「……あなた、誰なの?」
赤ちゃんの泣き声がようやく収まってから、私は改めて目の前の子供へそう聞いた。
つい今しがたまで『姫様』と呼ばれていた赤ちゃんは、私の腕の中で何度か鼻を鳴らしたあと、何事もなかったみたいに目を閉じている。そのすぐ隣には、朝まで赤ちゃんだったはずの子が正座していた。
見た目は四歳くらい。小さな身体に幼い顔。それなのに姿勢だけは妙にきれいで、背筋をぴんと伸ばしたまま、私ではなく腕の中の赤ちゃんを見ている。
「聞いてる?」
「はい」
「じゃあ、あなたは誰?」
ようやく視線がこちらへ向いた。少し考えるような間のあと、子供は真顔で答える。
「姫様の従者です」
「…………」
答えになっているようで、なっていない。
「従者って」
「姫様にお仕えし、お守りする者です」
「そこは分かるんだけど……名前。あなたの名前は?」
今度は少し長い間があった。忘れているというより、自分へ『名前』という言葉を当てはめたこと自体がないような顔で考え込み、やがて小さく首を横へ振る。
「……ございません」
「ないの?」
もう一度記憶を探るように目を伏せたあと、少しだけ言い直した。
「少なくとも、覚えてはおりません」
どうやら名前だけじゃないらしい。
昨日までどこにいたのか。家はあったのか。家族らしい誰かはいたのか。いくつか聞いてみたけれど、返ってくる反応はどれも曖昧だった。何もないというより、何かがあった感覚だけは残っている。ただ、その輪郭を掴もうとすると、指の間から抜け落ちるみたいに具体的な形にはならないらしい。
「じゃあ……どこから来たの?」
何気なく聞いただけだった。
でも、その質問だけ。
子供の反応が少し違った。
「…………」
ゆっくり顔を上げる。ただし、見たのは私ではなく窓の方だった。
「ん?」
視線を追う。カーテンの向こう、夜空には月が浮かんでいる。
子供が小さな指を持ち上げた。
「あそこ……?」
「……おそらく」
指先は、まっすぐ月へ向いていた。
「…………」
私は月を見る。子供を見る。そして、もう一度月を見る。
「月?」
問い返すと、子供は一度だけ頷いた。それでも確信があるわけではないらしく、表情にはわずかな迷いが残っている。
「はっきりとは、覚えておりません。ただ……あそこから来たのだと、思います」
「…………」
電柱から出てきたと思ったら、その前は月。
昨日から、話の規模だけがどんどん大きくなっている。
当然、信じられる話じゃない。でも、家の前の電柱が七色に光り、その中から赤ちゃんが二人出てきたところを私は自分の目で見ている。しかも、その片方はたった一日で四歳くらいまで育った。
昨日までの私なら、たぶん笑っていた。
今は。
「……完全には否定できないのが嫌だな」
「?」
「何でもない」
それより、もっと不思議なのは。
「この子が姫様ってことだけは分かるの?」
「はい」
そこだけは、一瞬も迷わなかった。
子供は眠っている赤ちゃんへ視線を戻し、ほんの少しだけ表情を和らげる。
「姫様は姫様です」
「それ、説明になってないんだけどなあ……」
自分がどこにいたのかも、どうやってここへ来たのかも曖昧。名前すら分からない。それなのに、この赤ちゃんが姫様で、自分はその従者だということだけは絶対に揺らがない。
昨日、電柱の中で初めて見た時からそうだった。まだ言葉も話せなかったのに、この子だけはずっともう一人を気にしていた。離せば寄っていき、眠っていても服を握る。成長して最初に口にした言葉まで『姫様』だった。
「……従者、ね」
「はい」
本人にとっては、それで自分の説明が全部済んでいるらしい。
四歳くらいの子供が、そんな顔で『従者です』なんて言っている光景も十分おかしい。でも昨日からおかしいことが続きすぎて、私の中の基準もだいぶ壊れてきていた。
◇
「それでは、姫様のお世話は私がいたします」
その日の夜、子供は突然そんなことを言った。
「できるの?」
「当然です」
返事だけは迷いがない。
数時間前、タブレットで赤ちゃんの抱き方を散々調べておきながら、実際に抱かせてみたら一瞬で泣かせた子である。そこを指摘すると、ほんの少しだけ目を逸らした。
「……先ほどの失敗は、すでに学習いたしました。従者たるもの、同じ失態を繰り返すわけにはまいりません」
