転生弁慶、仁王立ちで庇うたびに女装ショタ上司が曇っていく   作:なほやん

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第九話 六年

 

 男が眠っている。

 

 平泉に来てから、この男が夜に眠るのを見るのは初めてだった。火傷の熱が上がって、夕餉の途中で箸を落とし、そのまま倒れるように横になった。山が崩れるような音を立てて、息をしている。

 

 焼けた両手には、俺が布を巻いた。井戸の水に浸した布で手のひらの熱を取り、ぬるくなったら替える。それをさっきから何度も繰り返している。

 

 戸の外には継信(ヒゲ)が座っている。警固(けいご)を申しつかったと言っていたが、本当に一晩じゅうあそこにいるつもりらしい。寝ずの番を代わる者がやっと来た。だから、この男は眠れる。

 

 水を汲み直しに戸を開けると、ヒゲが顔を上げた。

 

「九郎様。武蔵坊殿のご様子は」

「寝てる」

「左様でござるか」

 

 ヒゲはほっとしたように息をついた。

 

「見事でござった。あのように身を挺せる者は、そうはおりませぬ」

「……そうだね」

 

 それ以上は何も言わなかった。ヒゲは少し首を傾げていた。

 

 部屋の隅には、俺が裾を踏んだ焦げた上着が畳んである。あれを踏まなければ、子供を抱えたまま駆け抜けられて、この男は焼けずに済んだ。

 

 布を替える。

 

 懐の中で、櫛と蓮の実と、あの矢から外した鏃(やじり)が触れ合った。

 

 この男は奥州に入る前から、ずっと何かを警戒していた。奥州へ向かう道中で「死ぬとこじゃねーか」と叫んだ。宴では毒見をし、三晩寝なかった。

 

 秀衡(ひでひら)殿は清盛(きよもり)の推挙で鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)になった人だ。その屋敷に源氏の子がいると平家に知れたら、差し出せと言われてもおかしくない。この男は、それを警戒していたのか。いや。櫛を贈る意味も知らずに、主君へ突き出してくる男だ。そんな先まで考えるはずがない。

 

 それに、京の山道で矢を受けた時にも、「俺はまだ死なない」と言った。まるで自分の死ぬ場所を知っているような口ぶりで。

 

 分からない。この男だけは、いくら勘定しても分からない。

 

 布を替える。

 

 それでも最近のこの男は少しだけ力が抜けていた。市で「何もしねえなら、俺は殿の隣で一緒に昼寝する」と言われた時、俺は笑った。

 

 なのに、また盾になった。篝の下で焼けながら笑って、「大丈夫だ」と言った。そして、褒められた。みんなに。

 

 褒めてしまったら、この男は止まらない。

 どうすればいい。

 

 答えはたぶん一つしかない。ここで、何もしないでいることだ。俺(・)が(・)何(・)も(・)し(・)な(・)け(・)れ(・)ば(・)、(・)こ(・)の(・)男(・)は(・)前(・)に(・)立(・)た(・)ず(・)に(・)済(・)む(・)。

 

 眠っている男の手の布をもう一度替えた。

 

     * * *

 

「はい、あーん♡」

「自分で食える」

「持てないでしょ?」

 

 持てていない。布でぐるぐるに巻かれた手の間から、箸が二本とも床に転がった。

 

「はい、あーん♡」

 

 食べた。

 食べてくれた。

 

「うまい」

 

 この男は、橋の翌朝に握り飯を二つ食べた時と同じ顔をしていた。

 

 三日目にもなると諦めたらしい。口を開けるのが少しずつ早くなっている。食べ終わると、布を替える。

 

「もういいって。だいぶ治った」

「まだ」

「もう痛くねえよ」

「まだ」

 

 手のひらの皮がまだ赤く引きつっている。痛くないはずがない。

 

「九郎どの。弁慶どの」

 

 戸口から、次郎どの——泰衡(やすひら)の声がした。

 

「父からの礼と、相撲の褒美をお持ちしました。弁慶どのには、馬もご用意しております。手が治られたら」

 

 次郎どのは砂金の袋を置いて、すぐに帰っていった。

 

 褒美の砂金は小さな袋に入っていたが、この男の布の手では受け取れない。

 

「殿。それ、吉次に返しといてくれ」

「吉次に?」

「櫛の分だよ。借りたろ、市で」

 

 借りたのは知っている。

 

「中身が砂金でよ。櫛一つに、ひとすくい取られた」

 

 褒美を手にして、この男が最初に言ったのが、それだった。

 

 宴の夜、秀衡殿は唐櫃(からびつ)の蓋いっぱいの砂金をくれた。灯を跳ね返して、まぶしかった。この男が払ったのは、ひとすくいだ。借りた、ひとすくい。

 

 懐に手をやると、櫛はそこにあった。目の前に布を巻いた手がある。

 

「ふうん」

「なんだよ」

「なんでもない」

 

 砂金の袋を、握った。

 

     * * *

 

 この男の手から布が取れたのは、ひと月たった朝だった。

 

