春になると、雪は死ぬ。
幼いころ、私はそう思っていた。
北の山々を冬じゅう覆っていたあの白は、春の最初の雨が降るころになると、裾野のほうから少しずつ痩せてゆく。昨日まで確かにそこにあったものが、翌朝には土へ還り、その下から濡れた黒い地面が覗いている。消えた雪がどこへ行ったのか、私は長いあいだ知らなかった。
それは死んだのだと思っていた。
けれどそれは、死んだのではなかった。
水になったのである。
細い流れとなって斜面を下り、川へ入り、やがて名もない水の一滴となって、遠い海へ運ばれてゆく。
姿を失ったものは、死んだと言えるのだろうか。
別の姿になって、それでもどこかに在り続けるものを、私たちは何と呼べばよいのだろう。
そんなことを考えるようになったのは、いつからだったか。
おそらく私は、生まれたときから、答えのない問いの中にいた。
◇
私は、私が死んだ瞬間のことは、覚えていない。
前の人生については、ずいぶん多くのことを覚えているというのに、その終わりだけが不自然なほど白く抜け落ちている。
それはまるで、一冊の本から最後の一頁だけが破り取られているようだった。
そこへ至るまでの文章は読める。人の名前も、町の名前も、季節も、匂いも、くだらない失敗も覚えている。しかし最後の一頁がないために、その物語がどのように閉じられたのかだけは分からない。
だから、私は自分が死んだのだと知っているだけで、死を覚えてはいない。
そしてそれは不思議なことだった。
死とは人生の最後にあるものだと、以前の私は思っていた。
だが、もし最後を知る者がいないのなら、死とは果たして人生の一部なのだろうか。
あるいは、人生とは岸辺までで、死はその先にある海なのだろうか。
そして私は、その海を知らぬ間に渡ってしまったのだろう。
気がついたとき、私の視界では女が泣いていた。
こちらの世界で最初に見たものが、その涙だった。
知らない女だった。
若い女だった。
長い淡褐色の髪が頬に貼りつき、青ざめた顔で、それでも笑っていた。額には汗が浮かび、唇は震えていた。
窓の外では雪が降っていた。
後になって母から聞いたところでは、私は真冬の夜明け前に生まれたらしい。
その年は例年になく雪が深く、屋敷の庭では、古い樅の木の下枝まで白く埋まっていたという。
世界は白かった。
産室の窓にも雪明かりが差し込んでいた。
白い寝台。
白い壁。
白い息。
そして、生まれた私の髪もまた白かった。
女は私を胸に抱いた。
その瞬間に、私は泣いた。この世界に産声をあげた。
もっとも、赤子なのだから泣くのは当然である。
寒かったのかもしれない。
眩しかったのかもしれない。
肺に初めて入った空気が痛かったのかもしれない。
けれど、今でも私は、あの涙には別の理由があったのではないかと思っている。
それから時を置かずして、私は、その女が母であることを知った。
誰にも教えられていないのに、知った。
そして同時に、私は別の母を覚えていた。
その声を覚えていた。
その顔を覚えていた。
その手を覚えていた。
前の世界の、もう二度と会えない母。
きっとこの瞬間、私は二人の母を持った。
それは幸福なことだったのだろうか。
今でも分からない。
幸福というものは、数えれば増えるものではないらしい。
一つの胸に二つの故郷を入れれば、そのぶん心が広くなるのではなく、境界線が一本増える。
幼い私の中には、その日から細い川が流れていた。
こちら側と、向こう側。
セレスティアである私と、そうではなかった私。
どちらの岸にも私は立っていた。
だから、どちらの岸にも完全には立てなかった。
◇
私はこちらの世界で、セレスティア・アルヴェインという名を与えられた。
アルヴェイン伯爵家の長女。
北方に古い領地を持つ家の娘。
そして、雪のような銀髪と、左右で色の違う瞳を持つ子供。
右の瞳は蒼。
左は金。
私が三歳になったころ、母はよく髪を梳いてくれた。
