END OF HOPE:21xx - Last Call 作:久遠 -kuon-
霧が、谷底からゆっくりと湧き上がってくる。白く、柔らかく、木々の根元を撫でるように這い、苔むした石段を濡らしていく。高い梢の隙間からは金色の光が幾筋も差し込み、霧の中でほどけて、淡い光の帯になっていた。
葉の一枚一枚に、朝露が留まっている。光を受けて、小さな星のように瞬いていた。
小径の両側には、鎮魂の
区画ごとに植えられた花が、今朝も静かに咲いていた。淡い藤色の一群。その先に、白い小花の群れ。風が渡るたび、色の波がゆるやかに寄せては返す。
せせらぎの音が、どこからともなく絶えず聞こえていた。
美しい場所だと思う。
何度見ても、そう思う。
──だが、これがすべて偽物であることを、ルイは知っている。
初めて澄幽の外へ出た日に、知った。
初めて月風門をくぐったのは、十五の冬だった。
──もっとも、外には冬しかないのだが。
門を一歩出た瞬間、肺が凍りついた。吸い込んだ空気が、喉の奥で刃物に変わる。背後の門の内側では、まだ花の匂いがしていたのに。
一年のほとんどが、氷点下。準氷河期と呼ばれる寒さが、もう何十年も、この星を離さずにいる。
見上げた空に、青はなかった。
分厚い灰色の雲が、地平の端から端まで蓋をしている。その向こうにあるはずの陽の光は、ほとんど地上まで届かない。昼でも、夕暮れのように薄暗かった。
戦争が、隕石が、火山が。そして空から来たものたちが、少しずつこの星から陽を奪っていった。
足元には、灰と氷。
かつて町だったものの骨組みが、白く凍りついたまま傾いている。木も、花も、草一本見当たらない。
岩陰に張りついた色の抜けた苔は、汚染と寒さに耐えるためにねじ曲がった変異種なのだと、先輩が教えてくれた。動くものといえば、瓦礫の隙間を走る鼠くらいのものだった。この星の食物連鎖は、とうに途切れている。
土も、水も、汚れていた。
核の煤と酸の雨が、何十年もかけて染み込ませたものだ。放射線は、浴びてすぐに死ぬほどではない。ただ、長く晒されれば、身体の内側から少しずつ蝕んでいく。
それが、この世界の毒の在り方だった。
海沿いでは、変質した海から有毒の霧が湧く。吹雪の日には、伸ばした自分の手の先さえ見えなくなる。
そして、この荒野には、寒さよりも恐ろしいものが徘徊している。
異能者。
魔法士。
出会えば、どれも死に直結する。
外で生き延びている人々が口にしているのは、濾過しきれない海水と、瓦礫の下から掘り出した、いつのものともわからない保存食。それが尽きれば、鼠や虫を捕まえて食べる。
土に種を蒔いて、実りを待つ。そんな営みは、この世界からほとんど失われていた。
この幻想がなければ、とうにあの景色に絶望していただろう。
あるいはその前に、そのどれかに喰われていた。
──偽物だということは、知っていた。
けれど、それを誰が支えているのかを知ったのは、今日だ。
足元を這う霧に、目を落とす。
帳の内で漂っていた、あの光の粒と同じ気配をしていた。
毎朝この谷を満たし、橋を包み、森を覆っているこの白は、あの人の息だったのだ。
不思議なことに、驚きはなかった。
世界が、焼かれて消える。
そう聞かされても、胸のどこかで、やっぱりな、と思った自分がいた。
この世界に先などない。とうの昔に、そう決めていた。だから誰とも深く繋がらずに来た。いつか失うものなら、最初から持たなければいい。
ミコの予言は、ルイがずっと抱えてきた諦めを、ただなぞっただけのように聞こえた。
なのに。
──越えて、ほしい。
あの言葉だけが、どこにも収まらなかった。
越えることなど、考えたこともない。この世界の終わりは、行き止まりの壁ではあって、ただの事実だった。越えるとか、越えないとか、そういうものではなかった。
それを、あの人は、越えてほしいと言った。自分の視た未来を、自分で否定するように。
──あなたの、大切なものごと。
あのとき、真っ先に浮かんだ顔があった。
浮かんで、しまった。
考えるより先だった。選んだ覚えもなかった。
大切なもの、と聞いたその瞬間には、もうそこにあった。当たり前のような顔をして。ずっと前から、そこに居たような顔をして。
繋がらずに来たはずだった。
誰とも深く関わらない。失うものを、最初から持たない。そうやって、自分の中に何も置かずに来たはずだった。
それなのに。
置いた覚えのない場所に、それはあった。
打ち消そうとした。
消えなかった。
小川に架かる細い橋を渡る。
足元の遥か下、見えないほど深い谷の底から、水の音が響いていた。
シアは、きっと部屋で待っている。ルイの報告が終わるのを、退屈そうに。律灯が「暇つぶしに」と書いてくれた、本でも読みながら。
戻れば、いつものように質問攻めにしてくるに違いない。ルイは褒められた? 次の任務も任せてもらえた?
