王都には、空が少なかった。
城門をくぐり、馬車がいくつかの通りを曲がったころになって、私はようやくそのことに気づいた。
もちろん、空そのものが減ったわけではない。ただ人間が石を積み、木を組み、屋根を高くして、自分たちの暮らしを地上から少しずつ押し上げてきたのである。そこへ旗が掲げられ、看板が突き出し、窓と窓との間には洗濯物が渡されていた。そうして人間の生活が上へ上へと伸びていったぶんだけ、空は遠くなった。
見上げると、青は建物と建物との間に細長く残されていた。もともとは誰のものでもなく、どこからどこまでという境さえ持たなかったものが、王都ではまるで人間から割り当てられた場所に収まっているように見えた。
故郷のアルヴェインでは、空はもっと大きかった。
屋敷を出て少し歩けば、視界の大半は山と空になり、冬にはその境さえ雪に溶けて、世界がどこから始まり、どこで終わるのか分からなくなることがあった。人家はその広がりの中に置かれた小さな箱にすぎず、野原に一人で立っていると、人間などいなくても風は吹き、川は流れ、夜になれば星が出るという、考えてみれば当たり前のことを身体のどこかで思い出すことができた。
ところが王都では、目に入るもののほとんどに、人間の手が触れていた。
石を積んだ壁が通りを挟み、そのあいだに重い扉が並んでいる。窓辺には鉄の柵があり、川へ出れば大きな橋が架かっていて、その欄干にまで葡萄の蔓を模した細かな彫刻が施されていた。誰も見上げないような場所にさえ、人間は何かを刻まずにはいられないらしい。
商店の軒先には色とりどりの布が垂れ、二階の窓から渡された洗濯物が、狭い空の下で風を受けていた。馬車が通るたびに車輪が石畳を鳴らし、その音に馬の蹄や人々の話し声が重なる。音は左右の建物に遮られて遠くへ抜けることができず、何度も通りへ戻ってきているようだった。
故郷では、風の音の向こうに静けさがあった。
ここには、その向こうがない。
世界が人間で満たされている、と私は思った。
あるいは、人間が世界を自分で満たそうとしている、と言ったほうが正しいのかもしれない。
人間というものは、何もない場所を、そのままにしておくことが苦手なのだろう。土地があれば境界を引き、石があれば削って形を与え、形を与えれば名前をつけ、名前をつければ、それが誰のものであるかを決める。その営みの果てにこの巨大な王都があるのだとすれば、人間の文明とは、曖昧なものに輪郭を与え続ける行為なのかもしれなかった。
そう考えたとき、私は自分のことを思った。
私もまた、生まれたときから、ずいぶん多くの輪郭を与えられてきた。
セレスティア。
アルヴェイン伯爵家の長女。
銀髪。
蒼と金の瞳。
治癒の奇跡を行う者。
神に祝福された者。
聖女。
そのどれもが嘘ではない。
しかし、嘘ではないものをいくら積み重ねても、それによって一人の人間のすべてを言い表すことができるとは限らない。
もしそれらを一つずつ取り去っていったなら、最後には何が残るのだろう。
家名を取り去り、身分を取り去り、聖女という称号を取り去り、この銀色の髪と二色の瞳さえ取り去り、さらにこの世界で得た力を取り去り、それでも足りずに前世の記憶まで取り去ったあと、そこに残されたものを、私はまだ「私」と呼ぶことができるのだろうか。
そんなことを考えているうちに、馬車は大通りへ出た。
突然、外で歓声が上がった。
「聖女様だ!」
誰かの声だった。
私は窓の外を見た。
最初は数人だった人だかりが、馬車が進むにつれて膨らんでいった。果物を並べていた商人が店先から出てきて、荷物を運んでいた少年が足を止め、二階の窓から身を乗り出す女が現れ、母親に抱かれた幼い子供まで、何が起きているのかも分からないまま周囲につられて小さな手を振っていた。
「本当に銀色だ。」
「瞳も見えるかしら。」
「アルヴェインの聖女様よ。」
私は笑って、手を振った。
すると歓声はさらに大きくなった。
向かいに座る侍女のリディアは、まるで自分が褒められたかのように嬉しそうな顔をしていた。
「王都でも大変な人気でございますね。」
「そうみたいね。」
「当然でございます。お嬢様が十二歳で雨をお降らせになったお話など、こちらでは子供まで知っているそうですから。」
私は窓の外へ顔を向けたまま、もう一度手を振った。
人々も振り返した。
