END OF HOPE:21xx - Last Call   作:久遠 -kuon-

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第二話 白光の予兆 - 2

 ルイの指を、珠桜はそっとほどいた。

 それから、寝台へ向かう。一歩ごとに、足音を床板へ預けるようにして。

 

 音が立つだけで、壊れてしまいそうで。

 空気が揺れるだけで、消えてしまいそうで。

 

 寝台の傍らで膝を折る。幾重にも垂れた薄絹の端を指先で摘み、秘仏の厨子を開くように、慎ましく、静かに持ち上げた。

 

 灯が、帳の内側から溢れた。

 漂っていた光の粒が、隙間を得てふわりと広がる。灯を透かしてかすかに色づいて見えていたそれは、こうして間近で見れば、はっきりと薄桃をしていた。

 

 その光に淡く染まって、小さな身体が横たわっている。

 

 透き通るほどに白い肌。枕に散った髪。胸が上下しているのかどうかは、じっと見ていなければわからないほどに浅い。 敷布の上に置かれた指先は、触れればそのまま光の粒になって崩れてしまいそうだった。

 

 その指が、わずかに持ち上がった。

 珠桜を、招くように。

 

 

『……珠桜』

 

 

 唇は、動いていない。

 けれど、確かに聞こえた。耳ではなく、頭の内側へ、直接。

 

 “変異体”となってから、この御方は言葉の代わりに思念を紡ぐ。声を聞かなくなって、もう随分になる。最後に聞いた声がどんな響きだったのか、珠桜はときどき、思い出せなくなる。

 

 

 変異体。

 ある日を境に、絶えずエネルギーを放ち続ける身体になってしまった人間を、この世界ではそう呼ぶ。陽は雲に閉ざされ、草木は枯れ果てたこの星で、取り残された人々がまだ息をしていられるのは、彼らの力があるからだ。

 澄幽の春も、谷の霧も、偽りの陽も。すべて、この小さな身体から零れたものでできている。

 

 だからこそ、珠桜はこの部屋を閉ざしてきた。

 立ち入れるのは、長である珠桜と、彼が全幅の信頼を置くごくわずかな者だけ。律灯がそこに数えられているのも、長く従者として傍に仕えてきた歳月があってのことだ。

 ──今日、その数が、ひとつ増えた。

 

 

「はい。ここにおります」

 

 枕元に跪き、差し出された手を取る。

 

 冷たい。

 前に触れたときよりも、ずっと。

 

 この御方がこの地を離れられなくなった日から、珠桜はその傍にいた。

 黒華の名を継ぐ者として。そして、それ以上に──この国に残された人々が最後まで手放さなかった祈りの在処を、守る者として。

 

 空へ逃れる船がまだ飛んでいた頃も、珠桜は一度として、自分があれに乗る日を思い描かなかった。見上げる理由より、ここに留まる理由のほうが、ずっと重かったからだ。

 

 きゅ、と。

 ミコの指が、弱い力で握り返してきた。

 

 

 

『……"未来を、視ました"』

 

 灯が、止まった。

 

 揺れていた炎が、糸のように細く立ったまま動かない。部屋を漂っていた光の粒も、呼吸を忘れたように宙に留まっている。 握った手の内側で、細い指が一度だけ、跳ねるように強張った。

 

 指先から、冷えが這い上がってくる。

 霜が降りる音というものがあるのなら、きっと、こんな静けさをしている。

 

『……わたくしたちの』

 

 思念が、途切れる。

『最期の、刻を』

 

 薄い胸が、ひとつ、浅く沈んだ。

 

 

『……滅びの、未来を』

 

 

 

 未来視。

 ミコに宿った、"絶望"を視る力。

 

 いつだったか、この力のことを知った外の男が、それを「恩寵だ」と言った。破滅を先に知ることができるのなら、備えることもできる、と。

 珠桜も、かつてはそう信じていた。

 

 何年も前、ミコは今日と同じように目を覚まし、今日と同じように珠桜の名を呼んだ。

 東の門が、炎に呑まれる、と。

 

