転生弁慶、仁王立ちで庇うたびに女装ショタ上司が曇っていく 作:なほやん
目が覚めると、握って眠ったはずの手が指の中になかった。外はまだ暗いのに、義経は囲炉裏の前で櫛を持って待っている。
「最後かもしれないから」
「最後じゃねえ。明日も、明後日も、十年後も梳いてやる」
門の外では、馬のいななきと具足の触れ合う音、そして坂東訛りの号令が響いている。それを聞きながら、肩まで伸びた髪を梳いて結った。
「千八百五十一回目」
「何が?」
「弁慶が今までに僕の髪を梳いた朝の数」
「数えてたのか!?」
「うん」
義経は振り返って俺の手から櫛を取り、懐にしまうと、脇に置いていた
「次、弁慶の番」
俺を戸口に座らせて、後ろに膝立ちになる。
「外のこと考えてるでしょ」
「お前は考えてねえのかよ」
「考えてるよ。弁慶のこと」
剃刀が耳の上をゆっくり回っていく。剃り終えると、手のひらが頭のてっぺんを撫でた。
「はい、つるつる」
「いつまで撫でてんだ」
「明日の分も」
義経は
「弁慶の出来上がり」
自分も太刀を
「前を、お願い」
「おう。俺の陰から出るなよ」
「うん」
東の山の端が白みはじめた頃、館の裏の木戸を開けた。衣川の向こう岸の火は夜通し燃えて、今はどれも細くなっている。浅瀬までは五十歩。義経を背中に隠して、土手を下りた。
水が脛を噛むように冷たい。川の半ばを過ぎても、対岸は静かだった。燃え残りの篝のあいだに人影は見えない。あと二十歩も行けば、葦に手が届く。
その葦の陰から、弓の列が立ち上がった。
端から端まで、矢の先がこちらを向いた。弦を引き絞る音が、川面を渡ってくる。
だが、
水を蹴って前へ出て、弓と義経のあいだに身体を据えた。
その列の後ろから、
弦は引き絞られたまま、一本も鳴らなかった。
「どうした、次郎! 俺はここだぞ!」
泰衡は手綱を持ったまま、押し黙っている。
こうなったら、突っ切るしかねえ。後ろ手に義経の手を握ると、すぐに握り返してきた。
その時、泰衡の隣にもう一頭、馬が並んだ。馬上の
「どうなされた、泰衡殿。射たぬのですか。鎌倉殿より、この目で見て参れと仰せつかっておりますが」
泰衡は、俺と義経だけを見ていた。
それから、目を伏せた。
「……射よ」
弦が、一斉に鳴った。
「下がれ、義経!」
義経の身体を胸に抱え込んで、向こう岸に背を向けた。背中に、肩に、続けざまに矢が立った。
次郎が、俺ごと射た。
「戻るぞ!」
木戸へ駆け戻ると、表の方で法螺貝が響いた。
* * *
門の外で鬨の声が上がり、丸太が打ちつけられる。一度、二度。板が内側へたわむ。
義経に背中の矢を根元で折らせた。一本折るたびに、肉の中で鏃がずれて息が止まる。奥歯を噛んで、声だけは出さなかった。
「門を、お願い」
「お前は、俺の陰だぞ」
「うん」
その声に重なって、三度目の丸太が来た。
閂が二本とも割れて、槍が並んで突っ込んできた。柄で払い、脇に挟んで持ち主ごと振り回すと、後ろの列がまとめて崩れる。
背中の方で、刃の鳴る音が二度した。裏の木戸から回られたか。
「後ろは僕がやる。前だけ見てて」
「おう!」
崩れた列の向こうで、泰衡が目を逸らさずにこっちを見ていた。隣の梶原が身を寄せて何か言いかけたが、泰衡の声の方が早かった。
「槍隊、下がれ。弓兵、火矢を」
命じた泰衡の目が、一度だけ館の奥へ動いた。
列が割れて、弓が上がった。
「待て、次郎——」
言い終える前に、火矢が門の上を越えていった。後ろで、火のはぜる音が次々に上がる。
塀を越えて降りてきた兵の足音も、火に追われて遠ざかっていく。煙に押されて、義経が門の内まで下がってきた。太刀を構えたまま、俺と背中を合わせる。
門の外で、泰衡の上げた手に合わせて弓の列がもう一度上がった。
「おらァ! 射ってこい!」
一本目の矢は、薙刀の柄で叩き落とした。二本目は、腿に刺さった。三本目は、腕に刺さった。払い、受け、それでも刺さる。肩に、脇腹に、胸に、立っていく矢を数えるのは途中から諦めた。
ここだ。
前の世で知っていた最期は、ここだ。主君を庇って、全身に矢を受けて、立ったまま。
約束を破ってでも、義経を守る。
