眼下に、夜空の暗がりに
その上を対岸に向かうように周回する不格好な形の飛行船が、ゆっくりと渡っていく。
夜にもかかわらず、街のメインストリートには様々な格好をした人々が行き交っていた。通りのあちこちでプレイヤー同士のトレードや情報交換が行われ、軒を並べる店の中を覗き込んでは、次の冒険に必要なアイテムや武器を買い求めていた。
こうしてプレイヤー達は、次の冒険までのひと時の安らぎを満喫するのだった。
「ゲールの歌」という意味を持つ
整然と幾何学的に立ち並ぶ石造りの建物の壁のいたる所に様々な色に染められた垂れ幕が掛かり、そこにはこの〈ザ・ワールド〉特有の自然力を宿した〈
それでルートタウン全体に結界を施し、魔の眷属であるモンスターの侵攻からこの街を護っているのだ。
その摩天楼の一室で、ぼんやりと街の喧噪を見下ろしていた男は、部屋のドアのノックの音に振り返った。
「すまん、オルカ」
そう言ってドアを開けて入って来たのは、白銀の髪をした背に羽根を持つ剣士——バルムンクだった。
「いや、俺もさっき来たところだ」
毎度のことながら、中には自分しかいないのは判っているのに、わざわざノックをしてから入ってくる相棒の律儀さに苦笑して、オルカは応えた。
「で、どうだ?」
「特に変わった所はないな」
肩を竦め、オルカは部屋を横切って自分の傍らに立った相棒を見下ろして応えた。
バルムンクも結構長身だが、彼はそれよりも頭一つ以上高い。
「フィアナの末裔」の片割れである蒼海のオルカのPCは、筋肉隆々の
赤銅色の長髪をオールバックに流し、剥き出しの上半身と顔、そして二の腕と大腿部にX字の白い帯状に〈紋〉がペイントされ、そのラインに沿って肘から上と胸から顔に掛けては、全て肌が深い緑色になっている。
その半裸の体にはハーネス・ベルトと、左肩に重厚なショルダーアーマー、腰から下には鎧を付けて膝までのレガースを履き、背には鞘に収めた両手剣を背負っていた。
そのワイルドな姿は歴戦の戦士を思わせる壮年のもので、聖騎士然とした雰囲気を漂わせるバルムンクとは、実に好対照なPCだった。
だがこの二人は数に頼らずコンビネーションだけで、あの「ザワン・シン」をはじめとする数々の難関ダンジョンやイベントを攻略して来た、互いに全幅の信頼を寄せあう無敵のパーティだった。
「そうか……」
組んだ片手を顎に持って行き、バルムンクは真剣な顔付きで考え込んだ。
「何もないんだから、別にそう深刻ぶる事もないだろう」
「何かあってからでは遅い」
お気楽な相棒の言葉に、バルムンクはぴしゃりと言い返した。
「一年近く前の事件を忘れたのか」
今から一年近く前、この〈ザ・ワールド〉は存続の危機に陥った。何者かによって撒き散らされたウイルスによりサーバー全体が汚染され、原因不明のサーバーダウンを繰り返すたびに増えて行く、虫食いのように壊れたグラフィックに、ウイルスにデータを書き換えられ、バグって倒せなくなってしまったモンスターがエリアを横行するようになったのだ。
C C社は何とか事態を収拾しようと躍起になったが被害は広がる一方で、対処に困ったC C社はこの〈ザ・ワールド〉自体を破棄しようとまでしたのである。
「いや、まぁ……」
ポリポリと指で頬を掻き、オルカはすまなそうに言葉を継いだ。
「だけどあの時俺は、病院のベッドの上でひっくり返ってたからなぁ」
この〈ザ・ワールド〉の深刻なウイルス汚染の影響は
「すまん、言い過ぎた」
ハッとして、バルムンクはオルカから視線を逸らした。
以前の彼はリアルの話をするのを極端に嫌っていた。現実の自分とこの世界で
だがその結果、あの事件の際にオルカのリアルでの親友であるカイトに事情を聞かせてもらうまで、オルカが意識不明になっているとは知らなかったのである。この世界で唯一無二の相棒であるというのに、連絡が取れないのはリアルが忙しいからだろうと勝手に思い込んで、それ程気にすることはなかったのだ。
その事を今でもバルムンクは悔いていた。
「いや、俺の方こそ悪い。今こうして俺がプレイできるのも、あの時お前やカイトが頑張ってくれたからだしな」
