END OF HOPE:21xx - Last Call 作:久遠 -kuon-
距離という概念が、崩壊していた。
目の前に"いたはず"の女神は、"瞬いた瞬間"にはもう触れていた。
詰められたのではない。"詰められた"という認識ごと、最初から存在していなかったかのように──境界も、過程も、間も、何もかもが抜け落ちて、ただ結果だけがそこにあった。
金糸で紡がれた指先が、ルイに触れる。
「──あ゛あッ!?」
久しく感じていなかったような、"確かな感触があるということ"を、喜ぶことはできなかった。
焼けた。
熱が走ったのではない。
皮膚が"弾けた"。
焦げる。溶ける。肉の繊維が裂け、血管が膨張し、内部から爆ぜる。骨が焼かれる。神経が炙られる。
ジュウウウ……
煙が上がる。焦げた肉の匂いが、鼻の奥にまで焼き付いて離れない。
服が、一瞬で炭になった。皮膚が、灰に変わった。
──熱い。
……あつい。
熱い。
(……熱い、熱い熱い熱゛い゛熱゛い゛ッ──!?!?!?!?)
痛みを感じなかった。痛みを知覚するための神経が、もうない。感覚が、真の意味で焼き切れている。
ただ、"焼かれている"という事実、情報だけが頭蓋を突き破って流れ込んできて、「熱い」という錯覚だけが深く、鋭く、脳髄に刻み込まれる。
考えられない。思考が、端から断ち切られていく。脳という器官そのものが、機能を放棄していく。
金が、ルイの全てを焼いていく。
本能的にその手を引き剥がそうとした。だが、腕は動かない。先ほどまでと、同じだ。この空間の性質。動かそうとしても、その意志が結果に結びつかない。
まだ、金糸の指は蝋燭の炎のように溶けながら、ルイの手を侵食し続けている。
このままではだめだ、
早くこれをどかさないと、
(──ッ、死……)
『会いたかった』
耳ではなく、脳に直接響く声。
骨の髄にまで染み込むような、否応なしに魂そのものを揺さぶる、低く、どこまでも落ち着いた男の声。
『ずっと、会いたかった──ルイ』
その言葉と共に、焼ける苦しみが、唐突に消えた。
金色の女神に掴まれていた左腕──それが、自分の腕じゃない。何か、まったく違うものへと変質していた。
握ることも、動かすこともできない。空間の影響だけじゃない。先ほどまでとは違う。握ろうとすること、動かそうとすること、その意志そのものすら、もう成立しなかった。
叫ばないように。目の前の敵に屈しないように。必死に歯を食いしばる。口の中いっぱいに血の味が広がる。
震える右手で、どうにか銃を構え──
『……そんなものは、君には不要だろう』
その瞬間、視界の端で金色の煌めきが舞う。
刹那、銃ごと手が貫かれていた。
「あッ……!!!!」
痛みよりも速く、別の金色が踊る。
次々と飛翔する刃。"逃げる"という選択肢すら与えられないまま、鋭利な金糸がルイの肉を裂いていく。
傷は、深すぎない。致命傷にはならない。『殺す気はない』と言われているようだった。
だが、それが余計に恐ろしかった。ただ、何かを罰するように、機械的に、痛みだけが与えられ続ける。
「──ぁぁぁぁああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッ!!!!!!!!!!!!」
喉の奥から、自分のものとは思えない声が飛び出した。
続く灼熱。次々と襲う激痛。本当に、脳が焼き切れる。呼吸が乱れる。視界が赤に染まる。
膝が崩れ、ルイは地に伏した。だが、それすら許されない。倒れ込んだことで、金の刃がさらに深々と肉を抉る。
息が詰まる。
肺が動かない。
四肢が思い通りにならない。
意識が落ちかけたその時、視界の端。男の足が映った。ゆっくりと、近づいてくる。
(……来るな、来るな来るな来るな)
頼むから、殺さないで。
ルイの消えかけた思考が、微かに祈る。当然、男はルイへ近付くのをやめない。
だが、覚悟していた一撃は、いつまで待っても振り下ろされなかった。
代わりに、男はルイの目の前まで来て──静かに、膝を折った。
金の輝きを宿したその手が静かに伸びて、ざらりとしたグローブごしにルイの頬に触れた。
『……ルイ。私は、必ず迎えに行く。必ずだ』
皮膚が焼ける。細胞が崩れる。
死ぬ。
もうダメだ。俺は、ここで死ぬ。
何もできなかった。ミコ様が言っていた。これが試練?
あまりにも、あっけなさすぎる。
何も抵抗できなかった。何もできなかった。
これで、よかったのか?
シアは、守れたのか?
わからない。
痛い。
熱い。
怖い。
死ぬ。
死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
悔しい。
死にたくない。
まだ、やりたいことがいくつもある。
助けて。
まだ……まだ……まだ……
──彼女のそばに。
『……怖いか?それは、私か……それとも、この空間か』
耳元で、囁かれる。吐息までもが、皮膚をなぞるように這う。
応えることもできない。喉が、震えることすら忘れている。
『何、心配はいらない。この世界は友人に用意させた"狭間"。外に出れば、この空間で起きた全ての事象はなかったことになる』
(なかったことに、なる……?)