不思議なくらい、怖くなかった。俺が立っている間は、後ろの義経まで矢は届かない。
合わせた背中から、義経の体温が伝わってくる。冷えた海から上がって抱き合った時のように、触れたところから温かくなっていく。
その温かさがふっと背中から離れ、右の脛に何かが叩きつけられた。
骨の折れる音が身体の中から聞こえた。膝が地面に落ちる。
見上げると、義経が鞘に納めた太刀を握って立っていた。
「……なん、で」
義経は答えずに、白い布の上から俺の頭を一度だけ撫でた。それから太刀を足元に落として、門の真ん中に、両手を広げて立った。
結った髪の先が、うなじで揺れていた。
「やめろ」
かすれた声しか、出なかった。
「梶原! 兄上に伝えよ! 奥州は義経を討ったと! もう、攻め入る道理はないと!」
「……ええ、お伝えしましょう」
薙刀の柄に縋って、立とうとした。折れた脛に体重が乗った途端、脚が横へ逃げた。肩から、砂利に崩れた。
「やめろ、義経! 生きるって、言ったろ!」
「源九郎義経は、ここにいる! 俺を射よ!」
義経の顔が、馬上の泰衡の方へ向いた。泰衡が、小さく一度うなずいた。
「私が射る」
「やめろ!」
伸ばした指が、義経の裾に届かなかった。
弦が、一つだけ鳴った。
義経の身体が跳ねて、それから、ゆっくり後ろへ倒れていく。そして、伸ばした俺の手の先に、仰向けに落ちた。
頭の上で乾いた
胸に矢を立てたまま、義経は目を閉じていた。顔に煤がついて、今朝俺が梳いた髪に、灰が積もっていく。
「おい」
揺すっても、動かなかった。頬を叩いた。煤の下から、白い肌が出てきた。その上に、俺の涙が落ちた。
「おい、義経。起きろ。起きてくれ」
門の内に煙が溜まって、息を吸うたびにむせた。
すぐ近くで、砂利が鳴った。
顔を上げると、小太郎が立っていた。
長いこと動かずに、俺の顔を見て、義経の胸の矢を見て、それからまた俺の顔を見た。
「小太郎! 九郎は、弁慶どのは、どうだ」
門の外から、泰衡が呼んだ。
「……九郎様は、死んでおりまする」
小太郎は、俺の目を見たままだった。
「ならば、首を。泰衡殿、お取らせなされ」
梶原の声が続いた。
すぐには、返事がなかった。頭の上で梁が鳴って、火の粉が降ってくる。
「……首を」
泰衡の声が、そこで切れた。
「小太郎とやら! 首を、と申されましたぞ!」
梶原の声が飛んだ。
小太郎が俺の顔から目を逸らした。刀が上がって、義経の首へ振り下ろされる。
転がっていた薙刀の柄を、その下へ突き出した。刃が柄に食い込んで、止まった。
斬られた左腕で義経を抱え上げると、縛った布の下で傷が裂けた。柄を地面に突いて、折れた脚に体重を乗せる。脛の中で、骨の端どうしが擦れる音がした。噛みしめた口の中に、血の味が広がる。目の前が白くなった。それでも、立った。
背中の炎に煽られて、全身に立った矢の羽根が一斉に揺れた。
小太郎が刀を取り落とし、後ずさって、膝から崩れた。
「仁王様……!」
煙の切れ目で、手綱を握った馬上の泰衡と目が合った。煤けた頬に、濡れた筋が光っていた。
梶原の目の前で、奥州は義経を討った。首を届けろと言ったのが義経なのも、分かってる。
けど、こいつだけは、誰にも渡さねえ。
俺は義経を抱え直して、母屋の方へ向き直った。
「どうした、早く首を取れ!」
後ろで梶原が叫んでも、門をくぐってくる足音はなかった。
屋根と柱が燃える中へ、脚を引きずって一歩ずつ入っていく。落ちてきた梁の炎が、門と俺の間をふさいだ。
炎の明かりの中で、二人で昼寝をした縁側の板が、反り返ってはぜている。ゆうべ向かい合って飯を食った囲炉裏端を這った火が、俺が毎晩薙刀を抱いて寝た戸口の柱を舐め上がっていく。
台所の棚では、黒と朱、黒に金の筋の椀が、三つ並んで火に包まれていた。
腕の中の義経を胸に引き寄せた。
最後まで一緒なら、まあ、いいか。
膝が崩れて、煙で何も見えなくなった。
急に、身体が引かれた。床が抜けたように沈んで、硬いものに何度もぶつかりながら、下へ下へと落ちていく。
頭上で柱の折れる音がした。
第五部 完
もうちょっとだけ続くんじゃ。
二人の行く末を、どうか見届けてください!