Ⅰ. 踊り子
目の前に、
睡眠不足の目には、この眩しさはちょっとキツイ。
目を細め、彼は視線を空から外した。
遠くには何処までも果てのない緑の稜線が続き、近くではなだらかな草原のあちこちに、石を積み上げた土台の上に風車を付けた釣鐘状の建物や、緩やかなカーブを描いて天に聳える鈎爪のようなオブジェの先端から伸びるロープに、幾つもの楕円の風船の様なものが連なって浮かんでいる。
牧歌的で
こんな所は、世界中探しても何処にも存在しない。
そう、ここは
だが、今の彼にとってはここが現実だ。
最近何かと忙しかったので、こういう風にのんびりとした雰囲気を味わうのは悪くはないが、ここまで長閑な景色を眺めてボーっとしていると、眠くなってくる。
約束の時間までまだ少し間がある。とはいえ、ダンジョンを攻略するだけの時間はない。一旦落ちて、またログインしてくるのも面倒だ。
——眠気覚ましに珈琲でも飲むか……
彼は端末のディスプレイをそのままに、〈ザ・ワールド〉専用の耳と目を完全にカバーするマイク内臓のゴーグル型の
キッチンで珈琲を
珈琲の入ったカップを机の上に置き、再びF M Dを被ると、彼の耳にいきなり悲鳴が飛び込んで来た。
「いやっ、放してっ」
若い女性の声だ。
さっきまでこのエリアは、自分以外は誰も居なかった筈なのに。
ギョッとして、思わず彼は
丁度彼が居た鈎爪のオブジェクトの先端の真下辺りに、三人のPCがいた。
この〈ザ・ワールド〉は、ネットを使った
だが、人の集まるルートタウンと違い、三つのパートに分かれ、それぞれ百以上あるワードの中から一つを選んだ組み合わせでゲートインできるエリアは、無限といっても言い過ぎではない。プレイヤーの間でよく知られているエリアならまだしも、ランダムで適当に組んだワードエリアで、見ず知らずのPCに出くわすのは皆無とは言わないが、極めて
見ると、どうやらこの三人はパーティを組んでここに来たようだ。何か問題でも起こったのだろうか。二人の男性PCの一方、背中に両手剣を背負った重剣士が、嫌がる女性PCの腕を掴んで宥める様に声を掛けている。
さっきの悲鳴は、そのプレイヤーのものだろう。
「別に、そう嫌がる事ないんじゃない」
「そうそう、そのつもりで俺らに付いて来たんだろ」
「違いますっ」
力一杯否定し、彼女は重剣士の手を振り払った。
「じゃあ、なんで俺らにあんな事言ったんだよ」
「そ、それは……」
女性プレイヤーは言い淀み、力なく俯いた。
「言い出したのはそっちなんだから、今更やっぱイヤはないだろ」
ずいっと二人が彼女に近づき、怯えたように女性PCは
彼等の間に流れる不穏な空気に、彼は鈎爪の先端に移動した。
基本的にパーティ内のいざこざは彼等自身で解決すべき問題で、他人が口出すべきものではないと彼は思っているが、流石にこのまま黙って見ている訳にはいかないようだ。
今彼が居る所から彼等までは、視覚的に高さにして十メートル以上の距離がある。リアルならばここから飛び降りたら間違いなく大怪我をするが、これはゲームだ。現実にいるプレイヤーに実害はない。
ただ、よりリアルを追求した造りになっている〈ザ・ワールド〉では、専用のFMDを使用するだけあって、視覚と聴覚においては現実となんら変わらない。立ち
だが、彼は迷うことなくそこから身を躍らせた。
怯える女性PCを捕まえようと手を伸ばした重剣士と呪紋使いの男は、いきなりバサリという羽音と共に目の前に降って来たPCに、ぎょっとして動きを止めた。
そして、地面に降り立つと女性を庇うように、自分達の前に立ち塞がった剣士を見て思わず息を呑む。
