「とりあえず、それしまって」
帰り道。月見の手には、まだ金色の延べ板があった。夕方の光を受けて妙にきらきらしているせいで、すれ違う人に見られていないかまで気になってくる。
「不足でしたでしょうか」
「そういう話じゃない」
「もっとあるぞ!」
「増やさなくていい!」
横から口を挟んだかぐやまで睨む。
私の銀行残高は三百円。その原因になった十二万円のスマートコンタクトが二つあって、目の前には換金方法の分からない金塊まである。
金がないのか、あるのか、自分でも分からなくなってきた。
「とにかく帰る。話は家で」
「はーい」
「承知しました」
返事だけは、二人とも素直だった。
◇
帰宅してすぐ、二人を並べて座らせた。
かぐやは床へ正座し、月見もその隣でメイド服の裾をきれいに整えている。見た目だけなら、これから何か大事な話を聞かされる子供二人だった。
「まず、勝手に外へ出ない」
「はい」
「勝手に高いものを買わない」
「はい」
「十二万円は高い」
「…………はい」
今度の返事は月見だった。さっきより声が小さく、灰銀色の目も少し伏せられている。ようやく、二十四万円という数字が私にとってどれくらい重いのか分かり始めたらしい。
一方のかぐやは、まだ完全には納得していなかった。
「でもスマコン必要だったぞ?」
「必要かどうかじゃないの」
「便利だぞ?」
「便利でも二十四万は二十四万なの」
「金塊一個より?」
「比較対象がおかしい!」
かぐやが首を傾げる。その隣で、月見まで真面目な顔で私を見た。
「金塊一個分よりも、高額なのでしょうか」
「だから金塊基準で考えないで!」
頭が痛い。
二人とも、地球のお金に対する感覚がほとんどない。かぐやは必要なら買えばいいと思っているし、月見は月見で、支払いが通るなら問題ないくらいに考えていたらしい。
「これからは、何か買う前に私に聞く。いい?」
「分かった!」
「承知しました」
「本当に?」
「分かった!」
かぐやの返事だけ、妙に元気がいい。
信用できない。
その時だった。
ぐぅぅ、と妙に大きな音が三人の間へ響いた。
「…………」
かぐやがお腹を押さえる。
「腹減った!」
「……私も」
怒っていても腹は減る。昼間にパンケーキを少し食べたとはいえ、帰ってきた頃にはもう夕食の時間が近かった。
とりあえず冷蔵庫を開ける。
卵がいくつか。野菜が少し。肉も、まともに三人分を作れるほどは残っていない。ここ数日で急に三人分の食事を用意するようになったせいで、冷蔵庫の減り方が明らかに変わっていた。
「どうしよう……」
「じゃあ私が作る!」
「え?」
横から冷蔵庫を覗き込んでいたかぐやが、ぱっと手を上げた。
「ごはん!」
「作れるの?」
「できるぞ!」
自信満々だった。
「姫様、そのようなことは私がいたします」
月見もすぐに立ち上がる。
かぐやが振り返った。
「月見、料理できるの?」
「…………」
止まった。
私も見る。
「…………可能かと」
危険な言い方だった。
「やったことは?」
「ございません」
「先に言って!」
◇
数分後。
月見はメイド服の上からエプロンをつけ、台所へ立っていた。
黒髪ロングにメイド服、さらにエプロン。背筋まできれいに伸びているせいで、見た目だけなら何年も台所へ立ってきた人にしか見えない。
「なんか普通にできそう」
「月見って料理したことなかったんだよな?」
「ございません」
「やっぱり不安」
まずは野菜からだった。
月見が人参をまな板へ置き、包丁を握る。その瞬間、手つきが変わった。握り方も立ち方も、刃先を見る目も、さっきまで家電へ首を傾げていた子とは思えないくらい迷いがない。
トントントントン、と軽快な音が続き、人参がほとんど同じ厚さで並んでいく。大根も玉ねぎも同じだった。速い。それでいて危なっかしさがまるでない。
「……速」
「月見すげー!」
かぐやが横で目を輝かせると、月見の口元がほんの少しだけ緩んだ。
「刃物の扱いには習熟しております」
「理由が物騒なんだよ」
でも、刃物の扱いだけは異常に上手かった。
そこから先になると、急に止まった。
「次は……」
月見がIHの前で動かなくなる。
「これは?」
「コンロ」
「火がありませんが」
「IHだから」
「……あいえいち」
知らない言葉を覚える時の顔になった。
「ここ押して」
「はい」
スイッチを入れると、月見がほんの少し身構える。
「熱源が内部に?」
「そう」
「危険では?」
「普通に使えば大丈夫」
「普通、とは」
「そこから説明するの?」
次は調味料だった。
月見は砂糖と塩の容器を手に取り、交互に見比べる。
「……白い粉が二種類あります」
「砂糖と塩」
「識別方法は」
「味見して」
「毒物の可能性は?」
