王道のボーイ・ミーツ・ガール。たぶん。
軟体世紀二〇一四年。
当時十三歳だったヨシは、ヒラメが丘団地の一室で、父、母、二歳年上の姉と共に平穏な日々を送っていた。当時の彼がアニメのヒーローや漫画よりも興味を持っていたのは、一部の若者の間で流行していたとあるスポーツである。
それは、四対四で二チームに分かれ、決められたステージ内をインクで塗り合い、より広い範囲のインクで“ナワバリ”を取った方が勝者となる「ナワバリバトル」。古代より行われてきた文化を公的なスポーツ競技として確立する為、ブキやギアなどのバトルに関する新技術は開発の最終段階に入っていた。しかし、それらはまだ試験的な運用に留まっており、テレビでは生体インクへの干渉による安全性の議論等が日夜行われている。ただ、自分達インクリングの生態を活用した画期的なスポーツとして大々的に注目を浴びつつあるそれに、イカである彼は幼いながらに夢中になったのだ。彼の住むヒラメが丘団地でもまた、老朽化で取り壊され始めた第一棟が将来的にバトルステージへと姿を変える予定であった。
その日も彼は夕食後、お小遣いで買った若者向け雑誌をリビングのテーブルに広げて熱心に読み込んでいた。インクリングの身体の仕組みや能力、街で流行りのファッション、そして、バトルで使用される荒削りで最高にイカしたブキの写真や解説。
「すっげえかっこいいじゃん……」
彼は想像していた。洗練されたギアを身に着け、観客の歓声を浴びながら敵の攻撃を躱し、手に汗握る戦場でブキを構える自分の姿。今は両親の勧めるまま地方の中学校に通っていたが、その胸の奥では高校進学と共に上京してバトルに打ち込もうと企てている。ただ、バトルの出場資格の一つである「イカ状態とヒト状態の完全な変化能力を有する者」という条件が彼を足止めする大きな壁だった。比較的早い段階でヒト状態への変化を成功させた彼は周りの同級生にも一目置かれるイカだったものの、それを日常的に維持することはまだ難しいようである。見えない壁を睨みつけるように表情を曇らせている今も、イカとヒトの中間のような姿で雑誌を眺めていた。
「ただいま〜」
制服姿の姉が帰ってきた。長いゲソを靡かせスタイリッシュなヒト状態で目の前を通る彼女を、ヨシの丸い瞳が捉える。
「おかえり。なぁ姉ちゃん。俺、ハイカラシティに行ってみたい。今度の土曜、連れて行ってよ」
鞄を下ろそうとした姉の動きが止まった。一瞬何かを考えた後、確かな熱量を持って雑誌を握りしめる弟の顔を見つめる。
「え〜ハイカラシティ? 今あっちに用事ないし、遠いし、お母さん心配性だから絶対ダメって言うよ」
そう言いながらヨシの前に座る。その後も交通費だの友人との約束だのを並べる姉にウンザリしたのか、彼は不貞腐れたように頬を膨らませそっぽを向いた。
「じゃあいいよ」
そのまま立ち上がり、雑誌を持って自分の部屋へと戻る弟。椅子の背もたれに身体を預け、後頭部で手を組む姉。
「あ~も〜面倒くさいなぁ〜……あと一年待てばいいだけ。焦ってもいいことないよ?」
「ふん。せっかくヒトになれるのに絵ばっか書いてる姉ちゃんには、俺の気持ちなんてわかんねぇだろ!」
そう吐き捨て荒々しくドアを閉める弟を見て、姉はおかしそうに首を傾げるのだった。
ヨシは机へ雑誌放り投げると薄暗い部屋のベッドへ倒れ込んだ。もう小学生じゃない、もう子供じゃないんだから一人で何でもできるんだと、心の中で悪態をつきながら。それに、明日は放課後に友人と“怪物が住んでいるから近づいてはいけない”と噂の廃墟へ肝試しに行く。
彼にとっては退屈な学校生活に舞い込んできたちょっとしたサプライズイベントだったが、この日が今後の人生を大きく変えてしまうとは、まだ夢にも思っていない。
「確かこっちの方に……っ!」
ヨシとその友人は、団地から自転車で三十分ほどの距離にある、巨大な門の前に立っていた。彼の短いマッシュのゲソや友人のむぞうさなゲソの間を通る生暖かい風。暗い森を囲うように並ぶ黒く刺々しい柵の向こうには、赤茶色のレンガの道。
「うわぁ……いかにもって感じ」
友人はその威圧感に引き気味で立ち尽くしていたが、隣のヨシは柵に張り巡らされた金網に手をかけている。
「……うん、このくらいの金網ならイカで抜けられる」
「おいっ置いてくなよな!」
躊躇なく金網を抜ける彼を急いで追いかける友人。二人はレンガ道を辿って木々の間を歩き始めた。