「四歳くらいの見た目で、言うことだけすごいな……」
まあ、本人がそこまで言うなら私だって助かる。
一人暮らしの高校生が、突然赤ちゃん一人と四歳児一人の面倒を見ることになっている。冷静に考えれば昨日より状況は悪化している気もするけれど、片方が自分のことをある程度できるようになるだけでも違う。
「じゃあ、とりあえずミルクお願いしてみようかな」
「お任せください」
自信満々だった。
五分後。
「ちょっと待って!」
台所へ駆け込むと、子供が作ったばかりのミルクをそのまま持っていこうとしていた。
「それ熱いから!」
「ですが、先ほど温めました」
「温めたから熱いんだよ!」
きょとんとされた。
そうだった。知識はあっても、経験がない。タブレットで手順を見て覚えていても、『どれくらい熱ければ危ないのか』までは身体で分かっていないらしい。
手首の内側へ少し垂らして温度を確かめる方法を教えると、子供は真剣な顔でこちらの動きを追い、そのまますぐ真似した。一度見せれば覚える。そこだけは本当に早い。
「こちらで確認するのですね」
「そう。熱かったら冷ます。あと電子レンジも勝手に使わないで」
「電子……?」
「…………」
そこからか。
指差して説明すると、今度は機械そのものを不思議そうに見上げた。火もないのにどうして温まるのかと聞かれ、私は説明する気を失った。
「とりあえず、これは禁止」
「なぜですか」
「今のあなたに使わせるの怖いから」
「…………承知しました」
少し不満そうだった。
タブレットを数時間で使えるようになったわりに、生活用品については驚くほど何も知らないらしい。
◇
翌朝。
目を覚ますと、隣にいたはずの子供がいなかった。
「……あれ?」
一瞬だけ胸がざわつき、身体を起こす。赤ちゃんはいる。布団の上で、何事もなく静かに眠っていた。
ほっとした直後、部屋の奥から物音が聞こえた。
嫌な予感がする。
「何してるの?」
「洗濯をしております」
声のした方へ行くと、子供が洗濯機の前で少し誇らしげに胸を張っていた。
「姫様のお召し物が汚れておりましたので」
「自分でやったの?」
「はい」
洗濯機を見る。
止まっている。
「……動いてないけど」
子供も洗濯機を見る。
衣類を入れ、洗剤も入れた。そこまでは説明できたのに、その先を聞いた途端、口が止まった。
「…………」
「スタート押してないじゃん」
「すたーと」
「これ」
ボタンを押すと、低い駆動音とともに洗濯機が動き始める。中へ水が流れ込む音がすると、子供がほんの少し目を見開いた。
「動きました」
「洗濯機だからね」
回り始めた機械を、しばらく真剣な顔で見つめている。
「……すごいですね」
「そこ感動するんだ」
昨日はタブレットを数時間で使いこなしたのに、電子レンジと洗濯機には負けている。
この子の基準が分からない。
◇
その後も、生活能力はだいたい同じ調子だった。
おむつは前後を間違え、着替えでは赤ちゃん本人へ「お手を」と頼み、ミルクも温度を確認するところまでは覚えたのに、熱いと分かった状態でそのまま持っていこうとする。
そのたびに私が止める。
「……面目ありません」
そして、そのたびにしゅんとする。
「謝らなくていいから。次から気をつければ」
昼になる頃には、私の方が疲れていた。
昨日は確かに「姫様のお世話は私がいたします」と言っていたはずなのに、実際にやっていることは、私がこの子へ育児を教えているだけである。
「…………結局、私があなたに教えてるよね」
床へ正座していた子供の肩が小さく落ちる。
「あ、いや。怒ってないけど」
むしろ妙だった。
失敗はする。それもかなり。生活用品の使い方は知らないし、赤ちゃんの扱いにも慣れていない。
でも、一度教えたことは次にはほとんど間違えなかった。ミルクの温度、おむつの向き、服の通し方。どれも覚えるのが異様に速い。
「……覚えるのは早いよね」
そう言うと、子供が顔を上げた。
「姫様のためですので」
「…………」
結局、そこへ戻ってくる。
この子を動かしているものは、いつも一つだった。
◇
昼過ぎ。
私は洗濯物を畳みながら、ベッドの方を何となく眺めていた。
赤ちゃんは起きている。その横には例の子供が座り、今度こそ教えた通りの角度で哺乳瓶を傾けていた。首元を支える手も、昨日よりずっと自然になっている。