それら無数の手を眺めているうちに、私はふと、この中には私を嫌っている人もいるのだろうか、ということを考えた。
もちろん、いるはずだった。
人間がこれほど集まっていて、その全員が同じ一人を好いているというほうが不自然である。聖女などというものを胡散臭く思う者もいるだろうし、伯爵令嬢という身分を気に入らない者もいるだろう。単に銀色の髪が嫌いだという人間がいたっておかしくはない。
その誰かも、今は周囲につられて手を振っているのだろうか。
そう思うと、私は少しだけ安心した。
嫌われる可能性が残っているということは、私がまだ人間の側にいる証拠のような気がしたのである。
◇
王立学院は、王宮の西に広大な敷地を占めていた。
学院と呼ぶより、いくつもの建物を庭園と回廊によって結んだ一つの小さな町とでも言ったほうが近く、白い石造りの本館を中心として、講義棟、図書塔、礼拝堂、寄宿舎、演習場が点在し、その間を縫う石畳の道には、リュネルの並木が淡い花をつけていた。
私はその花を見るたび、今でも一瞬だけ桜だと思う。
花弁の形も違えば、枝の伸び方も違い、よく見れば色さえ異なるのだから、似ているというには無理があるのかもしれない。それでも、春の風に吹かれて薄い花弁が一斉に舞う光景を見れば、私の記憶は理屈より先に、もう存在しない世界の春へ帰ってしまう。
似ているということは、同じであることより残酷なのだと、こちらへ来てから知った。
同じものなら、懐かしいと喜ぶこともできるだろう。
まったく違うものなら、初めから別のものとして眺めることができる。
しかし、よく似たものは、失ったものの輪郭だけをこちらへ連れてくる。
もう聞けない声に似た声。
もう帰れない町に似た町。
もう嗅ぐことのできない春に似た匂い。
それらは失われたものを取り戻してくれるのではなく、むしろ、それが確かに失われているという事実だけを鮮明にする。
馬車を降りると、風が吹いた。
リュネルの花弁が一枚、私の肩に落ちた。
摘まんでみると、驚くほど薄く、指先に少し力を入れただけで傷ついてしまいそうだった。
前の世界の桜とは違う。
それでも美しかった。
違うものを、違うまま美しいと思えるようになるまでに、私は十五年かかったのかもしれない。
私は花弁を風へ戻した。
◇
入学式の行われる大講堂には、三百人ほどの新入生が集まっていた。
この学院は、建前の上では身分を問わない。一定以上の魔力、学力、あるいは特殊な才能さえ認められれば、王族であろうと平民であろうと同じ門をくぐることができる。
けれど、制度の平等と、人間の心の平等とは別のものである。
誰に命じられたわけでもないのに、前方には王族と高位貴族、その後ろには下位貴族、さらに後方には平民の生徒たちが座っており、それぞれの間には目に見える縄も柵もないというのに、誰もその境界を越えようとはしなかった。
水と油が同じ器の中で自然に層を作るように、人間もまた、自分がどこにいるべきかを教え込まれると、命令されなくてもそこへ収まるものらしい。
私は最前列へ案内された。
隣に、金髪の少年が座っていた。
端正な顔立ちをしていた。
それだけなら珍しくもない。貴族の子弟が集まる学院なのだから、容姿の整った者はいくらでもいる。
しかし彼の場合、髪の整え方から制服の襟元、背筋の伸ばし方に至るまで、何もかもが奇妙なほど過不足なく整っており、まるで「王子」という言葉を先に紙へ書き、その意味に合う人間を後から作ったように見えた。
彼がこちらを向いた。
「セレスティア・アルヴェイン嬢ですね。」
「はい。」
「初めまして。アレクシス・レオンハルトです。」
この国の第一王子だった。
「存じております、殿下。」
私が答えると、彼は少しだけ口元を緩めた。
「安心しました。あなたばかりが有名で、僕だけ知られていなければ、少々立場がありませんから。」
私は思わず彼を見た。
冗談を言うとは思わなかった。
「殿下のお顔を知らない国民を探すほうが難しいと思います。」
「それなら、あなたと同じですね。」
彼は何気なく言った。
その言葉が、胸のどこかに引っかかった。
私は返事をしなかった。
すると彼は、ほんのわずかに表情を変えた。
「……失礼しました。」
「いいえ。」
壇上では学院長が話を始めていた。
若者には未来があること。
学ぶとは己を知ることであること。
才能は磨くことによって初めて価値を持つこと。
私はその話を聞きながら、隣に座る少年について考えていた。
