END OF HOPE:21xx - Last Call 作:久遠 -kuon-
二人は海岸線を歩いた。
潮風が吹き抜ける。だが、その匂いは、かつての海が持っていたはずの澄んだ潮の香りとは程遠い。どこか鉄錆じみた、酸のような刺激臭が混じっている。
波打ち際に寄せる海は、濁った灰緑色をしていた。透明度はほとんどなく、打ち寄せるたびに、油膜のような不自然な光沢が波間に浮かんでは消える。砂浜には、黒ずんだ海藻とも金属片ともつかない何かが、点々と打ち上げられていた。
それでも、波は規則正しい音を響かせている。かつてこの星が"青い星"と呼ばれていた頃と、変わらないリズムで。
シアに聞いたところ、ここは澄幽からかなり離れた場所だということがわかった。
ルイは早朝、まだ薄明かりが差し込み始めたころに澄幽を出発した。西へ向かって歩き始め、空が次第に白んでいく様子を見つめながら、足を進めていた。
澄幽の東側の果てには何もない。試練も、世界を救う何かも見つけることはできないだろうと踏んで、あえてそこに向かう意味はないと判断した。だから、目指したのは西。海を越える必要はあるけれど、その大陸にはこの星で唯一、"本物の国"が広がっている。何かが起きるとしたら、そちらだと思った。
しかし──
ルイは目の前に広がる景色を見つめ、眉をひそめた。
西へ進んでいたはずなのに、どうやらここは列島の南側にある海岸線らしい。方角を間違えたわけではない。なのに、ここは本来たどり着くはずのない場所だった。
さらに、明らかに澄幽からの距離が異常に遠い。辺りが明るいうちに狭間へ誘われたため、歩いていた時間は八時間もないはずだ。だが、この場所はどう考えても八時間では到達できるはずがない距離。
「……って、どうしてシアは追いつけたんだ? 何時間経った?」
ルイがふと疑問を口にすると、シアはあっさりと答えた。
「一日だよ」
「一日? 数時間の間違いじゃなくてか……?」
「うん。夜を越してる」
「……は!?!?」
ルイは思わず足を止めた。
(いつの間に、そんなに時間が経っていたのか。いや、それよりも……)
この終末の夜は、あまりにも過酷だ。
すべてのものを凍えさせる冷徹な寒さが世界を包み、地面さえ凍りつく。氷点下どころではない。極限の冷気が生きるものすべてを圧倒する。"死の時間"と言っても過言ではないだろう。
生き延びるためには、強力な魔法で暖を生み出すか、しっかりとしたシェルターに身を隠すしかない。たとえランタンがあっても、屋外で夜を越すのは自殺行為に等しい。魔法師か、何かしら寒さを防ぐ異能を持った異能者以外は、生存は不可能だ。
なのに、確かにルイは生きている。
静かにルイは、手を自分の腕に当てる。そこには凍傷ひとつ、寒さの痕跡さえない。冷たい風にさらされているはずなのに、体には何も異常がない。
「……おかしい」
この矛盾を無理にでも説明しようとするなら、可能性はひとつしかない。
──あの"狭間"に、位置をずらしたり、丸一日分の時間ごと持っていく力がある。そう考えるほかなかった。
(あの空間、一体なんなんだ……?)
考えれば考えるほど、足元が崩れていくような感覚がした。時間も、距離も、自分の身体さえも、何ひとつ確かなものがない。あの色のない場所は、まだ、自分の内側の何かを削り続けているのではないか。
ルイは強く唇を噛みしめた。
何かが、大きく狂っている。
「ルイ?」
不安げな声が、思考を引き戻す。シアが心配そうに、彼の顔を覗き込んでいた。その目が、ルイの心の中に広がる不安を、少しだけ掻き消してくれる。
ルイは一瞬だけ彼女を見つめ、それから静かに歩き出す。足元に目を落とし、息をついた。
「……いや、何でもない」
そう言いながらも、胸の奥に沈むような感覚は、消えない。しかし──
「ホントに死んじゃったと思ったんだからね!」
唐突に、シアが声を上げた。しんみりとした空気から一転、ぐいっと詰め寄ってくる。
「そ、それは悪かった、けど……」
「珠桜さんどのくらい怒るかなあ……」
急に真顔になり、シアは腕を組んで考え込んだ。
「無事だったってわかった瞬間、多分、めちゃくちゃいい笑顔で『おかえり』って言われるよ。それで、しばらく抱き枕みたいに離してもらえなくなるやつ」
想像しただけで、ルイの背筋に冷たいものが走った。
目を細めた、あの笑顔。何を考えているのか読めない、あの静かな笑み。──それが、一番怖い。
特別太いわけでもないのに、どこから出てくるのかわからない腕力で、そのまま絞め上げられる。そして、それが済んだ頃には、いつも通り、びっちりとしたトレーニングが待っている。しかも、マンツーマンで。
