END OF HOPE:21xx - Last Call 作:久遠 -kuon-
ルイの指を、珠桜はそっとほどいた。
それから、寝台へ向かう。一歩ごとに、足音を床板へ預けるようにして。
音が立つだけで、壊れてしまいそうで。
空気が揺れるだけで、消えてしまいそうで。
寝台の傍らで膝を折る。幾重にも垂れた薄絹の端を指先で摘み、秘仏の厨子を開くように、慎ましく、静かに持ち上げた。
灯が、帳の内側から溢れた。
漂っていた光の粒が、隙間を得てふわりと広がる。灯を透かしてかすかに色づいて見えていたそれは、こうして間近で見れば、はっきりと薄桃をしていた。
その光に淡く染まって、小さな身体が横たわっている。
透き通るほどに白い肌。枕に散った髪。胸が上下しているのかどうかは、じっと見ていなければわからないほどに浅い。 敷布の上に置かれた指先は、触れればそのまま光の粒になって崩れてしまいそうだった。
その指が、わずかに持ち上がった。
珠桜を、招くように。
『……珠桜』
唇は、動いていない。
けれど、確かに聞こえた。耳ではなく、頭の内側へ、直接。
“変異体”となってから、この御方は言葉の代わりに思念を紡ぐ。声を聞かなくなって、もう随分になる。最後に聞いた声がどんな響きだったのか、珠桜はときどき、思い出せなくなる。
変異体。
ある日を境に、絶えずエネルギーを放ち続ける身体になってしまった人間を、この世界ではそう呼ぶ。陽は雲に閉ざされ、草木は枯れ果てたこの星で、取り残された人々がまだ息をしていられるのは、彼らの力があるからだ。
澄幽の春も、谷の霧も、偽りの陽も。すべて、この小さな身体から零れたものでできている。
だからこそ、珠桜はこの部屋を閉ざしてきた。
立ち入れるのは、長である珠桜と、彼が全幅の信頼を置くごくわずかな者だけ。律灯がそこに数えられているのも、長く従者として傍に仕えてきた歳月があってのことだ。
──今日、その数が、ひとつ増えた。
「はい。ここにおります」
枕元に跪き、差し出された手を取る。
冷たい。
前に触れたときよりも、ずっと。
この御方がこの地を離れられなくなった日から、珠桜はその傍にいた。
黒華の名を継ぐ者として。そして、それ以上に──この国に残された人々が最後まで手放さなかった祈りの在処を、守る者として。
空へ逃れる船がまだ飛んでいた頃も、珠桜は一度として、自分があれに乗る日を思い描かなかった。見上げる理由より、ここに留まる理由のほうが、ずっと重かったからだ。
きゅ、と。
ミコの指が、弱い力で握り返してきた。
『……"未来を、視ました"』
灯が、止まった。
揺れていた炎が、糸のように細く立ったまま動かない。部屋を漂っていた光の粒も、呼吸を忘れたように宙に留まっている。 握った手の内側で、細い指が一度だけ、跳ねるように強張った。
指先から、冷えが這い上がってくる。
霜が降りる音というものがあるのなら、きっと、こんな静けさをしている。
『……わたくしたちの』
思念が、途切れる。
『最期の、刻を』
薄い胸が、ひとつ、浅く沈んだ。
『……滅びの、未来を』
未来視。
ミコに宿った、"絶望"を視る力。
いつだったか、この力のことを知った外の男が、それを「恩寵だ」と言った。破滅を先に知ることができるのなら、備えることもできる、と。
珠桜も、かつてはそう信じていた。
何年も前、ミコは今日と同じように目を覚まし、今日と同じように珠桜の名を呼んだ。
東の門が、炎に呑まれる、と。
珠桜は備えた。人を退かせ、門を固め、刀を持てる者を残らず配した。できることは、すべてやった。
一日目。門の守りに就くはずだった男が、雨に濡れた石段で足を折った。
二日目。代わりに立てた者たちが、揃って熱を出した。
三日目。退かせたはずの者たちが、ひとり、またひとりと、門の近くへ戻ってきていた。理由は、どれも他愛のないものだった。
その夜に限って、珠桜自身も、別の報せで都の反対側へ呼ばれていた。
門は、焼け落ちた。
ミコが視たとおりの場所で、視たとおりの者たちが、視たとおりに死んだ。
その夜、ミコは叫び続けた。
死んでいった者の数だけ、喉が裂けるまで。焼かれる熱を、砕ける骨の音を、名も知らない誰かの最期の恐怖を、ひとつ残らず、その身に受けながら。
未来は、変わらない。
変えようと伸ばした手は、手ごと盤面から払い落とされる。知ったところで、何も救えない。ただ、失われるものの痛みを、誰よりも先に、ひとりで受け取るだけ。
それの、どこが恩寵だというのか。
滅びを告げるためだけに在り、告げた滅びの痛みを、告げた者の身に刻む。そんな力を、珠桜は呪い以外の名で呼んだことがない。
──今ではもう、痛みにさえ慣れてしまって、彼は叫ばない。