──どうしてそんなに、俺のことばかり気にするんだ。
以前、そう訊いたことがあった。シアは少し怒ったように頬を膨らませた。
「だって、ルイが褒められたら私も嬉しいもん!」
迷いのない声だった。
胸の奥が、妙にざわついたのを覚えている。
この子の目には、この世界がどんなふうに映っているのだろう、と。
シアの気持ちには、気づいている。
気づかないふりをしてきた。この世界で幸せになれるはずがない。この命がいつまで在るのかも、彼女がいつまで目の前にいてくれるのかも、わからないのだから。
それでもシアは、いつだって先を見ている。
絶望の淵に立ちながら、彼女だけは光を探すことをやめない。そして、その光で、いつもルイのことを照らしてくる。
早く、顔が見たかった。
自分の足が、いつもより速く前へ進んでいることに、ルイは気づいていない。
ふと、視線の先で、白い髪が揺れた。小径から外れた、杜の奥。藤色の花の区画の、石の並びのあいだ。
シアだ。
(......なぜ墓地に?)
疑問が浮かぶ。直接訊けばいい。ルイはいつの間にか小走りになっていた。
鎮魂の杜には、千を超える墓石が静かに並んでいる。
ひとつひとつに、かつて澄幽に生き、この地を守ろうとして散っていった者たちの名が刻まれていた。
今、手前で息をしている者の名なら、両手の指で数えられる。
珠桜。律灯。シア。そして、自分。
医師の葛城と、
それから──今日、そこにもうひとつ、ミコという名が加わった。
あとは、外に出たきりの二人がいるらしい。もう二年はここへ帰ってきていないと、藤崎がときおり心配そうに溜息を吐いているのを、ルイは知っている。
指で数えられる名と、千を超える名。
生きている者の場所よりも、この杜のほうが、ずっと広い。
随分と、減った。
減りすぎた。
風が吹き抜け、草がわずかに揺れる。それ以外に、音はない。
けれど、恐ろしさや不気味さは感じなかった。
花が咲き、霧が流れ、せせらぎが聞こえる。穏やかで、温かい。ここに根を張って生きた者たちの証が、確かにここにあるからだ。
十一歳の頃から、ルイはこの地にいる。
まだ多くの命がここにあった頃を知っている。
過去を何ひとつ持たずに来た子どもを、ここの人たちは黙って受け入れてくれた。
どこから来たのかを、誰も問わなかった。
箸の持ち方を直してくれた人がいた。字を教えてくれた人がいた。
吹雪の中で互いを見失わないための合図を。星骸の足音を聞き分ける耳を。引き金を引く瞬間の、息の止め方を。教えてくれた先輩たちがいた。
外から戻れば、門の前で誰かが待っていた。
おかえり、と言ってくれた。
ここが、帰る場所だった。
その人たちが、死んでいった。
目の前で。
隣で。
星骸の巨大な脚が振り下ろされて、さっきまで軽口を叩いていた先輩が、そこにいなくなった。凍った地面に残ったのは、赤黒い染みと、もう人の形をしていないものだけだった。
異能者に捕まった仲間の叫び声を、瓦礫の陰で夜が明けるまで聞いていたこともある。すぐには殺されなかった。殺さずにおくことを、そいつは楽しんでいた。
魔法の光が頬を掠めて、すぐ後ろにいた人の胸を貫いた。振り返ったとき、その人は自分の胸に空いた穴を、不思議そうに見下ろしていた。
何度も泣いた。
持ち帰った身体を、自分の手で焼いたことがある。骨を拾い、この杜の土を掘って、埋めた。
持ち帰れなかったこともある。空の手で戻った日、その人の家族に胸ぐらを掴まれた。なんで、と。どうしてお前だけが、と。
何も言い返せなかった。言い返す言葉など、どこにもなかった。
背中を流してくれた手も。おかえりの声も。
全部、この土の下にある。
冷たい土の下で眠る者たちの顔を、ルイはひとつ残らず覚えている。
覚えていたくて、覚えているのではない。