 珠桜は備えた。人を退かせ、門を固め、刀を持てる者を残らず配した。できることは、すべてやった。

 

 一日目。門の守りに就くはずだった男が、雨に濡れた石段で足を折った。

 二日目。代わりに立てた者たちが、揃って熱を出した。

 三日目。退かせたはずの者たちが、ひとり、またひとりと、門の近くへ戻ってきていた。理由は、どれも他愛のないものだった。

 その夜に限って、珠桜自身も、別の報せで都の反対側へ呼ばれていた。

 

 門は、焼け落ちた。

 ミコが視たとおりの場所で、視たとおりの者たちが、視たとおりに死んだ。

 

 その夜、ミコは叫び続けた。

 死んでいった者の数だけ、喉が裂けるまで。焼かれる熱を、砕ける骨の音を、名も知らない誰かの最期の恐怖を、ひとつ残らず、その身に受けながら。

 

 未来は、変わらない。

 変えようと伸ばした手は、手ごと盤面から払い落とされる。知ったところで、何も救えない。ただ、失われるものの痛みを、誰よりも先に、ひとりで受け取るだけ。

 

 それの、どこが恩寵だというのか。

 滅びを告げるためだけに在り、告げた滅びの痛みを、告げた者の身に刻む。そんな力を、珠桜は呪い以外の名で呼んだことがない。

 

 

 ──今ではもう、痛みにさえ慣れてしまって、彼は叫ばない。

 凪いだ顔のまま、ときおり、視た未来を珠桜に告げる。そして、その多くを、小さな胸の内に仕舞ったまま眠る。

 

 告げずに済むものは、告げない。

 告げれば、聞いた者もまた、同じ重さを抱えることになるから。

 

 背負うのは、役目を与えられた自分ひとりでよかった。

 

 ──それでも、これは。伝えなければならない。

 

 

『白い光が……空から、降ります』

 

 ミコの睫毛が、かすかに震えた。

 

 白い光。空から。

 言葉の意味が、すぐには像を結ばなかった。

 

『空の上の、あの船々を……ひとつ残らず、焼いて……』

 

 帳の内で、灯が揺れた。

 

 船々。

 方舟が最後に運んでいった人々。澄んだ水と人工の陽の下で、今も穏やかに眠っている、数千万の命。

 ひとつ残らず。

 

『……その光は、やがて、この地にも』

 

 この地。

 谷も、森も、翠霞庵の湯気も。何も知らずに眠っている、”奥”の子どもたちも。

 今、背後で息を殺している、あの青年も。

 

 握った手に、力がこもった。

 こもりすぎていた。細い指が軋むのを感じて、珠桜は息を詰め、そっと力を緩める。

 

 変わらない。

 この御方が視た未来は、一度として変わったことがない。

  門の夜に、骨の髄まで思い知らされた。打てる手はすべて打った。配した者は、他愛のない偶然ひとつで盤面から消え、夜は、視たとおりに訪れた。

 それなのに、頭は勝手に動き出していた。

 どこへ逃がす。いつまでに。何人を。

 備えようとする手が、止まらない。止まらないまま、その手がどこにも届かないことも、わかっていた。

 

 背後で、律灯が息を呑む気配がした。

 部屋の隅で、ルイの衣擦れがひとつ、途切れた。

 

 ──聞こえている。

 この思念は、自分ひとりに向けられたものではない。

 

 ミコは、視たものを語らない。

 どれほどの痛みを伴う未来でも、その多くを己の内に沈めてきた。聞いた者が、同じ重さを背負わずに済むように。ずっと、そうしてきた御方だった。

 変えられない未来なら、なおのことだ。知らせたところで、何ひとつ救えはしないのだから。

 

 それを、今日は。

 律灯のいる前で。ルイの立つ、この部屋で。

 

 胸の底に、名前のつかない冷たさが一滴、落ちた。

 東の外縁に降りたという霜のことが、なぜか頭をよぎる。

 理由は、考えなかった。考えれば、形になってしまう気がした。

 

 

『珠桜』

 

 名を呼ぶ思念が、ひどく静かだった。

 

『その刻、わたくしは……もう、あなたの傍には、いられないでしょう』

 

