END OF HOPE:21xx - Last Call   作:久遠 -kuon-

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第三話 希望の灯火を消さぬように - 1

 寧静亭(ねいせいてい)を出ると、谷は朝の光に満ちていた。

 

 霧が、谷底からゆっくりと湧き上がってくる。白く、柔らかく、木々の根元を撫でるように這い、苔むした石段を濡らしていく。高い梢の隙間からは金色の光が幾筋も差し込み、霧の中でほどけて、淡い光の帯になっていた。

 葉の一枚一枚に、朝露が留まっている。光を受けて、小さな星のように瞬いていた。

 

 小径の両側には、鎮魂の杜(もり)が広がっている。

 区画ごとに植えられた花が、今朝も静かに咲いていた。淡い藤色の一群。その先に、白い小花の群れ。風が渡るたび、色の波がゆるやかに寄せては返す。

 せせらぎの音が、どこからともなく絶えず聞こえていた。

 

 美しい場所だと思う。

 何度見ても、そう思う。

 

 ──だが、これがすべて偽物であることを、ルイは知っている。

 初めて澄幽の外へ出た日に、知った。

 

 

 初めて月風門をくぐったのは、十五の冬だった。

 ──もっとも、外には冬しかないのだが。

 

 門を一歩出た瞬間、肺が凍りついた。吸い込んだ空気が、喉の奥で刃物に変わる。背後の門の内側では、まだ花の匂いがしていたのに。

 一年のほとんどが、氷点下。準氷河期と呼ばれる寒さが、もう何十年も、この星を離さずにいる。

 

 見上げた空に、青はなかった。

 分厚い灰色の雲が、地平の端から端まで蓋をしている。その向こうにあるはずの陽の光は、ほとんど地上まで届かない。昼でも、夕暮れのように薄暗かった。

 戦争が、隕石が、火山が。そして空から来たものたちが、少しずつこの星から陽を奪っていった。

 

 足元には、灰と氷。

 かつて町だったものの骨組みが、白く凍りついたまま傾いている。木も、花も、草一本見当たらない。

 岩陰に張りついた色の抜けた苔は、汚染と寒さに耐えるためにねじ曲がった変異種なのだと、先輩が教えてくれた。動くものといえば、瓦礫の隙間を走る鼠くらいのものだった。この星の食物連鎖は、とうに途切れている。

 

 土も、水も、汚れていた。

 核の煤と酸の雨が、何十年もかけて染み込ませたものだ。放射線は、浴びてすぐに死ぬほどではない。ただ、長く晒されれば、身体の内側から少しずつ蝕んでいく。

 それが、この世界の毒の在り方だった。

 海沿いでは、変質した海から有毒の霧が湧く。吹雪の日には、伸ばした自分の手の先さえ見えなくなる。

 

 そして、この荒野には、寒さよりも恐ろしいものが徘徊している。

 

 星骸(せいがい)。

 異能者。

 魔法士。

 

 出会えば、どれも死に直結する。

 

 外で生き延びている人々が口にしているのは、濾過しきれない海水と、瓦礫の下から掘り出した、いつのものともわからない保存食。それが尽きれば、鼠や虫を捕まえて食べる。

 土に種を蒔いて、実りを待つ。そんな営みは、この世界からほとんど失われていた。

 

 この幻想がなければ、とうにあの景色に絶望していただろう。

 あるいはその前に、そのどれかに喰われていた。

 

 

 ──偽物だということは、知っていた。

 けれど、それを誰が支えているのかを知ったのは、今日だ。

 

 足元を這う霧に、目を落とす。

 帳の内で漂っていた、あの光の粒と同じ気配をしていた。

 毎朝この谷を満たし、橋を包み、森を覆っているこの白は、あの人の息だったのだ。

 

 

 不思議なことに、驚きはなかった。

 

 世界が、焼かれて消える。

 そう聞かされても、胸のどこかで、やっぱりな、と思った自分がいた。

 この世界に先などない。とうの昔に、そう決めていた。だから誰とも深く繋がらずに来た。いつか失うものなら、最初から持たなければいい。

 ミコの予言は、ルイがずっと抱えてきた諦めを、ただなぞっただけのように聞こえた。

 

 なのに。

 

 ──越えて、ほしい。

 

 あの言葉だけが、どこにも収まらなかった。

 越えることなど、考えたこともない。この世界の終わりは、行き止まりの壁ではあって、ただの事実だった。越えるとか、越えないとか、そういうものではなかった。

 それを、あの人は、越えてほしいと言った。自分の視た未来を、自分で否定するように。

 

 ──あなたの、大切なものごと。

 

 あのとき、真っ先に浮かんだ顔があった。

 

 浮かんで、しまった。

 

