転生弁慶、仁王立ちで庇うたびに女装ショタ上司が曇っていく 作:なほやん
男が眠っている。
平泉に来てから、この男が夜に眠るのを見るのは初めてだった。火傷の熱が上がって、夕餉の途中で箸を落とし、そのまま倒れるように横になった。山が崩れるような音を立てて、息をしている。
焼けた両手には、俺が布を巻いた。井戸の水に浸した布で手のひらの熱を取り、ぬるくなったら替える。それをさっきから何度も繰り返している。
戸の外には
水を汲み直しに戸を開けると、ヒゲが顔を上げた。
「九郎様。武蔵坊殿のご様子は」
「寝てる」
「左様でござるか」
ヒゲはほっとしたように息をついた。
「見事でござった。あのように身を挺せる者は、そうはおりませぬ」
「……そうだね」
それ以上は何も言わなかった。ヒゲは少し首を傾げていた。
部屋の隅には、俺が裾を踏んだ焦げた上着が畳んである。あれを踏まなければ、子供を抱えたまま駆け抜けられて、この男は焼けずに済んだ。
布を替える。
懐の中で、櫛と蓮の実と、あの矢から外した
この男は奥州に入る前から、ずっと何かを警戒していた。白河の関の手前で「死ぬとこじゃねーか」と叫んだ。宴では毒見をし、三晩寝なかった。
それに、京の山道で矢を受けた時にも、「俺はまだ死なない」と言った。まるで自分の死ぬ場所を知っているような口ぶりで。
分からない。この男だけは、いくら勘定しても分からない。
布を替える。
それでも最近のこの男は少しだけ力が抜けていた。市で「何もしねえなら、俺は殿の隣で一緒に昼寝する」と言われた時、俺は笑った。
なのに、また盾になった。篝の下で焼けながら笑って、「大丈夫だ」と言った。そして、褒められた。みんなに。
褒めてしまったら、この男は止まらない。
どうすればいい。
答えはたぶん一つしかない。ここで、何もしないでいることだ。
眠っている男の手の布をもう一度替えた。
* * *
「はい、あーん♡」
「自分で食える」
「持てないでしょ?」
持てていない。布でぐるぐるに巻かれた手の間から、箸が二本とも床に転がった。
「はい、あーん♡」
食べた。
食べてくれた。
「うまい」
この男は、橋の翌朝に握り飯を二つ食べた時と同じ顔をしていた。
三日目にもなると諦めたらしい。口を開けるのが少しずつ早くなっている。食べ終わると、布を替える。
「もういいって。だいぶ治った」
「まだ」
「もう痛くねえよ」
「まだ」
手のひらの皮がまだ赤く引きつっている。痛くないはずがない。
「九郎どの。弁慶どの」
戸口から、次郎どの——
「父からの礼と、相撲の褒美をお持ちしました。弁慶どのには、馬もご用意しております。手が治られたら」
次郎どのは砂金の袋を置いて、すぐに帰っていった。
褒美の砂金は小さな袋に入っていたが、この男の布の手では受け取れない。
「殿。それ、吉次に返しといてくれ」
「吉次に?」
「櫛の分だよ。借りたろ、市で」
借りたのは知っている。
「中身が砂金でよ。櫛一つに、ひとすくい取られた」
褒美を手にして、この男が最初に言ったのが、それだった。
宴の夜、秀衡殿は
懐に手をやると、櫛はそこにあった。目の前に布を巻いた手がある。
「ふうん」
「なんだよ」
「なんでもない」
砂金の袋を、握った。
* * *
この男の手から布が取れたのは、ひと月たった朝だった。
焦げた上着は、そのひと月のあいだ夜ごとに繕った。焼けて穴のあいた裾を切り落とし、継ぎを当てた。針を持つのは初めてで、何度も指を刺した。継ぎ目はどうやってもまっすぐにならなかった。
畳んだ上着を膝の前に置くと、この男は目を丸くした。
「お前が縫ったのか」
「うん」
「……いらねえよ」
上着をこっちへ押し返してきた。
「それ被せたせいで、お前、逃げ遅れたんだろ。俺のせいだ」
