END OF HOPE:21xx - Last Call 作:久遠 -kuon-
先ほどまで、確かに星骸と戦っていた。
戦いの余熱が、まだ皮膚にこびりついている。指先には、外殻を砕いたときの余韻。心臓は速く脈打ち、血が燃えるように体を巡っている。
戦っていたことは夢でも幻でもない。あれは、確かに現実だった。
──そのはずなのに。
『見、ツ、ケ、タ。』
あの声が耳の奥にまで染み込んだ次の瞬間、世界から色が抜け落ちた。
──なんだ、これは。
ただでさえ、色彩を失った灰色の星だ。それが、今は完全に黒に塗りつぶされて──いや、"黒"と呼ぶのも違う気がした。
冷たいとも、温かいとも感じない。鮮やかでもなければ、濁ってもいない。明るくもない。暗くもない。色相も、彩度も、明度も、どこにもなかった。
色が失われたのではない。色という概念そのものが、この場所では一度も生まれたことがない。そんなふうに思えてならなかった。
目は、確かに何かを捉えている。なのに、見ているという実感がまるでない。
掴めない。何ひとつ。無を、剥き出しのまま直視させられているような感覚だけがある。
……息を、吸う。
吸った気が、しなかった。
喉が詰まる。息ができない──いや、それすらも確かではない。この空間で、自分は一度でも呼吸をしたか。していないなら、とっくに苦しくなっているはずだ。苦しくはない。苦しくはないのに、息をしたという実感だけが、どこにも存在しない。
もう一度、吸う。胸は膨らんだか。肺に何か入ったか。わからない。吐いたのかもわからない。吸ったのか吐いたのかもわからないまま、喉だけが忙しく動いている。
落ち着け。
落ち着け、と思った端から、心臓が勝手に速くなっていく。
──手順を踏め、ルイ。
わからないものに出くわしたときは、まず知っているものと照らし合わせろ。先輩に、そう叩き込まれたはずだろう。
異能か。魔法か。
視覚を奪う類の力なら、見たことがある。感覚を鈍らせるものも知っている。音を殺す異能も、一度だけ経験した。
違う。どれでもない。奪われただけなら、こんなふうに"見えている"と錯覚するはずがない。
記憶を、端から引きずり出していく。
星骸の吐く霧。魔法士の作る閉鎖空間。異能者の幻覚。報告書で読んだ事例。先輩たちの土産話。
ひとつも当てはまらない。似たものすら、ない。
──ない。
そこで、ルイは考えるのをやめた。無理やり、思考の紐を断ち切った。
知らないものだ。それでいい、と自分に言い聞かせる。
異能の数は、異能者の数だけある。初めて見る力に出くわすことなど、外では珍しいことでもない。
正体の解明は後回しにして、今、できることを数えろ。それができなければ、ここで死ぬだけだ。
"死ぬだけ"。
──妙に、その言葉だけが喉の奥に引っかかって、抜けなかった。
ルイは、足を前に出した。
出なかった。
動かせないのではない。動かしたはずなのに、動いたという結果だけが、無い。
同時に、気づいてしまう。
地面の感触が、どこにもない。膝にかかる重みもない。ブーツが何かの面を踏んでいる感触もない。落ちてもいないのに、立ってもいない。宙にすら浮いていない。ただ、"ある"としか言いようのない状態で、そこに在った。
──武器。
考えるより先に、手が動いた。五年で骨の髄まで染み付いた順番だ。
右手。ダガーの柄。確かに、ある。硬いはずの感触は、しかし、どこにもない。握っているという確信だけが、根拠もなく宙に浮いている。
刃を返し、手袋を外した左の掌へ当てた。
軽く、引く。外では何度もやってきたことだ。幻覚を疑ったときは、痛みで現実を確かめろ。先輩はそう言っていた。痛ければ、そこは現実だ、と。
痛くない。
掌を見る。傷がない。刃を見る。血がない。
もう一度、強く引いた。痛くない。皮膚が裂ける感触すら、ない。
やめろ、と頭の奥で誰かが言った。それ以上確かめるな。確かめた結果を、お前は受け取れない。
──呼吸。
次の手順に移る。数を数えろ。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く。それで心拍は落ちる。何百回もやってきた、身体に刻まれた作法だ。
