END OF HOPE:21xx - Last Call 作:久遠 -kuon-
──その言葉に、ルイは急激に喉が渇くのを感じた。
(……は?)
心が、一瞬で凍りつくような感覚。まるで身体から全ての力が抜けていくような、重く冷たい空気に包まれる。
思わずルイは顔を上げた。
心配そうな顔をしながらも、こちらをまっすぐに見つめるシア。その瞳の奥に、揺るぎない決意が見えた。だが、同時にその目にはあまりにも深い、無垢な──何も知らない恐ろしさがあった。
「だから、ルイは大丈夫だよ! 何に代えても、必ず、私が守るもん!」
喉が震え、声が出なかった。
言いたいことが、突っかえて出てこない。あまりにも、言葉が空回りしていた。
(……犠牲? 今、シアは……なんて……)
──その時だった。
ズズン──。
突然、地面が鈍く唸った。洞窟そのものが怯えているかのように、体に震えが伝わってくる。
岩肌が軋み、頭上から砂粒がぱらぱらと降り注ぐ。
湿った空気が淀み、鼻を突く腐臭が濃くなった。それだけで、この場に満ちる異質な存在の気配が否応なく感じ取れた。
ルイとシアが反射的に振り返る。そして、見た。
──視界の先。洞窟の入り口を塞ぐように、外の灰色の空を背景に、黒い影がゆっくりと蠢いている。
ズズ……ズズ……ッ。
岩と砂塵を巻き上げながら、それはその姿を露わにしていく。
最初に見えたのは、巨大な脚だった。まるで柱のように、ごつごつとした岩盤を思わせる質感。関節部分には緑色の宝石のようなものが埋め込まれ、鈍く光りながら、脈を打つ。まるで生き物の血が流れているかのように、ぬらぬらと不気味に揺れ動いている。
胴体は大人二人を並べて飲み込めるほど。岩の塊のように硬質で、表面は凹凸を描いたねじれた模様が不規則に走っている。その中には、まるで歪んだ顔のように見える裂け目や穴が、漠然とだが確かに存在していた。
脚が一歩踏み出すごとに、大地が呻き、衝撃音が低く響く。地面が震え、土煙が空中に舞い上がる。その振動が、身体の奥まで響いてきて、恐怖がじわじわと全身に広がる。
まだいくらかの距離があるはずなのに、その一歩が、もうすぐそこまで迫っているとしか思えなかった。
──そして、視線が合った。
胴体の正面、ぎらりと光る複眼が無数に並ぶ。その目は不気味なほどに多く、すべてが違った方向を見ているようで、しかしその視線の一つひとつが、無差別に、冷酷に、ルイとシアを見下ろしている。目の中で微かに揺らめく光の粒が、まるで死を引き寄せるかのように煌めき、次第にその目が無機質な光に染まっていく。
それは本能的に理解できるものだった。敵意でも怒りでもない。ただ"捕食者"として、目の前の"獲物"を捉えたという事実。
逃げられない。しかし、逃げ道がない。
息を呑んでいる間に、空気が粘りつくように重く、息苦しくなった。
足元の岩が冷たい。けれど、それ以上に冷たいのは骨の髄まで染み渡る恐怖だった。
「
シアが息を呑み、震える声でそう呟いた。この絶望的な状況の中、彼女の小さな声だけが静かに響く。ただそれすらも、星骸の存在が放つ圧倒的な威圧にかき消されてしまいそうだった。
ズズン……ッ。
星骸がわずかに身を揺らした。それだけで、洞窟全体が軋み、崩れそうな不安定さを一層強める。
ルイは無意識に拳を握りしめた。
(……クソッ)
すると、シアがルイを庇うように堂々と立った。腰のベルトから、細い杖を抜く。その動作には迷いがなく、目の前の恐ろしい存在に立ち向かう強さが感じられた。
しかし、その杖は、星骸の巨大な脚の一本に比べれば、まるで虫の羽のように無力に見えた。
「私がやるから! ルイは待ってて!」
シアの声は力強く、震え一つなかった。迷いもない。それが彼女の本気の証だった。彼女は本当に、自分が戦うつもりだった。
だが、その強さがかえってルイを深い恐怖に陥れた。
「待って……!」
ルイは、思わず声を絞り出していた。
止めなければ。シアではダメだ。シアに、戦闘は──
けれど、ルイが伸ばした手は虚しく空を切った。
(……動かない!?)