午後になると南向きの部屋へ連れていかれ、窓辺の椅子に座らされた。春には庭の梨の花が見え、夏には濃い緑が窓いっぱいに繁った。秋には葉が一枚ずつ黄ばんでゆき、冬になると枝だけになった。
その窓辺で、母は私の髪を梳いた。
銀色の髪は、光の加減によって青くも白くも見えた。
「きれいな髪ね。」
母はいつもそう言った。
私は鏡を見ていた。
鏡の中に、美しい少女がいた。
それが嫌だった。
もっと醜ければよかった、とまで思ったことがある。
もちろん幼い私は、美醜について大したことを知っていたわけではない。
ただ、鏡の中の少女があまりにも完成されて見えたのである。
白い頬。
細い鼻梁。
長い睫毛。
蒼と金の瞳。
銀色の髪。
どこを見ても、以前の私を思い出させるものがなかった。
知らない人間の顔だった。
それなのに私が右手を上げれば、その少女も右手を上げた。
私が眉を寄せれば、少女も眉を寄せた。
舌を出してみれば、向こうも舌を出した。
逃げようとしても、逃げられなかった。
鏡とは、奇妙なものだと思う。
あれほど正確に人間を映しながら、何一つその人間については語ってくれない。
鏡に映っているのは私である。
しかし、私とは何か。
その問いに、鏡は答えない。
ただ光を返すだけである。
ある日、私は母に尋ねた。
「お母様。これは、わたし?」
母は笑った。
「そうよ。」
「ぜんぶ?」
母は少し不思議そうな顔をした。
「全部、あなたよ。」
その答えが、私は悲しかった。
全部。
それなら、以前の私はどこへ行ったのだろう。
以前の顔は。
以前の声は。
以前の手は。
以前の私が笑ったときにできた頬の形まで、全部なくなってしまったのだろうか。
春の雪と同じように。
形を失ったものは、消えたのだろうか。
それとも、見えないだけで、どこかを流れているのだろうか。
◇
五歳の冬、領内で病が流行った。
その冬は雪が少なかった。
空は毎日のように灰色で、降りそうで降らない雲が低く垂れ込めていた。雪の代わりに冷たい風ばかりが町を抜け、裸の木々を鳴らしていた。
屋敷でも何人かの使用人が倒れた。
最初に私が触れたのは、洗濯女の娘だった。
私より三つ年上だった。
熱に浮かされ、息をするたびに胸が苦しそうに上下していた。
大人たちは私を病室へ入れたがらなかった。
けれど、私は入った。
なぜ入ったのか、今でも説明できない。
かわいそうだったから、と言えば簡単である。
だが、憐れみという言葉は、あのときの感覚には少し立派すぎる。
苦しそうだった。
だから、そばに行った。
ただ、それだけだった。
私は少女の手を握った。
熱かった。
冬の部屋の中で、その手だけが夏の石のように熱を持っていた。
私は、早く楽になればいいのに、と思った。
すると、窓の外で風が止んだ。
本当に止んだのかどうかは分からない。
私には、そう感じられた。
部屋の中の時間が、一瞬だけ水の底へ沈んだように静かになった。
私の掌から何かが流れた。
光だったのかもしれない。
熱だったのかもしれない。
それとも、後から記憶がそういう形を与えただけなのかもしれない。
少女の呼吸が穏やかになった。
額の汗が引いた。
しばらくして目を開けた。
「お嬢様。」
そう呼ばれた。
その声を聞いたとき、私は怖くなった。
人を救ったのだから、喜ぶべきだったのだろう。
実際、周囲の大人たちは喜んだ。
泣く者までいた。
だが私は、自分の掌を見ていた。
小さな手だった。
白く、柔らかく、傷一つなかった。
その手が、さっきまで死に近づいていた人間を、こちら側へ引き戻した。
その事実が怖かった。
力を持つということは、できることが増えるという意味ではない。
しなければならないことが増える、という意味なのだ。
私はまだ五歳だったが、そのことだけは、なぜか分かった。
窓の外で、ようやく雪が降り始めていた。
細かな雪だった。
一粒一粒は見えないほど小さいのに、それらが無数に集まると、庭も屋根も道も白く覆ってしまう。
あの雪を見るたび、私は思う。
誰かを救うということも、似ているのかもしれない。
一人なら。
もう一人なら。
あと一人なら。
