END OF HOPE:21xx - Last Call 作:久遠 -kuon-
ルイは、ひたすらに俯いて座り込んでいた。その肩は微かに震え、まるで骨の芯から崩れ落ちそうなほど脆く見える。
掠れた声が宙を漂い、冷たい空気に溶け込んで消えていく。その声には、普段の力強さも、冷静さも、微塵も残っていなかった。
その姿を目にした瞬間、シアの胸が、ひどく締めつけられた。喉が詰まり、背筋を冷たい汗がつたい、心臓がひとつひとつ、重く鈍く鳴る。
こんなにも怯えたルイを見るのは、初めてだった。
ルイだって、普通の、シアと同い年の人間だ。生きていれば、恐怖を感じることも、痛みを抱えることもあるだろう。
それでも、シアの知っているルイは、どんな辛い時でもその痛みを隠し、強がり、何事もなかったように笑ってみせていた。
──けれど今、彼は違った。まるで、中身がごっそりと抜け落ちた抜け殻のように、そこにただ、うずくまっている。
「ルイ……?」
そっと手を伸ばす。しかし、指先が肩に触れた、その瞬間。
「ひ……っ!」
ルイの体が大きく跳ね上がり、悲鳴が洞窟の冷たい岩壁に吸い込まれていった。荒い息遣い。吸っても吸っても、足りないように、浅く、速く。
自分の声など、一切届いていないようで。ルイの瞳は、どこか遠い闇を彷徨うように揺れていた。何かに囚われた彼を引き戻す方法もわからず、シアはそっと、静かに手を下ろすことしかできなかった。
(ルイがこんなふうになるなんて……いったい、何があったの……?)
『シアだけでも、早く逃げて』
その言葉が、シアの胸の奥に棘のように引っかかる。鈍い痛みを伴って、心の中でくすぶり続ける。
「逃げて」──ということは、何かに追われている? 誰かに追われ、この洞窟に逃げ込んだのか。それとも、あまりに強大な星骸を発見したとか?
けれど、それにしては外傷がない。不自然なほどに、ルイの身体は傷一つなく──まるで、ただ"恐怖だけ"、彼の内側から食い荒らしているかのようだった。
そして、「シアだけでも」というのはつまり──ルイ自身は、逃げられない、ということ?
ぞわりと、背筋を悪寒が駆ける。得体の知れない不安が波のように押し寄せ、シアの足を絡め取ろうとする。それでも、今は、立ち止まるわけにはいかない。
いつもルイが支えてくれた。ならば今度は、自分の番だ。
シアは静かに息を吸い、スカートの上でぎゅっと拳を握る。ルイの言うことを素直に聞き入れて、"逃げる"という選択肢は、最初から頭の中になかった。
彼を放っていくわけにはいかない。シアの胸の中で、無言の誓いが、静かに、けれど確かに固まっていく。
洞窟内に、しんとした沈黙が広がる。ただ、奥から漏れる水滴の音だけが、無情に、規則正しく響き渡っていた。
その中、シアはそっとルイを見つめた。
怖がらせないように。けれど、決して揺るがぬ意思を込めて。
そして、静かに、優しく言葉を紡ぐ──
「……やだよ。ルイを置いていくなんて」
静寂を切り裂くように響く、まっすぐな声。
それは、沈みかけた心に光を落とすようで──ルイは思わず息を呑んだ。
「危ないってどういうこと? 何があったの?」
シアの瞳が、じっとルイを映す。まるで、深い闇の中に沈みきったルイの心を、無理にでも光の下へ引き戻そうとするような、そんな錯覚を覚える眼差しだった。
その視線に晒されることが、今のルイには耐えがたかった。彼の足元に広がる影が、まるで生き物のように、さらに濃く、重くなっていくような気がした。心臓がぎゅっと絞られ、胸の奥に絡みついた恐怖が、より一層強くなる。
──シアは、これ以上知らなくていい。彼女を巻き込んではいけない。けれど、彼女の声は揺るがなかった。
「お願い。何があったのか、ちゃんと話して」
張り詰めた空気の中で、唯一、確かなものとして響き渡る。
シアの瞳が、ルイを捉え、揺れることなく彼を見つめ続ける。その目は、言葉よりも深く、強く、心に届く。
