END OF HOPE:21xx - Last Call 作:久遠 -kuon-
不意に、心臓が跳ねた。
「……え?」
さっきまでの騒がしさが、まるで幻だったかのように空気が静まり返る。
風の音さえ聞こえない。ただ、彼の声だけが胸に残っていた。
ルイはコートを脱ぎ、丁寧に広げると、シアをそっとその上に座らせた。急かすような素振りは、どこにもない。ただ、口数の少なさが、いつもより少しだけ、ひりつく寂しさを連れてきた。
「……勝手に持ち出してきたんだ。これすらないのは、怖かった」
ぼそりと呟きながら、ルイはポーチの中身を取り出す。アルコールと、傷薬が染み込んだテープ。澄幽を出るとき、こっそり忍ばせてきた応急処置の道具だ。
怪我をしないわけがない。それがなければ、いつか無駄死にする。だから持ってきた。まさか、それを誰かのために使うことになるとは、考えてもいなかったが。
ルイの手が、そっとシアの傷口に触れる。
「っ……」
沁みる痛みにシアが小さく肩をすくめると、彼の指先がすぐに力を緩めた。ただ痛みを避けただけのはずのその加減がやけに丁寧で、シアの胸の奥が、じわりと熱くなる。
「ル、イ……」
小さく名前を呼ぶと、彼の手がほんの一瞬、動きを止めた。距離の近さも、伝わる温度も、言葉より先に胸へ届いてくる。
まつ毛がわずかに揺れ、ルイの瞳がシアをまっすぐと見つめた。
何かを言おうとして、けれど言葉にならない。そんな間があった。喉の奥で、いくつもの言葉が形を変えながら、消えていくのがわかる。
テープを持つ指先が、意味もなく傷口の縁を一度だけなぞった。迷いを誤魔化すような、時間を稼ぐような仕草だった。
やがて、諦めたように小さく息を吐き、視線をわずかに落としてから。
ぽつりと零れるように言った。
「……ごめん。あんな……心にもないことを」
その声音は、どこまでも静かだった。
けれど、その静けさの奥に──確かに何かを押し殺すような、重たい色があった。
「……!」
シアの喉がきゅっと詰まった。それはただの謝罪ではないと、彼女は感じていた。もっと深く、もっと強く、けれど彼の口からは決してこぼれない、言葉にできない"何か"が込められている。
それが伝わった瞬間、胸の奥が、痛みを伴って締めつけられた。彼の声は、まっすぐに、重く、心の奥まで届いてきた。
「ううん……私、何も知らないのにいろいろ無茶苦茶なこと言って……でも、ルイがまた立ち上がってくれて、よかったと思ってるよ」
シアは、精一杯の笑顔を作った。けれど、ほんの少しの引きつりまでは隠せなかった。ルイの中で、まだ何かが終わっていない。そんな気配だけが、笑顔の下でちくりと痛んだ。
ルイはその違和感にすぐ気づいたが、どう声をかければいいのかわからず、しばらく黙って彼女を見つめるしかなかった。
視線を落とし、深く息を吐く。指先に、全身に、あの瞬間の感覚が今もなおしっかりと残っている。
──酷く熱く、痛く、確実に"死"を感じたあの瞬間の記憶。
「まだ完全に立ち直れたわけでは……正直、無い」
ぎりぎりのところで言葉を絞り出す。
「でも……シアが傷つくのを……見過ごせなくて」
あまりにも自然で、あまりにも真っ直ぐな声だった。まるで「それ以外に理由があるのか?」とでも言うかのように、何の疑いもなく、当然のこととして紡がれる。
時々彼が無意識にこぼす、こういう素直さが、シアの胸に一番深く刺さる。
「っ……」
「無茶なことを言うのはいいんだけどさ」
ルイは、シアの肩にそっと手を置いた。
温かく、けれどどこか無造作なその手つきに、深い意味などないはずだった。なのに、シアにはそれが、ただの優しさより少しだけ重く感じられた。
「もう二度と、俺のために犠牲になるなんてことだけは……言わないで」
低く、静かな声だった。だが、その静けさが、かえって重い。
「ルイ……」
呼びかけても、答えは返ってこなかった。ルイはただじっと、シアの肩の傷を見つめている。その瞳の奥に、痛みと苦しみが揺れていた。
その沈黙だけで、十分だった。
自分がどれだけ無茶をして、どれだけ彼に心配をかけたのか──その重みが、今になって、じわじわと押し寄せてくる。
「……お前を守りたくて戦ってるのに、俺を庇って犠牲になっちゃ、意味がないだろ」