『私が大切な親友の子供のことを傷つけることはない。もっとも、君が"いい子"でいるうちは』
最後のひとことだけ、やけに軽く、付け足すように囁かれた。まるで脅しですらないという体で。
その軽さが、逆に、腹の底まで冷やしていく。
男の指は、優しくルイの髪を撫でた。壊れ物にでも触れるように、丁寧に、繰り返し。
振り払いたい。振り払いたいのに、腕が言うことを聞かない。
『……大人しく、私の元へ来てくれるのであれば、なんだって我儘も聞いてあげよう。君は"可哀想"だからね』
甘く、優しく、そして恐ろしく。
『父親もいない。
本来いるべき場所から連れ去られて。
そんな、辛そうな表情までして……死んだナティの──"君の父親"の代わりに、私が、なんでも我儘を聞いてあげよう』
言葉のひとつひとつが、優しさの形をした鎖のように、じわりと絡みついてくる。
額に、柔らかい感触がした。唇なのか、指先なのか。判別する余裕すらなかった。
『……そこで、大人しく待っているんだよ。ルイ』
その声には、有無を言わせぬ響きがあった。頼みでも、命令でもない。──もう、決まったことを告げるだけの、静かな確信だった。
──そして、ルイの意識は途切れた。
◇◆◇
波の音。
妙に反響する。
冷たい岩の感触。確かに触れられて、ただの岩の冷たさが、指先に伝わってくる。
意識が浮遊するような感覚。
(……ここは、どこだ?)
薄く目を開けた。
柔らかな白い光。光が、ある。それだけで、息が詰まりそうになった。おそらく、存在すること自体が許されていなかったもの。
(……死んだのか?)
現実感がない。身体はここにあるのに、心が、それにまるで追いつかない。
だが、次の瞬間、その不確かさは崩れ去った。
「……ルイ! 目が覚めたんだね、よかった……!!」
声がした。
シアの声。ふわりと包み込むような、震えながらも安堵に満ちた響き。
焦点がまだ合わない。けれど、その光の中に"彼女"がいることだけはわかった。
(シア……)
その名前を思い浮かべたことに、ひどく違和感がある。
認識できる。
見える。
音が聞こえる。
──おかしい。
あの空間では、それすら許されなかった。
知覚が歪み、肉体が削がれ、音が消え、感触が奪われ──。
息が詰まる。喉が乾く。
手を持ち上げようとする。
まだ脳が覚醒しきっていないのか、身体が鉛のように重い。
だが、"感覚がある"。
岩の冷たさを。指を動かすという意志を。筋肉の収縮を。
確かに、感じる。
(……生きてる)
──なのに、”生きている感覚"が、信じられない。指の先まで疑わずにはいられない。本当に、これは自分の身体なのか。
視界の端に、あのとき拾った宝石が映る。
──星骸を倒した。
──その後、世界が反転した。
──焼かれて、溶かされて、感覚を奪われて。
……俺は。
死んだのではなかったか?
「…………っ!!!!」
ルイは目を見開き、ガバッと体を起こす。
「ルイ!?」
全身から汗が噴き出る。心臓が、内側から胸を突き破りそうなほど暴れている。息が乱れ、視界がぐるりと歪んで、上下の感覚さえ怪しくなる。
(……殺されかけた。異能者か? わからない。だが、生きている。いや──生きているのか? 夢だったのか。夢なわけがない、あの熱も、痛みも、あんなにハッキリと──)
(なのに、体が動く。声が聞こえる。シアが、いる。俺は、戻って、きて──)
考えが、まとまらない。ひとつを掴んだ端から、次の疑念が押し寄せて、頭の中で全部がぐちゃぐちゃに入り乱れる。生きているという実感と、死んだはずだという確信が、同時に、同じ強さで胸を占めていた。
「──ル、ルイ……っ! ちょっとっ、苦しい……!」
シアの声が、すぐ近くで響いた。
その声で初めて、腕の中に確かな重みと体温があることに気づいた。
──無意識に、彼女を抱き締めていた。
いつ腕を伸ばしたのか、覚えていない。考えて、選んで、そうしたのではない。気づいたときには、もう縋りついていた。理由など、後から取ってつけたようなものしか出てこない。ただ、思考の及ばないどこかが、そこにある温もりへ、反射のように手を伸ばしていた。それだけだった。
「──っ……!」
無意識の行動とはいえ、あまりにも唐突すぎた。ルイは慌てて後ずさった。
シアは戸惑いながらも、頬をほんのり染めていた。心配と、それでいてどこか隠しきれない嬉しさの滲む、複雑な表情。
その温度に、耐えられなかった。
彼女は、何も知らない。焼かれたことも、切り裂かれたことも、左手が変質したことも、あの声も、あの手の感触も──何ひとつ、知らない。ただ、目の前で目を覚ました自分に安堵して、少しだけ頬を緩ませているだけだ。
その"知らない"という事実だけが、今、二人の間に横たわる途方もない距離だった。
口の中が、急激に乾いていく。
「ルイが見当たらなくて、珠桜さんと律灯さんに相談したの。そしたら、律灯さんがここでルイが倒れているって教えてくれて……急いで助けにきたの。どこも怪我してなさそうでよかったよ」
シアは笑う。
穏やかに。
優しく。
──ほんの少し、嬉しそうに。
……何も知らずに。
その屈託のなさが、今のルイには、あまりにも。
「……げ、ろ」
声が、掠れる。
シアが、怪訝そうに眉をひそめる。
「え? なに?」
自分が、どれほど酷い表情をしているかわからない。
……いや、わからないのではない。考えられない。心配をかけないよう、繕うこともできなかった。
「俺と、いる……と……危ない、から……」
言葉を発しながら、胸の奥が冷えた。
焼かれ。
貫かれ。
変質し。
──最後に、慈しまれた。
優しく撫でられたあの手の感触が、まだ消えない。
焼き尽くすほど熱かったのに、氷のように冷たかった。
「早く……シアだけでも、逃げて……」
シアが、目を見開く。
「…………お願い。頼むよ……シア…………」
ルイの脳裏には、"あの声"が焼き付いて離れなかった。
『……ルイ。私は、必ず迎えに行く。必ずだ』
ルイは、自分の肩を抱き、ただただ、恐怖に震えていた。