「あっでも、なにがあっても、私はルイの味方だからね!」
ぱっと表情を戻し、ぐっと拳を握るシア。その姿に、ルイの胸の奥にあった重みが、少しだけほぐれていった。
「……お前なぁ」
苦笑しそうになるのをぐっと堪える。
この状況で珠桜に叱られる心配をするとは、なんだか不思議な気持ちが湧いてくる。こういうところが、シアらしいとも思う。
「私もルイに質問! ……ってしたいところなんだけど、話せないことばっかりなんだろうなあ」
シアは少し困ったように苦笑を浮かべる。その無邪気さが、少しだけ切ない。ルイはどう返すべきか、言葉を探した。
「……ごめん。でも、話しても大丈夫ってわかったら……ちゃんと話すから」
シアは少し寂しそうに目を伏せつつも、やがて納得したように頷いた。
今も、洞窟で思いをぶつけた時も、ルイが何かを隠していることはなんとなく察していた。うまく言葉にはできないものの、それはきっと、ただの不安や迷いなどではない。もっと大きく、もっと恐ろしい、得体の知れない何かだ。
それが何なのか、無理に聞き出すことはできない。ならばせめて、少しでもルイの力になりたい。シアは、そっと心の中で、そう決めていた。
ふと、頬を撫でていた風が、止んだ。
「……あれ?」
シアが、小さく声を漏らす。
「風、止んだね」
何気ない一言だった。けれど、言われてみれば、さっきまで絶え間なく吹いていたはずの潮風が、綺麗に凪いでいる。
ルイも、それに気づいて足を止めた。
辺りを見回す。砂浜に、風に流されるはずの砂粒ひとつ動いていない。波打ち際に転がっていた枯れ草も、微動だにしなかった。まるで、世界全体が、一枚の絵のように静止しているような。
息を吸う。潮の匂いすら、なぜか薄い。
こんな凪は、これまで一度も経験したことがなかった。外を歩くようになってから、風が完全に止んだ瞬間など、記憶にある限り一度もない。どれほど穏やかな日でも、空気は必ずどこかで流れていた。それが今は──何もない。
シアも、同じ違和感を覚えたのか、辺りをきょろきょろと見回している。
「……なんか、変な感じ」
ぽつりと零れた声が、やけにはっきりと聞こえた。反響もせず、吸い込まれるように消えていく。空気そのものが薄くなったのではないか──そんな錯覚さえ覚えた。
二人はしばらく、ただその奇妙な静寂の中に立ち尽くしていた。
何も起きない。だが、何も起きないことこそが、これまでのどんな脅威よりも、不気味だった。
違和感は、そこから静かに広がっていく。
波の音が遠のいていく。いや、ただ遠ざかるのではない。押し流されるように、異様な速さで、音という音が削ぎ落とされていく。
同時に、耳の奥が詰まるような圧迫感に襲われた。深い海の底へ引きずり込まれるような感覚に、二人は思わず身を強張らせる。
潮騒の音が完全に消え去ると同時に、空気が重く張り詰めるような気配を感じた。まるで世界が、何かの恐ろしいものから隠れるように、息を潜めている。
その沈黙の中で、シアが不安そうに手を強く握りしめているのが見えた。ルイはその手を、何も言わずに取った。
空を見上げる。雲がゆっくりと渦を巻き始めていた。自然な動きではない。何かに引き寄せられるように、一点へ収束していく。灰色だった雲はじわりと滲んで黒ずみ、やがて深淵のような闇へと変わった。闇は瞬く間に広がり、見渡す限りの空が、漆黒に塗り潰される。
「空が……!」
「一体、何が起きて……」
理解はまるで追いつかない。それでも、ひとつだけ確信できることがあった。
──これは自然の変化ではない。
──異能者がいる。
そして、その答えを示すように、空がひどく歪んだ輝きを放った。
──虹色のカーテンが、"雲の下に"広がった。
あまりに異常な光景だった。他のことを考える余裕さえ奪われ、目も心も、そこへ吸い寄せられていく。
「……オーロラ?」
シアが呆然と呟いた。しかし、ルイにはその単語が意味するものがわからなかった。
この終末の世界で、そんな現象が観測されることはない。星全体が常に厚い雲に覆われ、その向こうに何があるのかを知る術がないからだ。
だからこそ、目の前に広がる光景は異常だった。確かにそこに黒雲があるのに、その下から、見る者を誘うように煌びやかな色彩が溢れ出している。光は波のように揺らめき、濃い闇の中でくっきりと浮かび上がっていた。
