二人の名前が決まってから、まだそれほど時間は経っていなかった。
「ねえ彩葉! 今日何する!?」
朝から元気いっぱいのかぐやに聞かれ、私は制服のボタンを留めながら壁の時計へ目をやった。昨日までなら出発前に確認するのは時間と鞄の中身くらいだったのに、今はそこへ『月から来た少女二人をどうするか』まで加わっている。
「何するって……学校」
「学校?」
「そう。私、今日普通に学校だから」
かぐやが不思議そうに首を傾げる。その隣では、ついさっき名前が決まったばかりの月見が、黒いメイド服の裾をきれいに揃えて座っていた。
数日前の私なら、自分の部屋に知らない少女が二人いて、その片方がメイド服を着ているだけで十分混乱していたと思う。それが今では、赤ちゃんが数日で少女まで育ち、普通に喋り、月から来たと言い出し、片方にはいつの間にか衣装まで増えている。朝から少女が二人いる程度なら、もう驚かない。
慣れというのは怖い。
「学校って何するところ?」
「勉強するところ」
「ふーん」
かぐやは少し興味を示したように見えたけれど、それもほんの数秒だった。
「じゃあ今日は行かなくていいじゃん」
「行くよ」
「なんで?」
「学校だから」
「一日くらい休んでもよくない?」
「よくない」
即答すると、かぐやが露骨に口を尖らせる。
「えー」
私は制服の袖を整えながら、その顔を見る。行きたくない日がないわけじゃない。朝から身体が重い日もあるし、授業より家で寝ていたいと思うことだってある。それでも、理由もなく休むという選択肢は私の中にはなかった。
勉強する。学校へ行く。バイトをする。一人で暮らす。必要なことは、気分とは関係なくやる。それが私にとっての普通だった。
「でも彩葉、さっき『どうしようもないことはある』って言ってたじゃん」
「そういう話じゃないから」
「学校だって変えればいいのに」
「変えないの」
竹取物語の話をした直後だからか、かぐやの中ではまだ『嫌なら変えればいい』が続いているらしい。
「とにかく、私は学校。二人は留守番」
「留守番!」
新しい遊びの名前でも聞いたみたいに目を輝かせる。その反応だけで嫌な予感しかしなかった。
「今日こそ絶対、家から出ないでよ」
「分かった!」
返事だけは百点だった。
「…………」
信用できない。
私はゆっくり隣へ視線を向ける。
「月見」
「はい」
名前を呼ぶと、月見はすぐこちらへ向き直った。ついさっきまで『従者の子』としか呼びようがなかったのに、もう普通に返事が返ってくる。それだけなのに、少しだけ不思議な感じがした。
「かぐや見てて」
月見は胸元へ片手を当て、真剣な顔で頷く。
「命に代えましても」
「そこまでしなくていい」
「しかし、姫様の御身に何かあれば――」
「何も起こさないように見ててって意味だから」
「承知しました」
この子なら、かぐやよりは信用できる。生活面ではかなり危なっかしいけれど、少なくとも姫様を守ることに関してだけは、今まで一度も迷ったところを見ていない。
たぶん大丈夫。
そう思った直後だった。
「お腹すいたー」
かぐやが、早くも別の問題を持ち出した。
「さっき朝ごはん食べたでしょ」
「もうちょっと食べたい」
「姫様、私が何かお作りいたします」
月見が当然のように立ち上がる。
「駄目」
二人が同時にこちらを見る。
「なぜでございますか」
「冷蔵庫ほとんど空っぽだから。それと、あなたの料理は今までの傾向からちょっと心配」
「…………」
月見がわずかに目を伏せた。
家事は覚えるのが早い。でも、まだ何も教えていない料理まで任せる勇気はない。電子レンジを初めて見た時に『火もないのになぜ温まるのですか』と真顔で聞いてきた子へ、火を使わせたまま学校へ行くなんて無理だった。