こんな所に他のプレイヤーが居るとは思っていなかった上に、何処から湧いて来たのかという疑問もあるだろうが、それよりもこの剣士の姿に男達は愕然としていた。
一目で細部まで
二人が目に留めていたのは、その羽根だった。
それは、ある程度〈ザ・ワールド〉をやり込んでいるプレイヤーならば、誰でも知っている事だ。今はもう伝説と化した攻略不能と言われた幻のイベント「ザワン・シン」を攻略した唯一のパーティのM V P——一番の功労者に、イベントクリアの特典として与えられた限定モデルの羽根であるという事を。
それ故に、それを持つPCは他にはいない。
「フィアナの末裔…——」
「…——蒼天のバルムンク……」
「俺を知っているなら話は早い。手を引け」
腰の片手剣を抜いて呆然とする二人に剣先を突き付け、バルムンクは静かに言い放った。
「う……」
声を詰まらせ、重剣士と呪紋使いの男は互いに視線を交わす。
二対一だが、この〈ザ・ワールド〉で英雄の一人と言われる彼とやり合って、勝てる見込みはない。
悔しげに表情を歪ませながら、二人は黄金色に輝く〈
彼等が消えるのを見届け、バルムンクは剣を鞘に収めて女性PCに振り返った。
微かに眉を
年齢の設定は十代後半くらいだろうか。バルムンクとほぼ同じか幾分若く見える。髪の色は桜色で、顔の両脇の一房を残して頭の上で紅色の布で縛って纏めて垂らしていた。いわゆるポニーテールである。整った顔立ちの中で吸い込まれそうな蒼い大きめの瞳が、大人びた顔立ちの中にも少女の幼さを残している。
背は彼より頭半分程低く、伸びやかで均整の取れた体躯には、若草色のビキニの上に金糸で縁どられた長袖のシースルーのボレロを羽織り、腰には黄色やピンク等の淡く色付いた布を、何枚か互い違いに重ね合わせてスカートの様に巻き付けてあった。剥き出しになっている腹部には木属性を表す紋が
そして、足には膝まで紐を編み上げる革製のサンダルを履いているという、武具を一切身に付けていない実に軽装な出で立ちだった。
この〈ザ・ワールド〉のプレイヤーは、皆設定された六種類の職業の内いずれかに就いている。
双剣に宿る
片手で振るう剣に宿る力を武器とする
両手持ちの重剣に宿る力を武器とする
重槍に宿る力を武器とする
長柄の重斧に宿る力を武器とする
杖に宿る〈
基本的にそれ以外の職業はない。この〈ザ・ワールド〉の世界観が、精霊と魔物との激しい戦いの最中にあるという設定だからだ。
それ故、服装のグラフィックはアーマーなどの戦闘を意識したデザインの物が多い。それぞれの職業にはそれ専用の服装も多数あり、プレイヤーはPCをエディットする際には、自分が選んだ職業にあった服装を選ぶのが一般的だ。
しかし、彼女の
とはいえ、二千万人ものプレイヤーが参加するゲームで、職種がたった六種類しかないのはあまりにも少なすぎる。
それに昔のオフラインゲームのように、ただレベルを上げしてゲームをクリアするだけが目的となるものとは違い、オンラインのネットゲームである〈ザ・ワールド〉には、明確な獲得目標は定義されていない。
それだけにプレイヤーは各々自分なりの楽しみ方でプレイする。中にはレベル上げそっちのけでルートタウンで会話を楽しむ者や、商売する者。自作の詩を披露したり、歌を唄う自称詩人や歌手などの副業を持つ者までいる。
このようなプレイヤーの目的の多様化に伴い、最近では発売元である
だが、今の段階ではエディット出来る職種は六種類しかない。服装からして多分双剣士か呪紋使いのどちらかだろうと思うが、それにしては専用の武器である双剣も杖も装備しているようには見えない。
——まさか、
初対面でジロジロと見るのはマナーに反すると解ってはいるが、この職業不明のPCの正体を見極めようと、バルムンクはつい探る様に彼女を見詰めた。