凪いだ顔のまま、ときおり、視た未来を珠桜に告げる。そして、その多くを、小さな胸の内に仕舞ったまま眠る。
告げずに済むものは、告げない。
告げれば、聞いた者もまた、同じ重さを抱えることになるから。
背負うのは、役目を与えられた自分ひとりでよかった。
──それでも、これは。伝えなければならない。
『白い光が……空から、降ります』
ミコの睫毛が、かすかに震えた。
白い光。空から。
言葉の意味が、すぐには像を結ばなかった。
『空の上の、あの船々を……ひとつ残らず、焼いて……』
帳の内で、灯が揺れた。
船々。
方舟が最後に運んでいった人々。澄んだ水と人工の陽の下で、今も穏やかに眠っている、数千万の命。
ひとつ残らず。
『……その光は、やがて、この地にも』
この地。
谷も、森も、翠霞庵の湯気も。何も知らずに眠っている、”奥”の子どもたちも。
今、背後で息を殺している、あの青年も。
握った手に、力がこもった。
こもりすぎていた。細い指が軋むのを感じて、珠桜は息を詰め、そっと力を緩める。
変わらない。
この御方が視た未来は、一度として変わったことがない。
門の夜に、骨の髄まで思い知らされた。打てる手はすべて打った。配した者は、他愛のない偶然ひとつで盤面から消え、夜は、視たとおりに訪れた。
それなのに、頭は勝手に動き出していた。
どこへ逃がす。いつまでに。何人を。
備えようとする手が、止まらない。止まらないまま、その手がどこにも届かないことも、わかっていた。
背後で、律灯が息を呑む気配がした。
部屋の隅で、ルイの衣擦れがひとつ、途切れた。
──聞こえている。
この思念は、自分ひとりに向けられたものではない。
ミコは、視たものを語らない。
どれほどの痛みを伴う未来でも、その多くを己の内に沈めてきた。聞いた者が、同じ重さを背負わずに済むように。ずっと、そうしてきた御方だった。
変えられない未来なら、なおのことだ。知らせたところで、何ひとつ救えはしないのだから。
それを、今日は。
律灯のいる前で。ルイの立つ、この部屋で。
胸の底に、名前のつかない冷たさが一滴、落ちた。
東の外縁に降りたという霜のことが、なぜか頭をよぎる。
理由は、考えなかった。考えれば、形になってしまう気がした。
『珠桜』
名を呼ぶ思念が、ひどく静かだった。
『その刻、わたくしは……もう、あなたの傍には、いられないでしょう』
息が、止まった。
珠桜の表情は、何も変わらなかった。変えなかった。
ただ、握った指先だけが、冷たいその手を離すまいとしていた。
ミコの指が、ほんのわずかに、握り返してくる。
離さなくていい、と言うように。あるいは、いずれ離させてしまうことを、詫びるように。
『だから……あなたに、託します。この地に生きる、すべての人を』
託す。
空の船は焼かれ、この地も、いずれ焼かれる。逃がす先など、どこにもない。それを誰よりも先に視たのは、この御方だ。
変わらない未来へ、それでもなお手を伸ばせと。それがどれほど酷なことか、わからないはずがない。門の夜の痛みを誰よりも深く身に刻んだのも、この御方なのだから。
わかっていて、なぜ。
なぜ今、この場で。この者たちの耳に、届くように。
問いは、最後まで結ばなかった。結ばせなかった。
「……ミコ様」
ようやく出た声は、驚くほど落ち着いていた。
落ち着かせたのだ。
『泣かないで』
「泣いておりません」
『……ええ。知って、います』
ミコは、かすかに瞼を持ち上げた。
薄桃の瞳が、珠桜を──その肩越しを見た。帳の向こう、敷居を越えてすぐのところで立ち尽くしている、青年のほうへ。
目が、合った。
帳は幾重にも重なって、奥にあるものを淡く霞ませている。灯に透けて見えるのは、横たわる影の輪郭と、珠桜の手に包まれた細い手の形。それだけのはずだった。
顔など、見えるはずがない。
それでも、ルイにはわかった。
見られている。
『……聞こえますか』
息を、呑んだ。
先ほどから、聞こえてはいた。
珠桜へ向けられた思念が帳の縁から零れて、薄く部屋に満ちていくのを。白い光のことも、空の船のことも、この地が焼かれることも。どれも自分宛てではない言葉の余韻として、鼓膜の外側を遠く撫でていくだけだった。
けれど、今のは違う。
耳ではない。頭の奥よりも、もっと深いところ。胸の内側に、直接、指先で触れられたような。
冷たくはなかった。温かくもなかった。ただ、この部屋の空気と同じように、澄んでいた。
すぐ隣で、律灯が小さく息を吸った。
何も言わない。けれど、前髪の隙間から覗いた紫水晶の瞳が、わずかに見開かれている。戸から離れたはずの指が、行き場をなくしたように袖の端を握っていた。
この声は本来、自分のような者に向けられるものではないのだ。その横顔が、それだけは教えていた。
