転生弁慶、仁王立ちで庇うたびに女装ショタ上司が曇っていく 作:なほやん
第二十六話 六月十七日
暗闇で目を覚まし、真っ先に隣へ手を伸ばした。
指先が硬い肩に触れる。そのまま肌を伝って、立ったままの矢のあいだを胸まで下りていくと、手のひらの下で心臓がどくん、どくん、と鳴っている。速くて、乱れていて、それでも止まらない。
生きている。
息を吐いたら、身体じゅうの力が抜けた。
「起きて。弁慶、起きて」
頬を撫でる。熱い。煤と血で、指がぬるついた。
弁慶の喉が鳴って、咳が一つ出た。
「……義経。生きて、いたのか」
大きな手が俺の顔に触れた。額から鼻、頬へと確かめるように指が下りていき、唇のところで止まった。
笑おうとしたら、声の代わりに涙が出た。手のひらの下で、弁慶の胸も笑うように揺れている。
「ここ、どこだ」
「台所の下の蔵だよ。僕が引きずり込んだの」
頭の上で瓦礫を踏む音がした。
咄嗟に弁慶の口を手のひらで塞ぐ。
「見事に焼け落ちましたな。して、判官殿は」
瓦礫をどける音がして、重いものが引きずり出された。裏の木戸で俺が斬った兵の死骸だろう。
梶原の声に、泰衡の声が低く答えた。
「これが、源九郎義経でございます。門の前で射られ、この館の奥へ運ばれたのは、梶原殿もご覧になった通り」
「例の……あー、立ち往生の武蔵坊殿は?」
「こちらに」
また、重いものが引きずり出される音がした。
「これでは、どれが誰やら分かりませんな」
足音が一つ、こちらへ動いた。板の隙間から灰がさらさらと降ってきて、頬に積もる。
こつ、と何かが床板を突いた。こつ、こつ、こつ。
その音が真上で止まる。
弁慶の胸がひくりと跳ねた。
「まあ、よいでしょう。判官殿の首、鎌倉に持ち帰りましょう」
足音が遠ざかって、一つだけ残った。
その一つが、床板をとん、と一度だけ踏んで、離れていった。
塞いでいた手を下ろすと、弁慶は細く長く咳をして、俺の胸の上をおそるおそる探った。
「義経、あの矢は?」
握りしめていた手を開いて、中のものを弁慶の手のひらに落とした。
「……尖ってねえ。先を、叩いて潰してある」
弁慶が鏃を指の先で転がした。
「けど、潰したって、矢は矢だろ」
「弁慶のが、止めてくれたの」
懐を押さえた。京の山道で弁慶が受けた、初めての矢の鏃が入っている。
闇の中で弁慶が息を呑む音がした。
「お前、次郎が鏃を潰してくるって、知ってたのか」
「ううん。知らなかった。本当に、死ぬ気でやったの。だから、梶原も信じたんだと思う」
涙が、止まらなくなった。
弁慶の手が俺の頭に置かれた。その手の下で、声を殺して泣いた。
「ねえ、弁慶。僕、褒めないって言ったでしょ。あれ、取り消す」
頭の上の手がぴくりとした。
「生きてここを出られたら、褒めてあげる。毎日」
返事の代わりに、頭の上の手に力がこもった。闇の中で弁慶が鼻をすする音がした。
「……毎日かよ」
「毎日」
その時、真上の床板が叩かれた。
弁慶が俺を背中の側へ押しやった。折れた脚で、まだ前に立つつもりでいる。床板が持ち上がって、細い光が差し込んできた。
「九郎様。武蔵坊殿。お久しゅうございます」
「お前、吉次か!」
煤だらけの吉次の顔が覗き込んだ。
「今は、お静かに」
吉次は松明を壁に掛けて段を下りてくると、竹筒の水を俺たちの口に含ませた。それから持ってきた板を弁慶の脛に添えて、手早く縛った。
「次郎に言われたの?」
「手前は、ただの金売りにございますゆえ」
吉次は、奥州の家来ではない。見つかっても金売りの勝手で済んで、次郎の名はどこにも出てこない。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
「礼はあとで。夜のうちに、ここを出ましょう。さあこちらへ」
肩を貸そうとした吉次の手を払い、弁慶は焼け落ちてきた垂木を一本拾って杖にした。