そうして一つずつ差し出した手が、いつか自分の人生そのものを覆ってしまう。
その最初の一片が、あの日、静かに降った。
◇
それから私の力は、年を追うごとに大きくなった。
六歳で傷を治した。
七歳で毒を消した。
八歳で枯れかけた果樹園を蘇らせた。
十歳で川の氾濫を止めた。
十二歳の夏には、三月雨のなかった土地に雨を降らせた。
あの日の空を、私はよく覚えている。
大地はひび割れていた。
草は色を失い、踏めば乾いた音を立てて砕けた。
農民たちは空を見上げることさえしなくなっていた。
期待というものは、長く裏切られると、いつか人間から顔を上げる力を奪う。
私は畑の真ん中に立った。
祈った。
何に祈ったのかは分からない。
神だったのか。
雲だったのか。
この世界そのものだったのか。
あるいは、自分の中にある何かだったのか。
ただ、雨が降ればいいと思った。
最初の一滴が、頬に落ちた。
あまりにも小さな一滴だった。
それなのに、村人の一人が声を上げた。
次の一滴。
また一滴。
やがて空が暗くなった。
雲が集まった。
雨が降った。
乾ききった大地が水を吸う匂いがした。
私は今でも、あれより美しい匂いを知らない。
土は黒くなり、草は濡れ、人々は雨の中で泣いた。
誰かが笑っていた。
誰かが跪いた。
誰かが私の名を叫んだ。
雨はすべてを濡らした。
貴族も平民も。
老人も子供も。
畑も家畜も。
そして私も。
私は空を見上げた。
雨粒が目に入った。
それが自分の涙なのか雨なのか分からなくなった。
そのとき初めて、私は自分の力を美しいと思った。
もし、この力によって誰かが明日を待てるのなら。
それなら、持っていてもよいのかもしれない。
そう思った。
けれど同時に、胸のどこかで、別の声がした。
では、救えなかった者はどうなるのか。
その問いは、どうしてだか雨音に消えた。
いや、聞こえなかったことにしたかったのかもしれない。
◇
十四歳の春、私は大神殿から聖女の称号を授かった。
鐘が鳴った。
王都じゅうに聞こえるほど、大きな鐘だった。
白い衣を着せられた。
銀の冠を載せられた。
大勢の人間が私の前に跪いた。
大神官が私の名を読み上げた。
セレスティア・アルヴェイン。
神の慈愛を地上に示す者。
病を退ける者。
傷を癒やす者。
災いを祓う者。
神意によって選ばれた、当代の聖女。
人々が歓声を上げた。
私は微笑んだ。
その日の空は、恐ろしいほど青かった。
雲一つなかった。
大聖堂の尖塔が青の中へ突き刺さっていた。
私はその空を見ながら、不意に、青空というものは残酷なのかもしれないと思った。
晴れた空は、何も隠さない。
雨雲のように、世界を曖昧にしてくれない。
光はあらゆるものの輪郭を明らかにする。
祝福。
聖女。
奇跡。
美しい娘。
慈悲深い少女。
誰からも愛される人間。
私の周囲には、そういう言葉が増えていった。
言葉は、ときどき檻になる。
鉄でできた檻なら、触れれば冷たい。
閉じ込められていることも分かる。
けれど、優しい言葉で作られた檻は、もっと厄介だった。
あなたは優しい。
あなたは美しい。
あなたは特別だ。
あなたなら救える。
あなたなら赦してくれる。
あなたなら。
あなたなら。
あなたなら。
その一本一本は花の茎のように柔らかいのに、無数に絡みつけば、人間一人を動けなくするには十分だった。
私は優しかった。
おそらく、本当にそうだった。
人が苦しむのを見るのが嫌だった。
泣いている者がいれば声をかけた。
飢えた者には食べ物を与えた。
病人がいれば治した。
誰かを憎むことも、ほとんどなかった。
けれど、ときどき考えた。
私は優しいのだろうか。
それとも、優しくない自分になることが怖いだけなのだろうか。
救える人を救わなかった夜、私は眠れるのだろうか。
たぶん眠れない。
では、それは相手のためなのか。
自分のためなのか。
善意というものを切り開いたなら、その中心には何があるのだろう。
慈愛か。
義務か。
恐怖か。
自己愛か。
結局、私には分からなかった。