 焦げた上着は、そのひと月のあいだ夜ごとに繕った。焼けて穴のあいた裾を切り落とし、継ぎを当てた。針を持つのは初めてで、何度も指を刺した。継ぎ目はどうやってもまっすぐにならなかった。

 

 畳んだ上着を膝の前に置くと、この男は目を丸くした。

 

「お前が縫ったのか」

「うん」

「……いらねえよ」

 

 上着をこっちへ押し返してきた。

 

「それ被せたせいで、お前、逃げ遅れたんだろ。俺のせいだ」

 

 違う。裾を踏んだのは俺だ。そう言ったところで、この男は「違う、俺だ」と言い返すに決まっている。どっちが悪いかで日が暮れるまで揉めても、上着は受け取らない。

 

「弁慶」

 

 名を呼ぶと、この男の背筋が少し伸びた。

 

「篝火の夜、子供を守ってくれた。主君として、礼をする。受け取って」

 

 言ってから、しまったと思った。

 

 この男は膝に手をつき、上着を両手で押しいただいた。

 

「……ありがたく、頂戴します」

 

 聞いたことのない声だった。この男は上着を抱えて部屋を出ていき、曲がった継ぎの裾が廊下の角で見えなくなった。

 

 返せたのに、何かを一つ取り上げられた気がした。

 

     * * *

 

 数日後、次郎どのが三頭の馬を連れてきた。

 

「弁慶どのに、一頭と思ったのですが。……どれがよいか、決めきれませんで」

 

 次郎どのは困ったように笑った。

 

 三頭とも見事な馬だったが、弁慶が鞍に手をかけただけで脚を震わせた。馬場の向こうではヒゲが涼しい顔で馬を歩かせている。

 

「拙者の方が、馬は上手いようでござるな」

「うるせえヒゲ!」

 

 三頭が引かれていくのを弁慶は柵にもたれて黙って見送っていた。それから、ふらりと厩の方へ歩いていった。

 

 厩の隅に荷を運ぶための馬が一頭つながれていた。背が低く、脚も首も太い。毛はぼさぼさで見栄えはまるでしない。

 

 弁慶が近づいてもその馬は逃げず、耳を一つ動かしただけで干し草を噛(か)み続けている。鞍もない背にそのまま跨(また)がると、馬は鼻を一つ鳴らした。沈まない。震えもしない。

 

 弁慶の顔が、変わった。

 

「こいつだ」

「それ、荷運びの馬だよ?」

「いいんだよ。俺が乗って震えねえのは、こいつだけだ」

 

 焼けた痕の残る手で、その馬の首を撫でていた。馬のくせに、気持ちよさそうに目を細めている。

 あの時みたいに、髪をぐしゃぐしゃにして撫でてほしいのに。

 

 次の日から、その荷馬に鞍を載せて稽古を始めた。

 

「手綱、引きすぎ」

「引かねえと止まらねえだろ」

「力で言うこと聞かせようとしないの。馬は、ハゲのことちゃんと見てるよ」

 

 弁慶が手綱を緩めると、馬の首が少し下がった。弁慶は言われたとおりに直し、一度も言い返さなかった。

 

 妙な気分だった。いつもは弁慶が前に立って、俺が後ろにいる。今日は俺が前を行って、弁慶が後ろからついてくる。

 

 少しずつ走れるようになった。並んで駆けると弁慶は子供みたいな顔をしていた。

 

「そうそう。ほら、できるじゃん」

 

 馬場の端にある急な坂へ向けて手綱を緩め、俺は馬ごとまっすぐ駆け下りた。

 

「おい!? 死ぬぞ!?」

 

 坂の上で弁慶が叫んでいた。

 

「平気。馬は四つ足だもん」

 

 しばらくして、弁慶が坂を下り始めた。荷馬は、駆けなかった。一歩ずつ、のしのしと坂を下りてくる。背中の弁慶は手綱を握りしめて、真っ青な顔をしていた。一度も、転ばなかった。

 

「……こいつも、四つ足だからな」

 

     * * *

 

 それから、六年が過ぎた。

 

 弁慶はいつの間にか「まだ死なない」と言わなくなった。寝ずの番をやめて、縁側で昼寝をするようになった。

 

 次郎どのとも毎日のように顔を合わせた。生まれて初めてできた、友達だった。最初の冬、庭で雪を投げ合った。次郎どのの投げた雪玉が俺の方へ飛んでくると、ハゲとヒゲが同時に俺の前へ飛び出し、頭と頭をぶつけた。雪玉は二人の間を抜けて、俺の肩に当たった。

 

「俺の方が先に庇った!」

「拙者の方が先でござる!」

「はいはい、ハゲもヒゲも暑苦しいよー」

 

 次郎どのが雪の上で腹を抱えて笑っていた。ハゲとヒゲはいつも同じことで揉めた。

 

 二年目の秋、北上川へ鮭を獲りに行った。得意だと言っていた次郎どのは、最初の一匹に飛びついてそのまま川へ落ち、ずぶ濡れで浅瀬に座り込んだまま、空を見上げて笑った。

 

