END OF HOPE:21xx - Last Call 作:久遠 -kuon-
珠桜が、椅子から立ち上がった。
何も言わない。組んでいた指をほどき、律灯が開けたままの扉へ向かう。律灯がその前を歩き出した。
ルイは、一拍遅れてその背中を追っていた。ついてこいとは言われていない。だが、気づいたときには、もう足が動いていた。
扉をくぐる間際、律灯が一度だけ振り返った。
ルイを見て、それから主を見る。珠桜は、ごく小さく顎を引いた。
律灯が前へ向き直る。それで終わりだった。
二人のあいだで何かが交わされたことはわかった。その中身までは、わからなかった。
扉の向こうには、細い廊下が延びていた。
五年以上出入りしてきた執務室の裏に、こんな道があったことを、ルイは今日まで知らなかった。
両側に、煤けた板壁が続いている。ところどころに古い障子が嵌め込まれ、その向こうから、ぼんやりとした明かりが滲んでいた。天井は低い。梁の木目が黒ずんで、長い年月の手垢を吸い込んだように艶を帯びている。
古い木の匂いがした。それから、ほんの微かに、香の燻った名残のような匂い。
廊下は、一度曲がった。それから、また曲がった。
寧静亭が外から見るよりずっと入り組んだ造りをしていることは、知っているつもりだった。角をひとつ曲がるたびに、その”つもり”が一枚ずつ剥がれていく。
律灯が先を行き、珠桜が続く。三人分の足音だけが、板張りの床に低く響く。
前を行く二人の背中が、いつもよりずっと遠く見えた。
「……いつから」
珠桜が、前を向いたまま問うた。
「半刻ほど前です」
律灯の返事は短い。少しの間を置いて、言葉が足された。
「それと、昨夜から……東の外縁で、霜が降りています」
珠桜の足が、ほんの一瞬だけ止まった。
すぐにまた歩き出す。何も言わなかった。
霜。
その言葉が、うまく呑み込めなかった。
澄幽に霜は降りない。
ここはいつも春の終わりのような温度で、どれだけ外が凍てついていても、境界の内側だけは草の匂いがしている。
朝には谷底から霧が湧き、昼には偽りの陽が花を照らし、夜には偽りの月が池に揺れる。それが、当たり前だと思っていた。
足の裏に触れる板が、少しだけ冷たい気がした。
──きっと、気のせいだ。
障子の切れ目から、外が覗いた。
偽りの朝陽の下で、森が静かに息をしている。霧が木々の根元を這い、梢の先で金色の光がほどけている。いつもと変わらない景色だ。
──けれど、よく見ると、空の青がわずかに薄い。水で溶きすぎた絵の具のように、どこか頼りなかった。
それも、気のせいだと思うことにした。
廊下は、突き当たりで途切れていた。
飾り気のない、一枚の引き戸。取手だけが、長い年月に触れられて鈍く光っている。
執務室の奥は、立ち入ってはならない。
いつだったか、珠桜からそれだけを言い渡された。理由は聞かされなかった。珠桜にも、今はもういない他の大人たちにも、訊こうとは思わなかった。
珠桜がそう言うのなら、そうなのだろう。──ただ、それだけで。
以前、澄幽の古株たちが──年老いた者ほど──朝ごとにこの方角へ静かに頭を垂れていたことは、知っていた。
祈っているのだと、シアは言っていた。
何に祈っているのかまでは、ルイも、シアも知らなかった。
律灯が、取手に手をかけた。
開く直前、その指がわずかに止まる。
「……ミコ様。珠桜様がお見えです」
控えめな声が、戸の向こうの静けさに吸われていった。
返事はなかった。律灯は、それを待っていたわけでもないようだった。
戸が、滑る。
──空気が、違った。
温かいわけでも、冷たいわけでもない。ただ、澄んでいた。息をすることさえ、ためらわれるほどに。胸の奥まで吸い込んだら、自分の中の濁ったものが、この空気を汚してしまいそうな気がした。
廊下に漂っていた香の匂いが、敷居のところでふつりと途切れている。代わりにあるのは、雨上がりの谷の奥で一度だけ嗅いだことのあるような、湿った石と若葉の匂いだった。
広い部屋ではなかった。
