あの黒い柵の前で自転車を停める。生き物の気配は一切無い。金網を抜け、レンガの道を歩く。昨日よりも薄暗くなった木々の間。生暖かい風。平坦なはずの道を踏みしめる度に、彼の息は荒くなっていく。一歩一歩がやけに重く感じるが、それでも歩みを止めることはできなかった。逢魔が刻の怪しい光を反射する門扉。瞳が再び低木の隙間を捉え、再びその領域に足を踏み入れた。
庭は変わりなく時を刻み、風が花々を揺らす。壁伝いに奥へ進む彼の耳には、屋敷の者達が食器を鳴らして談笑する声が届いていた。
「お嬢様。お食事の準備が整いましたので、食堂へお越しください」
「えぇ、でもあと少しで二章が終わりそうですの。切りの良いところまで読んでから行ってもよろしくて?」
壁の向こう側からした穏やかな声。近い。恐らくこの角を曲がってすぐの所だろう。彼の心臓が跳ね上がる。
「かしこまりました。では、お待ちしておりますね」
足音が近づいてくる。慌てた彼は咄嗟にイカ状態で鉢植えの隙間へ隠れた。メイド服を着た白いゲソのイカは、幸い侵入者に気付くことなく門扉の方へ歩いていった。完全に見えなくなったのを確認し、息を吐いて這い出ようとしたとき。
「バカなイカ」
彼は逃げる間も無くエンペラを掴まれ、大きな本の間に挟まれた。
「大人しくして。まだイカ状態でいなさい。触腕出さないで」
芝生を小走りで踏みしめる音が数秒した後、扉を開いた先で静かに本が置かれ、視界が開かれる。そこには、少し眉を寄せた少女の顔があった。
「うわぁっ」
「しっ! 静かに。貴方、今、自分が何を仕出かしているのかわかっていないわね」
冷たい床へ降ろされたヨシは辛うじてヒト状態に戻り、辺りを見回した。そこは、こぢんまりとした小屋だった。小窓からは夕日が差し込み、それに照らされたガーデニング用のシャベルや芝刈り機が部屋の隅に置かれている。
「まだ生きているのが意外だったくらいだわ。いつ貴方がイカソーメンになって昼食に出てくるかヒヤヒヤしたのだから……冗談よ。そんな顔しないでちょうだい」
座り込んだままの彼の前に、彼女の白いスカートがふわりと降り立つ。
「いい? 今度からはこの小屋の裏戸から出入りしなさい。あそこの赤い電動ノコギリが置いてある所の下。警備員も来なくて一番安全なはずだから。イカ状態になれば前の荷物は簡単に越えられるわ。私は午後、いつもこの小屋の側で本を読んだり庭を散策したりしているの。正面の扉から庭へ出るときは、くれぐれも気をつけて開けなさい」
唐突に始まった説明を必死に頭へ叩き込みながら、彼は当初の目的を思い出す。
「あ、ありがとう。その、昨日も助けてくれて。ねぇ。何でその、俺なんかに優しくしてくれるの?」
「え? だって……何の計画も悪意も無しにここへ侵入してくる大バカ者は、貴方が初めてだからよ」
「……あははっ、そうなんだ」
口元に手を当てクスリと笑った彼女の前。強張った身体で笑い返す大バカ者の少年は、その顔を確かに綻ばせていた。
「さぁ、もう日が沈んでしまうわ。今日は帰りなさい」
「うん……また来るよ。じゃあ、ね」
そう告げた彼が小屋の奥へ進み、積まれた木の板や壊れた柵の残骸をくぐり抜ける。本を抱えて立った少女は、裏戸の蝶番が軋む音が完全に止んだ後も、しばらくの間、朱色に染まったそのガラクタを見つめ続けていた。
翌日の放課後。友人達との会話を早めに切り上げ、再び屋敷の側へ来たヨシは、小高い低木沿いに小屋の裏口へ急いでいた。彼女は普段どのような生活をしているのか。彼女は自分と同じイカであるはずなのに、なぜあんなにも美しく見えるのか。彼女はどうしてこのような屋敷に閉じ込められているのか。彼女はどんなことに興味を持っているのか。彼の脳内は数え切れないほどの疑問で埋め尽くされていた。小気味よく跳ねる心臓を感じながら裏戸を開け、小屋へ入る。
「あら、今日は早かったわね。いらっしゃい」
戸を閉じた直後に響いた柔らかい声。荷物の間をくぐり抜けた先には、作業台の椅子へ腰掛け本のページを捲る少女の姿があった。土や植物、錆びた鉄の匂いに混じって、彼女の纏う上品な柔軟剤の香りがふわりと漂う。
「お、お邪魔します……」
彼は隣の椅子へ座り、彼女が読んでいた本を覗き込んだ。それは、邪悪な怪物と剣で戦い、傷を負いながらも囚われの身のお姫様を助けようと奮闘する騎士のシーンだった。彼女はそこで本を閉じ、彼に向き直った。
「そういえば、まだ名前を聞いていなかったわね。私の名前はアイ。貴方は?」
琥珀色の虹彩に囲まれた丸い瞳孔が彼を捉える。そこで初めて、彼は彼女の目の周りを囲んだ黒い模様が自分達とは違っていることに気づいた。