分からないままに、人を救った。
◇
十五歳の春。
私は王立学院へ入学することになった。
領地を発つ朝、町には霧が出ていた。
早春の霧だった。
雪解けの水を含んだ地面から白いものが立ち昇り、町全体が淡い乳色の中に沈んでいた。
それでも、人々は集まっていた。
道の両側に、何百人もの領民が立っていた。
馬車が門を出る。
霧の向こうから声がした。
「聖女様。」
誰か一人だった。
やがて、別の場所から声がした。
「聖女様。」
また一人。
また一人。
それが次第に重なっていった。
聖女様。
聖女様。
聖女様。
霧の中から、声だけがやって来た。
顔はよく見えなかった。
そのことが、私には妙に象徴的に思われた。
彼らもまた、私の顔など見ていないのかもしれない。
彼らが見ているのは、聖女なのだ。
病を治す者。
雨を降らせる者。
銀髪の少女。
左右で瞳の色が違う、神に愛された娘。
私は窓から手を振った。
霧の中で、人々が頭を下げた。
小さな子供が母親に抱き上げられていた。
老人が杖を置き、両手を合わせていた。
若い男が泣いていた。
私は彼らの名前を知らなかった。
彼らも、私を知らない。
それなのに私たちは、別れを惜しんでいた。
人と人とのあいだには、ときどき、互いを知らないからこそ成立する愛情がある。
それは偽物なのだろうか。
私はそうは思わない。
偽物ではない。
ただ、遠いのである。
夜空の星のように。
されど光は確かに届いている。
けれど、その星が本当はどれほど遠く、どれほど熱く、どれほど孤独なのかを、地上にいる者は知らない。
馬車は町を離れた。
やがて霧が薄くなった。
平原へ出ると、朝日が差していた。
濡れた草の先で水滴が光っていた。
無数の小さな光だった。
私は窓に頬を寄せた。
硝子に自分の姿が映った。
銀色の髪。
蒼と金の瞳。
白い肌。
十五歳になった私は、幼いころよりさらに美しくなっていた。
自分でそう思うことに、もう抵抗はなかった。
美しいものは美しい。
山が美しいことと、花が美しいことと、この顔が美しいこととのあいだに、本来、善悪はない。
ただ、それが自分の顔だということだけが、今でも少し不思議だった。
私は硝子の少女を見つめた。
彼女も私を見ていた。
十五年前と同じだった。
私は、ふと尋ねたくなった。
あなたは誰ですか。
もちろん、少女は答えなかった。
私が唇を動かさないかぎり、彼女の唇も動かない。
だから私は、心の中だけで尋ねた。
あなたは幸福ですか。
もちろん返事はなかった。
それから幾ばくかして、私は考えた。
美しい。
健康である。
金銭に困らない。
家族に愛されている。
人々に慕われている。
類い稀な力を持っている。
ほとんど何でもできる。
誰かが人生に望むものを一つずつ紙に書き、それを神が丁寧に拾い集め、一人の人間の中へ詰め込んだなら、たぶん私のようなものができるのだろう。
それなのに。
ときどき、私は前の世界を思い出す。
大切な出来事ではない。
むしろ、どうでもよいことばかりだった。
雨の日のアスファルト。
傘の先から落ちる雫。
自動販売機の低い唸り。
夕方の電車。
冬の朝の水道。
遠くで鳴る踏切。
夜中の冷蔵庫の音。
窓の外を走っていった救急車の赤い光。
名前も知らない人とすれ違ったこと。
買おうと思っていたものを忘れて帰ったこと。
明日やればいい、と何かを後回しにしたこと。
あのころの私は、何者でもなかった。
世界にとって必要な人間ではなかった。
私が一日部屋から出なくても、雨は降った。
病人は医師のところへ行った。
川は流れた。
朝になれば太陽は昇った。
世界は、私を必要としていなかった。
だからこそ私は、世界の中にいてもよかったのかもしれない。
こちらの世界では違う。
私には力がある。
救える。
治せる。
止められる。
守れる。
できる。
できる。
できる。
その言葉は、私にはときどき鎖の音に聞こえる。
できるのなら、なぜしないのか。
その問いから、私は逃げることができない。
では、自由とは何だろう。