全身に矢を立てたまま、一段ずつ自分の足で石段を上がっていく。踏みしめるたびに、煤だらけの顔が歪んだ。
藁を積んだ荷車の底に、二人で寝かされる。上から藁をかぶせられると、焦げた匂いが乾いた草の匂いに変わった。
夜が明けるころ山奥の炭焼き小屋に着き、俺たちは
* * *
吉次が矢を抜いていくあいだ、俺は弁慶の手を握っていた。それから数日、弁慶は熱にうなされ続け、熱が下がると粥を三杯おかわりした。俺の胸の痣が薄れていくのと一緒に、弁慶の顔にも血の色が戻ってきた。
吉次は毎日のように米や薬を届けてくれた。次郎は元気にしてる、と訊くと、いつも米の値と山の天気の話をして帰っていった。
二人とも外まで歩けるようになった朝、櫛を弁慶に渡して小屋の前の切り株に座った。櫛が毛先で一度引っかかって、ほどけて、ゆっくり下まで通る。
坂の下から、米俵を背負った吉次が登ってきた。
「その櫛、あの時の……まだ持っていたのですか」
「あん時は銭貸してくれて、ありがとな。おかげで、ずっと使ってるぜ」
頭の上で弁慶がやけに得意げな声を出した。
「武蔵坊殿。櫛を贈ることの意味はご存じだったのですか」
「ん?」
「くしは、苦と死に通じまする。ゆえに、人に贈るものではない、と」
髪の途中で櫛が止まった。
「それでいて、男が櫛を贈れば、苦労も死ぬまで共に、という申し込みにもなりまする」
背中が、静かになった。
俺は知っていた。知っていて、あの市で受け取った。振り向けないまま、顔が熱くなっていく。弁慶の耳もきっと同じ色をしている。
「ある意味、両方当たりだったな」
頭の上の声も、少し上ずっていた。
吉次は空を仰いで俵を担ぎ直し、そそくさと小屋の中へ入っていった。
「ねえ。今日、何の日か知ってる?」
「知らねえ」
「六月十七日。五条の橋で、弁慶と会った日」
櫛が、止まった。
「覚えててくれて、ありがとな」
思わず振り向くと、弁慶は耳まで赤くして、明後日の方へ顔を逸らしていた。
「なに、急に。気持ち悪い」
「お前が言わせたんだろうが!」
弁慶が俺の頭を前へ戻して、また櫛を入れた。
「あの頃は、矢を一本受けただけだったのにな。今度は、全身ハリネズミだ」
「ハリネズミ?」
「こっちにはいねえのか。前の世にいたんだよ。針だらけで、丸まると針の玉になる、ちっこい獣」
「なにそれ、かわいい。弁慶とぜんぜん違う」
「うるせえ」
照れ隠しみたいに、櫛が少し乱暴に髪を通っていった。
「ハリネズミになったのは、弁慶が門で死ぬ気だったからでしょ」
「お前に言われたくねえよ。人の脛、折っといて」
「お互い、うそつきだったね」
「……だな」
櫛がまたゆっくり髪を通っていった。
「ねえ。前の世のこと、もっと教えて」
「そうだな。馬のいらねえ鉄の車が走ってて、夜でも町じゅう明るかった。食い物は、銭さえありゃ夜中でも買えた。唐の飯も、もっと遠い国の飯も」
「何が好きだったの?」
聞いてから、自分でおかしくなった。
前の世のことを打ち明けられて、もう何年もたつのに、なんでこんなことも聞かなかったんだろう。
「からあげ。鶏を油で揚げたやつ」
「じゃあ今度、作ってあげる!」
「ほんとか!?」
「うん。あとね、遊びは?」
「ネトゲ以外だと、そうだな……からおけとか。小さい部屋にこもって、好きな歌を大声で歌うんだ」
「誰と?」
「一人でだよ」
「さみしー♡ ざーこ♡」
弁慶が俺の髪を一房、指に巻きつけて引っぱった。
「じゃあ、今度は僕が一緒に行ってあげる。弁慶が歌うなら、笛で合わせてあげるよ」
背中を弁慶の胸に預けた。櫛が止まって、風が切り株の上の葉を鳴らしていった。
「ねえ。前の世で知ってる弁慶は、義経のこと、好きだったの?」
しばらく、返事がなかった。
「……知らねえ」
その弁慶の心臓が、今、俺の背中で鳴っている。
「歴史は、もう変わってるんだね……じゃあ、一緒に歳を取れるね」
懐から鏃を二つ出して、手のひらに並べた。