王子。
それは彼の名前ではない。
役割である。
けれど彼は、生まれた日からその役割によって呼ばれてきたのだろう。
彼もまた、王子になることを選んで生まれたわけではない。
そう思うと、それまで絵本の挿絵のように整って見えていた横顔が、ほんの少しだけ人間のものになった。
◇
午後には、魔力測定が行われた。
演習棟の中央に、人の頭ほどもある透明な水晶が据えられており、生徒たちは順番にそれへ手を触れ、魔力量と属性適性を測定されていった。
「魔力量、二千八百。火属性、上。」
教師が読み上げると、周囲から感嘆の声が漏れた。
次の生徒が進み出る。
「三千百。水、風、ともに中。」
数字が告げられるたび、生徒たちの表情が変わった。
喜ぶ者。
落胆する者。
隣の友人と比べる者。
平静を装いながら拳を握る者。
たった一つの数字が、それまで曖昧だった自分の才能に輪郭を与えてしまうのだから、測られるということは、ときに知ることより残酷なのかもしれない。
やがて、私の名が呼ばれた。
「セレスティア・アルヴェイン。」
演習場が静かになった。
先ほどまで互いの数値について囁き合っていた生徒たちが一斉に口を閉じ、何十もの視線が私へ集まるのを感じた。
私は水晶の前に立った。
担当教師は、なぜか私より緊張しているようだった。
「こちらへ、手を。」
私は頷き、掌を水晶へ置いた。
冷たかった。
その感覚を心地よいと思う間もなく、水晶の内部に白い光が生まれ、それは雪の下から水が湧き出すように瞬く間に広がって、球体そのものを内側から発光させた。
台座の数字が変わり始めた。
一万。
三万。
十万。
誰かが息を呑んだ。
それでも数字は止まらず、ついには表示そのものが明滅し始め、次の瞬間、水晶の中心から表面へ向かって一本の細い亀裂が走った。
ぱきり、と音がした。
不思議なほど小さな音だった。
私は反射的に手を伸ばした。
飛び散りかけた破片が空中で止まり、そこから時間だけが逆向きに流れ始めたように元の場所へ戻っていく。欠けた部分が埋まり、亀裂が閉じ、数秒後には、水晶は何事もなかったような顔で台座の上に収まっていた。
演習場には沈黙が残った。
「……直しておきました。」
言ってから、余計だったかもしれないと思った。
誰かが吹き出した。
それをきっかけに笑いと歓声が起こり、やがて拍手になった。
「測定不能だ。」
「水晶を壊したぞ。」
「さすが聖女様だ。」
私は微笑んだ。
こういうとき、どのような顔をすれば人々が喜ぶのかを、私はもう知っている。
驕ってはいけない。
かといって困った顔をしすぎてもいけない。
少し照れたように笑えばいい。
すると人々は、力だけでなく人格まで称えてくれる。
私はそれが嫌いというわけではなかった。
褒められれば嬉しいこともある。
拍手を受ければ、胸のどこかが温かくなることもある。
ただ、その温かさに身体を預けすぎてはいけないような気がしていた。
人間は、自分が他者より高い場所にいると信じた瞬間、その高さを自分自身の大きさと取り違えてしまうことがある。
山頂に立つ人間が、麓にいる人間より巨大になったわけではない。
ただ、立っている場所が違うだけである。
もし私の力が神から与えられたものなら、なおさらだった。
借りた王冠を被って、自分の頭そのものが金でできていると思い込むほど滑稽なことはない。
拍手を聞きながら、私は窓の外を見た。
そこで、一人の少女が杖を振っていた。
校舎の影に近い場所だった。
簡素な制服を着ている。
小さな火を出そうとしているらしい。
杖を振る。何も起こらない。
もう一度振る。
先端に火花が生まれ、すぐ消える。
少女はしばらく杖を見つめ、それから姿勢を直した。
また振る。
今度は先ほどより少し大きな火花が出た。そして消えた。
もう一度。
私はいつの間にか、拍手ではなく、その少女の手元を見ていた。
何度も失敗していた。
けれど、失敗するたびに、何かを変えている。
足の位置。
杖を振る角度。
呼吸。
ほんのわずかな違いだった。
その一つ一つを見ているうちに、胸の奥に、自分でも思いがけない感情が生まれた。
……羨ましい。
私は、彼女が羨ましかった。
できないことがあるからではない。
できない自分から、できる自分へ向かう道を持っていることが羨ましかったのである。
彼女には昨日と今日の間に距離がある。