違う。裾を踏んだのは俺だ。そう言ったところで、この男は「違う、俺だ」と言い返すに決まっている。どっちが悪いかで日が暮れるまで揉めても、上着は受け取らない。
「弁慶」
名を呼ぶと、この男の背筋が少し伸びた。
「篝火の夜、子供を守ってくれた。主君として、礼をする。受け取って」
言ってから、しまったと思った。
この男は膝に手をつき、上着を両手で押しいただいた。
「……ありがたく、頂戴します」
聞いたことのない声だった。この男は上着を抱えて部屋を出ていき、曲がった継ぎの裾が廊下の角で見えなくなった。
返せたのに、何かを一つ取り上げられた気がした。
* * *
数日後、次郎どのが三頭の馬を連れてきた。
「弁慶どのに、一頭と思ったのですが。……どれがよいか、決めきれませんで」
次郎どのは困ったように笑った。
三頭とも見事な馬だったが、弁慶が鞍に手をかけただけで脚を震わせた。馬場の向こうではヒゲが涼しい顔で馬を歩かせている。
「拙者の方が、馬は上手いようでござるな」
「うるせえヒゲ!」
三頭が引かれていくのを弁慶は柵にもたれて黙って見送っていた。それから、ふらりと厩の方へ歩いていった。
厩の隅に荷を運ぶための馬が一頭つながれていた。背が低く、脚も首も太い。毛はぼさぼさで見栄えはまるでしない。
弁慶が近づいてもその馬は逃げず、耳を一つ動かしただけで干し草を
弁慶の顔が、変わった。
「こいつだ」
「それ、荷運びの馬だよ?」
「いいんだよ。俺が乗って震えねえのは、こいつだけだ」
焼けた痕の残る手で、その馬の首を撫でていた。馬のくせに、気持ちよさそうに目を細めている。
あの時みたいに、髪をぐしゃぐしゃにして撫でてほしいのに。
次の日から、その荷馬に鞍を載せて稽古を始めた。
「手綱、引きすぎ」
「引かねえと止まらねえだろ」
「力で言うこと聞かせようとしないの。馬は、ハゲのことちゃんと見てるよ」
弁慶が手綱を緩めると、馬の首が少し下がった。弁慶は言われたとおりに直し、一度も言い返さなかった。
妙な気分だった。いつもは弁慶が前に立って、俺が後ろにいる。今日は俺が前を行って、弁慶が後ろからついてくる。
少しずつ走れるようになった。並んで駆けると弁慶は子供みたいな顔をしていた。
「そうそう。ほら、できるじゃん」
馬場の端にある急な坂へ向けて手綱を緩め、俺は馬ごとまっすぐ駆け下りた。
「おい!? 死ぬぞ!?」
坂の上で弁慶が叫んでいた。
「平気。馬は四つ足だもん」
しばらくして、弁慶が坂を下り始めた。荷馬は、駆けなかった。一歩ずつ、のしのしと坂を下りてくる。背中の弁慶は手綱を握りしめて、真っ青な顔をしていた。一度も、転ばなかった。
「……こいつも、四つ足だからな」
* * *
それから、六年が過ぎた。
弁慶はいつの間にか「まだ死なない」と言わなくなった。寝ずの番をやめて、縁側で昼寝をするようになった。
次郎どのとも毎日のように顔を合わせた。生まれて初めてできた、友達だった。最初の冬、庭で雪を投げ合った。次郎どのの投げた雪玉が俺の方へ飛んでくると、ハゲとヒゲが同時に俺の前へ飛び出し、頭と頭をぶつけた。雪玉は二人の間を抜けて、俺の肩に当たった。
「俺の方が先に庇った!」
「拙者の方が先でござる!」
「はいはい、ハゲもヒゲも暑苦しいよー」
次郎どのが雪の上で腹を抱えて笑っていた。ハゲとヒゲはいつも同じことで揉めた。
二年目の秋、北上川へ鮭を獲りに行った。得意だと言っていた次郎どのは、最初の一匹に飛びついてそのまま川へ落ち、ずぶ濡れで浅瀬に座り込んだまま、空を見上げて笑った。
「俺にも一匹くらい、格好をつけさせてくれ」
次郎どのが「俺」と言うのを、初めて聞いた。池で俺が「俺」と言った時、この人は何も訊かなかった。だから、俺も訊かなかった。その日は俺が三匹獲って、一匹を次郎どのに分けた。
