「ふぇぇぇぇぇぇっ!」
「ふぇぇぇぇぇっ!」
玄関の扉を閉めた途端、二人分の泣き声が狭い部屋いっぱいに反響した。外では夜道へ散っていた音が、壁と天井に囲まれた瞬間、倍くらい大きくなった気がする。
「ちょっと待って、待ってって!」
待ってくれるはずがない。そもそも赤ちゃん相手に「待って」が通じるのかすら知らない。それでも右腕に一人、左腕に一人を抱えたままでは靴すらまともに脱げず、今の私にはそう言うくらいしかできなかった。
どうにか靴を脱ぎ、鞄を玄関へ置いて部屋へ入る。ベッドの上へ一人ずつ慎重に寝かせると、さっきまで塞がっていた両腕が急に軽くなった。
代わりに、目の前には赤ちゃんが二人並んでいる。
「…………」
一人でも十分意味は分からないのに、二人いる。
「……どうすんの、これ」
答えの代わりに、元気な泣き声が返ってきた。
一人は顔を真っ赤にして泣き続けている。もう一人は部屋へ入ってから少しずつ声を弱め、今は泣く代わりに隣の赤ちゃんをじっと見ていた。
「……あぅ」
「ん?」
電柱の中でもそうだった。先に一人を抱き上げた時、この子が手を伸ばしたのは私ではなく、隣にいた赤ちゃんだった。
少し気になって、二人の間をほんの十数センチだけ離してみる。
「……あぅ、ぅ」
すぐに小さな腕が伸びた。脚までばたつかせ、まだ這うとも呼べない動きでシーツへ身体を擦りながら、じりじりと隣へ寄ろうとする。ほとんど進んでいないのに、向かっている先だけは分かりやすかった。
「そっち行きたいの?」
何度目かに伸ばした指先が、ようやく泣いている赤ちゃんの服へ届く。そのまま小さな拳が布を握ると、それだけで満足したように身体から力が抜けた。
「……ずっと、この子のこと気にしてるんだ」
姉妹か、双子か。そう考えるのが一番自然なんだろうけれど、そもそも普通の赤ちゃんは、電柱の中にある謎空間から古めかしいBGMつきで出てこない。
考えたところで、今の私に答えが出るはずもなかった。
「ふぇぇぇぇぇぇっ!」
「……そうだよね。まず、そっちだよね」
泣いている方を抱き上げる。腕へ収めても声は止まらず、むしろ胸元で泣かれるぶん、耳へ直接響いてきた。
お腹が空いたのか。眠いのか。暑いのか、寒いのか。それとも、おむつが気持ち悪いのか。
候補だけはいくらでも浮かぶ。
問題は、一つも見分けられないことだった。
「……分からない」
本人へ聞いたところで答えてくれるわけもない。
私は片腕で頭と首を支えながらスマホを取り出し、検索窓へ人生で一度も打ったことのない文字を入力した。
『赤ちゃん 泣き止ませる方法』
抱っこ。ゆっくり揺らす。音を聞かせる。おくるみ。ホワイトノイズ。ビニール袋の音。子守歌。
知っている単語もあれば、何に使うのかすらよく分からないものまで並んでいる。
まずは身体ごと小さく左右へ揺れてみる。泣き声が一瞬だけ弱くなった気がして少しリズムを変えたら、逆に声が大きくなった。
「あ、違う。ごめんごめん」
すぐ元へ戻す。
検索結果を下へ送っていると、見慣れない言葉が目に入った。
「……タケノコピアノ?」
何それ。
出てきた動画を再生すると、妙に耳へ残る不思議な音が部屋へ流れ始めた。一瞬だけ泣き声が弱まる。
「え、効いた?」
「ふぇ……ふぇぇぇぇぇっ!」
「あ、戻った」
短かった。
別の動画、別の音、抱き方、揺らし方。検索結果を上から順番に試してみるけれど、完全には泣き止まない。まだ帰宅してから大して時間は経っていないはずなのに、体感ではもう一時間くらい格闘している気がした。
その間、もう一人はベッドの上からほとんど動かず、私の腕の中を見つめている。
「……あぅ」
「大丈夫。ここにいるから」
言ってから、自分でも変なことを言っていると思った。今日会ったばかりの私が、何を保証できるわけでもない。
その時だった。
ドンッ!
