雲一つない蒼穹が、途切れた岩場の下に見える雲海を境にして広がっていた。
ドゥナ・ロリヤックの一番奥にある、プチグソ屋の周りを囲む柵に寄り掛かり、バルムンクは肩越しにプチグソの幼獣にエサをやるセイラを一瞥し、そして、また目の前に広がる雲海から突き出た峻険な岩山を眺めた。
が、その目はそれらを見てはいなかった。彼は今普段オフにしているチャットウィンドウを開いて、ここに来るまでにすれ違ったプレイヤー達の過去ログをチェックしていた。
チャットウィンドウをオフにしていても、一定範囲内であれば通りすがりにマイクが拾った声は、耳で聞き取りにくいものだろうと自動的に全て記録され、何時でもテキスト表示する事が出来た。
そして、BBSの書き込み以外の、こういったプレイヤー達の他愛ない会話の中に、結構重要な情報が紛れていたりするのだ。
バルムンクはセイラに付き合いながらも、こうやって自分なりに放浪するサーバーテーマのオブジェクトの情報収集をしていたのである。
「ヤッホーッ」
快活な明るい声が、プチグソ屋専用のBGMとは別に耳朶を打った。
見ると、ここに繋がる木橋の途中で、歳若い女重剣士がこっちに向かって大きく片手を振っていた。
その脇に、腰の後ろに大振りの片手剣をさした半裸の壮年の剣士の姿もあった。
「ミミルっ、ベアさんっ」
プチグソにエサをやっていたセイラが振り返り、二人の姿を認めて手を振り返す。
「セイラ、プチグソ育ててんの?」
ほどなくベアと共にやって来たミミルは、踊り子の双剣士の足許でエサをねだる、子犬程の大きさのプチグソの幼獣を指差した。
「ええ、さっきこの人に話掛けたら貰ってしまって……」
と、セイラは牧場前に入り口に立つ、赤い帽子を被った逞しい体付きの男を見やって言った。
豚の様な潰れ気味の大きな鼻と体形をしたプチグソは、この世界では「
最近では数も減り貴重な存在となっていたが、マク・アヌ以外の全てのルートタウンにあるこのプチグソ屋ではそのレアな幼獣を育てられる。つまりここは育成イベント用の牧場だった。
プチグソの育成をするかしないかは個人の自由だが、育成してプチグソを成獣にすると、お礼に重要アイテムである「プチグソの笛」が手に入るのだ。これをフィールドで吹くと、育てたプチグソがどこからともなくやって来て乗せてくれる。
移動が楽になる上成獣の種類によっては、フィールド内に点在する「プチグソのエサ」「魔法陣」「ダンジョン」のある場所をサーチして連れて行ってくれるのだ。
それに加え、プチグソはレアなトレードアイテムを持っているので、エサ探しに多少手間が掛かって面倒だが育てて損はなかった。
しかしセイラはそんな事は知らないで、急用でログアウトしてしまったバルムンクが戻って来るのを待っている時、このプチグソ屋の
「でも、育て方がよく分からなくて。彼が前に育てた事があるって言うから、色々と教えてもらっているところなの」
セイラはチラッとベアと話をしている聖騎士風の剣士に視線を向け、嬉しそうに応える。
「へぇ、蒼天のバルムンクもプチグソ育てた事あるんだ」
彼がプチグソにエサをやっている姿が想像できず、意外そうにミミルは呟いた。
足許で千切れそうなくらい尻尾を振り、プチグソの幼獣が「マァマー!! おなかすいたブヒー!」と、セイラに舌足らずな幼い声でエサをねだる。
「ねぇ、このコ、どんな成獣にすんの?」
「どんなって?」
「ここだとクソキゾクにクソアイアン。それにポイズングソのどれかってコト」
このドゥナ・ロリヤックで育成できる成獣の種類を上げた後で、怪訝そうにミミルはセイラを見た。
「ひょっとして、そーゆーのも知らないで育てようとしてたわけ?」
「え、ええ。成獣の種類ってそんなにあるの?」
まだエサの種類を教えてもらっただけで、そこまでは聞いてなかった。
「まあね、一カ所で三種類。クソキゾク以外はルートタウンごとに違うんよ」
そう説明したミミルは、そうだとばかりセイラの手を取った。
「ここ、うまい具合に野生のプチグソがいるし、どうせならそいつら見て何の成獣にするか決めない?」
「ええ」
「じゃ、おっさん。ちょっと行ってくるね」
調査の報告をベアに任せ、ミミルはセイラを連れてせわしなく木橋を渡って行く。
おうと応えてそれを見送ると、ベアは傍らの青年剣士に声を掛けた。
「ところでどうだ。セイラ、少しは上手くなったか?」
「……多少は」
憮然として、むっつりとバルムンクが応える。
