三連休の三日目。赤ちゃん二人との生活にも、少しだけ慣れてきた。
もちろん、楽になったわけじゃない。ミルクを作り、おむつを替え、泣けば抱き上げ、眠ればその隙に洗濯や片づけをする。予定通りに進むことなんてほとんどなくて、時計を見るたびに「もうこんな時間?」と思う。ただ、最初の夜みたいに、泣かれるたびスマホへ『赤ちゃん 泣き止ませる方法』と打ち込むことはなくなった。それだけでも進歩だと思う。
もう一つ変わったのは、姫様の従者を名乗る子供だった。まだ名前はないけれど、昨日までできなかったことを今日は普通にこなしている。ミルクの温度を確かめ、おむつの前後も間違えず、着替えも少しずつ手伝えるようになった。一度教えれば覚える。そして、覚えたことは全部、姫様のために使う。
「……寝た?」
「はい」
夜十一時を過ぎた頃。私はベッド脇へ腰を下ろし、ようやく眠った赤ちゃんを見下ろした。隣には従者の子が座り、布団の端を丁寧に整えている。
「今日はもう起きないでほしいな……」
「姫様はお元気です」
「元気なのはいいんだけど、夜は寝てほしい」
「なるほど」
最近、この子は何にでも「なるほど」と言う。覚えるのは早いのに、最初の一回だけは何も知らない。その差にも、少しずつ慣れてきた。
スマホを見る。23時50分。
「……私も寝よ」
今日はもう無理だった。布団へ身体を滑り込ませると、溜まっていた疲れが一気にのしかかってくる。
「あなたも寝なよ」
「私は姫様のおそばにおります」
「それ、寝ないって意味?」
「必要であれば休みます」
「必要だから休んで」
「承知しました」
返事だけは素直だった。でも、たぶん寝ないんだろうな。
そんなことを思いながら目を閉じる。赤ちゃんの小さな寝息と、従者の子が布団を直す音だけが薄く聞こえていた。
そこから先は覚えていない。
◇
最初に動いたのは、赤ちゃんだった。眠っていたはずの小さな手が、布団の横へ置かれていたタブレットへ伸びる。
「……姫様?」
従者の子が小さく呼ぶ。返事はない。それでも赤ちゃんは手を止めず、指先が画面へ触れる。暗かったタブレットへ光が灯り、もう一度触れると画面が切り替わる。さらに触れる。
映像が流れ始めた。
従者の子は止めなかった。ただ、姫様が何をするのか見守るように、その隣へ座っている。
タブレットから、人の声が流れる。映像、音楽、文字、街、食べ物、歌、言葉。画面は次々と切り替わり、一つの映像を長く見ることはない。数秒で次へ進み、また次へ進む。意味も分からず触っているようには見えなかった。
見ている。覚えている。理解している。
そんな速度だった。
「……姫様」
もう一度呼んだ時、小さな身体の輪郭がわずかに揺らいだ。腕が伸び、脚が伸び、丸かった頬から少しずつ幼さが抜けていく。赤ちゃんだった身体が、少女のものへ変わっていく。
急激なのに、苦しそうな様子はない。まるで最初から、そこへ戻ることが決まっていたみたいだった。
従者の子は驚かなかった。変わっていく姫様をじっと見つめながら、小さく息を吐く。
「……ようやく」
その声には、驚きよりも安堵の方が近かった。
◇
「…………ん」
目が覚めた。まだ外は暗い。
身体を起こし、ぼんやりとベッドの方を見る。
そこに二人いた。
知らない少女が、二人。
私は数秒、何もできなかった。昨日まで赤ちゃんと四歳くらいの子供が寝ていた場所に、今は少女が二人座っている。
一人は見覚えがあった。姫様の従者。ただし昨日より明らかに大きい。四歳くらいだった身体がさらに成長し、着ていた服もすっかり合わなくなっている。
そして、その隣。
もう一人。
知らない。
知らないはずなのに、どこかで見たような気もする。髪。目。顔の輪郭。何より、その少女の隣に従者の子が当たり前みたいな顔で座っている。
「…………誰?」
ようやく、それだけ口から出た。
従者の子がこちらを向く。
「彩葉様、こちらは――」
「お腹すいた!」
「…………」
説明より先に、隣の少女が元気よく口を開いた。
「……え?」
「お腹すいた!」
もう一度言われた。寝起きの頭には情報が多すぎる。
「ちょっと待って。まず誰?」
少女は不思議そうに首を傾げ、自分自身を指差した。
「私?」
「そう」
「んー……分かんない!」
「分かんないの!?」
自信満々に言われた。
隣を見る。
「説明」
「姫様です」
「そこは分かってる!」
分かっていると言っていいのかも怪しい。でも、そこはもういい。
数時間前まで、この子は赤ちゃんだった。それが今は普通に喋り、こちらを見て笑っている。しかも従者の子まで昨日より大きくなっていた。
「あなたまで大きくなってない?」
「姫様に合わせました」
「服みたいに言わないで」
もう考えるのが嫌になってきた。最近は何もかも、時間の流れが早すぎる。一昨日まで赤ちゃんだった子が昨日には四歳くらいになり、今度はもう一人まで一晩で少女になった。ついでみたいに、その従者までまた成長している。
私だけ普通の速度で生きているのが、なんだか馬鹿みたいだった。
「で」
少女がじっと私を見る。
「お腹すいた」
「まだ言う?」
「すいた」
スマホを見る。午前二時過ぎ。
普通なら完全に寝ている時間だ。でも、目の前の二人はどちらも起きる気満々だった。
「……何食べたいの」
「分かんない!」
「そこも分かんないんだ……」