「お、俺はヨシ。呼び捨てでいいよ」
「えぇ、私のこともアイでいいわ」
「わかった。よろしく、アイ。ねぇ……アイ、は、なんでそんなにうつく……じゃなくて、俺らとは違った目をしているの? 特別なイカなの?」
アイのタテロールが彼女の動きに合わせてピクリと揺れた。
「あははっ何を言っているの貴方は」
思わず笑いを零す彼女のカラストンビは、右上と左下が対照的に小さく尖っている。
「私はオクトリング。タコよ。イカじゃないわ」
「へ? タコ?」
彼の記憶には、眠気を何とかして堪えながら、しかし授業開始二十分後には無事にクラスの半数以上が夢の中へ誘われる歴史の授業で習った、約百年前の「大ナワバリバトル」の話しかなかった。その大決戦の後、勝者のイカは豊かな土地を手に入れ、戦いに敗れたタコはイカの生活圏外のどこかで今も細々と暮らしているのだとか。そして、そんな珍しいの範疇を有に超えたタコが、大きなお屋敷を構える令嬢として、今自分の目の前で笑っているという異常事態。
「確かに、大多数のタコは住処を追われて地下へ行ったわ。でも私のご先祖様は優秀よ。理由は……そうね、知ってしまったら貴方が消されてしまうから詳細は言えないけれど、今もとある種族と交渉し、高エネルギー物資を手に入れてイカ社会を裏から牛耳るビジネスで豊かな生活を送っているの。私の家系に代々伝わる処世術のようなものね」
次から次へと流れてくる新情報に首を傾げることしかできないヨシ。
「とにかく、イカみたいに能天気に地上を歩けるわけじゃないけれど、タコにもタコなりの生活があるってこと……あら、大丈夫?」
知恵熱で顔を真っ赤にさせた彼を見て、彼女は話を中断した。
「ううん大丈夫だよ……ところでさ」
その後も彼は様々なことを聞いた。彼女がタコである以上、安易に外へ出ることはできないこと。普段は専属の家庭教師に勉強を教えてもらったり、親族に教養をつけてもらったりしていること。何でも揃っていて何もない退屈な日々を、たくさんの従者に囲まれながら一人孤独に送ってきたこと。いつかは当主の座を継がなければならないこと。
彼は思い知った。絵本に出てくるような煌びやかで幸せに満ちたものとは程遠い、裕福な者の本当の暮らしを。
「そうなんだ。大変、なんだね」
「そんなことはないわ。これが私の普通なのだから」
小屋の窓から赤い雲を眺める彼女の横顔。彼の喉奥が痛みを伴って締まる。
「もう日没が近いわね。今日はここまでにしておきましょうか」
「え……わかった。じゃあね」
小屋の奥へ歩き始めるヨシ。暗がりの荷物を数秒ほど見つめた後、もう一度彼女の方を向く。
「ねぇアイ。最後に一つだけ、いい?」
「何?」
「明日、友達も連れてきていいかな?」
翌日の昼休み。現在は使われていない空き教室にロイとアメニを呼び出したヨシは、あの場所で見てきた全てを二人に語った。
「屋敷に……タコが……住んでる、だと!?」
「……タコの……お嬢様?」
開いた口が塞がらない友人らに、彼は目を泳がせながら頼み込む。
「だから……その……一回でいいから見に行かない? 彼女、ずっと独りぼっちで凄く寂しそうなんだ」
ロイとアメニはお互いに目を合わせた。
「……それって、もし本当なら大スクープだよ!」
目を輝かせてヨシの肩を揺さぶるロイ。
「なに言ってんのロイ! 話聞いてたでしょ!? 学校新聞に載せたりなんかしちゃった日にはもう私たちボッコボコのタコ殴りにされた後にドラム缶に詰められてそのまま三人まとめてハイカラ湾に沈められちゃうよ〜!!!」
それを引き剥がすように羽交い締めにして顔を真っ青にするアメニ。
「落ち着けよ二人とも。会いに行くだけだって。これは三人だけの秘密。わかったな?」
「はい……」
「わかった。でもヤベー警備員がいるんだろ? どうやって……」
「さっき言った通りに入れば大丈夫だから。もし見つかったら……まぁ……そんときは三人一緒だ。マジで死んでもいいってくらいすげ~景色見せてやるから」
不敵な笑みを浮かべ、彼は二人の肩に手を置いた。
「ヤダなんで道連れ確定なの!?」
「ふっ、親友と一緒に死ねるなら本望さ」
ロイが爽やかすぎる笑顔を浮かべて親指を立てる。
「ちょっとロイまで……わかったわかった行けばいいんでしょ!? そのかわり、しょ~もなかったらただじゃおかないからね!」
黒い門扉に並んだ三つの自転車。侵入者を威嚇する鋭い金属群に、アメニが思わず身震いする。
「なんか不気味なとこだね。ホントに行くの〜?」
「大丈夫だって。ほら行こう」
薄暗いレンガ道。ヨシの学ランに両側から縋り付く友人二人。
