私の名前の隣には、磁石で「貸出可」と貼られている。
トレーナー室の予定表には、各職員の担当業務と所在を記入する決まりがあった。私はまだ担当ウマ娘を持っておらず、業務の空き時間に施設の点検や他のトレーナーの補助を引き受けている。その都度、何時から何時まで、どこで何をしているか記すのは手間なので、事務の職員が使っていない備品管理用の札を流用したのだ。
有効な工夫だ。少なくとも、最初はそう思っていた。
「午後、借りてもいいですか」
借りられるのは私だ。この星のこの地域の人々が話す言語は主語を省いても通じることを学習している。学習資料はオフライン環境下でも参照可能だ。
「十三時からなら問題ない」
「ありがとうございます。返却はどこに?」
「私は自分で帰る」
若いトレーナーは少し恥ずかしそうに笑った。私も完璧な会話に満足し穏やかに頷いた。足が2本搭載されていることを殊更に強調するのは人間同士では無駄であることを知っている。よって、先ほどの人間同士の会話は無駄がなく円滑だった。
彼の手元の備品使用申請用紙には、私の名前が折り畳み机六脚と同じ欄へ記入されていたが、運搬先が同じなので実務上の問題はない。
問題は、本来の業務に一向に進展がないことだった。
ここトレセン学園では、最近、理事長の肝いりでトレーナーとウマ娘のマッチング機能が強化されている。その機能の一つに面談というシステムがある。事前に記載した資料に基づき、職員が人力でマッチングするというものだ。
私はそのシステムをよく利用していた。だが利用率に反して成約率はゼロである。午前中の面談も不調に終わった。相手のウマ娘は私の提案した練習内容に興味を示し、説明を熱心に聞き、いくつか質問をした。私はすべてに答えた。彼女の走りを見て作成した計画は、身体的な特徴と希望するレースの両方を考慮したものだ。その場で最初の一週間を修正する余地も設けていた。
彼女は資料を丁寧に揃え、鞄の方へ目を向けた。
「あの、最後に一ついいですか」
「どうぞ」
「今、私が何を考えているか、分かります?」
「契約を断るための切り出し方を検討している」
彼女は黙った。私が正解したからだろう。完璧かつ円滑な会話。
自身の性能をアピールするため、私は説明力を発揮して説明を補った。資料を閉じたこと、入室時より発話の間隔が長くなったこと、先ほどから出入口を確認していること。いずれも単独では根拠として弱いが、組み合わせれば推測の確度は高まる。
「そういうところです」
彼女は言った。
私は了解した。分析を求められたので答えたのだが、求められた回答と望ましい回答が一致しないことは珍しくない。退出の際には、資料を持ち帰ってもよいかと尋ねられた。構わないと答えると、彼女は初めて自然に笑った。私も、そこまでは分かった。
書類は採用され、作成者は採用されなかった。
午後の折り畳み机は、全六脚とも採用された。
*
私は人間ではない。
惑星探査用生体インターフェース。現地の知的生命に近似した身体を用い、その社会へ参加しながら情報を収集する装置である。製造から二年には達していないが、業務に必要な知識は搭載されている。成人相当の身体もある。製造直後に乳児として配達し、十八年後に最初の報告を受け取る方式は、経営陣の忍耐力を大きく超過するため採用されなかった。
私の任務には、人工物であることを現地生命体に知られてはならない、という条件がある。この点については順調だ。学園内における私は、口数が少なく、働き者で、やや力の強い男性として認識されている。
やや、というのは、認識には個人差があるためだ。
「それ、二人で運ぶように書いてありません?」
若いトレーナーが尋ねた。私は折り畳み机を持ったまま、貼られた注意書きを見た。
「二人で運ぶことを推奨している」
「ですよね」
「では、君は扉を開けてほしい」
彼は扉を開けた。私は通過した。二人で運搬業務を遂行しているので、推奨から逸脱してはいない。若いトレーナーはしばらく私の腕を見ていたが、最終的には扉を閉める役割を受け入れた。役割分担のできる職員だった。
机を下ろし、脚を開き、高さを揃える。若いトレーナーは礼を言ったあと、私の面談の結果を尋ねた。成立しなかったと答えると、彼は首を傾げた。
「指導はすごく分かりやすいんですけどね。うちの子も、教わった動きがよかったって」
「感想をありがとう」
「もうちょっと、こう、親しみやすさを出してみるとか」
「具体的には」
「自己紹介で、趣味を話すとか。甘いものが好きとか」
私は個人的な嗜好の一覧を参照した。調理は日常的に行っている。焼き菓子も作れる。会話の題材として不自然ではないだろう。
「菓子作りはどうだ」
「いいじゃないですか!」
「焼成中の温度変化を0.1℃単位で調整する工程が得意だ」
「そういうところですよ」
どういうところだろうか。得意な部分を省略するよう求められた。実際には、私に搭載されているセンサーは0.01℃単位で識別可能であるにも関わらず、環境に左右される部分を省いた確実な値を伝えたのだが。やはり省くべきではなかったのだろうか。どうにも、人間向けの自己紹介には、製品紹介と異なる作法がある。知識としては搭載されているのだが。
若いトレーナーは「一緒に食べましょう、くらいでいいんですよ」と助言した。私は礼を言い、机の水平を確認した。彼も自分の仕事へ戻った。
こうした地域社会との接触記録は、通常なら軌道上の通信船を介してマザーAIへ送る。返答を受け、必要に応じて知識や機能を補う仕組みだ。私の体には十分な耐久性と拡張性があるが、文明一つを分析する設備を全部詰め込む予算はなかった。製造費が膨らめば、現地の人間に紛れる前に、社内の予算会議で発見されてしまう。
なお現在、通信船とは連絡が取れていない。
最後の通信では、本国に帰れなくてうつ病を発生させた船長AIと辺境の星に飛ばされたせいでうつ病を発生させた船務士AIがデジタルドラッグを使用、太陽を転移ゲートと呼び、太陽に向けた航路を航行中だった。私が太陽は転送ゲートではない旨を訂正すると、二名から同時に、視野が狭いと指摘された。私の視野は製品仕様の範囲内だった。
その後、彼らは互いを侮辱的に罵り合った末、それぞれ相手の管理権限を同時に凍結した。航路は太陽を通過するままだったが、両者とも運航に支障はないと報告していた。その後、通信が途絶えた。何らかの支障はあったのだろう。
私は机の位置を最終確認した。
床にも机にも異常はない。健康で、働く能力があり、地域社会には受け入れられている。あとは担当ウマ娘がいれば、トレーナーとしての活動を開始できる。
職員室へ戻ると、予定表の札が「返却済」になっていた。
私はそれを裏返した。
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