END OF HOPE:21xx - Last Call   作:久遠 -kuon-

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第四話 優しさは、灼けた金に溶けて - 2

 距離という概念が、崩壊していた。

 

 目の前に"いたはず"の女神は、"瞬いた瞬間"にはもう触れていた。

 詰められたのではない。"詰められた"という認識ごと、最初から存在していなかったかのように──境界も、過程も、間も、何もかもが抜け落ちて、ただ結果だけがそこにあった。

 

 金糸で紡がれた指先が、ルイに触れる。

 

「──あ゛あッ!?」

 

 久しく感じていなかったような、"確かな感触があるということ"を、喜ぶことはできなかった。

 

 

 焼けた。

 

 熱が走ったのではない。

 皮膚が"弾けた"。

 

 焦げる。溶ける。肉の繊維が裂け、血管が膨張し、内部から爆ぜる。骨が焼かれる。神経が炙られる。

 

 ジュウウウ……

 

 煙が上がる。焦げた肉の匂いが、鼻の奥にまで焼き付いて離れない。

 

 服が、一瞬で炭になった。皮膚が、灰に変わった。

 

 ──熱い。

 

 ……あつい。

 

 熱い。

 

 

(……熱い、熱い熱い熱゛い゛熱゛い゛ッ──!?!?!?!?)

 

 

 痛みを感じなかった。痛みを知覚するための神経が、もうない。感覚が、真の意味で焼き切れている。

 ただ、"焼かれている"という事実、情報だけが頭蓋を突き破って流れ込んできて、「熱い」という錯覚だけが深く、鋭く、脳髄に刻み込まれる。

 考えられない。思考が、端から断ち切られていく。脳という器官そのものが、機能を放棄していく。

 

 金が、ルイの全てを焼いていく。

 本能的にその手を引き剥がそうとした。だが、腕は動かない。先ほどまでと、同じだ。この空間の性質。動かそうとしても、その意志が結果に結びつかない。

 

 まだ、金糸の指は蝋燭の炎のように溶けながら、ルイの手を侵食し続けている。

 

 このままではだめだ、

 早くこれをどかさないと、

 

(──ッ、死……)

 

 

『会いたかった』

 

 耳ではなく、脳に直接響く声。

 骨の髄にまで染み込むような、否応なしに魂そのものを揺さぶる、低く、どこまでも落ち着いた男の声。

 

『ずっと、会いたかった──ルイ』

 

 

 その言葉と共に、焼ける苦しみが、唐突に消えた。

 金色の女神に掴まれていた左腕──それが、自分の腕じゃない。何か、まったく違うものへと変質していた。

 握ることも、動かすこともできない。空間の影響だけじゃない。先ほどまでとは違う。握ろうとすること、動かそうとすること、その意志そのものすら、もう成立しなかった。

 

 叫ばないように。目の前の敵に屈しないように。必死に歯を食いしばる。口の中いっぱいに血の味が広がる。

 震える右手で、どうにか銃を構え──

 

『……そんなものは、君には不要だろう』

 

 その瞬間、視界の端で金色の煌めきが舞う。

 刹那、銃ごと手が貫かれていた。

 

「あッ……!!!!」

 

 痛みよりも速く、別の金色が踊る。

 次々と飛翔する刃。"逃げる"という選択肢すら与えられないまま、鋭利な金糸がルイの肉を裂いていく。

 

 傷は、深すぎない。致命傷にはならない。『殺す気はない』と言われているようだった。

 だが、それが余計に恐ろしかった。ただ、何かを罰するように、機械的に、痛みだけが与えられ続ける。

 

「──ぁぁぁぁああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッ!!!!!!!!!!!!」

 

 喉の奥から、自分のものとは思えない声が飛び出した。

 

 続く灼熱。次々と襲う激痛。本当に、脳が焼き切れる。呼吸が乱れる。視界が赤に染まる。

 膝が崩れ、ルイは地に伏した。だが、それすら許されない。倒れ込んだことで、金の刃がさらに深々と肉を抉る。

 

 息が詰まる。

 肺が動かない。

 四肢が思い通りにならない。

 

 

 意識が落ちかけたその時、視界の端。男の足が映った。ゆっくりと、近づいてくる。

 

(……来るな、来るな来るな来るな)