「ない!」
電子レンジを見せれば「密閉空間で加熱を? ……罠では?」と警戒し、炊飯器の蓋を開ければ、しばらく中を覗き込んでから真顔でこちらを向いた。
「米を炊くためだけの機械……?」
「そう」
「用途が限定されすぎております」
「便利だからいいの」
その後も似たようなものだった。鍋を出せば用途を確認し、油を見れば何のために入れるのか聞き、火加減という言葉にも首を傾げる。私が一つ説明するたびにすぐ覚えていくけれど、その『最初の一回』があまりにも遠い。
「月見、貸して!」
とうとう、かぐやが横から割って入った。
「しかし、姫様」
「このままだといつまで経っても食べられないぞ!」
「…………」
月見の動きが止まった。
「月見?」
「問題ありません」
絶対に問題ある顔だった。
◇
かぐやへ交代すると、台所の流れは一気に変わった。
月見が切った野菜を鍋へ入れ、調味料を迷わず使う。火加減を見ながら一度味見をして、少しだけ足し、そのまま別の鍋へ手を伸ばす。
「…………」
普通にできている。
「かぐや、料理できたんだ」
「できるぞ!」
「誰に教わったの?」
「んー……分かんない!」
「そこはまた分かんないんだ」
記憶は曖昧なのに、身体は覚えているらしい。
その横では、月見が姫様の手元を食い入るように見つめていた。鍋から調味料へ、調味料から火加減へと忙しく視線を動かしながら、明らかに自分も覚えようとしている。
「姫様が……調理を……」
声だけが少し沈んだ。
「かぐやの方がよっぽど生活力あるじゃん」
「…………」
さらに刺さったらしい。
「月見?」
「問題ありません」
今日何回目だろう。
その時、かぐやが棚の上へ手を伸ばした。
「これ使う?」
「どれ?」
背伸びして奥へ腕を伸ばした拍子に、棚の端へ置かれていた金属製の鍋がぐらりと揺れた。
「あ」
落ちる。
そう思った時には、月見がもう動いていた。
一歩踏み込み、かぐやの肩を引いて自分の後ろへ下げる。同時に反対の手が上がり、落ちてきた鍋を受け止めた。
ガン、と鈍い音が響く。その勢いで月見の腕が近くの熱い小鍋へ触れた。
「月見!」
「姫様」
呼ばれても、月見は自分の腕を見なかった。真っ先にかぐやの頭から足元まで視線を走らせる。
「お怪我はございませんか」
「ないぞ」
その返事を聞いて、ようやく肩から力が抜けた。
「…………」
家事ができないから、役に立たない。
さっきまで少しだけ、そんな見方をしていた。
でも、月見が言う『お世話』は、最初から私が考えているものとは違っていたのかもしれない。危険を見つければ前へ出て、姫様へ届く前に自分で受ける。ベッドから落ちかけた時もそうだったし、今だってそうだ。
家電は知らなくても、ここだけは誰にも教わらず迷わない。
「……本当に、守るためについてきたんだ」
「?」
月見がこちらを見る。
「私は姫様の従者ですので」
それだけだった。本人にとっては、改めて説明するほどのことでもないらしい。
「月見、手」
かぐやが指差した。
「?」
さっき小鍋へ触れた腕が赤くなっている。
「火傷してる」
「この程度でしたら」
「駄目」
私は月見の腕を掴んだ。
「彩葉様?」
「冷やす」
「しかし、姫様のお食事が」
「かぐやに任せる」
「ですが」
「月見は座ってて」
月見が納得できない顔でかぐやを見る。
かぐやは大きく頷いた。
「任せろ!」
「…………承知しました」
ものすごく不本意そうだった。
◇
「できた!」
しばらくして、テーブルへ料理が並んだ。
ご飯に、野菜と肉を使った炒め物、それから簡単な汁物。豪華というほどではないけれど、きちんと一食分の夕食になっている。
「……本当に食べられる?」
「失礼だな!」
「いや、だって数日前まで赤ちゃんだったし」
「今は違うぞ!」
それはそう。
箸を取って炒め物を一口食べる。肉と野菜にちゃんと味がついていて、火も通っている。
「どう?」
かぐやが向かいから身を乗り出した。
「……おいしい」
「だろ!」
ぱっと顔が明るくなる。
普通においしい。少なくとも朝の、小麦粉と水だけで作った何かとは比べものにならない。
月見も慎重に一口食べた。
「……さすが姫様です」
「月見も覚えれば?」
「努力いたします」
「まず炊飯器からね」
「はい」
三人で食べ始めると、ようやく家の中が少し静かになった。私もここ数日では珍しく、まともな夕食を食べている気がする。
そこで、ふと引っかかった。
箸を止め、炒め物を見る。
肉。野菜。汁物。
冷蔵庫に、こんなに材料あったっけ。
「…………かぐや」
「ん?」
「これ、材料どうしたの?」
「買った!」
即答だった。
嫌な予感しかしない。
「何で?」
「彩葉のお金!」
「…………」