忘れられないのだ。
シアは、墓石のひとつの前にしゃがみ込んでいた。
傍らに、墓守の小屋から持ち出したらしい古い桶。濡らした布で、刻まれた名前の溝を、ひとつずつ丁寧に拭っている。
小さく、鼻歌が聞こえた。
白いスカートの裾が、湿った土の上に広がっていた。少しだけ、泥がついている。
本人は、気づいてもいない。
目の前の名前の溝だけを、一心に見つめている。
ルイの足音が、すぐ後ろまで来ても。
「シア」
呼びかけると、シアが顔を上げた。
「あっ、ルイ!」
ぱっと、表情がほどける。
本物の太陽を、ルイは見たことがない。けれど、太陽のような笑顔というのは、きっとこういうものを指すのだろう。終末の世界にはまるで似つかわしくない、無邪気な笑みだった。
「おかえり! 報告、終わった?」
「ああ。それより、どうしたんだ。こんなところで」
「あ、これ?」
シアは布を持ち上げて見せた。
「今日ね、お父さんの命日なの。たぶんだけど」
明るい声だった。今日の夕飯の話でもするような。
「前に話したことあるでしょ? お父さん、私を方舟に乗せるんだって出かけて、そのまま帰ってこなかったの。だから、お墓がないんだ〜って」
たぶん、というのは、そういうことなのだろう。
帰ってこなかったその日を、シアは父の死んだ日にしている。
にこにこと笑いながら、また墓石へ向き直る。
「だから代わりに、ここのみんなのお墓をお掃除しようかなって。そしたら、お父さんもどこかで喜んでくれるかもしれないでしょ?」
布を桶に浸し、絞る。その指先が、赤くなっていた。
「……水、冷たくないのか」
「ううん、全然!」
即答だった。
赤くかじかんだ指で、シアはまた名前の溝をなぞり始める。
その名前を、ルイは知っていた。
翠霞庵の湯で、背中を流してくれた人の名だった。
四年前、雪崩に呑まれて行方の知れなくなった友人を、探しに出たまま帰ってこなかった。
一週間後、吹雪がおさまるのを待って、掘り起こしに行った。
見つかったのは、友人の体が眠っていた斜面とは正反対の、一キロ以上も離れた場所だった。見当違いの場所を探して、そのまま帰れなくなったのだ。
向こうで会えたのかどうかは、知らない。
シアは彼を一切知らない。彼女がここへ来たのは、この名の主が眠ったあとだ。
知らない誰かの名前を、帰ってこなかった父の代わりに、丁寧に拭っている。
ルイは、それ以上何も言わなかった。
代わりに、少しだけ口の端を上げる。
「海の向こうから無理矢理連れてきたのに、すっかりここの人間だな」
「あえて人聞きの悪い言葉を選ぶのやめてよー!」
シアがぷくっと頬を膨らませた。
「ルイは私を助けてくれた恩人なんだから!」
「アハハ、悪い悪い」
二年前に。
魔法士たちの前哨基地が、この列島の西に築かれた。
狙いは、澄幽。
この地のどこかに隠れているはずの集落を探し出し、根こそぎ消し去るための足がかり。見つかれば、終わる。霧も結界も、あの国の魔法士が束になってかかってくれば、長くは持たない。見つかる前に、潰すしかなかった。
こちらの戦力数は、かつての十分の一にも満たなかった。それでも、戦える者はほとんど全員が武器を取った。
魔法士とぶつかる正面は、二人の主力が引き受けた。ルイとは部隊が違い、顔も知らない。作戦のために一度だけ戻り、終わればまた外へ出て、それきり二年。藤崎が溜息を吐く、あの二人だ。
ルイの任は、その二人が道を開けたあとに施設へ入り、囚われている者たちを連れ出すこと。
脅威と判断した相手には触れず、報告すること。
施設は、もう崩れ始めていた。
警報と、遠い爆音と、焦げた匂い。誰もが逃げ惑う廊下の最奥。実験室の真ん中に、少女がひとり座っていた。