巨木群が彼らを取り囲み、風が葉を叩く。甲高い鳥の声さえも、どこか仄暗い色を纏って響く。傾きかけた淡い日の光はほとんど差し込まない。奥へ進むにつれて低木が隙間なく敷き詰められ、道を圧迫していく。
「なぁ……本当に行くのか?」
友人がヨシの学ランを引っ張った。
「行くに決まってんだろ。“団地の外れの大きな屋敷には怪物がいるから近づいてはいけない”なんて迷信、どうせ大人が考えた子供騙しだ。何もない古いボロ屋敷があって、ちょっと探索して帰るだけ。もしかして、怖いの?」
友人は答えない。代わりに足を止めて後ろを振り返った。そのまま来た道を戻り始める。
「おいっどこ行くんだよ!」
「帰ろう。たぶん、死ぬ」
何を察したのか、そう脅して肩を震わせ立ち去ろうとする友人にさえも、ヨシの虚栄心は打ち砕けなかった。
「……っは。いいさ一人でも! 俺が証拠になりそうな物取って帰ってきてやる! 入口で自転車の見張りでもしててくれ」
彼にもわかっていた。この場所の異様な静けさと雰囲気。この先に待ち受けるのがただの廃墟ではないことくらいは。しかし、そのような環境に気圧され素直に引き返すことだけは彼のプライドが許さなかった。遠ざかっていく友人の足音。葉のざわめきや鳥の声すらも無くなった完全な無音の中で、怪物の胃袋に入ってしまったかのような悪寒に晒される。
「はは……脅しやがって。絶対に逃げたりしねぇよ」
跳ねる心臓を押さえつけながら道を歩いた先。そこには、道中の雰囲気とは全く異なる、白い木でできた壁に金枠を象る真新しい門扉が静かに佇んでいた。道はそこで途切れ、その周りには明るい色の低木が規則正しく並んでいる。
「……へ?」
思わず間の抜けた声が漏れる。まるで天国への扉のような雰囲気に、先程とは違った恐怖が背筋を這う。さっと後ろを振り返ったが、来た道に異常は無く、同じように暗く静かな木々が疎らに存在している。もし誰かが住んでいるのならば、この先に足を踏み入れ存在を認識された時点で不法侵入になるだろう。かと言ってこのまま引き返せば、間違いなく意気地なしだと笑われて終わるのだ。恐る恐る扉に近づき気配を探る。もし見つかっても道に迷ってしまったとか、それらしい言い訳をすれば許してくれるだろう。そんな楽観的な考えで己を正当化した彼はイカになり、低木の僅かに空く隙間から中へ入り込んだ。
気を引き締め、完全なヒト状態になった彼の瞳に映ったのは、広い庭だった。手入れの行き届いた芝生が青々と生え、大理石のバードバスから青い小鳥が数羽飛び去る。左側には黒く壮麗な屋敷がそびえ立ち、右側には丸太の柵に囲われた広い池に、淡い色合いの蓮のような花が幾つも浮かんでいる。彼はあまりの光景に己の犯罪行為も忘れ、一歩、また一歩と足を踏み入れた。居心地の良い香りに心を弾ませ、軽い足取りで屋敷の角を曲がり、奥を覗いたとき。
ヨシは“それ”と目が合ってしまった。
彼の身体は硬直し、目は限界まで開かれた。そう、そこに居たのは、噂されているような世にも恐ろしい怪物などとは程遠いものだった。
その琥珀色の瞳はこの世のどのようなイカよりも美しい。その白いワンピースはここの庭が見劣りするほど華々しい。その綺麗に巻かれた可憐な水色のゲソはどの螺旋よりも麗しい。
彼女は庭中央、色とりどりの花に囲まれたベンチへ腰掛け、分厚い書籍を開いていた。ページを捲る細い手は止まり、奇妙な侵入者を静かに観察している。その光景に目を奪われた彼が声をかけようと一歩前へ出たとき。
「なぁ坊っちゃん。ここがどこだか知ってんのか?」
後ろから響いた重低音と肩に置かれた手に彼が飛び上がって振り返る。そこに居たのは、黒スーツを来たガタイの良いウツボの男だった。焦げ茶色の荒々しい肌に広がる砂漠の砂のような黄色の斑点。鋭い眼光が不法侵入者の顔を貫く。
「……あっ」
「その校章、ヒラメ中の生徒だな?」
びっしりと並んだ歯が目の前まで迫る。
「み、みみ道に迷ってしまって!!! それでそのっごめんなさいっすぐに出ていきます!!」
「まぁそう焦んな。続きは親御さんと先生の前で聞いてやるから。な? ほら来い!」
力強い男の手がヨシを屋敷の方へ引きずっていこうとした矢先、その様子を見ていた彼女が立ち上がった。
「待って。その子を見逃してもらえないかしら」
ヨシを睨みつけていた男の動きが止まり、長い首が声のした方を向く。
「……どうしましたかお嬢様? 何か不都合がおありで?」
彼女は優雅な足取りで近づき、男と少年の前へ立った。ふわりと漂う上品な花の香り。
「門を叩く音がしたから、私が招き入れたのよ。道を教えてくれって頼まれて。先に貴方へ伝えるべきだったわね。ごめんなさい」