 

 頼むから、殺さないで。

 ルイの消えかけた思考が、微かに祈る。当然、男はルイへ近付くのをやめない。

 

 だが、覚悟していた一撃は、いつまで待っても振り下ろされなかった。

 

 代わりに、男はルイの目の前まで来て──静かに、膝を折った。

 

 金の輝きを宿したその手が静かに伸びて、ざらりとしたグローブごしにルイの頬に触れた。

 

 

『……ルイ。私は、必ず迎えに行く。必ずだ』

 

 皮膚が焼ける。細胞が崩れる。

 

 死ぬ。

 

 もうダメだ。俺は、ここで死ぬ。

 何もできなかった。ミコ様が言っていた。これが試練?

 

 あまりにも、あっけなさすぎる。

 何も抵抗できなかった。何もできなかった。

 

 これで、よかったのか?

 シアは、守れたのか?

 

 わからない。

 痛い。

 熱い。

 怖い。

 

 死ぬ。

 

 死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。

 

 嫌だ。

 

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

 

 悔しい。

 死にたくない。

 

 まだ、やりたいことがいくつもある。

 

 助けて。

 

 まだ……まだ……まだ……

 

 ──彼女のそばに。

 

『……怖いか?それは、私か……それとも、この空間か』

 

 耳元で、囁かれる。吐息までもが、皮膚をなぞるように這う。

 応えることもできない。喉が、震えることすら忘れている。

 

『何、心配はいらない。この世界は友人に用意させた"狭間"。外に出れば、この空間で起きた全ての事象はなかったことになる』

(なかったことに、なる……?)

『私が大切な親友の子供のことを傷つけることはない。もっとも、君が"いい子"でいるうちは』

 

 最後のひとことだけ、やけに軽く、付け足すように囁かれた。まるで脅しですらないという体で。

 その軽さが、逆に、腹の底まで冷やしていく。

 

 男の指は、優しくルイの髪を撫でた。壊れ物にでも触れるように、丁寧に、繰り返し。

 振り払いたい。振り払いたいのに、腕が言うことを聞かない。

 

『……大人しく、私の元へ来てくれるのであれば、なんだって我儘も聞いてあげよう。君は"可哀想"だからね』

 

 甘く、優しく、そして恐ろしく。

 

『父親もいない。

 本来いるべき場所から連れ去られて。

 そんな、辛そうな表情までして……死んだナティの──"君の父親"の代わりに、私が、なんでも我儘を聞いてあげよう』

 

 言葉のひとつひとつが、優しさの形をした鎖のように、じわりと絡みついてくる。

 額に、柔らかい感触がした。唇なのか、指先なのか。判別する余裕すらなかった。

 

『……そこで、大人しく待っているんだよ。ルイ』

 

 その声には、有無を言わせぬ響きがあった。頼みでも、命令でもない。──もう、決まったことを告げるだけの、静かな確信だった。

 

 ──そして、ルイの意識は途切れた。

 

 

 ◇◆◇

 

 

 波の音。

 妙に反響する。

 

 冷たい岩の感触。確かに触れられて、ただの岩の冷たさが、指先に伝わってくる。

 

 意識が浮遊するような感覚。

 

(……ここは、どこだ?)

 

 薄く目を開けた。

 柔らかな白い光。光が、ある。それだけで、息が詰まりそうになった。おそらく、存在すること自体が許されていなかったもの。

 

(……死んだのか?)

 

 現実感がない。身体はここにあるのに、心が、それにまるで追いつかない。

 

 だが、次の瞬間、その不確かさは崩れ去った。

 

「……ルイ! 目が覚めたんだね、よかった……!!」

 

 声がした。

 

 シアの声。ふわりと包み込むような、震えながらも安堵に満ちた響き。

 焦点がまだ合わない。けれど、その光の中に"彼女"がいることだけはわかった。

 

(シア……)

 

 その名前を思い浮かべたことに、ひどく違和感がある。

 

 認識できる。

 見える。

 音が聞こえる。

 

 ──おかしい。

 

 あの空間では、それすら許されなかった。

 知覚が歪み、肉体が削がれ、音が消え、感触が奪われ──。

 

 息が詰まる。喉が乾く。

 

 手を持ち上げようとする。

 まだ脳が覚醒しきっていないのか、身体が鉛のように重い。

 

 だが、"感覚がある"。

 

 岩の冷たさを。指を動かすという意志を。筋肉の収縮を。

 確かに、感じる。

 

(……生きてる)

 

 ──なのに、”生きている感覚"が、信じられない。指の先まで疑わずにはいられない。本当に、これは自分の身体なのか。

 

 

 視界の端に、あのとき拾った宝石が映る。

 

 ──星骸を倒した。

 ──その後、世界が反転した。

 ──焼かれて、溶かされて、感覚を奪われて。

 

 ……俺は。

 

 死んだのではなかったか?