一。二。三。
三。
三。
進まない。数字が、次に行ってくれない。口の中で同じ音だけが積み重なって、どれが何番目の"三"だったのかすら、わからなくなる。三を数えたのはたった今か。さっきか。それとも、ずっと前からこの"三"のままだったのか。
──退路。
来た方向を思い出そうとした。星骸の残骸。緑の結晶。しゃがみ込んだ雪。
どっちだ。
方向の話ではなかった。思い出そうとした景色そのものが、輪郭を結ばない。像が、そこにあるはずの場所で崩れていく。
澄幽を、思い浮かべる。霧。花。せせらぎ。
浮かばない。名前だけが、意味を失った記号のように、ぽつんと残っている。
やめろ。
ルイは、記憶の中で最も硬い、最も揺るがないはずのものに手を伸ばした。
杜の下に眠る者たちの顔。ひとつ残らず覚えていると、そう決めていた顔。背中を流してくれた人。字を教えてくれた人。軽口を叩いていた先輩。
輪郭が、出てこない。
「──っ」
声にならない声が漏れた。覚えていると決めたのに。忘れないために、痛みごと抱えてここまで来たのに。ここは、それを一枚ずつ剥がしていく。まるで、皮膚を裏側から爪で削るように。
シア、と思った。
白い髪。赤くかじかんだ指。笑った顔。
それは、まだあった。あった、と確かめた次の瞬間には、もう輪郭が溶けるように薄れ始めている。
やめろ。
やめろ。やめろ。やめろ。それだけは、それだけは奪わせない。
手を、見る。自分の手だ。知っている形。何百回も引き金を引いてきた指。
次の瞬きで、それがどこにあるのか、わからなくなる。
驚いて喉を触ろうとして──その手は、いつの間にか自分のもう片方の手を、爪が食い込むほど強く握っていた。
「……は?」
どういうことだと、考えるよりも前に。
今度は、両手が、自分の首にかかっている。爪が皮膚に食い込んで──
「……っ!!」
違う。今は、膝をついて、手を力なく地面──あるはずのない地面──に垂らしている。
立った覚えはない。膝をついた覚えもない。
いつからここにいる。さっき星骸を撃ったのは、何分前だ。一分か。一時間か。一日、経っていたとして、自分にそれを否定できる材料が、どこにある。
できない。
何かが、削れている。
わかる。わかってしまう。ゆっくりと、しかし確実に、意識の奥の何かがすり減っていく感覚だけがある。
自分は、まだ自分か。
五年、生きてきた。星骸に潰されかけて、魔法に焼かれかけて、それでも帰ってきた。どうすれば生き延びられるか、身体の芯まで覚えている。そのはずだった。
その全部が、ここでは何の役にも立たない。灰にすらならず、ただ意味を失って転がっている。
呆気ない。そう、場違いなほど冷めた部分が呟いた。
──違う。まだだ。帰らないといけない。
逃げろ、と脳が鳴っていた。
──どこへ。
ここに、出口はあるのか。そもそも、内と外という区分そのものが、ここに存在するのか。
──いっそ、殺してくれ。
そう願った自分に、遅れて怖気が走った。ついさっき、帰らないといけないと歯を食いしばったばかりではないか。その舌の根も乾かぬうちに、楽になりたいと投げ出そうとした自分がいる。
矛盾している。矛盾しているのに、その"楽になりたい"という囁きは、思っていた以上に甘く、粘つくように胸の底に居座って動かない。
──違う。そんなはずがない。まだ、終われない。
打ち消そうとする声より先に、諦めのほうが、静かに、するりと滑り込んでくる。
死ねば終わる。そう考えられるうちは、まだ"終わり"という概念が保証されているということだ。
ここに、それがある保証は、どこにもない。
空気が、揺れた。
何かが、いる。
気配が、確かに触れた。どこから、まではわからない。前か。後ろか。上か。下か。
いや、そもそも方向という概念自体が、この場所に許されているのか。
わからない。
ただひとつだけ、疑いようもなくわかることがあった。
見られている。
影はない。視線だけが、皮膚の内側にまで突き刺さる。
形もない。なのに、そこにあると脳が強制的に告げてくる。