「あ、あの……」
無言で見詰められて、居心地悪そうに女性プレイヤーは声を上げた。
バルムンクが硬い表情と口調で尋ね返す。
「一つ訊きたいんだが、そのPCは君がデザインしたものか?」
「あ、いいえ。造って貰ったんです」
「誰に?」
「え…、あの、バイト先の人に。……試験的に造られた限定モデルのPCで、『踊り子』なのだそうです」
「試験的って、C C社の?」
「え、ええ……」
曖昧に答え、桜色の髪をした踊り子は視線を漂わせて空を見上げた瞬間、息を呑んだ。
そこには幾つものグロテスクな眼球が浮かんでいたのだ。半眼に目を見開き、
——と、
その中の一つが、不意に瞬きし、ぎょろりと目玉を動かして自分達を見た。
「いやっ」
恐ろしさの余り、踊り子は傍らに立つ青年剣士にしがみ付いた。
いきなり抱き付かれ、一瞬バルムンクはドキリとしたが、空を見上げて彼女が悲鳴を上げた物に気付いてふっと笑みを漏らした。
「大丈夫だ。あれはサーバーのオブジェクトだ。襲ってはこない」
「オブ…ジェクト?」
顔を上げ、大丈夫だという風に微笑む青年剣士の顔を見、そして、恐る恐る空を見上げた。
すると、不気味な眼球の群れは唐突に輪郭をぼやけさせ、すうっと空に溶け込む様に消えて行った。
ほっと息をつき、そして、自分が見ず知らずの剣士にしがみ付いているのに気付き、踊り子は慌てふためくように彼から離れた。
「あ、あの、その……、さっきは助けていただいて、ありがとうございました」
そう言って、暫く経ってからハッとしたように、慌ててペコリとお辞儀する。
「あ、ああ……」
さっきはそうでもなかった様に思えたが、今のはセリフとモーションがはっきり言って噛み合っていない。
PCはコントローラーで一通り動かす事が出来るが、喜怒哀楽などのアクションは数十種類もあり、キーボードのコマンド入力によって行う。勿論よく使うものはショートカット登録しておけば、コントローラーだけでも操作は可能だ。
が、慣れないとうまく会話にモーションを合わせる事は出来ない。彼女のような間の悪いモーションの付け方は、慣れていない初心者がよくやるのだが、このエリアは初心者が来られるようなレベルでは決してない。
「君は、あの者達に誘われてここに来たのか?」
まさかと思いながらも、念の為バルムンクは訊いてみた。
「はい……」
「このエリアのレベルは知っているか?」
「いいえ」
やや遅れて、ゆっくりと首を振る。
やっぱり、セリフとモーションの間が悪い。
「君はこれを始めてからどれくらいになる?」
「え…と、一カ月半くらい…です」
少し考えて、彼女は応えた。
——一カ月半……
全くの初心者という訳ではないが、やはりこのエリアに来られるようなレベルではないようだ。
〈ザ・ワールド〉では、プレイヤーのレベルに合わせて五つのルートタウンがある。ただそこを行き来するだけならレベルは関係ない。だが、同じワードの組み合わせでも、ゲートインするルートタウンが違えば、エリアもレベルも全く違うものになる。
多分彼女はそんな基本的な事も知らずに、あのプレイヤー達についてここに来たのだろう。
どうも彼女のレベルに見合うエリアに行けるルートタウンまで、送ってやった方がよさそうだ。それにここからゲートアウトした先のルートタウンに、まだあのプレイヤー達が居ないとも限らない。
——こういうことは相棒の方が得意なのだが……
関わってしまった以上仕方がない。
小さく溜息をついてF M Dをずらし、チラリと壁に掛かった時計を見やると。「少し遅れる」と待ち合わせの相手にメールを送り、バルムンクは踊り子と共にそのエリアをゲートアウトした。