 

「…………っ!!!!」

 

 ルイは目を見開き、ガバッと体を起こす。

 

「ルイ!?」

 

 全身から汗が噴き出る。心臓が、内側から胸を突き破りそうなほど暴れている。息が乱れ、視界がぐるりと歪んで、上下の感覚さえ怪しくなる。

 

(……殺されかけた。異能者か? わからない。だが、生きている。いや──生きているのか? 夢だったのか。夢なわけがない、あの熱も、痛みも、あんなにハッキリと──)

(なのに、体が動く。声が聞こえる。シアが、いる。俺は、戻って、きて──)

 

 考えが、まとまらない。ひとつを掴んだ端から、次の疑念が押し寄せて、頭の中で全部がぐちゃぐちゃに入り乱れる。生きているという実感と、死んだはずだという確信が、同時に、同じ強さで胸を占めていた。

 

「──ル、ルイ……っ! ちょっとっ、苦しい……!」

 

 シアの声が、すぐ近くで響いた。

 その声で初めて、腕の中に確かな重みと体温があることに気づいた。

 

 ──無意識に、彼女を抱き締めていた。

 

 いつ腕を伸ばしたのか、覚えていない。考えて、選んで、そうしたのではない。気づいたときには、もう縋りついていた。理由など、後から取ってつけたようなものしか出てこない。ただ、思考の及ばないどこかが、そこにある温もりへ、反射のように手を伸ばしていた。それだけだった。

 

「──っ……!」

 

 無意識の行動とはいえ、あまりにも唐突すぎた。ルイは慌てて後ずさった。

 シアは戸惑いながらも、頬をほんのり染めていた。心配と、それでいてどこか隠しきれない嬉しさの滲む、複雑な表情。

 

 その温度に、耐えられなかった。

 

 彼女は、何も知らない。焼かれたことも、切り裂かれたことも、左手が変質したことも、あの声も、あの手の感触も──何ひとつ、知らない。ただ、目の前で目を覚ました自分に安堵して、少しだけ頬を緩ませているだけだ。

 

 その"知らない"という事実だけが、今、二人の間に横たわる途方もない距離だった。

 

 口の中が、急激に乾いていく。

 

「ルイが見当たらなくて、珠桜さんと律灯さんに相談したの。そしたら、律灯さんがここでルイが倒れているって教えてくれて……急いで助けにきたの。どこも怪我してなさそうでよかったよ」

 

 シアは笑う。

 

 穏やかに。

 優しく。

 

 ──ほんの少し、嬉しそうに。

 

 ……何も知らずに。

 

 その屈託のなさが、今のルイには、あまりにも。

 

「……げ、ろ」

 

 声が、掠れる。

 シアが、怪訝そうに眉をひそめる。

 

「え? なに?」

 

 自分が、どれほど酷い表情をしているかわからない。

 ……いや、わからないのではない。考えられない。心配をかけないよう、繕うこともできなかった。

 

「俺と、いる……と……危ない、から……」

 

 言葉を発しながら、胸の奥が冷えた。

 

 焼かれ。

 貫かれ。

 変質し。

 

 ──最後に、慈しまれた。

 

 優しく撫でられたあの手の感触が、まだ消えない。

 焼き尽くすほど熱かったのに、氷のように冷たかった。

 

「早く……シアだけでも、逃げて……」

 

 シアが、目を見開く。

 

 

「…………お願い。頼むよ……シア…………」

 

 ルイの脳裏には、"あの声"が焼き付いて離れなかった。

 

『……ルイ。私は、必ず迎えに行く。必ずだ』

 

 ルイは、自分の肩を抱き、ただただ、恐怖に震えていた。

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