転生弁慶、仁王立ちで庇うたびに女装ショタ上司が曇っていく 作:なほやん
巴御前
「なんで……なんであの男にはわかるのだ! 私がどこを射るのかが!」
「俺の後ろに付け!」
そう叫んだ大男が両腕を広げ荷馬の首に覆いかぶさると、その陰に鎌倉の兵が一人、また一人と身を寄せていく。
私は弓を引き絞った。
兵の胸を狙い、射つ。
大男の腕が防ぐ。
次の兵を狙って射つ。
大男の胴で、かん、と鳴る。
私が狙いを定めた時には、もうそこにいる。弦を引き絞るより先に矢の行く先へ体を入れている。
女が弓など、と笑わなかったのは木曽殿だけだった。だから私はどの男よりも強い弓を引けるようになった。木曽殿の隣にいるために何だって射抜いてきた。
その弓があの男の後ろへ一本も届かない。
土手を駆けた。列の端まで走って斜めから陰の中を狙う。正面が駄目なら横から射抜く。
引き絞った。陰の中の兵の脇腹が見えた。放つ。
あの男は荷馬ごと半歩動いて肩で受けた。矢が肩に立つ。それでも腕を広げたままだった。
おかしい。あの男はおかしい。
「巴殿、矢を番える間に、また渡られます!」
隣の射手が叫んだ。列へ駆け戻って手を振り下ろした。列の弦がそろって鳴る。大男に当たる。止む。私たちが次の矢を番えるわずかな間に、陰から兵が飛び出して向こう岸へ渡っていく。番え終えた時には、陰にもう次の兵が入っている。
もう一度、手を振り下ろす。鳴る。当たる。止む。渡られる。
私の合図が読まれていた。
まさか高い所からこの戦場を見下ろしているとでもいうのか。
遠矢ではあの男は抜けぬ。近づいて射抜く。
木曽殿の都をあんな男一人に破らせはしない。
土手を駆け下りた。渡りきった鎌倉の兵は下流に固まっている。そこを避けて、上流の川の際まで走る。水しぶきが顔にかかるほど近づくと、大男の鎧の
木曽殿の隣でずっと引いてきた強弓を耳の後ろまで絞る。腕が震えるのを歯を食いしばって止めた。
この間合いなら鎧ごと貫ける。
放った。
左の胸の札に矢が突き立った。大男の体が大きく揺れる。
——やった!
「痛ってえ! この鎧がなけりゃ、死んでたぜ!」
大男は胸を押さえもしなかった。
——馬鹿な。
次の瞬間、女のような顔の小柄な若武者が、黒い馬に乗って大男の陰から飛び出した。
「今だ! 行け!」
大男が吠えると、その陰から兵が次々に流れを突っ切っていく。先頭の若武者はすでに水しぶきを上げて私の脇を抜け、土手を駆け上がって太刀を抜いていた。
「押せ!」
高い声で叫ぶなり射手の列の真ん中へ斬り込んでいく。
次の矢を。背の
「もっと矢を!」
振り返ると、射手の列はずっと上の土手にあって、川の際まで下りてきたのは私一人だった。上で弦の音が揃わない。手を振り下ろす者がいないまま、ばらばらに鳴ってばらばらに止む。若武者に斬り込まれた射手たちが列を乱して逃げ出し、味方の背中が残った射手の矢筋を塞いでいく。
その隙間を縫って鎌倉の兵が次々に岸へ上がっていく。
しまった。
土手を駆け上がった。崩れていく列の中を人を押しのけて陣へ走る。
私だ。私が列を抜けたから。あの男一人に目を奪われて、この人の隣を空けたから。
「木曽殿!」
敵の背中に組みつき、首をねじ切って捨てた。
木曽殿の隣へ滑り込む。返り血の散る頬に乱れ髪が張りつき、その奥で目だけが信濃の山で並んで馬を駆った頃と変わらなかった。
「巴、なぜ戻った」
「最後まで隣で戦います!」
「ならぬ! お前は生き延びよ!」
「なぜです! 私は、どの男よりも強い弓を引けます!」
「知っておる」
「ならば!」
「女を連れて死んだと、後の世まで言われとうない」
木曽殿は私の目を見なかった。
嘘だ。この人が、本気で言うはずがない。
思わずその腕を掴んだ。籠手の上から指が食い込むほど強く。