 息が、止まった。

 珠桜の表情は、何も変わらなかった。変えなかった。

 ただ、握った指先だけが、冷たいその手を離すまいとしていた。

 

 ミコの指が、ほんのわずかに、握り返してくる。

 離さなくていい、と言うように。あるいは、いずれ離させてしまうことを、詫びるように。

 

『だから……あなたに、託します。この地に生きる、すべての人を』

 

 託す。

 空の船は焼かれ、この地も、いずれ焼かれる。逃がす先など、どこにもない。それを誰よりも先に視たのは、この御方だ。

 変わらない未来へ、それでもなお手を伸ばせと。それがどれほど酷なことか、わからないはずがない。門の夜の痛みを誰よりも深く身に刻んだのも、この御方なのだから。

 

 わかっていて、なぜ。

 なぜ今、この場で。この者たちの耳に、届くように。

 

 問いは、最後まで結ばなかった。結ばせなかった。

 

 

「……ミコ様」

 

 ようやく出た声は、驚くほど落ち着いていた。

 落ち着かせたのだ。

 

『泣かないで』

「泣いておりません」

『……ええ。知って、います』

 

 ミコは、かすかに瞼を持ち上げた。

 薄桃の瞳が、珠桜を──その肩越しを見た。帳の向こう、敷居を越えてすぐのところで立ち尽くしている、青年のほうへ。

 

 

 目が、合った。

 

 帳は幾重にも重なって、奥にあるものを淡く霞ませている。灯に透けて見えるのは、横たわる影の輪郭と、珠桜の手に包まれた細い手の形。それだけのはずだった。

 顔など、見えるはずがない。

 

 それでも、ルイにはわかった。

 見られている。

 

『……聞こえますか』

 

 息を、呑んだ。

 

 先ほどから、聞こえてはいた。

 珠桜へ向けられた思念が帳の縁から零れて、薄く部屋に満ちていくのを。白い光のことも、空の船のことも、この地が焼かれることも。どれも自分宛てではない言葉の余韻として、鼓膜の外側を遠く撫でていくだけだった。

  けれど、今のは違う。 

 耳ではない。頭の奥よりも、もっと深いところ。胸の内側に、直接、指先で触れられたような。 

 冷たくはなかった。温かくもなかった。ただ、この部屋の空気と同じように、澄んでいた。

 

 すぐ隣で、律灯が小さく息を吸った。 

 何も言わない。けれど、前髪の隙間から覗いた紫水晶の瞳が、わずかに見開かれている。戸から離れたはずの指が、行き場をなくしたように袖の端を握っていた。 

 この声は本来、自分のような者に向けられるものではないのだ。その横顔が、それだけは教えていた。

 

「……き、聞こえ、ます」

 

 掠れた声が出た。この部屋で声を出すこと自体が、ひどく場違いなことのように思えた。

 帳の向こうの影は、少しも動かない。けれど、確かにこちらを見ている。

 

『初めまして……ルイ』

 

 名を、呼ばれた。

 一度も会ったことのない相手に。

 

 不思議と、驚きはなかった。

 谷の霧も、森の緑も、朝ごとの偽りの陽も。五年以上、自分はこの人の内側で息をしてきたのだ。知られていないほうが、むしろおかしい気がした。

 

『あなたの、行く先も……視えました』

 

 思念が、そこで一度、途切れた。 

 言葉を選び直すような、短い間があった。

 

『……いいえ。視て、しまいました』

 

 言い直した声は、どこか申し訳なさそうだった。 

 覗くつもりのなかったものを、うっかり覗いてしまった。そんなふうに聞こえた。

 

 

『未来を……語ることを、わたくしは、しないのです』

 

 灯が、細く揺れる。

 

『行き着く先を知ってしまえば……人は、その先の夢を、見なくなってしまうから』

 

 思念が、また途切れた。 

 今度の間は、さっきよりも長かった。 

 何かを言いかけて、やめたような。言葉の手前で、そっと指を離したような。

 