 考えるより先だった。選んだ覚えもなかった。

 大切なもの、と聞いたその瞬間には、もうそこにあった。当たり前のような顔をして。ずっと前から、そこに居たような顔をして。

 

 繋がらずに来たはずだった。

 誰とも深く関わらない。失うものを、最初から持たない。そうやって、自分の中に何も置かずに来たはずだった。

 

 それなのに。

 置いた覚えのない場所に、それはあった。

 

 打ち消そうとした。

 消えなかった。

 

 

 小川に架かる細い橋を渡る。

 足元の遥か下、見えないほど深い谷の底から、水の音が響いていた。

 

 シアは、きっと部屋で待っている。ルイの報告が終わるのを、退屈そうに。律灯が「暇つぶしに」と書いてくれた、本でも読みながら。

 戻れば、いつものように質問攻めにしてくるに違いない。ルイは褒められた? 次の任務も任せてもらえた?

 

 ──どうしてそんなに、俺のことばかり気にするんだ。

 以前、そう訊いたことがあった。シアは少し怒ったように頬を膨らませた。

 

「だって、ルイが褒められたら私も嬉しいもん!」

 

 迷いのない声だった。

 胸の奥が、妙にざわついたのを覚えている。

 

 この子の目には、この世界がどんなふうに映っているのだろう、と。

 

 シアの気持ちには、気づいている。

 気づかないふりをしてきた。この世界で幸せになれるはずがない。この命がいつまで在るのかも、彼女がいつまで目の前にいてくれるのかも、わからないのだから。

 

 それでもシアは、いつだって先を見ている。

 絶望の淵に立ちながら、彼女だけは光を探すことをやめない。そして、その光で、いつもルイのことを照らしてくる。

 

 早く、顔が見たかった。

 

 自分の足が、いつもより速く前へ進んでいることに、ルイは気づいていない。

 

 ふと、視線の先で、白い髪が揺れた。小径から外れた、杜の奥。藤色の花の区画の、石の並びのあいだ。

 

 シアだ。

 

(......なぜ墓地に?)

 

 疑問が浮かぶ。直接訊けばいい。ルイはいつの間にか小走りになっていた。

 

 

 鎮魂の杜には、千を超える墓石が静かに並んでいる。

 ひとつひとつに、かつて澄幽に生き、この地を守ろうとして散っていった者たちの名が刻まれていた。

 

 今、手前で息をしている者の名なら、両手の指で数えられる。

 珠桜。律灯。シア。そして、自分。

 医師の葛城と、翠霞庵(すいかあん)の女将の藤崎、試刃院に籠もりきりな鍛治士のシン。

 それから──今日、そこにもうひとつ、ミコという名が加わった。

 

 あとは、外に出たきりの二人がいるらしい。もう二年はここへ帰ってきていないと、藤崎がときおり心配そうに溜息を吐いているのを、ルイは知っている。

 

 指で数えられる名と、千を超える名。

 生きている者の場所よりも、この杜のほうが、ずっと広い。

 

 随分と、減った。

 減りすぎた。

 

 風が吹き抜け、草がわずかに揺れる。それ以外に、音はない。

 けれど、恐ろしさや不気味さは感じなかった。

 花が咲き、霧が流れ、せせらぎが聞こえる。穏やかで、温かい。ここに根を張って生きた者たちの証が、確かにここにあるからだ。

 

 十一歳の頃から、ルイはこの地にいる。

 まだ多くの命がここにあった頃を知っている。

 

 過去を何ひとつ持たずに来た子どもを、ここの人たちは黙って受け入れてくれた。

 どこから来たのかを、誰も問わなかった。

 

 箸の持ち方を直してくれた人がいた。字を教えてくれた人がいた。

 翠霞庵(すいかあん)の湯に放り込まれて、背中を流し合った。のぼせて伸びたルイを、大笑いしながら担いで運んでくれた人がいた。

 吹雪の中で互いを見失わないための合図を。星骸の足音を聞き分ける耳を。引き金を引く瞬間の、息の止め方を。教えてくれた先輩たちがいた。

 

 外から戻れば、門の前で誰かが待っていた。

 おかえり、と言ってくれた。

 

 ここが、帰る場所だった。

 

 その人たちが、死んでいった。

 

 目の前で。

 隣で。

 

 星骸の巨大な脚が振り下ろされて、さっきまで軽口を叩いていた先輩が、そこにいなくなった。凍った地面に残ったのは、赤黒い染みと、もう人の形をしていないものだけだった。

 異能者に捕まった仲間の叫び声を、瓦礫の陰で夜が明けるまで聞いていたこともある。すぐには殺されなかった。殺さずにおくことを、そいつは楽しんでいた。

 魔法の光が頬を掠めて、すぐ後ろにいた人の胸を貫いた。振り返ったとき、その人は自分の胸に空いた穴を、不思議そうに見下ろしていた。

 

