END OF HOPE:21xx - Last Call 作:久遠 -kuon-
この世界に、救いは存在しない。
吐いた息は一瞬だけ白く、すぐに吹雪に攫われた。
一メートル先も見えない白の中で、彼は大きなクレーターの底に立ち、雲に塞がれた空を仰いでいた。
──救いがあるとしたら、それはどんな形をしているのだろう。
「……イーッ……"ルイ"ーっ! どこー!? 帰るよー!」
雪の向こうから、柔らかな声がした。
姿は見えない。けれど方角はわかった。彼——ルイは、手の中の"それ"に、わずかに意識を沈める。血を流し、もう動かないそれの"異能"を探り当て──
「──《
呟いた瞬間、吹き荒れていた雪がふっと解けた。音もなく、白だけが消える。あとには静寂が残った。
──この世界は、生きる者に優しくない。けれど、死にゆく者にも、優しくはない。
顔を上げる。
雲の裂け目から落ちた光が、糸のように細い純白の髪を照らしていた。灰色の世界で、アメジストの瞳だけが、微かに光を宿している。
駆け寄ってくる彼女──シアは、近づいても足を緩めなかった。
ルイは用済みになったものを手放し、その細い体を受け止める。
「ルイ!」
「おい。そんなに急ぐと転ぶ……」
腕の中で、シアが顔を上げてはにかんだ。隠すつもりのない好意が、そのまま目元に滲んでいる。
ルイはそれを、もう二年も見ないふりをしている。
この世界で、自分から痛みを増やすのは愚かだ。そう信じているから。
──もし救いがあるとすれば、それは『幸福な死』なのかもしれない。けれど、どれほど穏やかに死ねたとしても、誰かに想われている限り、それは幸福とは呼べない。逝く者も、残される者も。
だから、この世界に救いはない。
救いのない世界で、俺たちは──
「……帰ろうか」
「うん!」
今日も、希望という名の幻を探して、滅びた地球を歩いている。
この世界に救いはない。
──それでも、わずかな安息だけは、まだ手の中にある。
静まり返った執務室に、柔らかな声が落ちた。
「ねーえ、ルイくーん?」
返事をしそびれた。
窓の外では、澄幽の偽りの陽が、ようやく高くなり始めている。報告の途中だったはずなのに、どこまで話したのか思い出せない。
「……ルーイくん」
二度目の呼びかけは、耳のすぐ傍で聞こえた。
視線を上げる。そこに、顔があった。
「う、うぉおあああっ!?」
反射的に仰け反ったルイを見て、その男はくすりと、喉の奥で笑った。
「そんなに驚くことないじゃないか。傷つくなあ」
ちっとも傷ついていない声だった。
人の手で仕立てた工芸品のような顔立ちだ、と思う。何度見ても、そう思う。
漆黒の髪は、かつて人類が焦がれた宇宙の深淵をそのまま映したように艶めいて、差し込む光すら静かに呑み込んでいる。切れ長の瞳には冷ややかな知性が宿り、けれどその底に、掴みきれない何かが沈んでいた。長い睫毛が伏せられるたび、現実の輪郭が、わずかに滲む。
この星がすべて焼け落ちても、この人だけは最後の一輪のように咲き残るのではないか──そんな馬鹿げた考えがよぎるほどに、
その珠桜が、ゆっくりと身を屈める。
音はなかった。気づいたときには、もう距離はなかった。
「……っ」
冷たい指先が、額に触れる。
前髪をさらりと掻き上げて、そのまま、確かめるように手のひらが添えられた。
「熱は……ないみたいだね」
囁くような声だった。指先が離れていかない。
ルイが固まったまま動けずにいると、珠桜は目を細めて、わざとらしく首を傾げた。
「あれ。じゃあ、どうしてぼうっとしてたのかな。君が理由もなく上の空になるなんて、珍しいのに」
指の腹が、こめかみをなぞる。
「もしかして──どこか怪我を隠してる?」
「してません」
「本当に? 念のため、"
「それだけは勘弁してください」
即答だった。珠桜の肩が、小さく揺れる。笑いを堪えているのが、手のひら越しに伝わってきた。
ルイの弱点を、この人は正確に知っている。
正確には、ルイだけの弱点ではない。澄幽に暮らす者のほとんどが、"葛城"という名を聞くだけで背筋を伸ばす。
なぜかは、会えばすぐにわかる。わざわざ語るまでもない。
「ふふ。冗談だよ」
ようやく手が離れた。珠桜は何事もなかったかのように椅子へ戻り、机の上で指を組む。
「それで。どこまで聞いたんだったかな」
──拠点・"
その長である珠桜のもとへ、ルイは今日の調査の報告に来ていた。
昨晩、空を覆う雲を突き破って、何かが落ちてきた。
落下地点は澄幽からずいぶん離れていたが、衝突の瞬間、地面が低く唸り、雲の裏側が赤く灼けたのを覚えている。
異変はその数分後だった。外を見張っていた者たちの目の前で、雪が降り始めた。降るというより、叩きつけるように。小一時間で、数メートル。