足が、腕が、まるで地面に縫い付けられたかのように重い。筋肉が硬直し、関節は鉛のように固まっていた。無理やり動かそうとすればするほど、全身を包み込む冷たい恐怖が牙を剥いた。
心臓が乱暴に跳ねる。鼓膜を突き破るほどの鼓動。
(なんで……!?)
目の前で、シアが杖を構えた。その姿が、ゆっくりと目の前に迫る星骸の影と重なる。
星骸の無数の複眼が、じっとシアを見据えていた。冷徹に、そして無慈悲に。獲物として、ただそこに立つ彼女を捉え続けている。
(ダメだ……! シアが殺される……!!)
頭の中で何度も叫ぶ。それなのに、体は微動だにしない。
あの狭間で植え付けられた"死の恐怖"が、ルイの足を縛っていた。
思い出したくない記憶。何もない場所で、体に焼き付けられた死の感覚。
焦げた肉の色。全身に刃が深々と刺さった、あの感じ。最後には神経すらなくなって、痛みすら感じなくなったあの感じ。あの感覚が、恐怖が、蘇ってくる。
こんなすぐにその恐怖を払拭できるほど、自分は強くない。いや──人間は誰しも、そんなふうには強くない。
(……たかが星骸、いつもなら全く怖くなんてないのに……!!)
心の中で吐き捨てるように、そう思った。
(しかも、よりによって……シアがいる時に……!!)
『逃げろシア』
『俺のことはいいから、早く』
心の中で、必死に叫んでいた。けれど、声が──出ない。
体が、声を奪い、過去の恐怖が全てを引き寄せていた。ルイの目の前で、シアが一歩踏み出す。その足音が、彼の脳裏にこだまして、何もできない自分をますます痛感させた。
「お願い、"燃えて"!」
シアの声が、洞窟の闇を裂いた。彼女の声が響くと同時に──
──ゴオオオオッ!!
突如として、星骸を包み込む真紅の炎が巻き起こった。
洞窟の中に赤い輝きが広がり、岩壁が炎に照らされて不気味に揺らめき、影が長く伸びる。熱波が空気を歪ませ、肌を焦がすほどの灼熱が迫る。しかし、その炎の中でさえ、シアは一瞬たりとも目を逸らさなかった。
杖を握る手がわずかに震えていた。彼女の心臓は激しく鼓動していたが、それでも目の前の星骸を見据え続けていた。
(……お願い。どうにか、私たちがこの場を切り開けるように……)
発動までの前触れは、ほぼなかった。
ただ、"シアが願った"。そして、それは現実となった。
異能が世界の理を書き換える力なら、魔法は思い描いた事象を現実へ上乗せする力。
発動には本来、相応の時間がかかる。だが、シアの構築速度は、その常識から明らかに外れていた。
過去に澄幽にも調査部隊にも、魔法を使う"魔法師"がいた。しかし、彼らは発動にかなりの時間を要していた。
だが、シアは違う。今回は、彼女が思い描いた事象──"炎が星骸を包み、焼く"という現象が、まるで思考とほぼ同時に現実のものとなった。
その速さ──シアの魔法構築速度は、並外れていると、誰もが高く評価する。
唸るような音を立てながら、燃え盛る炎が星骸の巨体を呑み込んでいく。
赤黒い光が、星骸の無数の複眼を覆い隠し、巨体を焼こうと舌を伸ばす。
これで終わるはずだった。
けれど──
ゴウッ……ゴウ……
燃え続ける炎の中で──何かが、動いた。
「……っ!!」
シアの背筋が凍りついた。
(……ダメだ、殺せないといけないんだ……!)
