END OF HOPE:21xx - Last Call 作:久遠 -kuon-
誰も、口を開かなかった。
珠桜も、律灯も、ルイも。
灯の揺れる音さえ聞こえてきそうな静けさだった。
やがて、帳の内で衣擦れがした。
珠桜が、握っていた手をそっと寝台の上へ戻す。指を一本ずつほどくように、ゆっくりと。最後の一本が離れるまでに、少しだけ時間がかかった。
立ち上がる動作に、ほんの一瞬、ためらいがあった。
帳を分けて出てきたその顔は、いつもの珠桜だった。穏やかで、美しくて、何も読み取れない。
ただ──ルイのほうを見たとき、その瞳がほんのわずかに揺れた。
「……戻ろうか」
それだけ言って、珠桜は部屋を出た。
ルイがその後を追い、敷居を越える。背後で、律灯が音もなく戸を引いた。
執務室に戻っても、珠桜は何も訊かなかった。
心当たりはあるか、とも。大丈夫か、とも。
椅子に腰を下ろし、机の上で指を組む。いつもの姿勢だった。いつもと同じ姿勢で、ただ、窓の外を見ていた。
何も訊かれないことが、ルイには何よりも重かった。
「……少し、外の空気、吸ってきます」
「うん」
珠桜は、窓の外を見たまま頷いた。
律灯だけが、一度だけこちらを見た。
◇◆◇
寧静亭を出る。
朝の風が、頬を撫でた。
──冷たい、と思った。
この場所の風を冷たいと感じたことなど、今まで一度もなかったのに。
空を仰ぐ。
ミコの力が描き出す、仮初の蒼穹。本物の空は、あの灰色の雲の向こうにある。もう何十年も、誰も見ていない。
この青が、あの小さな身体ひとつで支えられている。
帳の奥の、今にも消えてしまいそうな、あの細い影ひとつで。
──あなたが忘れてきたもの。
ルイには、過去の記憶がなかった。
過去というのは、澄幽に来た十一歳よりも前のことだ。とりわけ五歳より前は、何ひとつ残っていない。
生きている以上、自分を産んだ誰かがいたはずだった。
その顔が、どうしても浮かばない。浮かばないことを、寂しいと思ったことさえなかった。
残っているのは、断片だけだ。
狭い部屋。柱に繋がれた、鎖の重さ。
その次にある一番古い記憶では、もう十一歳になっていて、珠桜に手を引かれ、この地の土を踏んでいた。
間にあったはずの時間は、どこにもない。
──あなたの、大切なものごと。
掌を開く。
爪の痕が、赤く四つ並んでいた。あの部屋で握り込んだときのものが、まだ消えずに残っている。
自分に、何かが訪れる。
自分の知らない、自分の過去が。
それがこの場所まで追ってくるのだとしたら。
ルイは、青を見上げたまま、動けなかった。
限りなく本物に近い、けれど決して本物にはなれない、淡く滲む蒼穹。
──その彼方で。
一瞬、何かが揺らめいた。
白い光。
瞬きをしたときには、もう、何もなかった。