って帰っていき、それきり泰衡は館へ来なくなった。黒に金の筋の椀は、棚に伏せたまま、ずっとそこにあった。
* * *
年が明けた正月二十日、雪の降る夜に、泰衡に毛越寺の
「九郎に見てほしい舞があるのだ。見ていってくれ」
隣に座った泰衡が、目まで笑っていた。
鬼の面をつけた男が、薙刀を担いで橋の上に立つ。通る者から刀を巻き上げては、背中の籠へ放り込んでいく。九百九十九本目を取ったところで、笛の音がした。天狗の面をつけた稚児が、ひらりと出てきた。鬼が薙刀を振るたびに跳んで、欄干に乗り、鬼の頭を越える。最後に、笛で鬼の頭を、ぽこん。
「これ、俺らじゃねえか」
弁慶のつぶやきに重なって、鬼と天狗の掛け合いが始まった。
「やあ、そこな天狗! 名を名乗れ!」
「ざーこ、はーげ♡」
「はげじゃない! 剃っとるんじゃ!」
堂じゅうがどっと沸いた。
「なんでそこまで知ってるんだよ!」
隣で泰衡が袖で口を隠して肩を震わせていた。弁慶の顔が松明に負けないくらい赤くなっている。俺は膝を抱えて、涙が出るまで笑った。
鬼は天狗に負けて家来になり、天狗を肩に乗せて山を越えていく。坂で転び、川で濡れ、天狗に頭を笛で叩かれながら、最後まで肩から下ろさなかった。
舞が終わると、弁慶は鬼をつかまえに行って、面をむしり取った。剃った頭に、伸ばした髭。
「小太郎、お前かよ!」
「武蔵坊殿の役なら、拙者しかおりませぬ!」
二人で騒いでいるうちに、天狗役の稚児と見物の子供たちが弁慶の背中によじ登りだす。肩に一人、両腕に二人ずつぶら下げて、今度は弁慶が鬼の真似をしながら堂の中を歩き回る。
俺は泰衡の袖を引いて、堂の外へ出た。戸口で振り返ると、子供を肩に乗せた弁慶が、吠えていた。
雪はいつの間にかやんでいた。
「いい舞だったね。見せてくれて、ありがとう」
「礼を言うのは、私の方だ。来てくれて、ありがとう」
言い終えると、泰衡の顔から笑みが白い息と一緒に消えた。
「鎌倉からの文が、月ごとに来る。評定で延ばせるのも、もう長くはない」
「ご兄弟で、まとまれないの?」
「
泰衡の声は低く、少しも揺れなかった。
「兄弟で殺し合うの?」
兄と弟で刃を向け合うのは、俺と
泰衡の手が俺の手首を掴んだ。
「では、どうしろというのだ! 与作もおたけも、私の顔を見るたびに、戦にはならぬのでしょう、と聞く。私はそのたびに、ならぬと答えてきた。私は何を守ればいい! 民か、父の最後の言葉か!」
手首が痛かった。堂の方のざわめきから、弁慶の声だけが届いた。
「鬼だぞー! 逃げねえと、食っちまうぞー!」
戦になれば、弁慶はまた俺の前に立つだろう。
逃げることもできない。秀衡殿に頼まれている弁慶は、次郎を見捨てられない。
どうすれば戦を避けられる。
ちがう。
一つしかない。
次郎が俺の首を鎌倉へ差し出すことだ。そうすれば陸奥と出羽は次郎に残り、兄弟たちは次郎の下に立つ。
そうだ。
「次郎。天狗が死んだら、鬼はどうなると思う?」
泰衡の白い息が、止まった。
「……山へ帰るのだろう」
「うん。それがいい」
遠くから、また弁慶の笑い声が聞こえた。
「天狗はね、逃げないよ。最後まで、ちゃんと舞う」
俺の手首から、泰衡の指がほどけた。
「九郎! 自分が言っていることの意味がわかっているのか!」
「うん、わかっていて、言ってるんだよ」
泰衡は俺の顔を見て、堂を見て、もう一度俺を見た。
「ならぬ! 弁慶どのにも頼まれたのだ。自分が死んだら、九郎を頼むと!」
「知ってるよ」
泰衡の袖をもう一度握り直した。
「だから、次郎にしか頼めないの。天狗が死んだら、鬼は山へ帰して」
長い間黙ったあと、泰衡は空いた方の手を胸の前で開いた。
「梶原が陸奥と出羽をと言った時、この手は一度、開いたのだ」
「うん。見てた」
「九郎は、ずるい」
「ごめんね」