その口調は、彼らしくもなく歯切れが悪く、どこか冴えなかった。
彼女に戦い方を教えるというのは単なる口実だと思っていた彼は、セイラが本当に連続して物理攻撃スキルを使えるのかどうかを見る為に、二人でエリアに出てみた。
そしてそこで丁度出くわした放浪モンスターの相手をセイラにさせたのだが、背後から迫って来たレベルの低いモンスター相手に
ハッと我に返って慌ててバルムンクが助けた時には、セイラのHPゲージは殆ど真っ赤だった。あと一撃受けていたら間違いなく死んでいただろう。
あの時別れ際、「これ良かったら使ってくれ」とベアが差し出した「蘇生の秘薬×5」を微妙な表情で受け取ったバルムンクだったが、これを見て納得した。
フィールドで彼女の「動き」を見るのは無理だと判断した彼は、すぐさま放浪モンスターのいないダンジョンへと連れて行った。そこで漸く問題の物理攻撃スキル技のモーションを
確かに連続してスキル技を出しているのに、その技ごとのモーションの区切りが全く判らないのだ。あたかも全部で一つの技のモーションであるかのように。それは何度見ても同じだった。
その
だが、これを本当にバグの一言で片付けてしまってよいのかどうか、バルムンクは判断しかねた。
どうしてもセイラが体験したという不可解な現象と、その直後に起きたサーバーダウンが引っ掛かるのだ。
それから彼は何度かセイラと一緒にエリアに出、彼女のPCに他にも何か異常が見られないかと様子を見る傍ら、頼まれていた放浪モンスターの対応の仕方を色々と試して教えてはいたのだが、これがなかなか上手くいってなかった。
その原因が、セイラが教えてくれる彼の前で失敗できないと気負う余り、余計動きがぎこちなくなってしまい、その焦りが更に焦りを呼んでパニックに陥り動けなくなるのだという事に全く気付いていないバルムンクは、こうまで進歩がみられないと自分の教え方の何処がマズいのか悩まずにはいられなかった。
ベアに冴えない返事を返したのもその所為である。
「ま、セイラの場合、技術的な面というより、精神的なもんだからな」
バルムンクの苦労を察し、ベアは
「ところで、一つ訊いていいか?」
「なんだ?」
「あんたのそのキャラクターネーム、なんで『ジークフリート』じゃないんだ?」
「………」
「噂じゃ、あんたはこのゲームの
それなのに、何故わざわざその持ち主ではなく剣の名を付けたのか。余程の物好きがへそ曲がりか。それともそこに何か深い意味でもあるのか。
彼の名を知った時、ベアはその事に興味を抱き、機会があれば是非聞きたいと思っていたのだ。
沈黙の後に、バルムンクは目を
「何故、そんな事を知りたがる」
「
ベアは軽く肩を竦めて言った。
「気になる事があると、どうしても確かめてみないと気が済まない性分でな」
「成程……」
バルムンクは微かに口許を歪めた。それは多分に皮肉の籠った笑みだった。
昔このPCをエディットしたての頃、この名の由来を知っている連中は、やはりこの壮年の剣士のようにこの問いをよく口にしたものだ。
確かにあの頃、その名をキャラクターネームとして登録する事もできた。だが、彼はそうしなかった。
元々ファンタジー系のRPGの世界観に興味のあった彼は、それを造る上で参考にされていたギリシャ、ケルト、北欧などの神話、伝説を読み漁った。
その中で彼はゲルマン神話を下書きにして作られた叙事詩「ニーベルンゲンの歌」に出てくる聖剣に特に興味を引かれた。
その叙事詩の主役であるジークフリートが英雄として名を成さしめたのは、誰もが怖れて
つまり、ジークフリートを英雄たらしめたのは本人というよりその聖剣の力であり、彼にとってバルムンクはジークフリートの力の象徴、英雄の
だから、この世界に生きる自分の分身として、
とはいえ、この事は何となく照れくさくて誰にも言った事がなかった。唯一オルカになら話してもいいと思ったのだが、彼の場合、
『バルムンクって、変わった名だよな』
『中世ドイツの叙事詩「ニーベルンゲンの歌」に出てくる、英雄ジークフリートの聖剣の名だ』
『ふ~ん。でも、呼びにくいから「バル」でいいよな』
と、あっさり流されてしまったので、話す機会を逸してしまっていた。
だからもう、この事はこれからも誰にも言うつもりはなかった。ましてや、知り合って間もないこの男に話すなど論外だった。
「だが、俺はその好奇心とやらを満足させる気はない」
そうバルムンクは一方的に話を打ち切った。