新規事業として民間宇宙旅行に参入する、と社内発表した時、広報担当は開口一番、こう言った。
「会長、これ、どう説明するんですか。うち量子チップの会社ですよね表向き」
機体そのものの開発は、驚くほど早く済んだ。惑星間物流ステーションで既に運用している輸送機の設計を、ほぼそのまま流用したからだ。荷物室部分を与圧された客室に置き換え、生命維持システムと非常用脱出装置を追加しただけで、基本的な機体設計は流用出来た。ゼロから有人宇宙船を設計するとなれば、通常なら何年もかかる工程だ。それが、既存インフラの応用という形で、大幅に圧縮された。
移動時間についても、もはや従来の常識は通用しない。空間歪曲機を応用した航法により、地球から月までの片道所要時間は、わずか数分にまで短縮された。かつて人類が三日がかりで挑んでいた道のりを、飛行機の離陸から着陸までよりも短い時間で踏破してしまう。
「これ、もう『宇宙旅行』というより『ちょっと近くの温泉に行く』感覚に近いですよね」
企画担当の一人が、そう言って笑っていたのを覚えている。
電力面の不安も、実は最初から解消されていた。宇宙冶金事業の絡みで、月面には既にソーラーパネルと蓄電池による安定した電力供給網が構築済みだったからだ。観光施設のためだけに新たな発電インフラを一から作る必要が無かったのは、地味だが大きなアドバンテージだった。
予約受付用のWEBサイトを公開したのは、ごく普通の平日の昼だった。反応は、正直そこまで期待していなかった。
サイトを公開してから、わずか十数分でサーバーがダウンした。
「アクセス集中で落ちました」
そう報告を受けた時、俺は最初、何かの不具合報告かと思った。慌てて増強対応を進め、数時間後にどうにかサイトを復旧させると、予約枠は既にほぼ埋まっていた。復旧から数日のうちに、初年度分の予約枠が、一年先の分まで完売した。
「嬉しい悲鳴、って本当にあるんだな」
管理部門からの報告メールを読みながら、俺は思わずそう呟いた。
現地での必要物資の輸送も、既存のインフラをそのまま活用出来た。垂直発射サイロから、無人のミニ輸送ロケットが定期的に飛び立ち、食料や生活物資、消耗品を月面へと自動で送り届けている。人間を乗せる有人便とは別に、物資だけを運ぶ無人便が、もはや当たり前のように行き来している光景は、社員にとってもすっかり見慣れたものになっていた。
現地の宿泊施設には、思い切ってラグジュアリー路線を打ち出した。低重力を活かした開放的な浴槽、地球の眺望を一望出来る大型の窓、専用の月面車によるクレーター周遊ツアー。値段は決して安くないが、「特別な癒しの体験」を求める富裕層には、それがむしろ魅力として響いたらしい。
「地球の喧騒から、本当の意味で離れられる場所なんて、他にありませんから」
初めてホテルを利用した客の一人が、そう言って感想を寄せてくれたと聞いた時は、素直に嬉しかった。
もちろん、安全性の証明や各国の航空宇宙法制との整合性など、クリアしなければならない課題は山積みだった。それでも、ここまで来ると、もう後戻りは出来ない。宇宙旅行という、かつては一部の富豪や国家プロジェクトの特権だった体験が、少しずつ、けれど確実に、一般の人々の手の届く範囲に近づきつつあった。
会長室の壁に貼った予約カレンダーには、既に来年分まで、隙間なく予定が埋まっていた。
いかがでしたでしょうか?