錆びた鏃の凹みに、丸く潰れたもう一つの鏃を当てると、ぴたりと嵌まった。
「ああ」
後ろから伸びてきた弁慶の手が、俺の手ごと二つの鏃を包んだ。
* * *
山の葉が色づきはじめた頃、二人で山鳥を捕りに出た。弁慶は杖も持たずに藪へ踏み込んでいって、飛び立った山鳥に頭から跳びつく。
「獲ったぞ、義経!」
泥だらけの坊主頭が、藪から鳥を掲げて出てきた。
弁慶に聞いたとおりに肉を切って、葛の粉をはたき、吉次が置いていった甕の油に落とす。じゅっと音がして、小屋じゅうに煙が立った。一つ目は真っ黒に焦げて、二つ目は中が赤いままで、三つ目でやっと、外がからりと揚がった。香ばしい匂いに、思わず鍋を覗き込んだ。
揚がった一つを箸でつまんで、ふうふう吹いた。
「はい、あーん♡」
「自分で食える」
「知ってる。はい、あーん♡」
弁慶はしばらく俺を睨んでいたが、やがて口を開けた。
「……ちげえ」
「えー」
「けど、うめえ。前の世のより、うめえ」
頬張ったまま、弁慶が笑った。
「えらいね」
弁慶の口がまた止まった。何度言っても、これだけは慣れないらしい。
「ちゃんと食べてえらい。ちゃんと息しててえらい。生きてて、えらい」
「……むずがゆい」
「毎日褒めるって、言ったでしょ」
弁慶はそっぽを向いたまま、焦げたのまで一つ残らず食べた。
鍋の火を落として、二人で戸口に並んで座った。山の端が少しずつ赤くなっていく。
「ねえ。これから、どうしようか」
「死んだことになってんだ。もう、どこへ行ったっていい」
弁慶は指についた油を舐めた。
「じゃあ、与一に会いに行こうよ。静にも。二人ともきっと腰を抜かすよ」
「あいつらが腰抜かすとこ、見てみてえな」
弁慶が腹を抱えて笑った。
「次郎にも。ちゃんと、ありがとうって言いにいこう」
「おう。そん時は一発殴ってからな」
笑っていると、坂の下から足音が駆け上がってきた。
米も薬も担がずに、吉次が戸口に膝をついた。息が切れて、顔が涙で濡れている。
「どうした、吉次!」
「泰衡様が亡くなられました」
息が止まった。
「鎌倉殿が自ら大軍を率いて、奥州へ入られました。泰衡様は平泉から北へ落ちられ、その途中で……」
吉次は顔を上げなかった。
「御首は、
身体が前へ折れて、床についた手の間に、涙だけが落ちた。
「なんで! なんでもっと早く教えてくれなかったの!」
「泰衡様のお言いつけにございました。お二人には何があっても申し上げるな、と」
吉次の肩が小さく震えていた。
「手前は申し上げたのです。今こそ九郎様をお呼び戻しになって、大将に、と。けれど泰衡様は、九郎は死んだ、とだけ仰せになって、二度とその話をお聞きになりませんでした」
懐の上から、二つの鏃を握りしめた。
兄上が欲しかったのは、俺の首じゃない。奥州だった。次郎が俺を射ても射なくても、兄上は攻めてきたのだ。だから、梶原があんなにあっさり引き下がった。
次郎に、ありがとうって、もう言いに行けない。
弁慶の手が戸口の柱を握りしめていた。
「俺は、言ったんだぞ。
柱から手を離して、弁慶が息を一つ吐いた。
「行くぞ、義経」
顔を上げると、夕日を背に、弁慶が立ち上がっていた。
「どこに」
「次郎の首。取り戻しに行こうぜ」
夕日がまぶしくて、弁慶の顔がよく見えない。口を開けたまま、しばらくその影を見上げていた。
なんだ。それで、いいのか。
「ほんと、単純なんだから。そういうところが大好きだよ」
「ああ。俺も、お前が好きだ」
泣いているのに、笑ってしまった。袖で目を拭っても、拭ったそばから、また濡れていく。
吉次が咳払いを一つした。
「しかし、陣岡には鎌倉殿の大軍が……」
「こっちはもう死人だ。せいぜい怖がらせてやるよ」
吉次はぽかんと弁慶を見上げて、それから濡れた顔のまま笑い出した。
「お頼み申します。九郎様、武蔵坊殿」
「任せとけ」
弁慶が手を差し出す。
その手を掴んで、俺は立ち上がった。