名を持たない何かが、ルイという存在を、余さず知覚していた。
そして、それは──ずっと前から、そこにいた気がした。
いつからだ。この空間に落ちた瞬間からか。それとも、雪の上で結晶を拾ったときからか。もっと前。門を出たときから。もっと、もっとずっと前から。
「──誰だ!!」
叫んだ。はずだった。
歯の根が、合わない。奥歯を噛み締めようとして、その感触もどこにもないことに気づく。震えているのかどうかすら、確かめる術がない。
怖い。
星骸の拳が振り下ろされたときも、魔法の光が頬を掠めたときも、こんなふうにはならなかった。
これは、死ぬかもしれないことへ対する、紛れもない恐怖だ。
──いつからだ。
死を恐ろしいと思ったことなど、今まで一度もなかったはずだ。星骸に潰されかけても、魔法に焼かれかけても、心のどこかで、それならそれでいいと思っていた自分がいた。
なのに今は、違う。帰りたいと、生きたいと、喉の奥でずっと誰かが叫んでいる。
その"生きたい"が、こんなにも重く、こんなにも恐ろしいものだったなんて、知らなかった。
死ぬより先に、自分が自分でなくなることが、これほど怖いと感じるのは──帰りたい場所が、まだ自分の中に残っているからだ。
なんで、今更。
侵食されている。世界ごと。自分ごと。輪郭という輪郭が、内側から溶かされていく。
──その時。
無から、金の糸が滲み出た。
裂け目が、生まれる。
──違う。今、生まれたのではない。裂け目は、最初からそこにあった。
(……いや、いや。そんなはずが)
急速に、体が芯から冷えていくのを感じた。裂け目が最初からそこにあったというのなら、今まで抱いていた"無"への恐怖はなんだったのだ。偽物なわけがない。先ほどまで、そこには確かに何もなかったはずなのに。
知覚を、根こそぎ捻じ曲げられた。最初からあったのだと、脳そのものに錯覚させられている。
なら、どこかに、それをやった者がいる。その異能者が、今この自分を見ているのか。それとも、敵は一人ではないのか。何も、わからなかった。
裂け目から、何かが這い出した。
一本。細い金の糸が、裂け目の縁を撫でるようにして伸びてくる。続いて二本。三本。数えるのをやめた。数えている間に、百を超えていた。
糸は、宙で絡み合う。
捻れ、もつれ、結び目を作り、ほどけ、また結び直す。無数の指が、見えない機で織り上げているかのようだった。
音はない。これだけのものが蠢いているのに、糸同士が擦れる音ひとつ聞こえない。それが余計に、これは生き物ではないのだと、皮膚の下にまで告げてきた。
束が、厚みを持つ。輪郭が立ち上がる。肩の線。首の細さ。ゆるやかに落ちる髪の一筋一筋まで、糸が順に埋めていく。
編み目のひとつひとつが、ちらちらと光を返した。色のないこの場所で、それだけが、確かに金色だった。
最後に、顔が残った。
そこだけ、織られるのが遅い。まるで、どの貌にするか迷っているかのように。
やがて織り上げられたのは──
女の──女神の貌だった。
整っている。
目も、鼻も、唇も、ひとつひとつが完璧な位置に収まっていた。人がこうあれと願った形を、そのまま糸でなぞったような顔。
なのに、少しも美しく見えない。
その顔は、微細に震えながら、絶えず編み直されているからだ。瞬きをするたび、別の誰かになる。目の形が、頬の線が、ついさっき見たものと違っている。見たはずの形が、見たままでいてくれない。認識するより先に、変わってしまう。
美しいとは、思えなかった。
不気味だという思いが、先に立つ。
──なのに。
削れかけた意識の底で、何かが跳ねた。
"知っている"。
思考より先に、身体が言った。喉の奥が絞られ、指先が勝手に動く。逃げるためではない。伸ばそうとして、途中で止まった。
この貌を、自分は知っている。
いつ。どこで。誰の。
辿ろうとした瞬間、手応えが消えた。湯気を掴もうとするように。名前を呼びかけて、その名を忘れるように。
残ったのは、胸の底の、ひどく懐かしい痛みだけだった。
なんだ、今のは。
そして、次に瞬きをした、その刹那。
距離が、消えた。
女神は、眼前にいた。