何でもできることだろうか。
以前の私は、そう思っていた。
けれど今は、違うのかもしれないと思う。
自由とは
もしかすると
できないことが、許されている状態なのではないか。
馬車が小さく揺れた。
道端に、一本の名も知らぬ花が咲いていた。
白い花だった。
馬車は止まらなかった。
花はすぐに後方へ消えた。
私は振り返らなかった。
その花を救う必要はなかった。
ただ咲いていた。
そして私は、ただ通り過ぎた。
そのことが、なぜだか救いのように思われた。
◇
昼を過ぎたころ、王都の塔が見えた。
空には薄い雲が広がっていた。
春の雲だった。
冬の重い雲とは違い、風にほどけながら形を変えてゆく。
一つの雲が鳥のように見えた。
しばらくすると、もう鳥ではなくなった。
さらに少しすると、何の形でもなくなった。
それを見て、私は思った。
形を変えることは、失われることなのだろうか。
雪は水になる。
水は雲になる。
雲は雨になる。
雨は川になる。
川は海へ行く。
名前は、そのたびに変わる。
けれど、何かは残っている。
それなら。
以前の私も、消えたのではないのかもしれない。
顔が変わった。
名が変わった。
身体が変わった。
世界が変わった。
それでも、こうして昔を懐かしむものが私の中にある。
雨の匂いに胸を締めつけられるものがある。
誰かが泣けば放っておけないものがある。
答えのない問いを、答えがないと知りながら考え続けるものがある。
それをもしかしたら魂とでも呼ぶのだろうか。
私は知らない。
知らなくてもよいのかもしれない。
十五歳になって、私はようやくそう思えるようになった。
すべてに名前をつけなくてもよい。
すべてに答えがなくてもよい。
世界には、分からないまま美しいものがある。
遠い山の青さ。
雨上がりの土の匂い。
朝靄の向こうから聞こえる鳥の声。
見知らぬ人の幸福。
そして、自分自身。
王都が近づいてきた。
巨大な城壁が春霞の向こうから現れた。
その背後には無数の屋根があり、塔があり、煙があり、そのさらに向こうには、私の知らない人々の生活がある。
私は窓を開けた。
侍女が驚いた。
それから須臾の間に、風が入ってきた。
強い風だった。
整えてもらった銀髪が、一瞬で乱れた。
髪が頬に貼りつく。
たったそれだけのことで、私は笑った。
侍女が慌てて手を伸ばした。
「お嬢様、せっかく整えましたのに。」
「いいの。」
私は言った。
風が冷たかった。
冷たいものを、冷たいと感じた。
ただ、それだけだった。
けれど、その単純なことが、ひどく嬉しかった。
風は私が聖女であることを知らない。
銀髪であることも。
オッドアイであることも。
人を治せることも。
雨を降らせられることも。
誰から祝福されているのかも知らない。
風は私を選ばない。
道端の草にも、馬にも、御者にも、私にも、同じように吹く。
だから私は、しばらく目を閉じていた。
髪が乱れるに任せた。
頬が冷えるに任せた。
そのときだけは、聖女でなくてもよかった。
セレスティア・アルヴェインでさえ、なくてもよかった。
ただ一つの身体がそこにあり、春の風を受けている。
それだけだった。
私は目を開けた。
王都の門が、もうすぐそこにあった。
門の向こうに何があるのか、私は知らなかった。
学院で誰と出会うのか。
誰を好きになり、誰を嫌いになるのか。
誰を救い、誰を救えないのか。
何を失うのか。
何を得るのか。
何も分からなかった。
そのことに気づいたとき、胸の奥に、小さな喜びが生まれた。
知らない。
まだ、知らない。
それは、この世界に生まれて以来、私が受け取ったものの中で、最もささやかな祝福だった。
何でもできる私にも、まだ知らない明日がある。
春の雲が流れていた。
その影が平原をゆっくり渡ってゆく。
光になり。
影になり。
また光になる。
世界は、私のためではなく動いていた。
そのことが、嬉しかった。
私はもう一度、窓の外へ顔を向けた。
風が吹いた。
銀色の髪が、春の光の中へほどけていった。