ハイランド王国の狂皇女 作:封印された封印の封印球
ハイランド王国において、俺は将軍という大層な称号を授かっている。
もっとも、実態は張り子の虎に等しい。
将軍という肩書きこそあるものの、その実態は第一皇女専属の召使いだ。本人からも堂々と“下僕”と呼ばれているのだから、否定のしようもない。
俺自身、なぜこんなことになっているのか──正直なところ、よく分かっていない。
田舎とも呼べないような小さな村で平凡に暮らしていたはずが、気づけばハイランド王国の将軍という、身に余る立場に収まっていた。人より少々変わった人生を送ってきた自覚はあるが、いまだにこの肩書きには実感が湧かない。
そもそも、俺がルチアと出会ったきっかけは、奇妙なものだった。
一宿一飯の恩を裏切られ、“はるか未来”へと飛ばされた。
……言葉にしてしまえば、そんな話である。まあ、裏切りというよりも、事故のようなものだったが。
事の発端は、俺の家の前に突然現れた一人の女性だった。
宴の最中、何らかの理由で瞬間移動してしまったらしい彼女は、現れるなり空腹を訴えてきた。事情は奇妙だったが、困っている人間を放っておくこともできず、俺は彼女を家に招き、食事と寝床を提供した。
「……」
今思えば、ずいぶん不用心なことをしたものだ。
素性も分からない相手を、初対面で家に招き入れるなど普通なら警戒して当然だろう。
それなのに、俺は不思議なほど自然に彼女を受け入れていた。
それどころか、自分でも不思議なほどに『歓迎しなければならない』と感じていた。まるで、初めて会ったはずなのに、ずっと昔から知っていたような……そんな妙な感覚だった。
「まったく、どちらが宿主か分かったものじゃないな」
思い返しながら、俺は小さく息を吐いた。
そして左手の手袋をゆっくりと脱ぐ。露わになった手の甲には、砂時計を思わせる紋章が刻まれていた。
世界を作ったとされる『真なる紋章』の一つ──“時の紋章”。
名に反して、俺が扱えるのは時間の流れをわずかに引き延ばす程度だ。使用すれば体力を大きく消耗するため、連発もできない。長い付き合いになるが、いまだに扱いには苦労している。
今になって思えば、あの女性が宿していた紋章は、時の紋章に連なるものだったのだろう。
彼女を見た瞬間、理由も分からないまま、俺は無性に嬉しくなった。それは、久しぶりに親しい親戚の子供が遊びに来てくれたときのような、どこか懐かしく、温かな感覚だった。
そして気がつけば、いつの間にか豪勢な料理を作っていた。
自分でも呆れるほど手際よく料理を並べ、腹を空かせた女性に振る舞っていた、その最中だった。彼女が手に持っていたこしょうの瓶を、うっかり落として──くしゃみをした。
次の瞬間、俺の視界は大きく歪み、身体から足元の感覚が失われた。
そして次に目を開けたとき、俺が立っていたのは、はるか未来のハイランド王国──皇都ルルノイエだった。
「おい、シオン!!」
ノックもなしに部屋の扉が乱雑に開かれる。
皇女様ならもう少し……いや、人としてもう少し節度というものを……と思いはしたが、口には出さない。俺は手に持っていた本を閉じると、立ち上がって軽く頭を下げた。
「ああ、ルチア様。どうされましたか? しばらく戦は控えるよう、お父上に言われていたはずですが」
「あの男の話など、どうでもよいわ。今日はたまには陰気な部下を慰労してやろうと、オレが直々に来てやったのだぞ。太陽のように明るい笑顔を浮かべて、オレを歓迎するのが礼儀というものだ」
「吸血鬼にそんな要求をしますか? まあいいです。こちらも予定はありませんし、少し散歩でもしましょうか」
ルチアは愉快そうに笑みを浮かべると、軽く顎をしゃくった。
その仕草に従い、俺は部屋を出た。
・・・・・
廊下は青い大理石で覆われ、壁には精巧な絵画や調度品が並んでいた。