冷蔵庫を開ける。卵、ご飯、ケチャップ。簡単に作れて、子供でも食べやすそうなもの。
「オムライスでいい?」
「おむらいす?」
「食べ物」
「食べる!」
即答だった。隣の従者にも聞けば、姫様と同じものでいいらしい。
深夜二時。私は二人分のオムライスを作ることになった。
フライパンへ卵を流し込みながら、冷蔵庫の中を見る。卵が減る。ご飯も減る。ケチャップも減る。育児用品だけで二万六千円かかったのに、今度は二人とも普通に食事をするらしい。
「……食費」
小さく呟いた。
流れ星への願いは、やっぱり完全に逆だった。
◇
「できたよ」
小さめの皿へオムライスを盛り、二人の前へ置く。
少女は初めて見るものを前に、目を輝かせていた。
「これがおむらいす……」
「熱いから気をつけて」
スプーンを持たせると、恐る恐るひと口食べる。そのまま一瞬止まった。
「どう?」
「おいしい!」
ぱっと顔が明るくなる。隣の従者も同じように口へ運び、少しだけ目を見開いた。
「……おいしいです」
二人とも、同じような顔をした。
「そう」
悪い気はしない。少女はそのまま二口、三口と食べ進め、早くも「これ好き」と言っている。
「明日もこれ!」
「毎日は無理」
「なんで?」
「食費」
「しょくひ?」
「知らなくていい」
知らない方が幸せなこともある。
◇
食べ終わる頃には、私の眠気もかなり飛んでいた。
改めて目の前の少女を見る。赤ちゃんだった時の面影はある。隣の従者が何の疑いもなく『姫様』と呼んでいる以上、あの赤ちゃん本人なのは間違いない。
でも、何者なのかは相変わらず分からない。
「……どこから来たの?」
聞くと、少女はスプーンを置いて少し考えた。目を閉じ、何かを思い出そうとしているらしい。
しばらくしてから、小さく首を傾げる。
「よく分かんない」
「分かんないの?」
「うん。でも……」
そこで窓の向こうへ目を向ける。暗い夜空には、月が浮かんでいた。
「あっち……かも?」
「月?」
「たぶん?」
「たぶんなんだ……」
従者の子とほとんど同じだった。細かい記憶はほとんどない。どこで暮らしていたのか。誰といたのか。どうしてここへ来たのか。聞いても答えられない。
それなのに、月だけはなんとなく残っている。
そして、その隣には『姫様』と呼ぶ従者がいる。
「月から来た……姫」
口にしたところで、頭の中に昔から知っている話が浮かんだ。
私はスマホを手に取り、『かぐや姫』と検索する。
「これ、知ってる?」
少女へ画面を見せる。
「知らない」
本当に何も覚えていないらしい。
竹から生まれた女の子。美しく育って、たくさんの求婚者が現れる。そして最後には月から迎えが来る。
簡単に説明していくと、少女は最初こそ楽しそうに聞いていた。
でも。
「最後は月から迎えが来て、かぐや姫は月へ帰っちゃうんだよ」
途端に顔が変わった。
「え?」
「月に帰るの」
「なんで?」
「迎えが来るから」
「帰りたくないって言ってるのに?」
「そう」
「それで?」
「終わり」
「…………」
数秒、黙った。
「ちょうバッドエンドじゃん!」
「まあ……そうとも言える」
「しかも中途半端! 帰ったあとどうなったの!? 地上のみんなは!? 本人は幸せなの!?」
「そこまでは書いてない」
「書いてないの!?」
「昔話だから」
「昔話でも雑すぎない!?」
ものすごく怒っている。
本人が帰りたくないのに、迎えが来たから月へ連れていかれる。残された人たちがどうなったのかも分からない。月へ戻ったかぐや姫が幸せだったのかも書かれていない。
それで物語は終わる。
「何それ! 勝手に迎えに来て、勝手に帰らせて、それでおしまい!?」
「そういう話なんだよ」
「そんなの嫌だ!」
はっきり言い切った。
その隣で、従者の子だけが何も言わなかった。
さっきまで姫様と一緒にスマホを覗いていたはずなのに、『迎え』という言葉が出た時だけ、ほんの一瞬、表情が消えたように見えた。
「どうしたの?」
「……何でもございません」
それ以上は答えなかった。
少女の方は気づいていないらしい。
「私だったら絶対帰らないからね!」
「でも、本当に帰らなきゃいけないなら、仕方ないこともあるでしょ」
「仕方なくない!」
「決まってることでも?」
「嫌なものは嫌!」
「…………」
強い。
少なくとも、昔話のかぐや姫よりはずっと騒がしい。
私はもう一度スマホの画面を見る。月から来た女の子。姫。かぐや姫。そして、目の前の少女。
まだ分からないことだらけだった。それでも、呼び名をつけるくらいなら十分すぎる材料が揃っている。
「あなた……もしかして、かぐや姫なの?」
少女が自分を指差す。
「私?」
「月から来たっぽい。姫様って呼ばれてる。名前も分からない」
しばらく考えたあと、首を傾げる。
「そうかも……?」
「そこ、そんな感じで決まる?」
「だって分かんないし!」
「まあ……そうだけど」
とりあえず、呼び方はできた。
かぐや。
かぐや姫。
私はゆっくり隣を見る。姿勢を正して座っている、もう一人。
「じゃあ……あなたは?」
従者の子は背筋を伸ばした。そして、迷いなく答える。
「姫様にお仕えする者です」
「…………」
かぐや姫。その隣に、従者。
家の前のゲーミング電柱から、赤ちゃんを二人拾った。片方は、かぐや姫。もう片方は、その従者。
そう考えると、急に全部がそのまま言葉になった。
「かぐや姫を拾ったら、従者まで付いてきた……」