声に、かすかな震えがあった。傷にテープを貼る指先も、同じだけ震えている。
「もっと自分を大切にしてくれ」
その声はどこまでも真剣で、どこまでも優しかった。けれど、その言葉の重みの割に、ルイの顔はまるで自覚がないようで、どこか少し無防備な表情を浮かべている。
(……ルイ、私のことなんて、なんとも思ってないと思ってたけど……)
突然、胸がぎゅっと締め付けられるように苦しくなる。心臓がきゅーっと縮こまり、顔がじわっと熱くなるのが分かる。
(……だめだ、冷静にならないと)
本人はきっと、「仲間だから」くらいの気持ちで言っているだけなのだろう。それでも、その無自覚な優しさが、シアの心を何度も掻き乱す。表情も、声の高さも、ほんの小さな仕草の一つひとつも、まるで自分だけに向けられているかのように感じられて、甘い錯覚に落ちそうになる。
「シア?」
ルイが小さく眉をひそめる。
「顔が赤い……もしかして、もう熱が出たのか!?」
「っ!!」
「さすがに解熱剤は持ってないな……背中、乗ってくれれば澄幽まで急ぐけど」
「ち、ちがう!! ちがうから!!!」
シアは慌てて顔を背け、両手をぶんぶん振った。焦って裏返る声が、思わず顔をさらに熱くさせる。その必死さに、ルイはますます不思議そうな顔をして、シアの反応を気にしている。
「シア……お前。今日、なんかおかしい」
シアの胸が、再びドキンと大きく跳ねる。さらに顔を赤らめながら、また両手を振った。
「いやもうほんと、ちがうんだってば!!!!」
「……?」
自分でも、何を言いたいのかわからなくなっていく。恥ずかしくて、甘くて、説明のつかない感情だけが胸の中で膨らんでいく。
いつもは、思ったことをそのままルイにぶつけてきたはずだった。それなのに、ほんの少しだけ彼の本音が見えた気がした瞬間、心があっさりと乱されてしまう。
ルイは、ますます不思議そうな顔でシアを見ている。自分の言葉のせいだと欠片も気づかないその表情が、なおさらシアを追い詰めた。
(この無自覚バカ……!!!!)
心の中で叫びかけて、けれど、その勢いのまま泣きそうになっている自分に気づく。恥ずかしいのか、切ないのか、もう自分でもわからなかった。
しばらく、沈黙が流れた。
ルイは、テープの端を指先で押さえたまま、視線を伏せる。
一人で抱え込む。誰にも頼らず、誰も巻き込まずに。さっきまで、確かにそう決めていたはずだった。
だが、無茶を承知でシアが飛び込んできて、傷を負ってでも自分を助けようとした、その姿がまだ目に焼き付いている。あの覚悟を、あのやり方のまま貫けば──いつか、こうして誰かを危険に晒す。それも、澄幽から遠く離れた、助けの届かない場所で。
一人でやり切る。そのつもりだった。だが、それでは足りないのかもしれない。
「……まだ、何があったかは話せない。けど、澄幽には一回戻ることにするよ」
静かな声だった。迷いを振り切ったというより、まだ迷いを抱えたまま、それでも前へ進もうとするような響き。
シアは思わず息を詰め、その言葉に耳を澄ませた。ルイが何を考えているのか、見逃さないように。彼の横顔から、目を離せなかった。
「珠桜さんと律灯に……きちんと謝って、頼ってみる」
ぽつり、ぽつりと、まるで自分に言い聞かせるように、ひとつずつ言葉を置いていく。
テープの端を、指先でぴたりと押さえる。傷口を塞ぎ終えたルイは、そこでようやく顔を上げた。
ほんの少しだけ、口元が緩む。硬さの取れた、穏やかな表情だった。
「それと、シアのこともちゃんと送り届けないとな」
「……!」
その一言に、シアの胸の奥が、ふわりと温かく満ちていく。
思わず目を見開いた。驚きと、それだけでは片付かない何かが、胸の奥できゅっと痛んだ。
(もう! そういうことをさらっと言うの、ほんとズルい!!)
顔が、燃えるように熱い。言葉が、喉の途中で詰まって出てこない。それでも──嬉しくてたまらなかった。
こみ上げてくる感情を、どうにか笑顔の形に変えようと、シアは心の中で必死にもがく。
「うん!」
精一杯、晴れやかに微笑んでみせた。
その瞬間、ルイの口元にも、ほんの少しだけ、穏やかな色が広がる。
誰かと繋がることを恐れていたはずの彼の心が、今、目の前で笑う彼女の顔ひとつで、少しだけ軽くなった気がした。