 何度も泣いた。

 持ち帰った身体を、自分の手で焼いたことがある。骨を拾い、この杜の土を掘って、埋めた。

 持ち帰れなかったこともある。空の手で戻った日、その人の家族に胸ぐらを掴まれた。なんで、と。どうしてお前だけが、と。

 何も言い返せなかった。言い返す言葉など、どこにもなかった。

 

 背中を流してくれた手も。おかえりの声も。

 全部、この土の下にある。

 

 冷たい土の下で眠る者たちの顔を、ルイはひとつ残らず覚えている。

 覚えていたくて、覚えているのではない。

 忘れられないのだ。

 

 

 シアは、墓石のひとつの前にしゃがみ込んでいた。

 傍らに、墓守の小屋から持ち出したらしい古い桶。濡らした布で、刻まれた名前の溝を、ひとつずつ丁寧に拭っている。

 小さく、鼻歌が聞こえた。

 

 白いスカートの裾が、湿った土の上に広がっていた。少しだけ、泥がついている。

 本人は、気づいてもいない。

 目の前の名前の溝だけを、一心に見つめている。

 ルイの足音が、すぐ後ろまで来ても。

 

「シア」

 

 呼びかけると、シアが顔を上げた。

 

「あっ、ルイ!」

 

 ぱっと、表情がほどける。

 本物の太陽を、ルイは見たことがない。けれど、太陽のような笑顔というのは、きっとこういうものを指すのだろう。終末の世界にはまるで似つかわしくない、無邪気な笑みだった。

 

「おかえり! 報告、終わった?」

「ああ。それより、どうしたんだ。こんなところで」

「あ、これ?」

 

 シアは布を持ち上げて見せた。

 

「今日ね、お父さんの命日なの。たぶんだけど」

 

 明るい声だった。今日の夕飯の話でもするような。

 

「前に話したことあるでしょ? お父さん、私を方舟に乗せるんだって出かけて、そのまま帰ってこなかったの。だから、お墓がないんだ〜って」

 

 たぶん、というのは、そういうことなのだろう。

 帰ってこなかったその日を、シアは父の死んだ日にしている。

 

 にこにこと笑いながら、また墓石へ向き直る。

 

「だから代わりに、ここのみんなのお墓をお掃除しようかなって。そしたら、お父さんもどこかで喜んでくれるかもしれないでしょ?」

 

 布を桶に浸し、絞る。その指先が、赤くなっていた。

 

「……水、冷たくないのか」

「ううん、全然!」

 

 即答だった。

 赤くかじかんだ指で、シアはまた名前の溝をなぞり始める。

 

 その名前を、ルイは知っていた。

 翠霞庵の湯で、背中を流してくれた人の名だった。

 

 四年前、雪崩に呑まれて行方の知れなくなった友人を、探しに出たまま帰ってこなかった。

 一週間後、吹雪がおさまるのを待って、掘り起こしに行った。

 見つかったのは、友人の体が眠っていた斜面とは正反対の、一キロ以上も離れた場所だった。見当違いの場所を探して、そのまま帰れなくなったのだ。

 向こうで会えたのかどうかは、知らない。

 

 シアは彼を一切知らない。彼女がここへ来たのは、この名の主が眠ったあとだ。

 知らない誰かの名前を、帰ってこなかった父の代わりに、丁寧に拭っている。

 

 ルイは、それ以上何も言わなかった。

 代わりに、少しだけ口の端を上げる。

 

「海の向こうから無理矢理連れてきたのに、すっかりここの人間だな」

「あえて人聞きの悪い言葉を選ぶのやめてよー!」

 

 シアがぷくっと頬を膨らませた。

 

「ルイは私を助けてくれた恩人なんだから!」

「アハハ、悪い悪い」

 

 

 二年前に。

 魔法士たちの前哨基地が、この列島の西に築かれた。

 

 狙いは、澄幽。

 この地のどこかに隠れているはずの集落を探し出し、根こそぎ消し去るための足がかり。見つかれば、終わる。霧も結界も、あの国の魔法士が束になってかかってくれば、長くは持たない。見つかる前に、潰すしかなかった。

 

 こちらの戦力数は、かつての十分の一にも満たなかった。それでも、戦える者はほとんど全員が武器を取った。

 魔法士とぶつかる正面は、二人の主力が引き受けた。ルイとは部隊が違い、顔も知らない。作戦のために一度だけ戻り、終わればまた外へ出て、それきり二年。藤崎が溜息を吐く、あの二人だ。

 