「俺にも一匹くらい、格好をつけさせてくれ」

 

 次郎どのが「俺」と言うのを、初めて聞いた。池で俺が父上のことを言いかけて黙った時、この人は何も訊かなかった。だから、俺も訊かなかった。その日は俺が三匹獲って、一匹を次郎どのに分けた。

 

 篝火の夜から、館の者は弁慶を「忠臣」と呼ぶようになった。あれほどの忠義者は、そうはおりませぬ。九郎様はよい家来をお持ちだ。会う者がみんなそう言った。

 

 京を出たばかりの宿では、「そんな大層なもんじゃねえよ」と返していた。今の弁慶は頭を掻いて、「どうも」と笑う。

 

 弁慶が褒められるたびに、忠義なんかじゃない、と言ってほしかった。

 誰も、褒めないでほしかった。

 

 三年目の正月、秀衡殿の広間で宴があった。俺はいつものように隣を一人分空けておいたが、弁慶はそこへ来ず、郎党たちの列の端に膝をついた。

 

「ハゲ、こっち」

 

 いつもなら、「ハゲ言うな!」が返ってくる。

 

「いや。殿の隣は、俺の座るとこじゃねえ」

 

 隣の郎党が、弁えておられる、と感心したように頷いた。

 

 来い、と言えば来る。弁慶は俺の言いつけなら何でも聞く。

 言いつけて座らせたいわけじゃない。

 

「ふうん。じゃあ、ここは干し柿の席ね」

 

 空けた場所に干し柿を一つ置いた。宴が終わるまで、そこには誰も座らなかった。

 

 宴のあいだ、列の端から何度か視線を感じた。顔を向けると、弁慶はすぐに目を逸らした。

 

 それからは二人きりの時にしか、「うるせえ」が返ってこなくなった。

 

 メスガキ、とも呼ばれなくなった。前は少し煽るだけで真っ赤になって、メスガキ、と怒鳴り返してきたのに。だから、煽った。袖で口元を隠して、上目遣いに見上げる。

 

「ねえ、湯殿あいてるって。いっしょに入らない?♡」

「誘惑すんなメス——」

 

 弁慶はそこで口を止め、一つ咳払いをしてから言い直した。

 

「行かねえよ、殿」

 

 殿。

 元服した日、初めてそう呼ばれた時は、あんなに嬉しかった。

 でも今は。

 

 メスガキ、でよかったのに。

 

 縁側で口を開けて寝ていたので、頭に墨で「番犬」と書いた。洗えば落ちるのに、三日そのままだった。弁慶は怒りもしなかった。

 

 櫛は、毎朝使っている。髪は切らずに伸ばした。長いほど、一度に長く櫛を通していられる。六年で、背中に届いた。蓮の実は懐に入れたままだ。六年のあいだ、俺は何もしないでいた。弁慶は一度も、俺のために傷を負わずに済んだ。

 

 夏の衣を選んでいた朝、次郎どのが、並べた小袖の中から男物を一枚広げた。

 

「こちらにしてみてはいかがです。もう、姿を隠す必要もありませんし」

 

 受け取って肩に掛けてみた。袖も丈もちょうどよく、腕を動かしても窮屈ではない。

 

「よくお似合いです」

「じゃあ、こっちは?」

 

 男物を膝に置き、隣の女物を肩に掛けた。次郎どのは少し離れて眺めた。

 

「こちらも、よくお似合いです」

 

 膝の上の男物を撫でた。これを着たら、弁慶は何と言うだろう。

 

 ——変じゃねえよ。似合ってる。

 

 そう言った弁慶の顔を、今でも昨日のように覚えている。俺は男物を畳み、女物の方を手元に残した。

 

「こっちにする」

 

 次郎どのが帰ったあと、選んだ小袖に着替えた。懐に櫛を入れ、弁慶を探しに行った。

 

 縁側で寝転がっていたので、隣に座って髪を梳(す)いた。弁慶が片目を開けて、こっちを見上げた。

 

「なんで大人になったのに、見た目が美少女のままなんだよ……」

「なに?」

「せめて美青年であってくれ……」

 

 庭の木で蝉(せみ)がもう鳴き始めている。櫛を置いて弁慶の隣に寝転び、その肩に頭を乗せた。

 

「ねえ。僕、もう子供じゃないんだよ?」

 

 一瞬だけ、間があった。その間が何なのか、俺には分からない。

 

「はいはい」

 

 本気だと言えば、弁慶はきっと困る。困らせたくない。

 

「ざーこ♡」

「うるせえ」

 

 人のいない朝の縁側でだけ、弁慶はまだ、ハゲのままでいてくれる。これも、いつか忠臣に変わるのだろうか。

 

 同じ縁側で、同じ蝉を聞いている。

 

 このまま、何もしないでいられたらいいのに。

 

 吉次が伊豆の兄上の報せを持って駆け込んできたのは、その夏の終わりだった。

 





 美少年は成長しても美少年なのです。
 次回は、弁慶視点でこのすれ違いの裏側もお届けします。
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