その距離を、自分の足で歩くことができる。
では、最初から向こう岸に立っている者は、どこへ行けばよいのだろう。
◇
翌日の基礎魔法の授業で、私たちは蝋燭に火を灯すことになった。
担当のオルド・ハイマンという教師は、教壇に一本の蝋燭を置くと、魔法において重要なのは力の量ではなく制御であり、大量の水を持つことと、その水を必要な場所へ必要なだけ注げることとは別の能力なのだ、と説明した。
私は、その話に少し期待した。
もしかすると、できないことが見つかるかもしれない。
教師の合図で杖を振った。
蝋燭に火が灯った。
指定された通り、指一本分の高さだった。
炎はほとんど揺れなかった。
「見事です。」
教師が言った。
「さすがですね、アルヴェイン嬢。」
私は炎を見つめた。
美しい炎だった。
色も、高さも、形も、何一つ間違っていない。
だからこそ、それを見ているうちに、胸の内側へ薄い灰のようなものが積もっていくのを感じた。
周囲では、他の生徒たちが苦戦していた。
炎が大きくなりすぎて慌てて消す者がいる。
火花だけで終わる者がいる。
昨日の少女もいた。
最初の炎は大きすぎた。
彼女は顔をしかめた。
もう一度やった。
今度は小さすぎた。
三度目。
その中間ほどになった。
少女の顔が、ぱっと明るくなった。
その瞬間、私は理解した。
彼女が喜んでいるのは、成功したからだけではない。
先ほどの自分にはできなかったことが、今の自分には少しできた。
その小さな差を、彼女は喜んでいる。
成長とは、そういうものなのだろう。
昨日の自分を岸の向こうに残しながら、少しずつこちらへ渡ってくる。
私は自分の炎を消した。
「先生。もう一度やってもよろしいでしょうか。」
「もちろん。」
杖を振る。
同じ炎が灯った。
消す。
もう一度。
同じだった。
もう一度やった。
やはり同じだった。私は失敗しない。
そして、上達もしない。
すでに正解の場所にいるからである。
そのとき私は初めて、完成という言葉の中に、これほど寂しい響きがあることを知った。
◇
放課後になっても、私は演習室に残った。
窓から差し込む夕日は、昼間の光よりずっと低いところを通って室内へ入り、机や椅子の影を細長く床へ伸ばしていた。その光の中を、窓の隙間から入り込んだ細かな埃がゆっくり漂っており、それを見ていると、時間そのものが目に見える粒になって空中を流れているようだった。
私は蝋燭に火を灯した。
完璧だった。
消した。
また灯した。
やはり完璧だった。
何度繰り返しても、そこには変化がなかった。
やがて私は杖を机へ置き、窓の外へ目を向けた。
リュネルの花が散っていた。
夕日に透けた花弁は、落ちているというより、光の中でゆっくり溶けていくように見えた。
なぜ、あれを美しいと思うのだろう。
私は考えた。
十日ほどで散るからだろうか。
もし一年中咲き続け、一枚の花弁も落とさず、雨にも風にも傷つかない花があったなら、人はそれを同じように美しいと思うのだろうか。
あるいは初めのうちこそ奇跡として愛でても、やがてそこにあることに慣れ、いつしか誰も見上げなくなるのではないか。
散るから美しい、と言い切ることには抵抗があった。
失われるものだけが美しいのなら、長く生きることは醜いということになってしまう。
けれど、失われる可能性があるからこそ、人間の眼差しがそこへ留まるということは、あるのかもしれない。
「まだいらしたんですね。」
背後から声がした。
振り返ると、昨日の少女がいた。
杖を胸の前に抱えている。
私と目が合うと、彼女は明らかに緊張した。
「聖女様。」
「セレスティアでいいわ。」
「それはちょっと無理です。」
あまりにも早い返事だったので、私は笑ってしまった。
少女も、少し遅れて笑った。
その笑い方には、私を喜ばせようという意図がなかった。
それが嬉しかった。
「あなたも練習に?」
「はい。火の大きさがどうしても安定しなくて。家では薪に火をつけるくらいしか魔法を使わなかったので、指一本分にしろと言われても、そんな細かいことを考えたことがなくて。」
そう言いながら、彼女は私の机の蝋燭を見た。
「聖女様も練習されるんですね。」
「していたのだけれど。」
「何をですか?」
私は答えられなかった。
失敗することを。
できないことを。
昨日の自分より少しだけ上手になることを。
しかし、それを練習と呼ぶことができるのだろうか。
