その日は、特に何かが起きる予定もない日だった。
朝起きて、電と朝食を食べて、昨日持ち帰った資材の確認をする。その後は海の見回りに出て、何もなければ昼過ぎには戻ってくる。
そんな、最近では当たり前になりつつある一日のはずだった。
「司令官さーん!」
はずだったのだけれど。
「……ん?」
執務室で書類を眺めていた私を呼ぶ電の声が聞こえた。
何事かと顔を上げれば、廊下を走ってくる足音が近付いてくる。
「司令官さん!」
「どうしたの?」
「お客さんなのです!」
「お客さん?」
この場所に?
町の人なら、わざわざ電がこんな慌て方をすることもないだろう。
「誰?」
「それが……艦娘なのです」
「……え?」
思わず、先日の食堂での会話を思い出した。
ここに誰かが増えるとすれば、その誰かが自分の足でここまで来た時だけ。
「……ほんとに来た」
「何の話なのです?」
「いや、こっちの話」
椅子から立ち上がる。
「どこにいるの?」
「入口なのです」
「分かった。行こう」
電と一緒に廊下を歩きながら、私は妙に落ち着かない気分になっていた。
艦娘。
誰だろう。
知っている子なのか。
いや、私の場合『艦これ』にいた艦娘なら大体知っていることになるのだけれど、そういう意味ではなく。
向こうが私たちを知っているのか。
軍から来たのか。
それとも、電のように軍を離れたのか。
いくつもの可能性を考えながら外へ出る。
そこにいた少女を見た瞬間。
「……五月雨」
思わず、その名前を口にしてしまった。
青い髪に、見覚えのある制服。
そして、どこか不安そうにこちらを見ている少女。
「え?」
「あ」
しまった。
「どうして、私の名前を……?」
当然の疑問だった。
電の時は自己紹介されるまで我慢出来たのに、今回は完全に油断した。
「あー……」
どうする。
『艦これ』で知っていました。
なんて言える訳がない。
「電から聞いた!」
「えっ」
「え?」
電を見る。
電も私を見る。
「……電?」
「え、えっと……」
視線で訴える。
お願い。
合わせて。
「……そ、そうなのです! 前に軍にいた時のお話を、少し!」
ありがとう電。
「そう、だったんだ……」
五月雨は納得したように頷いた。
危ない。
早速怪しまれるところだった。
「それで……私は多摩。軽巡洋艦、多摩」
「多摩さん……」
少し考えるような顔をしてから、五月雨はぺこりと頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「うん。よろしく」
私も頭を下げる。
そして、沈黙。
「……」
「……」
「……」
どうしよう。
何故ここに来たのか、聞いていいのだろうか。
というか、聞かなければ何も始まらない。
「あの」
私が口を開くのと、五月雨が声を出したのはほとんど同時だった。
「あ」
「あっ、ご、ごめんなさい!」
「いや、こっちこそ。五月雨からどうぞ」
「はい……」
五月雨は一度、胸の前で手を握った。
「電ちゃんが、ここにいると聞いて来ました」
「電が?」
「はい」
隣を見ると、電も驚いている。
「五月雨ちゃん、どうして……」
「私も、ここに来るように言われたから」
そこで五月雨の声が少し小さくなった。
「軍から?」
「……はい」
やっぱり軍か。
少し身構える。
私たちのことが知られた?
でも、それなら五月雨一人だけを送ってくるだろうか。
「何て言われたの?」
「苫小牧へ向かって、電ちゃんと合流するようにって」
「……それだけ?」
「はい」
「その後は?」
「現地で待機するように、と」
「……」
命令だけを聞けば、そこまでおかしな話ではない。
電がいる場所へ五月雨を送った。
そういう風にも聞こえる。
けれど、五月雨の顔は暗かった。
「五月雨ちゃん……?」
電もそれに気付いたらしい。
「大丈夫なのです?」
「大丈夫だよ」
五月雨は笑った。
でも、明らかに無理をしている。
「私、失敗が多かったから」
「……」
「出撃でも、訓練でも。ちゃんとしようって思うんだけど、慌てちゃって」
少しずつ言葉が出てくる。
「装備を壊したり、転んだり。命令を聞き間違えたこともあって」
「五月雨ちゃん……」
「だから」
その声が、少し震えた。
「いらなくなったんだと思う」
電が何も言えなくなる。
私も、すぐには何も言えなかった。
「ここに行けって言われて、その後のことは何も言われなくて。きっと、もう帰ってこなくていいってことなんだよ」
五月雨は笑っている。
さっきより、ずっと下手な笑顔だった。
「でも、電ちゃんがいるって聞いたから」
「五月雨ちゃん……」
「一人じゃないなら、大丈夫かなって」
その言葉を聞いた時。
どこかで、似たようなものを見た気がした。
軍から見捨てられたと思い、それでも一人でここを守り続けていた少女。