月見の箸まで止まった。
私はゆっくりスマホを取り出し、ネット銀行のアプリを開く。
残高、三百円。
目の前の料理はおいしい。
残高は三百円。
「…………おいしい」
「だろ!」
「おいしいけど!」
「?」
「お金ぇ……!」
頭を抱えた。
怒りたい。でも料理は本当においしい。それが余計に腹立たしい。
「やはり先ほどの金塊を――」
月見がメイド服の内側へ手を入れる。
「出さなくていい!」
「しかし」
「その服どうなってるの!?」
金塊の収納場所まで分からない。
もう嫌だ。
◇
食後、かぐやはゲーム機を手に取ると、そのまま床へ座り込んだ。さっきまで料理をしていた時と同じくらい迷いのない指で画面を操作し、何やら細かな設定を次々と変えている。
「何してるの?」
「犬作ってる!」
「犬?」
「うん!」
画面を覗き込むと、どうやらゲームのキャラクター作成画面らしい。耳の形を変え、顔をいじり、身体つきを調整しては、少し離して眺めてまた直す。初めて触ったゲーム機のはずなのに、操作そのものにはほとんど迷っていなかった。
「ここをこうして……こっちは、もうちょっと長くして……」
料理の時とは違って、今度は時々画面へ顔を近づけながら細かいところまで悩んでいる。それでも困っているというより、どうするか考えている時間そのものが楽しそうだった。
しばらくして、かぐやが満足そうにゲーム機を持ち上げた。
「できた!」
画面の中にいたのは、犬を元にして作ったらしいキャラクターだった。全体的には犬なのに、どこか妙な愛嬌があって、一度見ると妙に印象へ残る。
「名前は?」
「イヌDOGE!」
「…………」
そのままだった。
「いいだろ!」
「分かりやすくはある」
かぐやは満足そうにゲーム機を抱え、完成したイヌDOGEをいろいろな角度から眺めている。
数日前まで赤ちゃんだった子が、今では料理をして、その食後には当たり前みたいにゲーム機を使ってキャラクターまで作っている。記憶は穴だらけなのに、できることだけ妙に多い。
「姫様は、このようなことを昔から得意としておられます」
月見が横から言った。
「昔から?」
その言葉だけが、少し引っかかった。
「月で?」
「…………」
月見は答えず、ほんの少しだけ視線を逸らした。
かぐやはそんなやり取りに気づいていないのか、完成した画面を月見の方へ突き出す。
「月見、見て!」
「はい」
月見は差し出されたゲーム機を受け取り、画面のイヌDOGEを真剣な顔で見つめた。
「……犬、なのでしょうか」
「犬だぞ!」
「私の知識にある犬とは、若干形状が異なるように見受けられます」
「私の犬だからいいの!」
「なるほど」
月見は納得したのかしていないのか分からない顔のまま、もう一度画面を見る。
「かわいいだろ?」
「……愛嬌はあるかと」
「だろ!」
褒められたのが嬉しかったらしく、かぐやは満面の笑みでゲーム機を受け取った。
◇
その日の夜。
食べ終えた皿や椀がテーブルに残り、かぐやは床へ寝転がりながらゲーム機の中のイヌDOGEを眺めている。
私は食器を重ねて台所へ運んだ。
「……彩葉様」
「何?」
月見が流し台の横までついてきて、私の手元を見る。
「後片付けは、私が」
「…………」
今日の料理を思い出す。
包丁だけは完璧。それ以外は壊滅的だった。
だからといって、毎回私が全部やるわけにもいかない。
「……一緒にやろう」
「?」
「教えるから」
月見が一度瞬いた。
「よろしいのですか」
「できないなら覚えればいいでしょ」
少し間を置いてから、月見が小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
二人で流しへ並ぶ。水の出し方、洗剤の量、スポンジの使い方。さっき料理を教えた時と同じように一つずつ見せていくと、月見は私の手元を追いながら真剣に頷いた。
一度覚えれば早い。
たぶん次からは、一人でも――。
カラン、と嫌な音がした。
「月見!」
「割れておりません」
「危なっ!」
「申し訳ございません」
反射的に皿を受け止めた月見が、何事もなかったように流しへ戻す。
やっぱり、もう少し時間はかかりそうだった。
横では、かぐやがゲーム機を抱えたまま、完成したイヌDOGEを満足そうに眺めている。
かぐやは料理もできるし、知らない機械だってすぐ使う。その隣で月見は、皿一枚洗うのにもまだ危なっかしい。
それでも、何かがかぐやへ落ちてくる瞬間だけは、考えるより先に身体が動く。
できる姫様と、できない従者。
ただし、守ることだけは逆だった。
私は濡れた皿を布巾で拭きながら、隣でスポンジを握る月見を見る。
どうやら、この家で二人に地球の暮らしを教える係は、しばらく私になりそうだった。