ルイが、思わず唇を噛みしめた。
徐々に炎が弱まり、視界が戻っていく。だが、そこに映ったのは──
何一つ変わらない星骸の姿だった。
その外殻は黒曜石のように鈍く光り、焼かれた痕すら見当たらない。焦げ跡もない。煙すら立たない。まるで炎を全く受けていなかったかのように、無傷のままそこに立っている。
シアは弱くない。魔法の構築速度も、込める力も、並の魔法師とは比較にならない。
だが、シアの魔法は、シアが"願った"通りにしか形にならない。燃えてほしい。強い炎を。道を切り開く一手を。そのどれもが、"星骸を殺す"という一点だけを、頑なに避けて通っていた。
──殺す、と願うこと。
それは、シアにとって、ただの一言では済まない。
前哨基地にいた頃、シアの魔法は何度も"使われて"きた。
何のためかは、教えられなかった。ただ、誰かが座標を告げ、シアは杖を構え、願った。「これを、あそこに」「もう少し、右」。指示は簡潔で、それ以上のことは何も言われなかった。
できた日は褒められた。うまく直撃した日は、特に。頭を撫でられたことも、何度かあった。あの手のひらの温度を、シアはまだ覚えている。
その先で何が起きていたのか、シアは知らない。知ろうとしたことも、なかった。
知らなければ、それは「よくできました」で終わる出来事だったから。知ってしまえば、きっと、もう笑えなくなる。だから、知らないままでいることを、シアは自分で選んできた。
だから、いま。
目の前のこれを、はっきりと「殺したい」と願ってしまえば。
それは、あの座標を告げていた誰かと、同じ側に立つことだった。誰かに使われてではなく、自分の意思で、何かを終わらせる側に回る。それは、シアが一番なりたくないものだった。
──だって、あの場所にいた人たちも、みんな、そうやって"何か"を終わらせてきたはずだから。
優しくない人。怖い人。シアたちを、物のように扱った人たち。その人たちの手も、きっと、今のシアの手と同じくらい平気な顔で、何かに杖を向けていたのだろう。
その人たちと、自分が同じことをする。その一線だけは、どんなに追い詰められても、越えたくなかった。
だから、シアの中の何かが、"殺す"という一言を、無意識に拒み続けていた。
(ああ……また……!)
──ズズッ。
星骸がわずかに身を揺らした。その動きはまるで、シアの魔法を嘲笑うかのように、無慈悲に重く響く。シアの顔に驚愕が浮かぶ。彼女は無意識に後ずさり、震えた手で杖を強く握りしめた。
(もっと……もっと強く!)
シアは心の中で必死に叫んだ。強く、強く、願った。
「今度こそ……!」
──だが。
生まれた炎は先ほどのものより小さく、星骸の巨体に届く前に儚く消えた。
「っ……なんで!?」
シアの心は、焦りに満ちていった。
願ってしまえば、戻れなくなる気がした。
物のように扱われていた自分を、怒られるとわかっていてもなお、助け出してくれた彼。
初めて銃を向けられたあの日、シアは「怖くないよ」と笑った。それでもルイは、震える自分の手をちゃんと見ていた。見て、そして、撃たなかった。あの瞬間から、シアの世界にルイという人がいる。
もし、自分が"殺す"側に回ったら。誰かを終わらせることを、これ以上ないくらいはっきりと願ってしまったら。
ルイはまた、あの日と同じ目で、自分を見るのだろうか。
──危険なもの、として。
もう一度、あの銃口が。
あの時よりも、迷わなくなった銃口が。
自分に向くのだろうか。
──大丈夫。そんな根拠、どこにもない。
それでも、前に一度浮かんだきり、それだけは消えてくれなかった。むしろ、考えまいとすればするほど、その輪郭だけが濃くなっていく。
その迷いのひとつが、魔法の芯を、確実に鈍らせていた。
「私……!」
シアはつぶやきながら、震えながらも、必死に自分を奮い立たせようとする。だがそのすべてが、無力感と焦燥感へとつながっていった。
まだ、ルイの足は震えていた。腕も言うことを聞かない。全身が強張り、まるで石になったかのように硬直していた。
(クソッ……!)
動け、と何度も自分に命じる。なのに、体は鉛のように重く、指一本すら動かせない。
心臓は暴れるように脈打ち、喉が張り付いたように乾く。呼吸が浅く、肺の奥が焼けつくように苦しい。
まるで、死が目前に迫っていることを知覚した肉体そのものが、抵抗しているかのように。
(……動け……動けよ……!)
震える声で、自分自身に命じる。だが、焦れば焦るほど、膝は震え、腰が抜けそうになる。指が、歯が、全身が、まるで死の足音を聞いて縮こまるように。
(やめろ……やめてくれ……!)
情けなく懇願するような声が漏れる。なんでだ。なんでお前がそんなに頑張ってるんだ。なんで俺は──
星骸が動いた。洞窟の静寂を切り裂く、わずかな脚の軋み。だが、それだけで世界が震えるようだった。重苦しい空気が、息苦しさをさらに加速させる。
(違う……動け……頼むから……!)
叫びたいのに、声が出ない。
助けたいのに、足が動かない。
最悪の結末が、目前に迫っていた。
「──っ、シア、避けろ!!」
ルイの絶叫が洞窟内に響く。だが。
──遅い。