白と青を基調とした内装は華やかでありながら嫌味がなく、静謐な美しさに満ちている。
もっとも──先を歩くルチアにとっては、城の内装など知ったことではないらしい。
彼女は周囲の視線などまるで意に介さず、我が物顔で廊下を進んでいく。実際、皇女なのだから我が物顔で歩いていて当然なのだろうが。
道中ですれ違う貴族たちは、皆一様にルチアの姿を認めると表情を強張らせた。
それまで談笑していた者たちは口を閉ざし、廊下の中央を歩いていた者は慌てて端へと身を寄せる。中には頭を下げることすら忘れ、ただ恐怖に目を見開いたまま、その場に棒立ちになっている者までいた。
ルチアは、そんな彼らを一瞥することさえしない。
まるで、そこに人間など存在していないかのようだった。
「ふん……下らん蛆虫共め。腐った屍肉を貪るだけの、無能な連中ばかりだ。あの男は国に湧いた害虫すら満足に駆除できぬらしい」
吐き捨てるような言葉が、静かな廊下に響く。
周囲の貴族たちの肩が、一斉に震えた。
「ルチア様……。少し、声を落とされてはどうでしょうか?」
思わず声を潜めて忠告する。
しかし、ルチアは歩みを止めることなく、横目だけをこちらへ向けた。
「お前がそれを言うか? オレがお前の立場なら、現状の不満を述べるのが当然だと思うが?」
もっともな言い分なのかもしれない。
だが、それよりも周囲の視線が痛くて俺としては仕方がなかった。
本来なら、将軍として軍務をこなすべき立場なのだが、突然現れた外様の人間が歓迎されるはずもない。
重要な仕事はほとんど回ってこず、将軍という肩書きだけが宙に浮いている。
普段は部屋で本を読むか、皇都を散策するくらい。
たまに新兵の訓練を見守ることもあるが、そう頻繁ではない。
血気盛んな若い将軍たちにとって、突然現れて皇女の右腕に収まった俺は、さぞ面白くない存在なのだろう。
親しく話すのは古参のキバ将軍とハーン将軍くらいで、他の連中からは目の敵にされている。
……出世すれば、暴虐無道のルチアと過ごす羽目になるのだが、彼らはそのことを分かっているのだろうか。
我ながら、将軍という肩書きに見合わない暇な毎日を送っていると思う。
この城での楽しみといえば、キバ将軍の息子で、軍師であるクラウスと交流すること。なぜか分からないが、俺は彼のことをなんだか……すごく気に入っている。
「自分は……処刑されなかっただけでも幸運だと思っておりますので」
「くく、それもそうだな。さて、お前とオレの素敵な思い出の場所に着いたぞ」
からかうような笑みを浮かべたルチアが、前方を指し示す。
その先に、荘厳な金色の扉が姿を現した。
扉の両脇には、二人の侍女が静かに立っている。
俺たちの姿を認めると、彼女たちはすぐに姿勢を正し、何も言わずに扉へ手をかけた。
重厚な音を響かせながら、巨大な扉がゆっくりと開いていく。
「ここは何度見ても、美しいですね……」
思わず、そんな言葉が口からこぼれた。
「……ふん」
ルチアは興味がないとでも言いたげに鼻を鳴らす。
しかし、その反応を気にすることなく、俺は開かれた扉の向こうへ目を向けた。
扉の向こうには、壮麗な庭園が広がっていた。
整然と刈り込まれた芝生の中央を、白い石畳の小径がまっすぐに伸びている。
左右には噴水が並び、陽光を受けた水飛沫がきらきらと輝いていた。丁寧に手入れされた花壇には色とりどりの花が咲き、風が吹くたび、ほのかな香りが鼻をくすぐる。
華やかでありながら、どこか静謐な空気に満ちた庭園だった。
王城の中でも、皇族と限られた者だけに許された特別な場所だ。
「くく。ここに来るたび、思い出す……。間抜けな面を晒して立っていたお前をな」
「……ご容赦を」
そんな場所で──俺とルチアは、初めての邂逅を果たしたのだ。
・・・・・
「……ちっ。どうやら迷惑な先客が居るらしい」