中央に、寝台がひとつ。天蓋から垂れた薄絹が幾重にも重なり、その向こうを淡く霞ませている。帳の内側で、小さな灯がひとつだけ揺れていた。
その灯に、横たわる誰かの影が浮かんでいる。
灯のまわりを、ごく細かな光の粒が漂っていた。
粒は落ちることも、昇ることもしない。ただ、ゆっくりと、呼吸をするように揺れている。ときおり、灯を透かして、ほんのわずかに色づいて見えた。
どこかで知っている気配だと思った。
意識を向けるより先に、肌が覚えていた。朝ごとに谷を満たす、あの霧に似ている。霧渡りの橋を包み、森の根元を這い、澄幽のすべてを柔らかく覆っている、あの白に。
ルイは、敷居の手前で足を止めた。
爪先の、ほんの一歩先。そこから奥の床は、自分が踏んでいいものではない。
報告を聞いて、思わずついてきてしまったけれど──本当は、執務室で待っているべきだったのだ。
律灯が、開いたままの戸の縁に、そっと手を添えた。
閉めるのではない。ただ、そこに置いただけだ。長い前髪が表情を隠している。
それでも、戸と自分とのあいだに、見えない細い線が一本引かれたのがわかった。
それでいい、と思った。
半歩、後ろへ下がりかける。
「ルイ君」
低く、穏やかな声だった。
珠桜が振り返っていた。
帳の手前で灯を背に受け、その輪郭が薄く滲んでいる。いつもの、からかうような笑みはどこにもなかった。ルイの知らない顔だった。
戸の縁で、律灯の指がかすかに強張る。前髪の奥から、主を窺う気配がした。
本当に、よろしいのですか、と。
珠桜は、小さく頷いた。
「……ずっと、黙っていてごめんね」
ルイに向けられた言葉だった。
「君はまだ若い。これ以上、何かを背負わせたくなかったんだ」
言葉は、そこで途切れた。続きがあるのか、ないのか、わからない間だった。帳の向こうで、灯がひとつ、小さく揺れた。
知らされていなかった。そう分かっても、傷つくより先に、胸の奥がしんとした。守られていたのだと、わかってしまったから。
珠桜が、わずかに目を細めた。笑ったのだと、少し遅れて気づく。
「でも、それをいつまでも私ひとりで決めているのは……ずるいからね。律灯とも、話していたんだ。次に君がその場にいたら、そのときは──って」
戸の縁の、律灯の指は動かなかった。否定も、しなかった。
「だから、ここから先は、君が決めて」
珠桜の声は、少しも急いでいなかった。
「ここへ来たら、たぶん、知らなかった頃には戻れない。
見なくても、私は何も変わらないよ。明日も君の額に手を当てて、葛城を呼ぶって言って、からかう」
足が、竦んだ。
選べと言われたのは、初めてだった。
ここでは、いつも誰かが決めてくれていた。行けと言われれば行き、待てと言われれば待った。それで、よかった。それで、生きてこられた。
この人たちが長い時間をかけて守ってきたものに、自分の指が届いていいのだろうか。
名前のない重さが、胸の上へゆっくりと降りてくる。
足元の敷居を見下ろした。
白木の縁が、灯を受けて細く光っている。たった一本の、指ほどの幅の木。それが、ひどく高い壁のように見えた。
珠桜が、手を差し出した。
白く、長い指。いつもは悪戯に額を撫でていく、あの手だ。
呼びはしなかった。引きもしなかった。
ただ、そこにあった。
律灯も、黙っている。戸に手を添えたまま、線を引いたまま。
どちらを選んでも、きっとこの人たちは何も言わないのだろう。
帳の内側で、灯が揺れた。
光の粒がひとつ、ふわりと流れて、敷居の上まで漂ってくる。ルイの爪先のすぐ手前で、雪が解けるように消えた。
長い、長い数秒だった。
ルイは、自分の足で、敷居を跨いだ。
床板は、冷たくなかった。
差し出された手に、そっと指先を重ねる。
冷たいものだと、どこかで思い込んでいた。その手は、ずっと温かかった。
律灯の手が、戸から離れた。
脇へ、半歩退く。俯いたまま、小さく呟いた。
「……どうぞ」
拒む色はなかった。
ただ、ほんのわずかに、何かを案じるような響きが残っていた。
──そうして、初めてその部屋へ足を踏み入れた。