「私、何も知らないままルイを置いてくなんて、そんなの……できないよ」
洞窟の奥で、水滴がひとつ、落ちる音がした。
シアは、込み上げてくるものを必死に押し殺していた。それが何なのかは、自分でもよくわからない。
ルイを追い詰める"何か"へ対する恐怖か。それとも、彼が自分を頼ろうとしてくれないことへの悔しさか。あるいは──そのすべてが混ざり合った、名前のつけようのない感情か。
ただひとつ確かなのは、胸がひどく痛いということ。
けれど、それ以上に──きっと、ルイの方が苦しい。
だから、耐えなければならない。唇を噛みしめ、シアは揺るぎない瞳でルイを見つめ続けた。
ルイもまた、必死だった。
顔を上げてしまえば、シアの優しさに縋ってしまう。それが──怖かった。
彼女の優しさが、今のルイには胸を締めつけるほど苦しい。いつもであれば心地よくて、求めていたものなはずなのに。今は、今だけは、触れたくない。触れてはいけない。
触れてしまえば──巻き込んでしまう。
誰かと深く関わらずに生きてきた。失うものを、最初から持たないように。それだけを守って、五年を生きてきたはずだった。
なのに、いつの間にか、置いた覚えのない場所に、大切なものが置かれていた。目の前にいる、この子だ。
だから今、これほどまでに怖い。
「シア、頼むから……逃げてくれ……アイツが、いつここに来るか、わからないんだ」
吐き出すような、掠れた声。恐怖が染みついた言葉が、冷えた洞窟の空気に滲んでいく。
喉が締めつけられる。それでも──言わなければならない。
本当はわかっている。こんな荒野で、一人で生きていけるはずがない。澄幽に戻れるなら、戻りたい。戻れるものなら、今すぐにでも。
俺は……死にたいわけじゃない。むしろ、その逆。
俺は、ずっと生きていたい。でも──でも。
『ルイ。あなたに、試練が訪れます』
脳裏に焼き付いて離れない、ミコの予言。
『死んだナティの──"君の父親"の代わりに、私が、なんでも我儘を聞いてあげよう』
『……ルイ。私は、必ず迎えに行く。必ずだ』
"狭間"での、あの男の言葉。
あの声が、耳に鮮明に蘇る。自分を、慈しむように紡がれた声が、胸の奥にあまりにも深く刻まれていた。
──確信に近い直感がある。
あの男の存在こそが、自分に訪れると言われた"試練"に違いない。
いや、それどころか。あの金が、目も眩むほどの白へと変わるのだとしたら──それは、ミコが視た滅びの光と、寸分違わず重なる。世界が滅びることそのものが、自分に与えられた試練である可能性も、否定できない。
あの男が操っていた金色の女神。"狭間"ではすべてが歪み、光すら存在しているのかもわからない闇の中だったため気づかなかったが、もしこの現実世界で光を当てれば──きっと、それは白く輝くだろう。
触れられた瞬間、皮膚が焦げ、爛れ、変質していく感覚。痛みすら追いつかない速さで、存在そのものが塗り替えられていく恐怖。あの感触は、今も左手に、消えない烙印のように残っている。
……あの男は、俺を狙っている。
あの声は、俺を"ナティの子"と呼んだ。聞いたこともない名前だった。誰なのか、どんな顔をしていたのか、何ひとつわからない。
なのに、どこかで、その名が自分の内側の何かに触れた気がした。輪郭のない、けれど確かに疼く場所に。
──あなたが、忘れてきたもの。あなたの後ろに、ずっと、ついてきたもの。
ミコの言葉が、蘇る。
忘れてきた過去。柱に繋がれていた鎖の重さ。顔も浮かばない、産んでくれたはずの誰か。──"ナティ"というのは、その誰かの名前なのだろうか。
あの男は、その"忘れてきたもの"の続きを、知っている。そんな気がしてならなかった。
そして──逃げても、それは追ってくる。あなたの、大切なものごと。
ミコは、そうも言っていた。
あの男が追ってくるのが自分だけなら、まだいい。だが、あの言葉が正しいのなら、追われるのは自分だけでは済まない。俺の、大切なもの、ごと。
