ミホノブルボンの朝は規則正しい。
起床し、身支度を整え、許可された範囲の自主練習を行い、食堂へ向かう。食事を済ませたあと、授業に必要なものを確認する。一連の手順に大きな誤差はない。毎朝ほとんど同じ時刻に同じ廊下を歩くため、目覚まし時計を止めてしまった生徒の一人は、ブルボンが窓の下を通過する姿で二度寝の損害を見積もっていた。
本人は、自分が時報として使用されていることを知らなかった。
その朝も、ブルボンは食堂の列へ並んだ。
前のウマ娘が盆を傾けた。味噌汁の椀が滑り、縁で止まり、次の瞬間には床へ向かっていた。
ブルボンは椀を受け止めた。
受け止めることには成功した。椀の中身については成功しなかった。
「す、すみません!」
「負傷の有無を確認します」
「えっ」
「動かないでください」
相手は動きを止めた。ブルボンは相手の靴と足首を見た。熱い汁が直接かかった様子はない。床には汁と豆腐とワカメが広がっていた。誰かが踏めば滑るため、清掃が必要だった。
「その場で待機してください。後続の通行を制限します」
ブルボンは椀を台へ置き、手を広げた。列の後方にいたウマ娘たちが止まった。相手の少女はますます小さくなり、謝罪を繰り返した。
「謝罪は受領済みです」
そう伝えると、なぜか謝罪の回数が増えた。肩に力も入っている。相手のステータス「緊張」を確認。
食堂の職員が布巾とモップを持って来た。ブルボンは状況を報告し、床の清掃を申し出た。職員は慣れた手つきで汁を拭き取り、怪我がなくてよかったと言った。少女はそこでようやく顔を上げた。
「ブルボンさん、ありがとう。助かったわ。もう通して大丈夫よ」
「了解しました」
ブルボンが両腕を下ろすと列が動き始めた。先頭のウマ娘がなぜか会釈をして通った。なぜか次のウマ娘も会釈をした。ブルボンは一人ずつ、律儀に会釈を返し、律義に列を誘導した。
朝食の配膳は入国審査に似た手順で再開された。
*
「ブルボンさん、怒ってたの?」
「怒る……???」
昼休み、ニシノフラワーに尋ねられたとき、ブルボンは朝の出来事をすべて説明した。フラワーは最後まで聞き、少し考えてから、怪我がないか心配だったのですね、と言った。
「はい」
「それを、先に言ってあげるとよかったかもしれません」
「最初に負傷の有無を確認しています」
「ええと……もう少し、怖くない言い方で」
ブルボンは考えた。自分の声量は大きくなかった。命令形が不適切だったのかもしれない。より丁寧な表現への変更を検討する。
「負傷の有無を確認させていただきますお手数ですがその場で動かないようにお願いします」
「あっ、そういうことではなくて」
フラワーは両手を小さく振った。
「『熱くなかった?』とか、『大丈夫?』とか、そういう感じの、です」
「了解。次回から採用します」
「はい」
ブルボンは手帳へ記録した。フラワーが、その欄を見た。
「……『食堂における初動』?」
「再発時の対応手順です」
「うーん、できれば、こぼれない方がいいですね……」
それにはブルボンも同意した。
午後はトレーナー候補との面談があった。相手は親切な人物だった。資料を用意し、ブルボンの身体が短い距離に向いている理由と、その特徴を生かせるレースについて説明した。説明は正確で、理解できた。
三冠という目標の変更は、希望しなかった。
面談を終えて廊下へ出ると、鞄の中の資料がまた増えた。どの資料も丁寧に作られていた。似た結論だからといって、どれかを捨ててよいとは思わなかったので、部屋の棚には短距離路線の提案書が並び始めていた。
そろそろ、棚の二段目が必要だった。
携帯端末が鳴った。新たな面談の案内だった。ブルボンは時刻を確認し、参加の意思を送信した。送信後、端末の画面が暗くなった。充電残量は十分にあったはずだが、電源を入れ直しても反応しなかった。
この機種とは、まだ三週間の付き合いだった。何故かブルボンが電子機器を扱うとすぐ壊れてしまう。父親は体質だと言っていた。
ブルボンは通信の成否を確認するため、契約支援窓口へ向かった。窓口の職員は彼女を見ると、少し困った顔をした。端末が故障した旨を伝えるより先に、申し訳ありません、と言った。