電を見る。
電は、唇を噛んでいた。
「……ねえ、五月雨」
「はい」
「軍の人から『いらない』って言われた?」
「……え?」
「もう戻ってくるな、とか。使えないから出て行け、とか」
「それは……」
五月雨は答えない。
「言われてないんだね」
「でも」
「でも?」
「だって、私……失敗ばっかりで」
「うん」
「だから……」
「それと、捨てられたことは同じなの?」
「……」
黙ってしまった。
とはいえ、私だって軍が何を考えているのか知らない。
本当に五月雨の考えている通りなのかもしれないし、違うのかもしれない。
今の私には分からない。
だから、軍がどういうつもりだったのかを勝手に決めることは出来ない。
でも。
一つだけなら言える。
「失敗したからって、全部自分で背負わなくていいんだよ」
「……え?」
「失敗なんて、誰だってする」
「でも……」
「私もしたよ」
その言葉だけで、胸の奥が少し痛んだ。
今でも忘れてはいない。
きっと、忘れることもない。
「取り返しがつかないようなことだってした」
「多摩さんが……?」
「うん」
五月雨の失敗と、私の失敗を同じものとして扱うつもりはない。
けれど。
「だからって、自分にはもう何も出来ないって決めちゃったら。それこそ、本当にそこで終わりでしょ?」
「……」
「失敗したなら、次に失敗しないようにすればいい。それでも失敗したら、また考えればいい」
「そんな簡単には……」
「簡単じゃないよ」
それは、私自身が一番分かっている。
「でも、一人で全部抱えるよりは楽だと思う」
言ってから、少しだけ自分で引っかかった。
一人で全部抱えるより。
「……」
まあ。
今はいい。
「それに五月雨ちゃん!」
隣から電が声を上げた。
「はい?」
「電は五月雨ちゃんが来てくれて嬉しいのです!」
「電ちゃん……」
「だから、いらないなんて思わないのです。ここにいてほしいのです!」
電は迷うことなく言った。
五月雨の目が、少しずつ潤んでいく。
「でも、私……」
「いいんじゃない?」
二人がこちらを見る。
「ここ、広いし」
「……」
「……」
「あれ?」
何か違ったらしい。
「いや、そうじゃなくて」
咳払いをする。
「部屋なら余ってるし。食料も、とりあえずはどうにかなってる」
「でも……」
「それに今、この鎮守府にいる艦娘って二人しかいないんだよ」
「二人……?」
「私と電」
「多摩さんも、ここに所属してるんですか?」
「所属っていうか……」
電を見る。
電がこちらを見る。
「あー」
そうか。
そこから説明しないといけないのか。
「実は私、ここの提督でもある」
「……」
五月雨が固まる。
「艦娘で」
「はい」
「提督」
「……はい?」
「兼任」
「……そんなこと出来るんですか?」
「私が聞きたい」
「司令官さんは司令官さんなのです!」
「電、それ説明になってない」
五月雨は私と電を何度か見比べてから、ほんの少し笑った。
今度の笑顔は、さっきまでより自然に見えた。
「……変なところですね」
「それは否定出来ないかな」
「否定してほしいのです」
「電がそれ言う?」
三人で少しだけ笑う。
その笑いが収まってから、私は五月雨へ手を差し出した。
「軍がどういうつもりで五月雨をここに送ったのか。それは、今の私には分からない」
「……はい」
「でも、五月雨がここにいたいなら、いていいよ」
「……本当に?」
「うん」
「失敗しても?」
「する前提なんだ」
「うっ」
「冗談」
笑う。
「失敗してもいいよ。一緒にどうにかしよう」
五月雨は差し出した手を見て、私の顔を見て、電を見る。
それからもう一度、私の手を見て。
恐る恐る、その手を握った。
「……よろしく、お願いします」
「うん。よろしく」
「五月雨ちゃん、よろしくなのです!」
「うん……電ちゃん」
そうして。
二人しかいなかった鎮守府に。
三人目が加わった。
その日の夜。
食堂には、三人分の食器が並んでいた。
「増えたね」
「増えたのです」
「え?」
五月雨だけが意味が分からないという顔をしている。
「こっちの話」
「はあ……」
昨日まで広すぎると思っていた食堂は、まだ三人には広すぎる。
それでも。
昨日よりは少しだけ、この場所に合っている気がした。
「五月雨」
「はい?」
「ご飯、おかわりいる?」
「あ、はい!」
「電は?」
「欲しいのです!」
「はいはい」
二人の茶碗を持って立ち上がる。
そして、ふと思った。
二人でもいい。
昨日、確かにそう思っていた。
けれど。
「三人も、悪くないか」
「何か言いました?」
「なんでもない」
いつか、この広い食堂が本当に狭く感じるような日が来るのだろうか。
その時の私は。
そんなことを、少しだけ考えていた。