ルチアは小さく舌打ちし、面白くなさそうに眉をひそめた。
この庭園でのルチアは、普段より落ち着いていることが多い。
亡くなった母親と、よくここで遊んでいたのだという。その話をするときの彼女は、狂皇女という呼び名からは想像もつかないほど穏やかな表情をしていた。
皇王アガレスがこの庭園に姿を見せることはほとんどない。
おそらく、ルチアが頻繁に出入りしていることが理由なのだろう。
となれば、ここにいるのは必然的に、もう一人の皇族──ルチアの妹ということになる。
俺はルチアの鋭い視線の先を追った。
少し離れた場所にある、小さな噴水。その縁に、一人の少女が佇んでいた。
彼女はこちらに気づいていないのか、水面をじっと見つめながら、何かを呟いているようだった。
揺れる水面を眺めるその姿には、周囲の華やかな景色とはまた違った、どこか儚げな雰囲気が漂っている。
「──ジル様」
俺は女性へと歩み寄り、恭しく頭を下げて声を掛けた。
突然の呼びかけに、彼女は少し驚いたように肩を揺らす。それからこちらへ振り向くと、俺の姿を認め、わずかに目を見開いた。
「シオン将軍……それに、ルチア姉様も……」
「……」
隣に立つルチアの機嫌が、目に見えて悪くなった。
憎悪だけではない何かが、彼女の態度の端々に滲んでいる。人の心の機微に疎い俺でさえ、それが単純には片づけられないことくらいは察せられた。
とはいえ、俺は将軍という立場にある。
相手がルチアの妹君である以上、挨拶もせずに通り過ぎるわけにはいかなかった。
改めてジルへ目を向ける。
穏やかな雰囲気を纏った女性だった。髪型も衣装もルチアとは異なるが、顔立ちや輪郭には姉妹らしい面影がある。ただ、目の色だけは違っていた。
──ジル・ブライト。
皇王アガレス・プライドの娘であり、ルチア・ブライトの妹。狂皇女と呼ばれる姉とは対照的に、心優しい皇女として知られている。
「あの、ルチア姉さま。近頃、連続で遠征に向かったとお聞きしました。その、お体の方は……?」
ジルは遠慮がちに言葉を選びながら、心配そうに姉の顔を覗き込んだ。
しかし、その気遣いが耳に入った瞬間、ルチアはすっと目を細めた。
「……お前に心配されることは一つもないわ」
冷ややかな声だった。
ジルの表情が、ほんのわずかに曇る。それでも彼女は気丈に微笑み、今度は不安げな眼差しを俺へと向けてきた。
「そう、ですか。では……シオン将軍は?」
どうやら、こちらにも気を遣ってくれているらしい。
彼女の優しさを向けられるのはありがたいことだが、今この場に限っては、むしろ厄介なことになりかねなかった。
隣から突き刺さる視線が痛い。
言うまでもなく、ルチアの機嫌はさらに悪くなっていた。
「私も変わりありません。ご心配いただき、感謝いたします」
ジルはそっと手を伸ばし、俺の頬を撫でた。
細く美しい指が、硝子細工に触れるような繊細さで頬をなぞる。その感触は、思いのほか心地よかった。
皇族でありながら、彼女は他人との距離が近い。
身分の違いを気にせず人々に接するため、民衆からの評判もいいらしい。
隣にいるルチアが俺の襟首を掴んでいなければ、もっと心地よかっただろうが。
「オレの下僕に気安く触るな。お前はオレの慈悲によって生かされていることを忘れたか?」
地の底から響くような、冷たい声だった。
ルチアの言葉を受け、ジルは一瞬だけ悲しそうな表情を浮かべた。しかし、それもほんのわずかな間のことだった。彼女はすぐに表情を整えると、姉の目を真っ直ぐに見据えた。
ルチアの苛立ちが、さらに膨れ上がる。
……この姉妹の関係は複雑だ。俺には、とても仲を取り持てそうにない。
やがてルチアは、苛立たしげに息を吐くと、俺の襟首を掴んでいた手を離した。
解放された俺は小さく咳払いをし、乱れた襟元を直す。もっとも、今さら身なりを整えたところで、この場の空気が改善するとは思えなかったが。