「っ!?」
壁が鳴った。
泣き声が一瞬止まる。
私も、赤ちゃん二人も、揃って壁を見た。
「…………壁ドン」
どう考えても隣の部屋からだ。
人生初だった。もう少し違う理由で経験するものだと思っていたし、少なくとも家の前のゲーミング電柱から拾ってきた赤ちゃんが原因になるとは想像したこともない。
「すみません……」
聞こえるかどうかも分からない声で壁へ謝る。
次の瞬間。
「ふぇぇぇぇぇぇっ!」
「再開するんだ……!」
しかも、さっきより元気になった気がする。
もう一発来る前にどうにかしないといけない。検索結果へ必死に目を走らせていると、その中の一つで指が止まった。
子守歌。
「…………」
赤ちゃん向けの歌なんて、まともに覚えていない。
でも、歌なら知っている。
何も見なくても、最初から最後まで自然に旋律が浮かぶくらい、何度も聴いてきた曲がある。
「……これでも、いいのかな」
スマホをベッドの上へ置く。腕の中の小さな身体を支え直し、ゆっくり揺らしながら息を吸った。
それから、ほんの小さな声で。
「……♪」
ヤチヨのデビュー曲、『Remember…』を口ずさんだ。
もちろん、ヤチヨみたいには歌えない。人前で歌うこと自体ほとんどないし、誰かへ聴かせるつもりなら絶対にこんなことはしない。
でも、今いるのは赤ちゃん二人だけだ。
何度も聴いてきた旋律を、声にしてゆっくり辿っていく。
学校で嫌なことがあった日も、バイトで失敗した夜も、一人で暮らしていることがどうしようもなく重たく感じた時も、この曲を聴けば少しだけ呼吸が楽になった。何かが解決するわけじゃなくても、もう少しだけやってみようと思えた。
私は何度も、この歌に支えられてきた。
だったら今度は、ほんの少しくらい、この子にも届いてくれたらいい。
「……♪」
腕の中の泣き声が、少しずつ弱くなっていった。
「ふぇ……」
何度かしゃくり上げる。それでも次の大きな声は出ず、涙で濡れた目がぼんやりと私を見上げていた。
「…………」
効いてる。
たぶん。
歌うのをやめず、そのまま身体をゆっくり揺らし続ける。ベッドに残ったもう一人も静かだった。ただし、視線は相変わらず私ではなく、腕の中へ向いている。
「そっちも来る?」
「……あぅ」
答えに聞こえなくもなかった。
泣いていた方をベッドへ戻し、すぐ隣へもう一人を寄せる。距離が縮まった途端、小さな手が迷わず伸び、服を握った。
「やっぱり」
私はベッドの脇へ腰を下ろし、そのまま『Remember…』を小さく口ずさみ続けた。
二人の瞼が少しずつ重くなる。大泣きしていた方が先に目を閉じると、もう一人は隣を確かめるように眺めたあと、少し遅れて目を閉じた。
歌を止め、しばらく待つ。
二人とも動かない。胸だけが、小さなリズムで上下している。
「……寝た」
ようやく肩から力が抜けた。
スマホには大量の検索結果。玄関には放り出した鞄。夕飯もまだで、洗濯物もそのまま。明日の小テストだって何も見ていない。
つい少し前まで頭の中へきれいに並んでいた今日の予定は、赤ちゃん二人によって全部吹き飛んでいた。
「……予定、全部終わった」
別の意味で。
それでも今は、二人が眠った。それだけで、一日の仕事を全部終えたくらいの達成感があった。
◇
少し落ち着いてから、私は改めてスマホを手に取った。
「……警察、だよね」
冷静に考えれば迷う理由なんてない。見知らぬ赤ちゃんを二人拾って保護した。それなら警察へ連絡する。
ただ、それだけの話だ。
電話画面を開いたところで、指が止まった。
「…………」
なんて説明する。
赤ちゃんを拾いました。二人です。場所は家の前。
そこまではいい。
問題は、その先だった。
「……電柱の中」
口にした瞬間、自分で駄目だと思った。
正確に説明すれば、もっとひどい。家の前の電柱が突然七色に光って扉が開き、中には外から見えるより明らかに広い空間があった。古めかしいBGMまで流れていて、そこに赤ちゃんが二人並んでいた。抱き上げたら全部消えて、元の電柱へ戻った。