しばらく考えてから、私は言った。
「分からないの。」
少女が瞬きをした。
「何を練習したらいいのか、分からない。」
口に出した瞬間、その言葉が自分の中へ戻ってきた。
分からない。
なんと軽い言葉だろう。
そして、なんと広い言葉なのだろう。
分からないということは、その先がまだ決まっていないということである。
私にもまだ、そういう場所が残っている。
少女は少し考えたあと、杖を持ち直した。
「じゃあ、一緒にやりませんか。」
「え?」
「私も分からないので。どうすればちょうどよくなるのか。」
私は彼女を見た。
夕日がその髪の端を赤く透かしていた。
「そうね。」
私たちは二本の蝋燭を並べた。
彼女が杖を振ると、炎が勢いよく立ち上がった。
「ああ、また大きい。」
「今、魔力を出す直前に肩が上がっていたわ。」
「肩?」
「たぶんね。」
「たぶんなんですか。」
「だって、人に魔法を教えたことがないもの。」
「聖女様でも、たぶんって言うんですね。」
「私を何だと思っているの。」
「何でもできる人かと。」
私は少しだけ黙った。
少女は自分が失礼なことを言ったと思ったらしく、慌てて謝ろうとした。
けれど私は、その言葉を不快には思わなかった。
「私も、そう思っていたのかもしれないわ。」
少女は首を傾げた。
私はそれ以上説明しなかった。
彼女がもう一度杖を振る。
今度の炎は、先ほどより小さかった。
「あ。」
少女の顔が明るくなった。
その表情を見ていると、不思議なことに、私は自分が成功したときより嬉しかった。
「できた。」
「まだ少し大きいわ。」
「今くらいは褒めてくださいよ。」
「じゃあ、少しはできたわね。」
「なんか厳しいなあ。」
また二人で笑った。
それからしばらくして、私は彼女の名前を知らないことに気づいた。
昨日から何度も姿を見ていた。
努力する少女。
平民の少女。
魔法があまり得意ではない少女。
私は無意識のうちに、彼女をそういう言葉で呼んでいた。
それは、人々が私を「聖女」と呼ぶことと、何が違うのだろう。
「あなたの名前を聞いてもいい?」
少女は一瞬驚いたあと、笑った。
「ミア・ベルです。」
「ミア。」
私はその名を口にした。
それだけで、目の前にいる人間が少し変わったように感じた。
もちろん彼女自身は何も変わっていない。
変わったのは私のほうだった。
名前を知るということは、その人間を分類から救い出すことなのかもしれない。
平民ではなく。
落ちこぼれでもなく。
努力する少女でもなく。
ミア。
一人の人間。
そう考えたとき、私は自分の名も、少しだけ好きになれるような気がした。
◇
その日の帰り、人気のなくなった廊下を歩いていると、壁際に一本の杖が落ちていた。
練習用の安い木製の杖で、中央から折れていた。
私は拾い上げた。
木の繊維が裂け、断面には細かなささくれが立っている。
誰かが失敗して折ったのかもしれない。
苛立って叩きつけたのかもしれない。
単に踏まれただけかもしれない。
事情は分からなかった。
私は二つの破片を合わせた。
直せる。
そう思った。
私にとっては簡単だった。
少し魔力を流せば、裂けた繊維は元へ戻り、傷一つ残らないだろう。
おそらく、折れる前より丈夫にすることさえできる。
掌に魔力を集めた。
淡い光が生まれた。
しかし、私はそこで手を止めた。
折れた杖を見た。
直すことが悪いわけではない。
壊れたものを壊れたままにしておくことが尊いわけでもない。
傷は治せるなら治したほうがいい。
病は治せるなら治したほうがいい。
苦しみなど、ないほうがいい。
私は今でもそう思う。
けれど、傷が消えることと、傷つかなかったことは同じなのだろうか。
病が治ることと、苦しんだ時間が存在しなかったことは同じなのだろうか。
折れた杖を元通りにしたとき、この杖は「折れたことのある杖」ではなくなるのだろうか。
私自身はどうなのだろう。
一度死んだ。
それから別の世界に生まれた。
以前より美しい身体を与えられた。
以前とは比べものにならない力を与えられた。
身分を与えられ、愛され、聖女と呼ばれた。
では、今の私が幸福であるなら、前の人生は報われたことになるのだろうか。
新しい幸福は、古い悲しみを遡って消すことができるのだろうか。
そんなはずはない、と私は思った。
幸福は、消しゴムではない。
いま光の中にいるということは、かつて暗闇にいた時間が存在しなかったという意味にはならない。