気づけば、ルイはその輝きから目を離せなくなっていた。頭の中では警鐘が鳴り響いているのに、足が動かない。思考は霞み、ただ美しさに魅入られていく。それでも光が揺れるたび、鼓動は速まり、冷や汗が背筋を伝った。
隣のシアも、立ち尽くしたまま動けずにいる。二人とも言葉を失い、目の前の奇妙で恐ろしい光景に縫い止められていた。
──逃げなければ。本能がそう告げていることは、痛いほどわかっている。だが体は震えるばかりで、足は地面から離れない。恐怖に囚われたまま、二人はただ、その輝きを見つめていた。
だが、次の瞬間──
「──ッ!!」
世界が白く弾ける。同時に──無数の雷が、まるで意志を持ったかのように地面を穿った。
「は……!?」
「きゃっ……!?」
オーロラの光景から、二人は一瞬で引き剥がされた。視界が暴力的な光と音に塗り潰され、身体ごと弾け飛ぶような衝撃が襲う。
──間一髪だった。
直撃の寸前、シアが反射的に防御魔法を展開していた。二人の頭上に薄い光の膜が広がり、落ちてきた雷を弾く。行き場を失った電流は膜の表面を滑り、地面へと流れ落ちていった。
降り注ぐ雷は、暴れ狂う獣のように、方向を選ばず全てを切り裂いた。光の刃が空気を裂き、地を裂き、岩を砕き、砂を吹き飛ばす。破壊の音が雷鳴に乗って途切れなく響き、荒れ狂う空気に、体ごと引き裂かれそうな錯覚を覚えた。
遅れて、地鳴りのような轟音が連なる。世界全体が震え、その波動が身体を貫いた。熱波が肌を焼き、喉の奥に焦げたような痛みが走る。肺が圧され、息が奪われた。
「──シア逃げよう!!」
叫んだ声は、轟音にあっさりと呑まれて消えた。
光と音が全身を包み、雷撃が周囲のすべてを呑み込んでいく。目の前にあるのは、光の奔流と、それが生む破壊だけ。
狭間で感じたものと同じ、手も足も出ない、圧倒的な死の気配。
思考が乱れ、逃げることしか考えられない。頭上で雷鳴が裂けるたび、衝撃波が身体を貫き、冷たい汗が滲む。それでも──逃げなければ。ここで、死なないために。
ルイは体を反転させ、足元の地面を踏みしめて全力で蹴った。シアの手を掴んだまま、逃げる先もわからないまま駆け出そうとする。
大きく目を見開いた彼女が、こちらを見た。
その瞬間、全身の毛が逆立った。
体が痺れるような感覚。直感が告げている──まずい。
空気がひときわ重くなる。電気が、集まっている。何が起きるのか、ルイは本能的に理解した。全身の神経が警告を鳴らす。
そして──
──ドォォオオオン!!!!
彼女のすぐ後ろに、雷が突き刺さった。
地面が爆ぜ、衝撃でルイの体が宙を舞う。繋いでいた手が、引き剥がされた。土煙の中、視界の端で鮮血が舞うのが見えた。
「シアーーーーッ!!」
叫び声が轟音にかき消され、自分の耳にすら届かない。
だが、終わりではなかった。
次の雷撃が、足元を裂くように横薙ぎに走る。雷はただ雲から落ちてくるのではない。何かに操られているかのように軌道を変え、確実にルイを追い詰めていた。
無我夢中で砂を蹴る。飛び退いた先を狙うように、さらなる閃光が叩きつけられる。そのたびに間一髪で直撃だけは避けるが、かすめた服が焼け焦げ、焦げた匂いが鼻を突いた。
息ができない。雷が背後で炸裂するたび、心臓が止まりそうになる。それでも雷は逃がしてくれない。立ち止まることは許されず、左へ跳んでも、右へ跳んでも、後ろへ退いても、次の瞬間にはそこへ光の槍が突き立つ。
(……なんなんだ!? いや、無駄だ、考えるな……!!)
「シア……!」
視界を塞ぐ砂煙の中へ、迷わず飛び込む。焦げた硝煙の匂いが鼻を刺す。それでも、足は止めない。
そのとき、時間が引き延ばされたように感じた。世界がスローモーションになり、すべてがゆっくりと見える。
砂煙の奥で、小さな影が身を低くしていた。杖を掲げた腕の先で、薄い光の膜が揺れている。降り注ぐ礫と雷の余波を、それがかろうじて弾いていた。爆風に煽られた髪が舞い、頬を伝った血の粒が宙に散るのが、やけに鮮明に見えた。
(いた……!)
シアもこちらに気づいた。
「ルイ!」
声は震えていたが、はっきりしていた。膜は揺らがない。
ルイは膜の内側へ滑り込み、手を伸ばす。触れた指先に、熱と鼓動、そして微かに濡れた感触。今度こそ離すまいと、しっかりとその手を掴み、引き寄せた。
(大丈夫、生きてる──)
その確信が胸に広がるより早く、背後で雷が咆哮を上げた。膜の表面がびり、と軋み、細い亀裂が走る。直感が叫んだ。この膜では、次は受けきれない。
──跳べ。今すぐ。遅れれば、死ぬ。
「シア、跳ぶぞ!」
「うん!」
ルイはシアの体をしっかりと抱え、横へ跳んだ。