まるで、世界そのものが書き換えられたかのように。
ルイとシアは珠桜の命を受けて現場へ向かい、そこで、ひとりの"異能者"を見つけた。
「……クレーターを調べました。隕石の欠片も、星骸の痕跡も、何もありませんでした」
「何も?」
「クレーターと、異能者だけです」
珠桜は、顎に指を添えた。伏せた睫毛の影が、白い頬に落ちる。
しばらく、何も言わなかった。考えているときのこの人は、驚くほど静かになる。
──ちなみに、こうして内心で珠桜の容姿を延々と讃えてしまうのは、ルイに限った話ではない。澄幽の住人は、一人残らず同じ病に罹っている。以前、誰が言い出したのか"澄幽イケメンランキング"なるものが開催されたときなど、全票が──
「ルイ君」
伏せていた瞳が、ゆっくりとこちらを向いた。
「今、何か余計なこと考えてたでしょう」
「いいえ」
背筋を正す。珠桜は何も言わず、ただ、にこりと笑った。それが一番怖い。
「……宇宙から降ってきた異能者、か」
珠桜の視線が、窓の外へ流れる。
「異能を持っていることが知れて、"スペースコロニー"を追い出された。その腹いせに、大雪を降らせた──そんなところかな」
"スペースコロニー"。
滅びゆく地球を捨て、十数年前に宇宙へ打ち上げられた、人類の新しい居場所。数千万人を収めるために幾つも造られ、その内側には、この星がまだ"緑の惑星"と呼ばれていた頃の暮らしが再現されているという。
澄んだ水。管理された空気。人工の太陽の下で実る作物。
きっとそこでは今も、誰かが穏やかに眠っている。
──けれど、もうそこへ行く道はない。
人々を運び続けた"方舟"は、数年前に運行を止めた。
資材不足。表向きには、そう告げられた。本当の意味は、もっと簡潔だった。
──残った者は、救う価値がない。
価値のない者を、楽園は受け入れない。それは方舟が止まる前から変わらなかった。
罪を犯した者。長くは生きられない体の者。繁栄の妨げになると判断された者は、船外へ放り出されるか──あるいは、もっと静かなやり方で、息を止められる。
そして、異能者。
コロニーでは、異能を持つというだけで罪の予兆とみなされる。見つかれば監視され、力を振るえば捕らえられ、危険と判断されれば、裁かれることもなく処分される。
それを誰も咎めない。それが正しいと、誰もが信じているからだ。
「……匿えないでしょうね。あんなの」
「十中八九、無理だろうね。コロニーが雪で埋まって、みんな潰れてしまう」
珠桜は笑った。
笑ったけれど、目元に一瞬、薄い影が差した気がした。瞬きをしたときには、もう消えていた。
だからといって、地上に残ることが、正しいわけではない。
ここでは、異能者の気まぐれひとつで天が裂ける。今日が静かでも、明日には何もかもが崩れているかもしれない。澄幽も例外ではない。"源"となるものの力が尽きれば、この安息は一夜で灰に還る。この場所が異能者に見つかるのも、時間の問題だった。
かつて澄幽には、コロニーこそが希望だと信じる者が大勢いた。その希望が手の届かない場所へ去り、辿り着いた先に待つのが排除だと知れてからは、誰も口にしなくなった。
珠桜は、ここに暮らす者たちを、どこか安全な場所へ連れていきたいと願っている。
けれど、いまだにその方法も、安全な場所の候補も見つけられずにいるのが現実である。
「──ともかく、今回はありがとう。助かったよ」
組んだ指の上に、珠桜は顎を乗せた。
「またお願いするかもしれない。そのときは、ちゃんと元気な顔で来てね?」
「……はい」
「うん。いい子」
ルイは返事の代わりに頭を下げ、扉のほうへ向き直った。
ノブに手をかける。
そのとき、珠桜の背後にある扉が開いた。
音は小さかった。けれど、開くのが、いつもより少しだけ速かった。
立っていたのは、ひとりの青年だった。
目元を覆うほど長い前髪が、わずかに揺れている。強く波打つ癖のある紫檀色の髪は、それでも丁寧に整えられていて──それが毎朝の珠桜の奮闘の成果であることを、ルイは知っている。
細い体躯。けれど、衣服の下に無駄なく鍛えられた線があることは、立ち姿の静けさでわかる。
珠桜に仕える、二人の従者の片割れ。
「珠桜様」
声は、いつもと同じ高さだった。
けれど、息が、ほんの少しだけ上がっていた。
「どうしたんだい、律灯」
珠桜が振り返らずに問う。律灯はすぐには答えなかった。一度、ルイのほうを見る。それから、主の背へ視線を戻す。
律灯が言葉を選ぶところを、ルイは初めて見た気がした。
ノブから、そっと手を離す。
この人がこんな顔をするなら、何かが起きたのだ。そう思った。
律灯は、静かに息を整えた。
「──"ミコ"様が、お目覚めになりました」