END OF HOPE:21xx - Last Call   作:久遠 -kuon-

15 / 15
第七話 微熱に浸る余韻 - 2

 不意に、心臓が跳ねた。

 

「……え?」

 

 さっきまでの騒がしさが、まるで幻だったかのように空気が静まり返る。

 風の音さえ聞こえない。ただ、彼の声だけが胸に残っていた。

 

 ルイはコートを脱ぎ、丁寧に広げると、シアをそっとその上に座らせた。急かすような素振りは、どこにもない。ただ、口数の少なさが、いつもより少しだけ、ひりつく寂しさを連れてきた。

 

「……勝手に持ち出してきたんだ。これすらないのは、怖かった」

 

 ぼそりと呟きながら、ルイはポーチの中身を取り出す。アルコールと、傷薬が染み込んだテープ。澄幽を出るとき、こっそり忍ばせてきた応急処置の道具だ。

 怪我をしないわけがない。それがなければ、いつか無駄死にする。だから持ってきた。まさか、それを誰かのために使うことになるとは、考えてもいなかったが。

 

 ルイの手が、そっとシアの傷口に触れる。

 

「っ……」

 

 沁みる痛みにシアが小さく肩をすくめると、彼の指先がすぐに力を緩めた。ただ痛みを避けただけのはずのその加減がやけに丁寧で、シアの胸の奥が、じわりと熱くなる。

 

「ル、イ……」

 

 小さく名前を呼ぶと、彼の手がほんの一瞬、動きを止めた。距離の近さも、伝わる温度も、言葉より先に胸へ届いてくる。

 

 まつ毛がわずかに揺れ、ルイの瞳がシアをまっすぐと見つめた。

 何かを言おうとして、けれど言葉にならない。そんな間があった。喉の奥で、いくつもの言葉が形を変えながら、消えていくのがわかる。

 テープを持つ指先が、意味もなく傷口の縁を一度だけなぞった。迷いを誤魔化すような、時間を稼ぐような仕草だった。

 

 やがて、諦めたように小さく息を吐き、視線をわずかに落としてから。

 ぽつりと零れるように言った。

 

「……ごめん。あんな……心にもないことを」

 

 その声音は、どこまでも静かだった。

 けれど、その静けさの奥に──確かに何かを押し殺すような、重たい色があった。

 

「……!」

 

 シアの喉がきゅっと詰まった。それはただの謝罪ではないと、彼女は感じていた。もっと深く、もっと強く、けれど彼の口からは決してこぼれない、言葉にできない"何か"が込められている。

 それが伝わった瞬間、胸の奥が、痛みを伴って締めつけられた。彼の声は、まっすぐに、重く、心の奥まで届いてきた。

 

「ううん……私、何も知らないのにいろいろ無茶苦茶なこと言って……でも、ルイがまた立ち上がってくれて、よかったと思ってるよ」

 

 シアは、精一杯の笑顔を作った。けれど、ほんの少しの引きつりまでは隠せなかった。ルイの中で、まだ何かが終わっていない。そんな気配だけが、笑顔の下でちくりと痛んだ。

 ルイはその違和感にすぐ気づいたが、どう声をかければいいのかわからず、しばらく黙って彼女を見つめるしかなかった。

 

 視線を落とし、深く息を吐く。指先に、全身に、あの瞬間の感覚が今もなおしっかりと残っている。

 

 ──酷く熱く、痛く、確実に"死"を感じたあの瞬間の記憶。

 

「まだ完全に立ち直れたわけでは……正直、無い」

 

 ぎりぎりのところで言葉を絞り出す。

 

「でも……シアが傷つくのを……見過ごせなくて」

 

 あまりにも自然で、あまりにも真っ直ぐな声だった。まるで「それ以外に理由があるのか?」とでも言うかのように、何の疑いもなく、当然のこととして紡がれる。

 

 時々彼が無意識にこぼす、こういう素直さが、シアの胸に一番深く刺さる。

 

「っ……」

「無茶なことを言うのはいいんだけどさ」

 

 ルイは、シアの肩にそっと手を置いた。

 温かく、けれどどこか無造作なその手つきに、深い意味などないはずだった。なのに、シアにはそれが、ただの優しさより少しだけ重く感じられた。

 

「もう二度と、俺のために犠牲になるなんてことだけは……言わないで」

 

 低く、静かな声だった。だが、その静けさが、かえって重い。

 

「ルイ……」

 

 呼びかけても、答えは返ってこなかった。ルイはただじっと、シアの肩の傷を見つめている。その瞳の奥に、痛みと苦しみが揺れていた。

 

 その沈黙だけで、十分だった。

 自分がどれだけ無茶をして、どれだけ彼に心配をかけたのか──その重みが、今になって、じわじわと押し寄せてくる。

 

「……お前を守りたくて戦ってるのに、俺を庇って犠牲になっちゃ、意味がないだろ」

 