それなら私は、前の人生を「転生する前の失敗」と呼びたくなかった。
あれは、次の人生を輝かせるために用意された暗い背景ではない。
うまくいかなかったこともあった。
退屈な日もあった。
誰にも褒められない日も、何一つ特別なことが起きない日もあった。
それでも、あれは私の人生だった。
今の人生と交換するための代金ではなかった。
私は掌の光を消した。
杖は折れたままだった。
それを持って庭へ出ると、すでに日は沈みかけており、西の空だけが薄い橙色を残していた。昼間あれほど白く見えた学院の壁も、夕暮れの中では灰色を帯び、庭の木々は一本ずつ輪郭を失い始めていた。
空には細い月が出ていた。
まだ満月にはほど遠い。
欠けている、と人はよく言う。
けれど、本当に月は欠けているのだろうか。
見えていない部分も、そこにはある。
人間の目に光が届かないというだけで、月そのものが削り取られているわけではない。
私はそのことを知っている。
それでも人は、月が欠けたと言う。
もしかすると、人間は自分に見えている部分を、そのもののすべてだと思いすぎるのかもしれない。
聖女。
銀髪。
奇跡。
圧倒的な魔力。
人々から見える私は、それでほとんど完成している。
だが、見えていない部分がある。
雨の日のアスファルトを懐かしむ私がいる。
何者でもなかった自分を忘れたくない私がいる。
できないことを羨ましいと思う私がいる。
褒められて嬉しくなる私もいる。
自分の力を誇らしく思う瞬間さえある。
それらすべてを含んで、私なのだろう。
聖女だから清らかなのではない。
力があるから優れているのでもない。
まして、他者より多くのものを与えられたから、他者より大きな人間になったわけでもない。
月は満ちても、大きくなるわけではない。
欠けても、小さくなるわけではない。
ただ、光の当たり方が変わるだけである。
私は折れた杖を胸の前に持ったまま、しばらく月を見ていた。
直さなかった。
だからといって、壊れたものを愛することに決めたわけでもない。
ただ、この傷を急いで消してしまう前に、少しだけ覚えておきたいと思った。
一度、折れたということを。
そして、折れたものには、折れたものにしか持てない時間があるのかもしれないということを。
遠くで鐘が鳴った。
夕刻を告げる鐘の音は、学院の尖塔から王都へ広がり、石造りの建物の間を渡りながら少しずつ小さくなって、最後には夜の始まりかけた空へ溶けていった。
私は歩き出した。
足元を、リュネルの花弁が一枚転がっていった。
以前の私なら、踏まれない場所へ移してやろうとしたかもしれない。
けれど、その日は手を伸ばさなかった。
風に押され、花弁は石畳を滑り、やがて暗くなり始めた庭のほうへ消えていった。
それを見送ってから、私は寄宿舎へ戻った。
部屋へ入り、机の一番下の引き出しを開け、二つに折れた杖をそっとしまった。
直そうと思えば、いつでも直せる。
明日でも。
一年後でも。
おそらく私なら、十年後でも。
だからこそ、今夜は直さないことにした。
その選択が正しいのかどうかは分からなかった。
正しくなくてもよかった。
私は十五年生きて、初めてそのように思った。
世界のすべてに正解があり、それを選び続けることが善く生きることなのだとすれば、私の力はあまりにも容易に私を正解へ運んでしまう。
けれど人間の人生とは、本当にそのようなものなのだろうか。
迷い。
間違え。
後になって考え直し。
ときには、あのとき別の道を選べばよかったと思いながら、それでも選んでしまった道の上で次の朝を迎える。
以前の世界で私は、そうやって生きていた。
それを不完全な人生だと思っていた。
今は、少し違う。
窓の外で、風がリュネルの枝を揺らした。
花弁が夜へ散っていった。
私は灯りを消した。
暗くなった部屋の中では、銀色の髪も、蒼と金の瞳も、ほとんど見えなくなった。
聖女も見えない。
伯爵令嬢も見えない。
ただ私だけが残った。
少なくとも、その夜の私は、そう思うことにした。
引き出しの中には、二つに折れた杖が眠っていた。
それは私がこの世界へ生まれて十五年目にして初めて、直す力を持ちながら、直さないことを選んだものだった。
そしておそらく、その小さな傷こそが、何一つ欠けていないと人々から呼ばれる私の人生に、私自身が初めてつけた、私だけの余白だった。