あれから私は、なんてことはないと言えてしまうほど平和な日々を過ごしていた。
その間に、この世界についていくつか分かったことがある。
まず、最も大きなもの。
深海棲艦は、現実に存在している。
テレビや新聞で連日のように報じられているのだから、嫌でも知ることになった。
そして、それに伴って鎮守府の存在も確認できた。
艦娘もまた、存在しているらしい。
とはいえ、「艦娘」という名前そのものを見つけたわけではない。
彼女たちに関する情報は、かなり厳しく隠されているようだった。
それでも、オカルト写真のような不鮮明な画像の中に、水上を走る少女たちの姿が写っていることがある。
私には、それだけで十分だった。
次に分かったのは、交通事情が私の知っているものとは大きく異なっていること。
飛行機や船といった海を越える交通手段は、激減しているらしい。
漁業ですら基本的には鎮守府周辺でしか行われておらず、船で人を運ぶことに至っては、ほとんど行われていない。
深海棲艦が海を支配しているのだから、ある意味では当然なのだろう。
ただ。
それを知ってから、一つだけ疑問が残っていた。
今、私は楓の家で暮らさせてもらっている。
そして食卓には、ときどき魚料理が並ぶ。
楓に街を案内してもらううちに、魚屋があることも確認した。
けれど、鎮守府の数は決して多くない。
調べられた範囲では、私が知っている『艦これ』のサーバー所在地と、そう大きく変わらない程度しか存在しないようだった。
ならば。
ここ、苫小牧では、いったいどうやって魚を獲っているのだろう。
楓に尋ねても、
「考えたことなかったなあ」
と返されてしまっては、それ以上どうしようもなかった。
そんなことを考えながら米を研いでいると、玄関の方から慌ただしい音が聞こえた。
「たまちゃーん!」
続いて、私を呼ぶ大きな声。
楓のお婆さん――節子さんを見ると、笑いながら頷いてくれた。
「ありがとうございます」
そう言って台所を任せ、玄関へ向かう。
そこには当然のように楓がいた。
「たまちゃん、今日はスイーツ食べに行こ! スイーツ!」
「うんうん。ほら、慌てないで」
節子さんに「行ってきます」と声をかけ、家を出た。
「今日学校でねー」
楽しそうに話す楓の隣を歩く。
当然ながら、私はまだこの街の地理に詳しくない。
きっと、こうして出掛けること自体に、私への案内という意味も含まれているのだろう。
それに気付かないほど、私も鈍くはない。
ありがたさと申し訳なさに挟まれながらも、今はその好意を素直に受け取ることにしていた。
そして、一つだけ言っておくなら。
その日食べたケーキは、とても美味しかった。
「多摩ちゃん、今日もお使いかい?」
また別の日。
買い物に出掛けた私は、道すがらそんなふうに声をかけられる程度には、この街に馴染んでいた。
その途中。
ふと、耳に入った会話がある。
「最近、警報がなくて助かるわねぇ」
「ほんとにねぇ」
「そういえば、あの子。まだ引き取り手がいないんでしょう?」
「あんなところに一人取り残されて、可哀想にねぇ」
「軍がもっとしっかりしていれば、あんなことにはならなかったでしょうに。早くあの子も幸せになってほしいわねぇ」
気にはなった。
けれど、わざわざ足を止めて聞き耳を立てるのもどうかと思い、そのまま通り過ぎた。
聞けたのは、それだけ。
それでも、妙に心に残った。
ところが、その話が楓の家で話題になることはなかった。
一度だけ、楓の父――桂梧さんに尋ねたことがある。
その時、彼は強く拳を握りしめた。
そして、絞り出すような声で。
「まだ早い」
そう言っただけだった。
そして、再び時は流れる。
ある日の夕食時。
その日。
私の運命を決める歯車が、回り始めた。
もし、あの時こうしていれば。
もし、あそこへ行かなければ。
そんな言葉はいくらでも浮かべられるのだろう。
けれどきっと、それに意味なんてない。
あの日を越えた私は、たった一つを除いて、後悔なんてしていなかったはずだから。
もっとも。
それは未来から振り返った私の話であって。
その時の私は、目前まで迫っていたものにさえ、まだ気付いていなかった。
街中に。
大きな警報音が鳴り響く、その瞬間まで。