その頭上に、見たこともない術式が広がりかけていた。天井を覆い尽くすほどの光の紋様が、未完成のまま宙に留まり、あたりの空気を白く凍らせている。
放たれれば、何が起きるのかわからない。いずれ、澄幽に向けられるかもしれない。
ルイは、銃口を向けた。
少女は、逃げもしなければ、命乞いもしなかった。
言われるまま手を上げて、ただこちらを見ていた。その手が、細かく震えていた。
怖いなら怖いと言え。そう言ったルイに、少女は自分の手を見下ろして、寒いのかな、と首を傾げた。
ここで何をされていたのかと訊けば、お仕事だよ、と笑った。痛いこともあるけど、ご飯はもらえるから、と。
報告して判断を待て、という命令を、初めて破った。
珠桜は、怒鳴らなかった。
正体は。能力は。敵との関係は。静かにひとつずつ訊かれて、全部に分かりませんと答えた。最後に出てきたのは、放っておけませんでした、の一言だけだった。
珠桜は長いこと黙り、額を押さえて天井を仰いだ。
──よりによって、そこが私に似る?
意味は、今でもよくわからない。ひどく困ったような、それでいて少しだけ笑いそうな顔だった。
──責任は私が取るよ。君じゃない。
──誰かを助けたいと思ったときくらい、大人を使いなさい。
痩せ細っていたシアが、少しずつ頬に色を戻していく姿を、ずっと目で追っていた。
回復した彼女が訓練場まで乗り込んできて、礼を言った日。その晩は、一睡もできなかった。
初めて、誰かを救うことができた。
死ぬそのときまで、忘れないだろう。
「……すっごく、いいお父さんだったんだ」
シアが、ぽつりと言った。
墓石を拭う手が、一瞬だけ止まる。
「帰ってこなかったのは、すごく悲しいけど」
そこで、言葉が切れた。
続くと思った間は、続かなかった。シアはすぐに顔を上げ、ぱっと笑う。
「でもね、お父さん、私には生きてほしいって、ずっと言ってたから。だから、お父さんの分も、ちゃんと幸せになるって決めてるの! 大丈夫!」
大丈夫、と言い切る声は、どこまでも明るかった。
悲しい、の先を、シアは一度も口にしなかった。
ルイは、何も言わなかった。
言えることが、何もない気がした。
シアの口から出る願いは、いつも、誰かの分だった。
お父さんの分。みんなの分。誰かを守れるように。
ただひとつ、ルイのことを除いては。
「それでね」
シアが立ち上がり、スカートの裾を払う。くるりとこちらへ向き直った。
「ルイは? 褒められた? 次の任務も任せてもらえた?」
思っていたとおりの質問だった。
思っていたとおりすぎて、すぐには言葉が出なかった。
今日あったことを、何ひとつ話せない。
「……まあ、な」
「ほんと!? じゃあ次も一緒だね!」
赤くかじかんだ指が、ルイの袖をきゅっと掴んだ。
「一人で行っちゃだめだよ。絶対ね!」
屈託のない声が、杜に響く。
──巻き込みたくない。
シアに対してそう思うのは、二度目だった。
一度目は、彼女が調査部隊に入りたいと言い出したとき。
被検体だった頃に散々鍛えられたせいで、シアは今でも魔法を使うことができる。けれど、脅威がそこかしこに蠢く外の世界で、戦いを知らない彼女を戦わせるわけにはいかなかった。
魔法があれば、自分がしてもらったように、誰かを守れるかもしれない。どれほど真っ直ぐな目でそう言われても、その手を取らせたくはなかった。
結局、押し負けて折れたのだけれど。
そして、今。
ミコの言葉が、どんな形で現実になるのかはわからない。
自分に訪れるという、試練。そのとき、シアが隣にいたら。
──大人を使いなさい。
いつかの声が、耳の奥で掠める。
ルイは、それを聞かなかったことにした。
袖を掴む指は、まだ離れない。
まだ絶望に染まっていない彼女を、守りたい。
その意思だけが、胸の内ではっきりと形を持っていた。