「髪、唇、顔立ち……母に感謝するといい。それのおかげで、お前はオレを不愉快にしても立っていられるのだからな」
「……」
ジルは何も答えなかった。
ルチアはそんな妹の様子など気にも留めず、さらに言葉を続ける。
「お前、最近またコソコソと動き回っていたようだな? 穏健派の貴族共に何か言っているらしいが……軍部はオレの手の中にある。お前も、あの老いぼれも、もはや羽をむしられた虫同然よ」
吐き捨てるような口調だった。
そこには、皇族同士の会話という体裁すらない。相手を威圧し、力の差を突きつけるためだけの言葉。
しかし、ジルは目を逸らさなかった。
「姉様……もう戦いはやめにしませんか……。その憎悪を収めるためならば、私はこの身を差し出し──」
「その顔で!! その言葉を言うな!!!」
ルチアの眉が、怒りに吊り上がった。
次の瞬間、彼女は固く握りしめた拳をジルへと振り上げていた。
殺意すら感じさせる一撃。
このまま振り下ろされれば、華奢なジルの身体ではひとたまりもないだろう。
考えるよりも先に、身体が動いていた。
俺は咄嗟に二人の間へ割って入り、ジルをかばった。
直後、鈍い音が庭園に響き渡る。
頬に強烈な衝撃が走り、視界が大きく揺れた。足元から力が抜け、俺はよろめいた。口の中に鉄錆びたような血の味が広がった。
「シオン様!」
「……」
倒れ込んだ俺のもとへ、ジルが慌てて駆け寄ってきた。
彼女はすぐさまハンカチを取り出すと、身を起こした俺の口元へそっと当てる。どうやら、口の端が切れてしまったらしい。白い布地に赤い血が滲んでいくのを見て、ジルの顔から血の気が引いていく。
「ああ、大丈夫ですよ、ジル様。慣れてますから。これは……私の方で処分しておきます」
「いえ、大丈夫です。……姉様」
ジルは血で汚れたハンカチをしまい込むと、ゆっくりと顔を上げ、ルチアを睨みつけた。
その眼差しに、先ほどまでの穏やかさはない。
少なくとも彼女は、狂皇女と呼ばれる姉を前にしても、ただ怯えて従うだけの少女ではないらしい。
「……そのような女をかばいおって。オレは先に行く。シオン、お前は酒を取りに行ってから、オレの元に来い」
ルチアはそれだけ言い残すと、こちらを振り返ることもなく、さっさと歩き去っていった。
足音が遠ざかるにつれて、庭園に張り詰めていた空気が少しずつ緩んでいく。
ジルは俺のそばに膝をついたまま、申し訳なさそうな顔でこちらを見つめていた。
「……大丈夫ですか、シオン将軍。痛みは……」
「ああ、もう治りましたよ」
「えっ? ……これは……」
ジルが驚くのも無理はない。
つい先ほどまで血を流していた傷が、跡形もなく消えているのだから。
こういうときばかりは、人間ではないことに少しだけ感謝してしまう。
それよりも、まだ青ざめているジルの顔が気になった。
……流血沙汰に動じないルチアのほうが、よほど珍しいのだろうが。
「なんとも難しいものですね。私にも姉が居ますが、ルチア様ほど複雑では……いや、複雑だったかな……。んんっ、失礼します」
思わず余計なことまで口にしてしまった。
俺は小さく咳払いをして話を切り上げ、立ち去ろうとした。
「あの……」
背後から控えめな声が掛かった。振り返ると、ジルは何かを言いかけたまま、ためらうように口を閉ざしていた。
どこか思い詰めたような表情が気に掛かる。
……できれば、厄介事には関わりたくない。
すでにルチアに目を付けられているのだ。これ以上、余計な火種を抱え込むのは避けたかった。
「失礼します、ジル様。ルチア様がお待ちですので」
「……」
ジルは何も答えなかった。
ただ、手にしたハンカチをぎゅっと握りしめ、こちらを見つめている。俺は彼女に背を向けると、ルチアに言いつけられた酒を取りに行くため、庭園を後にした。