「……き、聞こえ、ます」
掠れた声が出た。この部屋で声を出すこと自体が、ひどく場違いなことのように思えた。
帳の向こうの影は、少しも動かない。けれど、確かにこちらを見ている。
『初めまして……ルイ』
名を、呼ばれた。
一度も会ったことのない相手に。
不思議と、驚きはなかった。
谷の霧も、森の緑も、朝ごとの偽りの陽も。五年以上、自分はこの人の内側で息をしてきたのだ。知られていないほうが、むしろおかしい気がした。
『あなたの、行く先も……視えました』
思念が、そこで一度、途切れた。
言葉を選び直すような、短い間があった。
『……いいえ。視て、しまいました』
言い直した声は、どこか申し訳なさそうだった。
覗くつもりのなかったものを、うっかり覗いてしまった。そんなふうに聞こえた。
『未来を……語ることを、わたくしは、しないのです』
灯が、細く揺れる。
『行き着く先を知ってしまえば……人は、その先の夢を、見なくなってしまうから』
思念が、また途切れた。
今度の間は、さっきよりも長かった。
何かを言いかけて、やめたような。言葉の手前で、そっと指を離したような。
ルイの足元で、光の粒がひとつ、揺れた。
帳の内を漂うものたちは、みな同じ呼吸で、ゆっくりと明滅している。その一粒だけが、わずかに拍を外していた。瞬いて、揺らいで、ほどけて消える。
気のせいだと思うには、ほんの少しだけ、はっきりしすぎていた。
『それでも、伝えるのは……越えて、ほしいからです』
越えて、ほしい。
越えられる、ではなく。
知らず、視線が足元へ落ちた。
すぐ後ろに、白木の敷居がある。指ほどの幅の、たった一本の木。さっきまで、ひどく高い壁に見えていたもの。
『その絶望を。……わたくしが視た、未来を』
顔を上げる。
帳越しの視線が、まっすぐにこちらへ向いていた。
影の輪郭しか見えないのに、見られている、と思った。顔でも、目でもなく。自分の、もっと奥を。
『わたくしの目では、なく……あなたの目で見る、未来へ』
思念が、ふっと和らいだ。
祈りと呼ぶには、あまりに小さな声だった。
『……わたくしも』
灯が、ゆっくりと揺れる。
『見てみたいのです。 わたくしにさえ、視えない……希望の、夢を』
珠桜の肩が、ほんのわずかに揺れた。
振り返りはしなかった。握った手だけが、そこに在った。
『……ですから、警告をすることまでは……許してください』
思念の色が、変わった。
穏やかなまま、その底に細く硬いものが一本、通る。
隣で、律灯が背筋を伸ばす気配がした。帳の手前の珠桜は動かない。ただ、ミコの手を包む指に、かすかに力がこもるのが見えた。
『ルイ。あなたに、試練が訪れます』
灯が揺れた。
帳が、風もないのにかすかに膨らむ。漂っていた光の粒が、一斉に動きを止めた。宙に縫い留められたように、ひとつ残らず。それから潮が引くように、ゆっくりと部屋の隅へ退いていく。
灯のまわりが、急に暗くなった気がした。
『それは、あなたが忘れてきたもの。あなたの後ろに、ずっと、ついてきたもの』
指先が、冷えていく。
澄幽の空気の中で冷たいと感じたのは、初めてだった。
忘れてきたもの。
口の中で繰り返しても、その言葉は何の形も結ばなかった。
ただ、背中が、妙に気になった。
すぐ後ろには敷居がある。その向こうには、さっき歩いてきた細い廊下が、曲がりくねって暗がりへ続いている。誰もいないはずの、その暗がりが。
振り返れなかった。振り返ったら、何かと目が合ってしまう気がした。
『逃げても、それは追ってくるでしょう。あなたの、大切なものごと』
大切なもの。
真っ先に浮かんだのは、白銀の髪だった。今ごろ何も知らずに、自分の帰りを待っているはずの。
それから、目の前の背中。隣の、長い前髪。湯気の立つ食堂の、騒がしい声。
ひとつ浮かぶたびに、胸の奥で何かがきつく絞られていく。
握り込んだ拳の内側で、爪が掌に食い込んだ。
『だから……』
思念が、細くなる。
灯が、今にも消えそうに縮んだ。
帳の内で、細い手からゆっくりと力が抜けていくのが見えた。珠桜の手が、それを追うように握り直す。引き留めるように。けれど決して、強くはない力で。
『……過去に、立ち向かって』
最後の一言は、ほとんど吐息だった。
それでも、胸の内側の、さっき触れられたのと同じ場所に、確かに届いた。届いて、小さな楔のようにそこへ残った。
帳の向こうの影が、ゆっくりと沈んでいく。
眠りに落ちるように。
隅へ退いていた光の粒が、ひとつ、またひとつと灯のもとへ還ってくる。触れたそばから光に溶けて、見分けがつかなくなっていく。
部屋に、あの澄んだ静けさが戻った。
やがて、灯だけが小さく残った。
珠桜は、まだその手を離さなかった。