「やっぱ何回来てもこえ〜よ」
「今そこの茂みガサっていった! ガサって!」
「しっ! ウツボに見つかっちゃうだろ。あとちょっとだから」
曲がりくねった道。あと少しであの場所に着く。白い門扉が見えてきた途端、ヨシの足が止まった。
「……アイ?」
「え? なんかめっちゃ可愛い子いる! あれが噂のお嬢様?」
「ほんとだ。いつもここで待ってくれてんの? ってちょっと待てよ!」
一人で少女の元へ駆け出す彼を急いで追う二人。彼女は優雅にお辞儀をして友人達を迎えた。
「はじめまして。私がアイよ。よろしくおねがいするわ」
「え、なんで外に?」
「ふふ、貴方がお友達まで連れてくるなんて無茶なこと言うから、私も“無茶”せざるを得なくなったのよ。今日は責任取って私とたくさん遊びなさい」
勢いよく開いた門扉。そのまま彼女は正面玄関の豪華絢爛な扉を開いた。
「ようこそ八手家へ。屋敷の観光ツアーをしてあげましょう」
どうやら、開いた口が塞がらないのは二人だけではなさそうである。
恐る恐る門の先へ踏み出した三人に彼女が微笑む。
「遠慮しなくていいわよ。どうしたの? ヨシ」
動揺したままのヨシがアイへ耳打ちする。
「っ警備員とかどうしたの? 見つかったらヤバいんじゃ……」
「それは今からわかるわ。ほら見なさい」
アイが指さす正面玄関の向こう側。細長く広い廊下には、あのウツボの警備員や執事、メイド達が確かに存在していた。が、揃いも揃って全員“眠って”いるのだ。全員、壁に寄りかかったり床に突っ伏したり、各々の姿勢で無防備に睡眠を取っている。
「……は?」
「全員魔法で眠らせておいたわ……なんてね。本当は食事にちょっとした隠し味を足してみただけ。効果は保って五時間ってところかしら。時間が無いから早く行くわよ」
一方、アメニとロイはその現実離れした状態に思考することを諦めたらしく、「デケェ……学校の廊下とは比べ物になんねぇ……」「おとぎ話の中に入り込んじゃったみたい……」と、どこか上の空で感嘆を漏らしている。
その後、無数の扉が立ち並ぶ広い廊下を様々な部屋を紹介してもらいながら抜け、螺旋階段を上がった先にアイの部屋はあった。扉を開けると、ヨシの自室の何倍も広い空間に、四肢を目一杯伸ばしても余白のある天蓋付きの大きなベッド、身長の二倍ほども大きいぬいぐるみ、学校図書館規模の本棚、広いテーブルに広がるティーセット、彼らの理解の範疇を超える煌びやかな小物の数々が現れた。
「わぁ……」
三人は同時に息を飲む。
「そこの紅茶はさっき淹れたばかりのものね。お菓子も好きに食べていいわよ。もちろん毒は入っていないわ。ヨシ、そんな変な顔しないでちょうだい」
紅茶を四人分のカップに注いだアイは、にこやかに三人をティータイムへ招き入れる。
「さて、今日は貴方達から外の世界のお話でも聞こうかしら。もうここの本はほとんど読み尽くしてしまって退屈していたところなの。とびっきりの楽しい話をお願いね」
三人は代わる代わる、アイへ己の十三年間に起こった面白エピソードを聞かせた。体育祭でアンカーを務めたものの、最後のカーブで盛大に転んだロイの話。スーパージャンプの練習と称して廊下をイカになって跳び、コワモテ教師の顔面へ激突したアメニの話。授業中、先生が黒板の方を向いているときだけゲソ色を次々と変化させてクラスの全員に笑いを堪えることを強要したヨシの話。どれもこれもくだらない話ばかりだったが、三人がやる迫真の演技とトークにアイは終始笑いっぱなしだった。
「あら、もうこんな時間。そろそろ帰らせなければならないのね」
壁にかけられた振り子時計を見たアイが驚いた。
「あっという間だったな……」
残り僅かになった紅茶を覗き込む彼女は、先程よりも少し弱々しい声色で呟く。
「残念だけどこの方法は一回きりしか使えないわ。本当は逃走用の最後の切り札に……いえ、今日使って良かった。さすがの私も一度に三人もは庇えないから、アメニ、ロイ。貴方達とはしばらくお別れになりそうね。二人とも、楽しい時間をありがとう」
「そっか……また面白い話思い出したらヨシに伝えるよ。私も会えてよかった」
アメニがアイの両手を手で包む。
「こちらこそ、美味しい紅茶とお菓子をありがとう」
ロイも隣でクッキーを食べながら笑いかける。
「ロイはずっと食べてたもんな」
「そ、そんなことねぇ~し!」
「じゃあまたね!」
「またいつか会おうな!」
「さようなら〜!」
夕日がこちらに手を振る三人を優しく照らす中。ようやく薬の効果が切れ始め、屋敷の者達が後ろで上げるうめき声を聞きながら、アイはその影が見えなくなるまで無邪気に手を振り続けるのだった。