「じゃあ私は何食べればいいの?」
「これ」
私は台所に置いてあった皿を指差した。そこには、丸く焼いたものが何枚か重なっている。
「おお! パンケーキ!」
かぐやが一瞬で元気になった。
「パンケーキ……みたいなもの」
「みたいなもの?」
「小麦粉と水で焼いた」
ここ数日で冷蔵庫の中身は目に見えて減った。卵も牛乳も、昨日の深夜オムライスや二人分の食事でかなり使っている。だから今朝は、残っていた小麦粉へ水を混ぜて焼いただけのものを何枚か作っておいた。
丸く焼けば、見た目だけはそれなりにパンケーキっぽい。味については保証しない。
「食べる!」
説明を最後まで聞く前に、かぐやがフォークを掴んだ。一枚を切って口へ運び、数回噛んだところで動きが止まる。
「…………」
顔が、ものすごい形に歪んだ。
「くそまずじぃ…」
「言い方」
「何これ!? 味がない! あと、なんかもそもそする!」
「だから小麦粉と水だけって言ったでしょ」
「よくこれをパンケーキって言ったな!?」
「パンケーキみたいなものって言った」
「全然違う!」
かぐやは本気で抗議している。横では月見も一枚を小さく切り、少し警戒するように口へ運んだ。無表情のまま何度か咀嚼し、飲み込んでから、言葉を慎重に選ぶように口を開く。
「……栄養を摂取する目的であれば、問題はないかと」
「月見まで味を褒めないんだ」
「申し訳ございません」
「謝らなくていい」
私だって、美味しいとは思っていない。
「お昼までそれ食べてて。帰りに何か買ってくるから」
「お昼まで!?」
「それくらい我慢して」
「彩葉は?」
「学校で食べる」
「ずるい!」
「ずるくない」
鞄を肩へ掛けて玄関へ向かう。背後では、かぐやがまだ皿の上のパンケーキもどきを恨めしそうに睨んでいた。
靴を履きながら、念のためもう一度振り返る。
「いい? 外には出ない。火は使わない。知らない人が来ても扉を開けない。それから、勝手に変なもの食べない」
「分かった!」
「月見」
「お任せください」
「……本当にお願いね」
「命に代えましても」
「だから代えなくていいって」
最後まで不安しか残らなかった。それでも学校を休むわけにはいかない。私は二人を部屋へ残し、玄関の扉を閉めた。
◇
午前十時を少し過ぎた頃。
「暇だー!」
かぐやは床へ仰向けに寝転がり、両手両脚を投げ出していた。タブレットは触った。動画もいくつか見た。ツクヨミも少し試した。部屋の中も一通り見て回った。そして朝から置かれているパンケーキもどきは、まだ皿の上へ何枚も残っている。
「暇だ暇だ暇だー!」
月見はその横で、彩葉から借りた本を読んでいた。騒ぎ続ける姫様へ何度か視線を向けていたものの、最初のうちは何も言わずに耐えていたらしい。
「姫様。彩葉様から外出を禁じられております」
「分かってるよ」
「でしたら、もう少々お静かに――」
「でも外、面白そうだぞ!」
かぐやは勢いよく起き上がり、そのまま窓際へ移動した。カーテンの隙間から覗けば、道路を車が走り、人が歩き、自転車が横切っていく。昨日まで知らなかったものが、窓一枚隔てた向こうにはいくらでもあった。
「人いっぱいいる! 店もある! なんかいい匂いする!」
「姫様」
月見の声が少しずつ低くなる。ようやくかぐやが振り返った。
「何?」
「なりません」
「まだ何も言ってない!」
「お顔に書いてございます」
「顔に?」
かぐやは本気で自分の頬を触り始めた。
「どこ?」
「比喩でございます」
「ひゆ?」
月見は一瞬だけ口を閉じ、その説明は後回しにすることにしたらしい。
「とにかく、外出はなりません。彩葉様とのお約束です」
「ちょっと見るだけ」
「なりません」
「玄関まで」