 ルイの任は、その二人が道を開けたあとに施設へ入り、囚われている者たちを連れ出すこと。

 脅威と判断した相手には触れず、報告すること。

 

 施設は、もう崩れ始めていた。

 警報と、遠い爆音と、焦げた匂い。誰もが逃げ惑う廊下の最奥。実験室の真ん中に、少女がひとり座っていた。

 その頭上に、見たこともない術式が広がりかけていた。天井を覆い尽くすほどの光の紋様が、未完成のまま宙に留まり、あたりの空気を白く凍らせている。

 放たれれば、何が起きるのかわからない。いずれ、澄幽に向けられるかもしれない。

 ルイは、銃口を向けた。

 

 少女は、逃げもしなければ、命乞いもしなかった。

 言われるまま手を上げて、ただこちらを見ていた。その手が、細かく震えていた。

 怖いなら怖いと言え。そう言ったルイに、少女は自分の手を見下ろして、寒いのかな、と首を傾げた。

 ここで何をされていたのかと訊けば、お仕事だよ、と笑った。痛いこともあるけど、ご飯はもらえるから、と。

 

 報告して判断を待て、という命令を、初めて破った。

 

 珠桜は、怒鳴らなかった。

 正体は。能力は。敵との関係は。静かにひとつずつ訊かれて、全部に分かりませんと答えた。最後に出てきたのは、放っておけませんでした、の一言だけだった。

 珠桜は長いこと黙り、額を押さえて天井を仰いだ。

 

 ──よりによって、そこが私に似る?

 

 意味は、今でもよくわからない。ひどく困ったような、それでいて少しだけ笑いそうな顔だった。

 

 ──責任は私が取るよ。君じゃない。

 ──誰かを助けたいと思ったときくらい、大人を使いなさい。

 

 痩せ細っていたシアが、少しずつ頬に色を戻していく姿を、ずっと目で追っていた。

 回復した彼女が訓練場まで乗り込んできて、礼を言った日。その晩は、一睡もできなかった。

 初めて、誰かを救うことができた。

 死ぬそのときまで、忘れないだろう。

 

 

「……すっごく、いいお父さんだったんだ」

 

 シアが、ぽつりと言った。

 墓石を拭う手が、一瞬だけ止まる。

 

「帰ってこなかったのは、すごく悲しいけど」

 

 そこで、言葉が切れた。

 続くと思った間は、続かなかった。シアはすぐに顔を上げ、ぱっと笑う。

 

「でもね、お父さん、私には生きてほしいって、ずっと言ってたから。だから、お父さんの分も、ちゃんと幸せになるって決めてるの! 大丈夫!」

 

 大丈夫、と言い切る声は、どこまでも明るかった。

 悲しい、の先を、シアは一度も口にしなかった。

 

 ルイは、何も言わなかった。

 言えることが、何もない気がした。

 

 シアの口から出る願いは、いつも、誰かの分だった。

 お父さんの分。みんなの分。誰かを守れるように。

 ただひとつ、ルイのことを除いては。

 

「それでね」

 

 シアが立ち上がり、スカートの裾を払う。くるりとこちらへ向き直った。

 

「ルイは? 褒められた? 次の任務も任せてもらえた?」

 

 思っていたとおりの質問だった。

 思っていたとおりすぎて、すぐには言葉が出なかった。

 今日あったことを、何ひとつ話せない。

 

「……まあ、な」

「ほんと!? じゃあ次も一緒だね!」

 

 赤くかじかんだ指が、ルイの袖をきゅっと掴んだ。

 

「一人で行っちゃだめだよ。絶対ね!」

 

 屈託のない声が、杜に響く。

 

 

 ──巻き込みたくない。

 

 シアに対してそう思うのは、二度目だった。

 

 一度目は、彼女が調査部隊に入りたいと言い出したとき。

 被検体だった頃に散々鍛えられたせいで、シアは今でも魔法を使うことができる。けれど、脅威がそこかしこに蠢く外の世界で、戦いを知らない彼女を戦わせるわけにはいかなかった。

 魔法があれば、自分がしてもらったように、誰かを守れるかもしれない。どれほど真っ直ぐな目でそう言われても、その手を取らせたくはなかった。

 

 結局、押し負けて折れたのだけれど。

 

 

 そして、今。

 ミコの言葉が、どんな形で現実になるのかはわからない。

 自分に訪れるという、試練。そのとき、シアが隣にいたら。

 

 

 ──大人を使いなさい。

 

 

 いつかの声が、耳の奥で掠める。

 ルイは、それを聞かなかったことにした。

 

 袖を掴む指は、まだ離れない。

 

 まだ絶望に染まっていない彼女を、守りたい。

 

 その意思だけが、胸の内ではっきりと形を持っていた。

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