たおやかに微笑む彼女を見て、手首を掴んでいた男の手が緩む。
「さようでございましたか。これは失礼いたしました。では、私が責任を持ってこの少年をお送りしますので、お嬢様はお構いなく読書を続けられてください」
丁寧にお辞儀をした男は、そのまま彼の背中を優しく押して門扉まで誘導した。門扉の前、男は彼女へ向けていた先程までの柔らかな表情を彼へも向け、扉を開けて手で外へ出るよう促す。されるがままに門扉をくぐった彼は、扉が力強く閉まる衝撃音に再び驚き後ろを振り返った。
鼻先が付くか付かないかの距離、鬼の形相でウツボの鋭い歯と瞳が彼を睨みつけた。
「命拾いしたなガキ。お前の匂いは覚えた。次にそのアホ面提げてここの神聖な芝生を踏み荒らすような真似をしたときには問答無用で連行する。この屋敷の地下室で、つらいつら〜い作業を永遠に繰り返させ、一生をかけて償ってもらうからな。家族の顔は二度と見れないと思え」
「ひっ」
「わかったならとっとと出ていけ!!!」
弾かれたように走り出したヨシ。結局、息も絶え絶えで戻ってきた彼に「やっぱり化け物がいたのか?」と聞く友人には「何もない草原が広がっていた」と嘘をつき、日が暮れるからと足早に家へ帰っていった。
その夜、自室のベット上で横になったヨシは、放課後の出来事を茹だった脳内で咀嚼していた。
部外者を拒む仄暗い木々。湿った空気を揺らす異音。威圧的な道の質感。
夕日を静かに反射する純白の門扉。寸分の狂いもなく整えられた丸い低木。豪華絢爛な庭の品々。
そして、それらを全て弾き飛ばすような少女の微笑み。
彼は原因不明の痛みを発する胸を両手で押さえた。それがあのウツボ男に対する恐怖なのか、少女に対する特別な感情なのか、彼自身にはまだわからない。ただ、あの一時間にも満たない経験を、一瞬で己の中の大切な何かを崩壊させた彼女の姿を、何度も寝返りを打ちながら考えることしかできなかった。
「なぁ、やっぱさ、お前、あそこでなんか見たんだろ?」
昼休み、イカ達の喧騒に揉まれる教室の机で、ヨシはただじっと次の小テストに向けて教科書を開いていた。しかし、テスト内容は一文字も彼の脳内には存在しない。少し震える指は、今にも溶け出してスクールカラーの藍色に染まりそうになっている。その様子を見かねた友人が、一つ前の椅子の背もたれにイカ状態で絡みつき、彼に問いを投げかけていた。彼はただ教科書のページを捲るだけで、一言も答えようとはしない。
「大丈夫か? 今日なんかずっとおかしいぞ」
「……何も。期待外れすぎて失望してるだけだよ」
友人は彼の机へ乗り移り、丸い瞳で表情を伺っている。
「本当にヤバくなったら俺にも言ってくれよ? 俺が誘ったせいで親友が死ぬのなんて絶対にごめんだ」
「ははっ大げさだなぁ。そう簡単に死んでたまるかよ。俺はいつかバトルで勝ちまくって有名になる男だぞ!」
「あ、ま〜たバトルの話してる」
己を奮い立たせて勢いよく胸を張ったヨシの後ろから、急にショートヘアのイカガールが現れた。
「っなんだアメニかよ……」
ふん、私で悪かったねと言いながら、アメニは友人の触腕を掴み宙に浮かせる。
「ロイも何か言ってやんなよ〜こいつすぐチョーシ乗るんだから」
振り回されながらも、ロイは反撃とばかりにもう片方で腕を軽く叩いた。
「言うだけで止められるわけないじゃん。こいつバカなんだから」
「はぁっ!?」
彼女の手でこねくり回されながらそう弁明するロイ。そのバカバカしさに昨日の記憶すらも隅にやられて反論を始めるヨシ。予鈴と共に三人の声が教室へ弾んだ。
「じゃあな〜気をつけて帰れよ!」
「あぁ、また明日!」
放課後、別れ道で去っていくロイの長く伸びた影を見つめていたヨシは、今まで押していた自転車へ乗り、一人の帰路に就いた。そういえば、今日はヒト状態の調子が良い。こうして少しずつ、あのバトルフィールドへ近づいている実感に胸を高鳴らせながら風を浴びる。
車輪が回る小さな音。赤や橙、金や紺を気まぐれに纏うマジックアワーの空。そこに浮かんだ小さな雲の群れ。森へ帰っていくカラス。
ふと、彼の鼻腔を上品な花の匂いが掠めた。道の途中、小さく響いたブレーキ音。
「…………あと、一回だけ」
一回でいい、一分、いや、一言でも会話を交わせるならば。そうだ、お礼を言いに行くだけだ。ありがとうと、その五文字を伝えるためならば、たった数秒でもあの笑顔を己の瞳へ焼き付けるためならば死んでもいい。
彼は帰り道を外れた。