ならば──俺が澄幽に戻れば、どうなる? 珠桜さんも、律灯も、他の保護対象も。関係のない人たちを、あの男の射程に、引きずり込むことになる。それだけは、絶対に嫌だ。
戻りたい。でも、戻れない。
今、この瞬間にも、あの男はここへ来るかもしれない。だから、早くシアを帰さなければ。彼女が巻き込まれる前に。
だが、事情を話してしまえば、シアはなおさら俺のそばを離れない。むしろ、より深く関わろうとするだろう。
それどころか、もしシアがこのことを知ったら──あの男は彼女にも手を伸ばすかもしれない。
何も言えない。一人で抱えるしかない。
いや──抱えられる。俺なら、きっと、できるはずだ。
珠桜さんは、朝、あの部屋にまで俺を連れていってくれた。ミコ様の存在を、隠さず明かしてくれた。あれはきっと、俺を信じてくれたからだ。一人で背負えるだけの強さがあると、そう思ってくれたから。
なら、応えないと。
全部、俺ひとりでやれる。誰にも頼らず、誰も巻き込まずに。
もう、誰も失いたくない。あの杜に、これ以上名前を増やしたくない。
だから、一人で。
一人で、やり切る。
最悪、俺ひとりが消えるだけで済むなら──それでいいじゃないか。
それで。
それで。
「アイツって……?」
シアの声が、静かに落ちる。けれど、ルイはそれに応える余裕すらなかった。
ガッ、と乱暴に立ち上がる。
考えるより先に、身体が動いていた。シアの細い腕を掴み、洞窟の入り口のほうへ、無理やり押しやる。
いつもなら、絶対にしない力の強さだった。壊れ物のように、そっとしか触れてこなかったはずの手が、今は加減も忘れて、彼女の背を押している。
「えっ!? あっ! ルイ!」
「いいから、はやく…….」
なんで。
どうして、伝わらないんだ。
どうして、わかってくれないんだ。
押される方向に、シアの足がもつれた。振り返ろうとする肩を、また押す。
「シア、早く──!」
「ルイ!!」
悲鳴のような叫びが、渦を巻いていた思考を、真横から引き裂いた。
次の瞬間には、もう視界が弾けていた。
──バチンッ!!
乾いた、鋭い音。頬の奥、骨の芯にまで響くような衝撃。焼けるように熱い痛みが、遅れて、じわりと広がっていく。
それが、渦巻いていた思考のすべてを、無理やり吹き飛ばした。
何が起きたのか、一瞬、理解が追いつかなかった。
ジンジンと痺れる頬に手をやることも忘れて、ルイはただ、目の前を見つめる。
シアが、いた。
肩で息をして、振り抜いた右手を、そのままの位置で止めている。目尻には、今にも零れ落ちそうな涙の粒。唇は、血が滲みそうなほど強く噛みしめられていた。振り抜いたその手は、赤く腫れて、小刻みに震えている。
──叩かれた。
シアに。
いつも笑っている、あのシアに。
理解が追いついた瞬間、頬の痛みよりもずっと深いところが、鈍く軋んだ。
「シ、ア……?」
「落ち着いてよルイ……本当に、何があったの?」
シアのまっすぐな瞳が、ルイの心を射抜く。
──でも。これでもなお、ルイはシアの優しさを受け止められない。
「……だから、俺に構うなって」
「そんなこと、できるわけないでしょ!!」
──心臓が跳ねた。
悲痛な叫びが、脳を揺らした。
初めてだ。
彼女が、こんなふうに声を荒げるなんて。
──いや、そうじゃない。
シアが、眉を顰め、苦しそうに顔を歪めている。
(……違う)
その顔を。
そんな顔を、させたかったわけじゃないのに。
「珠桜さんと律灯さんもすごく心配してた!! みんな、ルイのことを思ってるんだよ! 仲間なんだから……!!」
「っ……!」
その言葉が、心の奥を深く抉った。
"仲間だから"。
その一言に、頭の奥で何かが弾けた。
──仲間だから、なんだって言うんだ。
考えるより先に、記憶が溢れてくる。制御できない速さで、勝手に。
庇われて死んだ者。庇って死んだ者。両方とも死んでいった夜。何人分もの最期が、堰を切ったように押し寄せてくる。
何人、何十人、何百人が、仲間のために死んでいった。