篝火の夜から、館の者は弁慶を「忠臣」と呼ぶようになった。あれほどの忠義者は、そうはおりませぬ。九郎様はよい家来をお持ちだ。会う者がみんなそう言った。
京を出たばかりの宿では、「そんな大層なもんじゃねえよ」と返していた。今の弁慶は頭を掻いて、「どうも」と笑う。
弁慶が褒められるたびに、忠義なんかじゃない、と言ってほしかった。
誰も、褒めないでほしかった。
三年目の正月、秀衡殿の広間で宴があった。俺はいつものように隣を一人分空けておいたが、弁慶はそこへ来ず、郎党たちの列の端に膝をついた。
「ハゲ、こっち」
いつもなら、「ハゲ言うな!」が返ってくる。
「いや。殿の隣は、俺の座るとこじゃねえ」
隣の郎党が、弁えておられる、と感心したように頷いた。
来い、と言えば来る。弁慶は俺の言いつけなら何でも聞く。
言いつけて座らせたいわけじゃない。
「ふうん。じゃあ、ここは干し柿の席ね」
空けた場所に干し柿を一つ置いた。宴が終わるまで、そこには誰も座らなかった。
宴のあいだ、列の端から何度か視線を感じた。顔を向けると、弁慶はすぐに目を逸らした。
それからは二人きりの時にしか、「うるせえ」が返ってこなくなった。
メスガキ、とも呼ばれなくなった。前は少し煽るだけで真っ赤になって、メスガキ、と怒鳴り返してきたのに。だから、煽った。袖で口元を隠して、上目遣いに見上げる。
「ねえ、湯殿あいてるって。いっしょに入らない?♡」
「誘惑すんなメス——」
弁慶はそこで口を止め、一つ咳払いをしてから言い直した。
「行かねえよ、殿」
殿。
元服した日、初めてそう呼ばれた時は、あんなに嬉しかった。
でも今は。
メスガキ、でよかったのに。
縁側で口を開けて寝ていたので、頭に墨で「番犬」と書いた。洗えば落ちるのに、三日そのままだった。弁慶は怒りもしなかった。
櫛は、毎朝使っている。髪は切らずに伸ばした。長いほど、一度に長く櫛を通していられる。六年で、背中に届いた。蓮の実は懐に入れたままだ。六年のあいだ、俺は何もしないでいた。弁慶は一度も、俺のために傷を負わずに済んだ。
夏の衣を選んでいた朝、次郎どのが、並べた小袖の中から男物を一枚広げた。
「こちらにしてみてはいかがです。もう、姿を隠す必要もありませんし」
受け取って肩に掛けてみた。袖も丈もちょうどよく、腕を動かしても窮屈ではない。
「よくお似合いです」
「じゃあ、こっちは?」
男物を膝に置き、隣の女物を肩に掛けた。次郎どのは少し離れて眺めた。
「こちらも、よくお似合いです」
膝の上の男物を撫でた。これを着たら、弁慶は何と言うだろう。
——変じゃねえよ。似合ってる。
そう言った弁慶の顔を、今でも昨日のように覚えている。俺は男物を畳み、女物の方を手元に残した。
「こっちにする」
次郎どのが帰ったあと、選んだ小袖に着替えた。懐に櫛を入れ、弁慶を探しに行った。
縁側で寝転がっていたので、隣に座って髪を
「なんで大人になったのに、見た目が美少女のままなんだよ……」
「なに?」
「せめて美青年であってくれ……」
庭の木で
「ねえ。僕、もう子供じゃないんだよ?」
一瞬だけ、間があった。その間が何なのか、俺には分からない。
「はいはい」
本気だと言えば、弁慶はきっと困る。困らせたくない。
「ざーこ♡」
「うるせえ」
人のいない朝の縁側でだけ、弁慶はまだ、ハゲのままでいてくれる。これも、いつか忠臣に変わるのだろうか。
同じ縁側で、同じ蝉を聞いている。
このまま、何もしないでいられたらいいのに。
吉次が伊豆の兄上の報せを持って駆け込んできたのは、その夏の終わりだった。
美少年は成長しても美少年なのです。
次回は、弁慶視点でこのすれ違いの裏側もお届けします。