故障はすでに把握されているらしかった。
*
契約支援窓口の職員は、二つの画面を見比べていた。
一方には、契約推奨度ゼロと表示されている。もう一方には、面談調整完了と表示されている。前者は赤、後者は緑だった。色の使い分けは分かりやすい。契約推奨度ゼロの調整完了、分かりやすく矛盾していた。
契約候補を選ぶ仕組みと、空いた時間へ面談を割り当てる仕組みは別々に動いていた。前者が推奨しなかった二名を、後者が同じ時間に空いている二名として選んだ。そのような場合には処理を止めるべきだったが、処理を止める仕組みは来年度の予算にも含まれていなかった。
今年度の予算でできることは、職員が謝ることだった。
「ご案内に不備がありまして」
「日時は正しいだろうか」
「はい」
「場所もここであっているだろうか」
「はい」
「相手は、このミホノブルボンで間違いないだろうか」
「はい。ただ、組み合わせの推薦については」
「では、案内された相手に案内された場所で会っている。問題は限定的だ」
体つきの大きい、どこか無機質な印象のある男トレーナーは向かいのブルボンへ目を向けた。
「君に異存がなければ、面談を実施したい」
「異存ありません」
異存ないんだ、と。職員は、用意した謝罪を半分ほど余らせた。
男もブルボンも、相性の評価が低い理由を職員に尋ねた。職員は画面を二人へ向けた。会話継続性、低。情緒的親和性、低。相互補完性、算出不能。総合契約推奨度、ゼロ。
「会話は継続している」
「はい」
「そうですね」
「低という評価に、現時点で反証がある」
「同意します」
「そうですねぇ……」
そこで会話が止まった。
職員は画面を自分の方へ戻した。
「では、目標についてお話しいただけますか」
「三冠ウマ娘です」
ブルボンが答えた。男は受領していた資料へ目を落としたあと、すぐ彼女へ向き直った。
「短い距離に向く特徴がある。その点は説明を受けているな」
「はい。目標変更は希望しません」
「分かった。では、変更しない案を検討する」
ブルボンは少しだけ耳を前へ向けた。
男は鞄から資料を出した。ブルボンは鞄を開けた。職員は説明のための筆記具を取った。三名がそれぞれ次の作業へ移ろうとしたところで、男が言った。
「まだ、しまわないでほしい」
ブルボンが手を止めた。いつもの資料受領の手順へ移りかけていた。
「測定が必要だ。この資料は未完成で、現在の状態では私も完成させられない」
「私の走行が必要なのでしょうか」
「そうだ。一か月の試行期間を設け、その間に確かめたい」
「測定に協力します」
職員は口を挟んだ。
「あの、三冠を目指すことについて、お考えは」
「難しい」
男は即答した。
「現時点で保証はできない。負荷を増やせば必ず距離が延びるわけでもない。危険と判断した場合は計画を止める。その条件で、検討する」
ブルボンは頷いた。
「お願いします」
職員は二人を見た。説明は簡潔だったが、双方の理解に大きな食い違いはなさそうだった。念のため、試行期間中の責任と、契約を終了する場合の手続きを説明した。男もブルボンもよく聞いた。質問は全部で十一あった。職員は、会話継続性が低いという評価を、二度ほど恨んだ。
仮契約の書類が揃ったころ、ブルボンが男へ尋ねた。
「呼称について確認します。マスターとお呼びしてもよいでしょうか」
職員の指が止まった。
「構わない。トレーニング時の呼びかけだな」
「はい」
「学園への提出書類では、役職名を使用するように」
「了解しました」
職員は仮契約書に「トレーナー」と書かれていることを確かめた。二人に確認すべきことがある気もしたが、契約内容は正常で、呼び方を規制する条項はなかった。
男は立ち上がり、椅子を戻した。ブルボンも立ち上がった。
「私は親切で、優しい。質問があれば、遠慮なくしてほしい」
「承知しました、マスター」
職員は、自己申告を面談記録に含めるべきか迷った。
二人が出ていったあと、予約の結果を「仮契約成立」へ変更した。画面には、推薦されていない組み合わせです、という警告が出た。継続を押すと、成功事例として学習に使用しますか、と尋ねられた。
職員は、躊躇いなくいいえを押した。