 声に、かすかな震えがあった。傷にテープを貼る指先も、同じだけ震えている。

 

「もっと自分を大切にしてくれ」

 

 その声はどこまでも真剣で、どこまでも優しかった。けれど、その言葉の重みの割に、ルイの顔はまるで自覚がないようで、どこか少し無防備な表情を浮かべている。

 

(……ルイ、私のことなんて、なんとも思ってないと思ってたけど……)

 

 突然、胸がぎゅっと締め付けられるように苦しくなる。心臓がきゅーっと縮こまり、顔がじわっと熱くなるのが分かる。

 

(……だめだ、冷静にならないと)

 

 本人はきっと、「仲間だから」くらいの気持ちで言っているだけなのだろう。それでも、その無自覚な優しさが、シアの心を何度も掻き乱す。表情も、声の高さも、ほんの小さな仕草の一つひとつも、まるで自分だけに向けられているかのように感じられて、甘い錯覚に落ちそうになる。

 

「シア?」

 

 ルイが小さく眉をひそめる。

 

「顔が赤い……もしかして、もう熱が出たのか!?」

「っ!!」

「さすがに解熱剤は持ってないな……背中、乗ってくれれば澄幽まで急ぐけど」

「ち、ちがう!! ちがうから!!!」

 

 シアは慌てて顔を背け、両手をぶんぶん振った。焦って裏返る声が、思わず顔をさらに熱くさせる。その必死さに、ルイはますます不思議そうな顔をして、シアの反応を気にしている。

 

「シア……お前。今日、なんかおかしい」

 

 シアの胸が、再びドキンと大きく跳ねる。さらに顔を赤らめながら、また両手を振った。

 

「いやもうほんと、ちがうんだってば!!!!」

「……?」

 

 自分でも、何を言いたいのかわからなくなっていく。恥ずかしくて、甘くて、説明のつかない感情だけが胸の中で膨らんでいく。

 いつもは、思ったことをそのままルイにぶつけてきたはずだった。それなのに、ほんの少しだけ彼の本音が見えた気がした瞬間、心があっさりと乱されてしまう。

 

 ルイは、ますます不思議そうな顔でシアを見ている。自分の言葉のせいだと欠片も気づかないその表情が、なおさらシアを追い詰めた。

 

(この無自覚バカ……!!!!)

 

 心の中で叫びかけて、けれど、その勢いのまま泣きそうになっている自分に気づく。恥ずかしいのか、切ないのか、もう自分でもわからなかった。

 

 

 しばらく、沈黙が流れた。

 

 ルイは、テープの端を指先で押さえたまま、視線を伏せる。

 一人で抱え込む。誰にも頼らず、誰も巻き込まずに。さっきまで、確かにそう決めていたはずだった。

 

 だが、無茶を承知でシアが飛び込んできて、傷を負ってでも自分を助けようとした、その姿がまだ目に焼き付いている。あの覚悟を、あのやり方のまま貫けば──いつか、こうして誰かを危険に晒す。それも、澄幽から遠く離れた、助けの届かない場所で。

 

 一人でやり切る。そのつもりだった。だが、それでは足りないのかもしれない。

 

「……まだ、何があったかは話せない。けど、澄幽には一回戻ることにするよ」

 

 静かな声だった。迷いを振り切ったというより、まだ迷いを抱えたまま、それでも前へ進もうとするような響き。

 シアは思わず息を詰め、その言葉に耳を澄ませた。ルイが何を考えているのか、見逃さないように。彼の横顔から、目を離せなかった。

 

「珠桜さんと律灯に……きちんと謝って、頼ってみる」

 

 ぽつり、ぽつりと、まるで自分に言い聞かせるように、ひとつずつ言葉を置いていく。

 

 テープの端を、指先でぴたりと押さえる。傷口を塞ぎ終えたルイは、そこでようやく顔を上げた。

 ほんの少しだけ、口元が緩む。硬さの取れた、穏やかな表情だった。

 

「それと、シアのこともちゃんと送り届けないとな」

「……!」

 

 その一言に、シアの胸の奥が、ふわりと温かく満ちていく。

 思わず目を見開いた。驚きと、それだけでは片付かない何かが、胸の奥できゅっと痛んだ。

 

(もう! そういうことをさらっと言うの、ほんとズルい!!)

 

 顔が、燃えるように熱い。言葉が、喉の途中で詰まって出てこない。それでも──嬉しくてたまらなかった。

 こみ上げてくる感情を、どうにか笑顔の形に変えようと、シアは心の中で必死にもがく。

 

「うん!」

 

 精一杯、晴れやかに微笑んでみせた。

 その瞬間、ルイの口元にも、ほんの少しだけ、穏やかな色が広がる。

 

 誰かと繋がることを恐れていたはずの彼の心が、今、目の前で笑う彼女の顔ひとつで、少しだけ軽くなった気がした。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。