「なりません」
「家の前だけ」
「なりません」
「かたいなー」
「姫様がお怪我をされれば、私が困ります」
「月見が一緒なら怪我しないじゃん」
月見の返事が止まった。
理屈としては間違っていない。かぐやが一人で外へ出るより、自分が付き添った方がずっと安全だ。それでも彩葉からは、二人とも家から出るなと言われている。
月見はほんの少しだけ眉を寄せたあと、首を横へ振った。
「それでも、なりません」
「えー」
かぐやは頬を膨らませた。
そこで諦めた――ように見えたのは、十秒くらいだった。
「じゃ、行ってくる!」
「姫様!?」
次の瞬間には走っていた。月見が立ち上がるより早く玄関へ駆け込み、靴へ足を突っ込み、そのまま扉を開ける。
「外だー!」
かぐやは止める暇もなく飛び出していった。
玄関に残された月見は、一瞬だけ固まった。彩葉から言われたことは覚えている。家から出ないこと。そして、かぐやを見ていること。本来なら二つとも守るはずだった。
しかし今、姫様はもう家の外にいる。家へ残れば『外へ出ない』は守れる。その代わり、姫様を一人で放置することになる。
迷った時間は、ほんの一瞬だった。
「お待ちください、姫様!」
月見もすぐに靴を履き、外へ飛び出した。玄関の扉が閉まり、部屋には食べかけのパンケーキもどきと、開いたままの本だけが残された。
留守番は、そこで終わった。
◇
「彩葉、今日疲れてない?」
「いつも通り」
「それ一番駄目なやつじゃない?」
放課後、ろかとまみに連れられ、私は学校近くのカフェにいた。
本当なら、そのまま家へ帰りたかった。でもここ数日、学校が終わればバイトか直帰で、二人とはまともに放課後を過ごしていない。今日は付き合え、と半ば強引に連れてこられた。
「最近ずっとバイトか直帰じゃん」
まみが向かいから言う。
「ちょっと色々あって」
「色々?」
「色々」
家に月から来た少女が二人います、とは言えない。しかも一人はメイド服で、もう一人は数日前まで赤ちゃんだった。説明したところで、私だって他人から聞けば信じない。
「はい、これ彩葉の分」
ろかが皿をこちらへ押してきた。
パンケーキだった。
「頼んでないけど」
「最近働きすぎの彩葉ちゃんへ、赤点回避記念の二人からのおごりです」
「珍しい」
「失礼だなー」
「でもありがとう」
朝から小麦粉と水だけで作ったものを見ていたせいで、ちゃんとしたパンケーキがいつも以上に美味しそうに見えた。ふわっと厚みのある生地に、クリームとバター、たっぷりのシロップ。同じ『パンケーキ』という名前を使っていいのか疑いたくなるくらい違う。
「……これが本物か」
「何言ってんの?」
「何でもない」
フォークを手に取り、一口分を切る。シロップの染み込んだ生地を刺し、そのまま口へ運ぼうとした。
その瞬間、フォークが急に軽くなった。
「…………?」
手元を見る。さっきまで確かに刺さっていたパンケーキだけが、きれいに消えている。
「え?」
ろかが瞬きをし、まみも口元へ運びかけていたカップを止める。三人とも、何が起きたのか分からないまま数秒固まった。
その直後。
「おいしい!」
真横から、聞き覚えしかない声がした。
「…………」
嫌な予感なんていう段階じゃなかった。
私はゆっくり顔を上げる。
「彩葉ー!」
そこには、かぐやがいた。満面の笑みで、私が食べるはずだったパンケーキを口いっぱいに頬張っている。
「…………まさか」
視線を少しずらす。
その後ろには、黒いメイド服姿の月見が立っていた。背筋はいつも通りきれいに伸びているのに、顔だけはこれまで見たことがないほど申し訳なさそうで、私と目が合った瞬間、ほんの少しだけ視線が横へ逃げた。
「……申し訳ございません」