泰衡は袖を掴んでいた俺の手を外して、自分の両手で包んだ。冷えた指が少しずつ俺の手を締めていく。
「……わかった。天狗は私が討つ。そのかわり、鬼は私が生き延びさせる」
「うん。ありがとう、次郎」
白い息を一つ吐いて、泰衡は堂の灯りの方へ顔を上げた。
「鬼と天狗の舞は、毎年ここで舞わせる。千年先まで。必ず」
* * *
それからの日々は、何もしないまま過ぎていった。朝は弁慶に髪を梳かせ、昼は縁側でその肩を借りて眠り、夜は戸口で薙刀を抱いて眠る弁慶の寝息を聞いた。夏の終わり、縄の中の弁慶がまた勝つのを、見物に交じって手を叩いて見た。上座の泰衡は、盃を持ったまま一度もこっちを向かなかった。秋の終わり、二度目の宣旨が来たと市で聞いた日も、帰って飯を炊き、弁慶の椀を山盛りにした。正月の二十日には、常行堂でまた鬼と天狗が舞った。弁慶はまた子供を肩に乗せて、吠えていた。
閏四月の終わりの夕方、池まで来てほしいと、泰衡から使いが来た。
ああ、とうとうか。
懐から櫛を出して、弁慶に差し出した。
「梳かして」
「今からか。夕方だぞ。珍しいな」
「いいの」
最後だから、とは言わなかった。
弁慶は首を傾げながら、俺の後ろに座った。ようやく結べるほどに伸びた髪に、櫛がいつもよりゆっくり入ってくる。
根元から毛先まで、一度。また根元から。絡んだ所に来ると、太い指が先にほどいてから、もう一度櫛を通す。薙刀を振り回す手が、俺の髪の時だけこんなにのろい。
一回ずつ、数えた。数えているうちは、まだ終わらない。
髪を結い終えると、弁慶は櫛を俺の懐へ戻して、頭をぽんと叩いた。
「よし。かわいい」
振り向いて、もう一回言わせたかった。今振り向いたら、顔で全部ばれる。
背中を向けたまま立ち上がって、戸口で言った。
「池へは、僕だけで行く」
「俺も行く」
「なんで」
「なんでもだ。ずっと一緒だろ、俺ら」
来ないで、と言おうとして、声が出なかった。最後まで隣にいてほしいのは、俺の方だった。
振り返ると、弁慶は壁の薙刀に手を伸ばしていた。
こんな時だけ、勘がいいんだから。
「持っていかなくていいよ。次郎のとこでしょ」
「……そうか」
弁慶の手が、薙刀から離れた。
林の入り口で待っていた泰衡は、弁慶に目を留めてから前を向いた。泰衡と弁慶に挟まれて歩いていると、隣の弁慶の指が俺の指に引っかかってきたので、握り返した。
木が切れて空が急に広くなる。池のほとりに、寺が建っていた。
「
「決めるのに、時間がかかったんだね」
「……九郎ほど、潔くはなれぬ」
朱の柱と金の飾りが、まだ明るい空ごと水に映っている。向こう岸で、金鶏山がぽつんと座っていた。
「あの時、夢を語ったな」
泰衡は蓮の丸い葉が並ぶ池を見たまま言った。
「千年たっても、蓮の花が咲き続ける池。覚えているか」
「覚えてるよ。蓮、本当に植えたんだね」
懐に入れたままの蓮の実の袋に触った。どこに植えるか、まだ決めていない。
泰衡が弁慶の方へ顔を向けた。
「弁慶どの。戦のない世が来るというのは、本当ですか」
「ああ」
「そうですか。なら、よかった」
それから、泰衡は俺を見た。
「あの時、九郎は夢を言えなかっただろう」
「うん」
「今は?」
「できるなら……弁慶と、歳を取りたいな」
隣で、弁慶が咳き込んだ。
「お、お前、急に何言い出すんだよ」
「いいでしょ? 弁慶」
つないだ弁慶の手が、少しだけ強く握られた。
泰衡は少しの間俺の顔を見てから、池の方へ目を戻した。
「……いい夢だな」
池の上を風が渡って、蓮の葉が一斉に裏を見せた。
十五年前、蓮の実の袋を出した時と同じように、泰衡が懐に手を入れる。
あの時は弁慶が俺を庇って半歩前へ出た。今日は、つないだままの弁慶の手は、動かなかった。
泰衡の手が、懐から抜ける。
震える指の中で、夕日を受けた切っ先が俺の胸を向いていた。
「すまない、九郎。死んでくれ」
泰衡は、泣いていた。