「ちゃんと飲めてる?」
「はい」
少しずつ。本当に少しずつだけど、できることは増えていた。
昨日、電柱から出てきた時は、ただ隣へ寄っていくだけの赤ちゃんだった。それが一日で成長し、言葉を覚え、今日は自分でミルクまで飲ませている。普通ではない。そこだけはもう、疑いようがない。
でも、妙に真面目で、少し不器用で、姫様と呼ぶ赤ちゃんのことしか考えていない。
「……ほんとに従者なんだ」
小さく呟く。
「?」
「何でもない」
そう答えた、その時だった。
赤ちゃんが身体を動かした。
寝返り。
ほんの少し。
ベッドの端へ。
「危な――」
言い終わらなかった。
赤ちゃんの身体が傾く。
ベッドから落ちる。
そう認識した瞬間。
子供の姿が消えた。
「――え?」
床を蹴る音と、服が擦れる音が遅れて耳へ届く。
次の瞬間には、ベッドから落ちかけていた赤ちゃんが、小さな腕の中に収まっていた。
「…………」
私は動けなかった。
ほんの一瞬前まで、この子はベッドの横にいた。
なのに。
落ちるより先に。
受け止めた。
「…………今の、何?」
子供がこちらを見る。息すら乱れていない。
「何、と申されましても」
腕の中の赤ちゃんを確認し、傷がないと分かったのか、ようやく少しだけ表情を緩めた。
「姫様をお守りしただけですが」
「…………」
私は答えられなかった。
昨日、歩き始めたばかりの時には自分で転びそうになっていた。電子レンジも知らない。洗濯機も動かせない。ミルクの温度も分からない。おむつだって逆につけようとした。
そんな子が。
姫様が落ちそうになった、その瞬間だけ。
別人みたいに動いた。
「もう一回できる?」
子供が不思議そうに首を傾げる。
「姫様をもう一度落とすのですか?」
「落とさないよ!」
「では、必要ございません」
「…………」
もっともだった。
子供は何事もなかったように赤ちゃんを抱き直す。昨日よりは、ちゃんと首を支えている。
生活のことは何も知らない。育児だって、まだ私が教えないと危なっかしい。
それなのに。
守ることだけは、誰にも教わっていない。
「……従者って、そういう意味?」
「はい」
迷いのない返事だった。
たぶん、私が思っている従者と、この子が言っている従者は少し違う。
◇
「ところで」
昼を少し過ぎた頃、私は二人分の洗濯物を干しながら、もう一度聞いてみた。
「ほんとに名前ないの?」
「はい」
「呼びにくいんだけど」
「従者で構いません」
「嫌だよ」
なぜなのか分からないという顔をされた。
「人を役職で呼ぶみたいで変でしょ」
「私は従者ですので」
「そういう問題じゃなくて」
小さく首を傾げる。
どうやら本気で分かっていない。
私は洗濯物をハンガーへ掛けながら、その横顔を見る。
名前がない。必要だとも思っていない。自分を説明する言葉も、やりたいことも、全部『姫様の従者』。
それだけで本人は何も困っていないらしい。
昨日までは、それでもよかったのかもしれない。
でも、一緒に暮らすなら。
「そのうち、名前考えようか」
「私に、ですか?」
「他に誰がいるの」
そこで初めて、子供が少し困ったような顔をした。
「必要でしょうか」
「必要」
「ですが、従者に名など――」
「私が呼びづらい」
「…………」
「だから必要」
しばらく考えたあと、小さく頷く。
「……承知しました」
納得したのかは分からない。
その直後、ベッドの上から小さな声がした。
「……あぅ」
子供の顔が一瞬でそちらを向く。
「姫様」
「ほら。またそっち」
「当然です」
そう言って、すぐ立ち上がる。
「姫様のお世話は、私がいたしますので」
「じゃあ今度こそ、おむつ間違えないでね」
「…………はい」
一瞬だけ間があった。
そこにはまだ、姫様の従者しかいない。
名前もなく、過去も曖昧で、自分がどこから来たのかさえ確かなことは分からない。それでも月を指して「あそこから来たのだと思う」と言い、赤ちゃんを『姫様』と呼ぶことだけは一度も迷わない。
生活のことなんて何も知らないくせに、姫様が危険になれば誰より速く手を伸ばす。
変な子を拾った。
赤ちゃん一人でも十分大変だったのに、その隣にはどうやら、とんでもなく面倒で、とんでもなく頼りになる従者まで、ついてきたらしい。