「本当に頑張ったのはカイトだ。俺は途中から手を貸したに過ぎん。それも、最初はあいつの持つ腕輪の力を憎むあまり、敵視していたのだからな」
自嘲気味にバルムンクは呟いた。
あの異変の中、ウイルスバグによって倒せなくなったモンスターや正体不明の敵に唯一対抗出来たのは、カイトが思いがけず手に入れてしまった
この〈ザ・ワールド〉に特別な思い入れを持ち、人一倍正義感の強いバルムンクは、本来なら有り得ない
——『お前が動くと、事態が悪化する』——と。
「ああ、それあいつから聞いた」
オルカが苦笑する。
カイトからそれを聞いた時、その場面が容易に想像できて、いかにもバルムンクらしいと思ったものだった。
「でも、最後には解り合えて良かったって言ってた」
「……あいつらしいな」
「バルの方もな」
ニヤリと笑って、オルカは相棒の顔を覗き込む。
うっと声を詰まらせ、バルムンクはバツが悪そうにそっぽを向いた。
何か喉に詰まらせている様な相棒の息遣いが、微かに聴こえる。きっと端末の前で必死に笑いを堪えているのだろう。オルカは笑い上戸だから。
バツの悪さを誤魔化すようにひとつ咳払いすると、バルムンクは逸れた話題を強引に元に戻した。
「ともかく、あの事件の予兆とも言うべきは、それより半年程前に起こった原因不明のサーバーダウンだ」
通常サーバーのダウンは、アクセスが殺到してホスト・コンピューターが処理を捌き切れなくなった場合起きる。だが、その時アクセスが殺到する要因は見つからなかった。
そうでなくとも、当時浦安沖に建設された管理センターと増設されたサーバーによって、その問題は百パーセント解決されていた筈である。
それにも関わらず起きたサーバーダウン。それから、それを境に不可思議な現象が後を絶たず、あの『黄昏』事件が起きたのだ。
そして、今から二カ月ほど前に、突然サーバーがまたもダウンした。原因は勿論不明だ。あの時と同じ様に。
だからこそバルムンクは、事態を重くみているのだ。
「そりゃ、解っているけどな」
がりがりと無造作に頭を掻き、オルカはぼやいた。
「でも、あれ以来、お前と手分けして各サーバーのエリアを回っちゃいるが、異常はどこにも見られないだろ」
ここ二、三日も、忙しくてログインできない相棒の代わりに、あちこち精力的に回って、他のプレイヤーにも訊いたりしたが、結果は同じだった。
「ああ、B B Sにもそういった情報は寄せられていなかった」
全くの平穏と言っていい。オルカに取り越し苦労と言われても仕方がなかった。
そしてバルムンク自身も、そうであって欲しいと思っているが、どうしても不安を拭い切れないでいた。何か大事な事を見落としている気がしてならなかったのだ。あの時の様に。
「うっ……」
「どうした?」
また黙り込んでしまった相棒が不意に不快げな声を上げたので、オルカは驚いて訊いた。
それに憮然とバルムンクが応える。
「眠気覚ましに
あの後、あのどことなく危なっかしく目の離せない女性プレイヤーを、もっとレベルの低いサーバーのルートタウンに連れて行き、ついでに基本的な知識をレクチャーしたりして、色々と世話を焼いていたら飲むのをすっかり忘れていたのだ。
「……あそ」
気抜けして呟いた後で、オルカは思わず顔を
「お前、まさか寝てないのか?」
「いや、三時間ほど寝ている」
「三時間って——」
「思いの外最後の課題レポートに手間取って、終わったのが夜中の三時だった」
「じゃあ、六時に起きて、今まで何やってたんだ?」
ちなみに今は午前十時十一分である。
「朝食を取りながら、ログインしてなかった三日間のB B Sに目を通した後、お前との約束の時間まで七つ程エリアを回っていた」
やはりあのサーバーダウンの一件が気になって、ゆっくり寝ていられなかったというのが正解である。
「おいおい、大丈夫なのか?」
「ああ、今日のイベントを終えたら、すぐに寝るつもりだ」
心配する相棒に、バルムンクはふっと笑みを浮かべて応えた。
あの事件が解決し、サーバーが元通りになった後も、その一件で不穏な空気を感じて離れて行ったプレイヤーは容易に戻っては来なかった。