自分で聞いても怖い。
下手をすれば、赤ちゃんより電話してきた高校生の方を心配されそうだった。
でも、だからといって何もしないわけにもいかない。
「……よし」
意を決して電話をかける。呼び出し音のあと向こうへ繋がり、人の声が聞こえた途端、急に喉が乾いた。
『はい――』
「あ、もしもし。えっと……赤ちゃんを、拾って……」
そこまでは言えた。
向こうからいくつか確認される。場所は家の前。二人いる。今は眠っている。
そして当然、聞かれた。
どこにいたのか。
「…………」
来た。
「その……」
電柱から。
あと少しで口から出る。
私はベッドへ目を向けた。
二人とも静かに眠っている。一人は、もう一人の服をしっかり握ったままだ。
『もしもし?』
「あの……」
喉まで出かかった言葉が、どうしても続かなかった。
「…………大丈夫です」
通話を切る。
「…………」
しばらくスマホを見つめた。
「何が?」
何一つ大丈夫じゃない。
「私、何してるんだろ……」
額を押さえる。
警察への連絡には失敗した。
だったら少なくとも、今夜この二人を無事に朝まで過ごさせるために必要なことくらいは調べないといけない。
おむつ。ミルク。寝かせ方。赤ちゃんを拾った時。
検索履歴が、それまでの生活では一度も入力したことのない言葉で埋まっていく。
やることが多い時は、一つずつ片づける。
学校も、バイトも、一人暮らしも、ずっとそうしてきた。
今回だって――たぶん、それしかない。
◇
夜が深くなってから、私は眠っている二人をほんの少しだけ離してみた。
くっつきすぎて苦しくないのか気になったからだ。
二人の間に数十センチの隙間を作り、そのままスマホで必要そうなものを調べる。
数分後、何気なくベッドへ目を向けた。
「…………あれ?」
近い。
さっきより明らかに距離が縮まっている。
気のせいかと思って元の位置へ戻し、今度は少し意識して様子を見てみた。
すると静かな方が、眠ったまま腕と脚をわずかに動かし始める。ほんの少しずつ、けれど確実に隣へ寄っていった。
「……どうやってるの」
やがて手が届く距離まで来ると、小さな指が隣の服を掴んだ。
そこで動きが止まる。
「…………」
電柱の中でも、抱き上げた時も、泣いていた時も。
この子はずっと、もう一人を気にしていた。
理由は分からない。
「……離したくないんだね」
眠っている赤ちゃんへ話しかけても、返事はない。
それでも、もう一度引き離す気にはなれなかった。
◇
結局、その夜は三人で寝ることにした。
二人だけベッドへ残すのも怖いし、慣れない場所へ移して何かあっても困る。だったらすぐ様子を確認できるところにいた方が、少なくとも私は安心できる。
布団を整え、二人を真ん中へ寝かせ、その横へ私も身体を滑り込ませる。
「…………川の字?」
三人だから、形としてはたぶん合っている。
大泣きしていた方は仰向けで静かに眠っている。もう一人はやっぱり私へ背中を向け、隣の赤ちゃんの方を向いたまま、その服を握っていた。
今日会ったばかりだ。
名前も知らない。どこの子なのかも分からない。どうして家の前のゲーミング電柱から出てきたのかなんて、もっと分からない。
なのに、この二人の間に何かがあることだけは、もう疑う気になれなかった。
「……姉妹、なのかな」
小さく呟いても、返事はない。
部屋はようやく静かになっている。さっき口ずさんでいた『Remember…』の旋律だけが、まだ頭の中で微かに続いていた。
朝は普通に学校へ行った。ろかとまみにバイトの話をして、いつも通り働いて、帰り道ではヤチヨの歌を聴きながら流れ星に金を願った。
それなのに今は、知らない赤ちゃん二人と同じ布団に入っている。
「…………」
人生、何があるか分からない。
今日ほどそう思った日はなかった。
「……明日考えよ」
もう限界だった。
目を閉じると、すぐ隣から二人分の小さな寝息が聞こえてくる。
一人は仰向けに。
もう一人は、最後まで隣の方を向いたまま。
眠っていても、その服を握った手だけは離れなかった。