木曽殿はその指を一本ずつ外した。郎党が引いてきた馬の手綱を私の手に握らせる。
「わしは瀬田へ抜ける。行け、巴」
嫌だ。あなたのいない世で生きていたくなんかない。
そう言えば、この人はもっと困った顔をする。だから、言わなかった。
泣きながら馬にまたがり馬首を返した。振り返らなかった。振り返れば、戻ってしまう。
木曽殿が近江の
* * *
鎌倉の兵に捕らえられてからのことはよく覚えていない。
木曽殿のいない世に生きて、なんになろうか。食べろと言われれば食べ、眠れと言われれば横になった。そうしているうちに、木曽殿を討った側の、和田義盛という声の大きな男へ妻として下げ渡されていた。
あのような剛の者に子を産ませたいと鎌倉殿に願い出たのだという。私の弓を見て恐れもせずに面白がった男は、木曽殿のほかにはこの男だけだった。それが余計に腹立たしかった。
翌年の五月、その夫が西国から戻ってきた。
「判官殿も、哀れなものよ」
酒を飲みながら夫は上機嫌で喋った。平家を沈めた判官殿が鎌倉へ入れてもらえず、腰越で足止めされている。毎朝木戸の前で来もしない兄の返事を待っているのだと。
「兄にも会えぬ弟よと、皆が笑っておるわ」
夫の盃に酒を注いだ。手が震えないように両手で注いだ。
判官は木曽殿を討った男だ。兄に会えないくらいで哀れなものか。
私が笑ってやる。そして、殺してやる。
「殿」
夫の膝に手を置いた。この屋敷に来てから、自分から触れるのは初めてのことだ。
「今宵は、ゆるりと飲みとうございます」
夫は目を丸くして、それから大声で笑った。夜が更けるまで注ぎ続けると、夫は大の字になっていびきをかきはじめる。その帯から蔵の鍵をそっと抜いた。蔵の奥には捕らえられた時に取り上げられた私の弓がまだあった。
夜明け前、腰越の木戸の脇の藪に身を沈めて待つと、寺の方から二人が歩いてきた。
前を行くのは薄い青の小袖の娘だった。後ろをあの大男がついてくる。眠れていないのか、目の下が黒い。
大男が鎌倉へ続く道の先を見て言った。
「今日は、返事が来るといいな」
「……来るよ」
その掠れた声でわかった。娘ではない。判官だ。
細い肩も、白い頬も、戦場で見た鎧姿とはどうしても結びつかない。
けれど、宇治川であの大男の陰から飛び出していった時に聞いた声。忘れるものか。
木戸には鎌倉の兵が立っている。射れば私もすぐに囲まれて死ぬだろう。
それでいい。
矢を番えて弦を引き絞る。木戸の手前で判官が足を止めた。
青い袖の胸に狙いが定まる。
——今。
放とうとした、まさにその時。後ろにいたはずの大男が、判官の前へ一歩出ていた。
私の方を見もせずに、ただ矢の行く先に黙って立つ。
「弁慶?」
「……なんでもねえ。なんか、こっちに立ってなきゃいけねえ気がしてな」
弦を引いたまま、私は動けなくなった。
——やはりこの男は、化け物だ。
判官はそれ以上何も聞かず、大男の震える腕を両手で取って、袖の上から擦りはじめた。
狙いを大男の胸へ移した。宇治川で私の矢を止めた鎧は、今日はない。
今は射抜ける。判官から盾を奪える。
お前たちが私から木曽殿を奪ったように。
「ねえ、弁慶」
判官は道の先を見たまま、腕を擦る手も止めずに小さく言った。
「先に死んだら、許さないから」
「……お前こそな」
——先に死んだら、許さないから。
なんで私には、それが言えなかったのだ。
違う。
なんで私は、そう
置いていかないでくれ、と。先に死んだら許さない、と。
女を連れて死んだと言われとうない。木曽殿はそう言って、私の目を見なかった。
腕を掴んだ私の指を、一本ずつ外した。
生き延びよ。
あれは、命令などではなかった。
溢れる涙が、弓を引く手を濡らした。
この矢を放てば、私もここで死ぬ。
あの人が最後に遺した言葉を、私がこの手で射抜くことになる。
だから私は、弦をゆっくり戻した。