そこでC C社は様々なイベントを立て続けに催し、プレイヤーのカムバックを狙った。
だが、その中に一つだけ、二、三カ月おきに開催していた恒例の「モンスター街侵入」イベントだけはなかった。
あの事件でもっとも始末に困り、恐れられていたのはウイルスバグに冒されたモンスター達だった。元に戻ったとはいえ、一応プログラムデータを全て洗い直して本当にもうバグがないかどうか調べなければならない。
万が一イベントにあんなバグモンスターが出てしまったら、折角戻って来たプレイヤー達がまた離れてしまうだろう。とはいえ、膨大なプログラムデータの中から、本当にバグモンスターが全ていなくなっているか調べるには、かなりの時間を必要とする。
そうやって慎重に慎重を期した所為で、今までCC社は開催を控えていたのだが、漸く今日再開することになったのだ。
随分と久しぶりなので、バルムンクも結構楽しみにしていたのである。
それだからこそこの三日間、ログインせずに多少無理をしてでも、提出日が重なってしまった課題レポートを全部仕上げたのだ。
オルカなどは、どうせ明日も休みなんだから、別に無理をしてイベント前に仕上げなくとも、終わった後でゆっくり残りをやればいいじゃないかと思うのだが、生真面目なバルムンクはそういう中途半端な事は出来ない
「んじゃ、パーティ組んで行くか?」
気遣うというより、
「蒼天のバルムンクが、モンスターと戦っている最中に寝落ちして、
「そんなヘマはしない」
むっと言い返した後で、ふとバルムンクは訊き返した。
「ところで、今日カイトは来ないのか?」
「ああ、来たがってたけどな。あいつ俺の学校より早いんだ。期末テストが」
「…——成程……」
一つ頷いて、バルムンクは視線を窓の外に落とした。
眼下に見える何時も多くのプレイヤーで賑わっていたメインストリートは、今別の喧噪に包まれていた。
街に侵入して来たモンスター相手に、それぞれの武器を構えてプレイヤー達が戦っているのだ。
各ルートタウンの街の一角には、地面に金の輪で囲った中央に休むことなく回転している、内側に澄んだ水を張ったような美しい金縁の輪がある。それは「カオスゲート」と呼ばれる街から外に出られる唯一の門である。
人々はそこで力を宿した「
しかし、逆を言えば、カオスゲートはもっとも結界の弱い所だともいえる。
この「モンスター街侵入」イベントは、その結界を破って街の中に侵入してきたモンスター軍団を、人々が迎え撃って街を守るという設定のイベントだ。
最初に尖兵であるレベルの低いモンスターが、結界の破れたカオスゲートを通って街に侵入してくる。それから徐々に侵入してくるモンスターのレベルが上がり、そして、そいつ等をある程度
二人が狙っているのは、最後に現れるそのボスだった。手下のモンスターは通常エリアでも見かけるヤツだが、ボスだけはイベント用の特別仕様で、これに参加しない限りお目に掛かる事は出来ない。
「まだ、ちょっと早いか……」
眼下のプレイヤー達が戦っているモンスターの姿に目を留め、オルカが呟いた。
モンスターのレベルからいって、ようやく第三波目という処だろう。
カルミナ・ガデリカは中級クラスの結構ハイレベルのプレイヤーが集まる街だ。本来なら尖兵からある程度それに見合ったレベルのモンスターが現れるのだが、今回は再開第一回目という事もあって、レベルの低いプレイヤーでも参加できるように結構低レベルのモンスターも混じっている。ただその分数が多いから、多少手間取って時間が掛かる事になる。
自分達が参加するのは、もっとモンスターのレベルが上がってからの方が良さそうだった。
だが、傍らに立っていたバルムンクは、
「もう行くのか?」
「ああ、ただ見ているだけだと眠くなる」
驚く相棒に肩越しに応え、バルムンクは部屋を出て行った。
さっさと
その気持ちは分からなくもないが、今から参加したら、他の連中が斃すモンスターが居なくなってしまうだろうに。
やれやれと肩を竦めて首を振り、オルカは再び窓の下に視線を向けた。
せめて自分だけでも、他のプレイヤーの楽しみを奪うのは止めようと。