仲間を庇って死んだ者がいた。庇われたはずの仲間も、結局は死んだ。ならば、あの人たちの死には、何の意味があったというのか。
仲間だから、必ず守れるわけじゃない。それを、何度も、何度も目の前で見せつけられてきたはずだった。
仲間という言葉は、希望なんかじゃない。呪いだ。
離れられなくなる呪い。犠牲を、連鎖的に増やしていくだけの呪い。
今まで誰かを失うたびに、ちゃんと悲しんで、ちゃんと弔って、それでも前を向いてきたつもりだった。
でも、本当は──怖かったのだ。ずっと。だから繋がりを作らないようにして、逃げ続けてきた。
誰かが死ぬことが、もう嫌なのだ。あの杜に並ぶかもしれない次の名前を、今、先に突きつけられているような気がする。
仲間、という言葉が、今日だけは、まるで違う響きに聞こえた。
怖い。
自分には、仲間を守る力なんてない。
ついさっき、あの男の前で、何ひとつ抵抗できなかった。銃も、刃も、五年かけて鍛えたものすべてが、意味を成さなかった。
だったら、せめて。
みんなを、俺という"的"から遠ざけること。それだけが、今の自分にできる、唯一のことだった。
「……シア」
声は、水面が揺れるかすかな音にさえかき消されそうなほどに、か細く、小さかった。
絞り出したその一言は、今までで一番弱く、情けなく、心を引き裂くようだった。
それでも、言わなければいけない。
これが、彼女を巻き込まずに、突き放す、唯一の方法だと思ってしまったから。
「頼むから……もう、俺に関わらないでくれ」
その言葉が空気を凍らせ、二人の間に静寂が落ちた。
またしても、世界が一瞬にして色を失ったかのように思えた。
シアの瞳が、大きく揺れた。何かを言おうとする唇が震える。けれど、その声は、音にならない。
何も言えない、ただ黙っているシアの姿が、ルイの心をさらに痛ませる。
海風が冷たく、二人の間を吹き抜けていく。その風の冷たさが、まるで自分の心を一層冷徹にしていくようで、その痛みが、胸の奥からじわじわと広がっていく。
「どうして……そんな悲しいこと言うの……?」
シアの声が、震えていた。その音が、ルイの胸を抉るように突き刺さる。
「悲しくなんか……ない。これが、今の……最適解、で……」
声が、途中で崩れた。
自分で選んだ言葉のはずなのに、"最適解"という響きが、まるで他人の口から出たように空虚に転がっていく。
本当は、何も最適になんてなっていない。ただ、そう思い込まなければ、次の言葉が出てこないだけだった。
ルイは無理やり言葉を絞り出す。でも、それはまるで壊れた旋律のように、どこまでも空疎で、冷たかった。
「嘘だよ」
シアが、静かにルイへ近付く。
その一歩は、責めるためのものではなかった。ただ、届かせるためだけの、小さな一歩だった。
彼女の顔には、今にも泣き出しそうな、深い悲しみが色濃く浮かんでいる。それでも、涙は零れていない。零さないように、必死で堪えているのが、震える睫毛でわかった。
「そんな顔してるのに……最適解だなんて、嘘だよ……!」
シアの声が、初めて大きく揺れた。
「ルイが、そんなふうに自分を諦めるみたいな言い方、するの……初めて聞いた……!」
「やめろ……!」
咄嗟に、ルイはシアの手を振り払っていた。
シアの目が、驚愕と共に見開かれる。ルイは、その瞬間にこれまで感じたことがないほど後悔した。でも、もう遅い。
恐怖に震える自分を、シアに見せたくなかった。これ以上、優しさを向けられたくなかった。決意が揺らいでしまう。甘えてしまう。そうしたら──みんなを巻き込んでしまう。
「……お願いだから、もう……放っておいてくれ」
言いながら、胸の奥が激しく痛んだ。
もう、引き返せない。
唇を噛みしめ、何度も自分を押さえ込む。
ほんの一瞬、心が揺れそうになったその瞬間を、必死で押し殺す。
──越えて、ほしい。
ミコの声が、耳の奥をよぎった。
今はまだ、越え方どころか、越える気力さえ見つからない。
そして、静かに、目を逸らした。