 ルイの足元で、光の粒がひとつ、揺れた。 

 帳の内を漂うものたちは、みな同じ呼吸で、ゆっくりと明滅している。その一粒だけが、わずかに拍を外していた。瞬いて、揺らいで、ほどけて消える。 

 気のせいだと思うには、ほんの少しだけ、はっきりしすぎていた。

 

『それでも、伝えるのは……越えて、ほしいからです』

 

 越えて、ほしい。

 越えられる、ではなく。

 

 知らず、視線が足元へ落ちた。

 すぐ後ろに、白木の敷居がある。指ほどの幅の、たった一本の木。さっきまで、ひどく高い壁に見えていたもの。

 

『その絶望を。……わたくしが視た、未来を』

 

 顔を上げる。

 帳越しの視線が、まっすぐにこちらへ向いていた。

 影の輪郭しか見えないのに、見られている、と思った。顔でも、目でもなく。自分の、もっと奥を。

 

『わたくしの目では、なく……あなたの目で見る、未来へ』

 

 思念が、ふっと和らいだ。 

 祈りと呼ぶには、あまりに小さな声だった。

 

 

『……わたくしも』

 

 灯が、ゆっくりと揺れる。

 

『見てみたいのです。 わたくしにさえ、視えない……希望の、夢を』

 

 珠桜の肩が、ほんのわずかに揺れた。 

 振り返りはしなかった。握った手だけが、そこに在った。

 

 

『……ですから、警告をすることまでは……許してください』

 

 思念の色が、変わった。

 穏やかなまま、その底に細く硬いものが一本、通る。

 隣で、律灯が背筋を伸ばす気配がした。帳の手前の珠桜は動かない。ただ、ミコの手を包む指に、かすかに力がこもるのが見えた。

 

『ルイ。あなたに、試練が訪れます』

 

 灯が揺れた。 

 帳が、風もないのにかすかに膨らむ。漂っていた光の粒が、一斉に動きを止めた。宙に縫い留められたように、ひとつ残らず。それから潮が引くように、ゆっくりと部屋の隅へ退いていく。 

 灯のまわりが、急に暗くなった気がした。

 

『それは、あなたが忘れてきたもの。あなたの後ろに、ずっと、ついてきたもの』

 

 指先が、冷えていく。

 澄幽の空気の中で冷たいと感じたのは、初めてだった。

 

 忘れてきたもの。

 口の中で繰り返しても、その言葉は何の形も結ばなかった。

 ただ、背中が、妙に気になった。

 すぐ後ろには敷居がある。その向こうには、さっき歩いてきた細い廊下が、曲がりくねって暗がりへ続いている。誰もいないはずの、その暗がりが。

 振り返れなかった。振り返ったら、何かと目が合ってしまう気がした。

 

『逃げても、それは追ってくるでしょう。あなたの、大切なものごと』

 

 大切なもの。

 真っ先に浮かんだのは、白銀の髪だった。今ごろ何も知らずに、自分の帰りを待っているはずの。

 それから、目の前の背中。隣の、長い前髪。湯気の立つ食堂の、騒がしい声。

 ひとつ浮かぶたびに、胸の奥で何かがきつく絞られていく。

 握り込んだ拳の内側で、爪が掌に食い込んだ。

 

『だから……』

 

 思念が、細くなる。

 灯が、今にも消えそうに縮んだ。

 帳の内で、細い手からゆっくりと力が抜けていくのが見えた。珠桜の手が、それを追うように握り直す。引き留めるように。けれど決して、強くはない力で。

 

『……過去に、立ち向かって』

 

 最後の一言は、ほとんど吐息だった。 

 それでも、胸の内側の、さっき触れられたのと同じ場所に、確かに届いた。届いて、小さな楔のようにそこへ残った。

 

 帳の向こうの影が、ゆっくりと沈んでいく。 

 眠りに落ちるように。

 

 隅へ退いていた光の粒が、ひとつ、またひとつと灯のもとへ還ってくる。触れたそばから光に溶けて、見分けがつかなくなっていく。 

 部屋に、あの澄んだ静けさが戻った。 

 やがて、灯だけが小さく残った。

 

 珠桜は、まだその手を離さなかった。

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