冥界、白玉楼。
広大な庭園には、今日も穏やかな風が吹いていた。
丁寧に手入れされた木々が静かに揺れ、遠くからは鳥の囀りが聞こえてくる。
そんな庭園の一角で、男は一人の少女と向かい合っていた。
魂魄妖夢。
白玉楼の庭師にして、二刀を操る剣士である。
「……剣術、ですか?」
妖夢は、どこか困ったような表情を浮かべた。
「ああ。以前から興味があってね。妖夢に教えてもらえないかと思ったんだ」
「…………」
しかし、妖夢はすぐには答えなかった。
視線を泳がせ、何やら考え込んでいる。
「……妖夢?」
「あ、いえ。その……」
「何か問題でも?」
男が尋ねると、妖夢はますます言いにくそうな顔になった。
「問題、と言いますか……」
しばらくの沈黙。
やがて、妖夢は意を決したように口を開いた。
「……以前、あなたと立ち合った時から、少し気になっていたことがあるんです」
「……ほう?」
「気を悪くしないで聞いていただきたいのですが……」
妖夢は一度言葉を切った。
「あなたは、武器を扱うことに向いていないのかもしれません」
「……なるほど」
男は、静かに頷いた。
その反応に、妖夢は少し驚いたようだった。
「……怒らないんですか?」
「どうして?」
「いえ、その……」
妖夢は困ったように笑った。
「武術を修めている方に、向いていないなどと言うのは、失礼かと思いまして」
「ははっ。そんなことはないよ」
男は小さく笑った。
「むしろ、ありがたい。自分では気づけない欠点を教えてもらえるんだからね」
「……そうですか」
妖夢は安堵したように息を吐いた。
「じゃあ、詳しく聞かせてもらえるかな?」
「はい」
妖夢は腰に差した刀へ手を添えた。
「あなたは、武器を自分の身体とは別の『物』として扱っているんです」
「……物?」
「ええ。例えば……」
妖夢は傍らに置いていた木刀を手に取り、軽く構えた。
「剣を振るう時、私は剣を動かそうとは考えません」
ゆっくりと木刀を振るう。
その動きには、余計な力みがなかった。
「腕を伸ばすように、切っ先を伸ばす。剣を、自分の手足の延長として扱うんです」
男は、その動きをじっと見つめていた。
「ですが、あなたは違う」
妖夢は木刀を下ろした。
「身体の使い方は見事です。踏み込みも、体重移動も、間合いの詰め方も。私が教えることなど、ほとんどありません」
「買い被りすぎだよ」
「いいえ。本当です」
妖夢は真剣な表情で続けた。
「ただ、武器を持った途端、動きが僅かに変わるんです」
「……ふむ」
「身体を動かし、腕を振り、その先にある武器を動かす。あなたの動きは、そう見えます」
男は自分の手を見下ろした。
拳を握る。
徒手格闘であれば、どのように身体を動かせばよいのか、自然と分かる。
相手との距離。
打撃の角度。
力の伝え方。
それらを、いちいち意識し直す必要はない。
だが、武器を握ると話は変わる。
その長さを意識し、重さを考え、どう振るえばよいのかを判断する。
「……なるほど」
男は小さく頷いた。
「確かに、言われてみればそうかもしれない」
「徒手格闘を長く続けてきた方ほど、その感覚を変えるのは難しいんです」
妖夢は木刀を置いた。
「拳や足が武器であることに、身体が慣れきっていますから」
「……困ったな」
男は苦笑した。
「長所が、別の分野では短所になるとは」
「ですが、直せないわけではありません」
妖夢は微笑んだ。
「以前、杖を使っていましたよね?」
「ああ」
男は頷いた。
「もっとも、始めてから一年も経っていない。経験があると言うには、おこがましいけどね」
「それでも、剣より先に始めた武器です」
妖夢は続けた。
「でしたら、まずは杖術を磨いてみてはいかがでしょうか」
「……杖術を?」
「はい」
妖夢は頷いた。
「剣術を一から覚えるより、すでに触れている杖で感覚を養う方が、今のあなたには合っていると思います」
「……なるほど」
「杖を自分の手足と同じように扱えるようになれば、剣を学ぶ時にも、その感覚を活かせるはずです」
男はしばらく考え込んだ。
そして、顔を上げる。
「……分かった」
「?」
「じゃあ、今日は杖の稽古に付き合ってもらえるかな?」
妖夢は微笑んだ。
「もちろんです!」
◇◇◇
それからしばらくして。
男は一本の木杖を手に、庭園の中央へ立っていた。
対する妖夢は、木刀を構えている。
「それでは、始めましょう」
「ああ。よろしく頼むよ」
互いに礼を交わし、間合いを取った。
先に動いたのは男だった。
「……ッ!」
地を蹴り、一気に踏み込む。
杖の先端が、妖夢の胸元へと伸びた。
しかし、妖夢は半身になるだけでそれをかわした。
続けて横薙ぎ。
木刀が杖を受け止める。
乾いた音が庭園に響いた。
男は杖を引き戻し、反対側の先端で打ち込む。
だが、それも容易く受け流された。
「……やはり、そうですね」
妖夢が呟く。
「何が?」
「杖の動きが、身体から少し遅れています」
「……ふむ」
「武器を動かそうと意識しすぎているんです」
妖夢は木刀を構え直した。
「杖を振ろうとしないでください」
「……?」
「自分の腕が、そのまま伸びていると思ってください」
男は杖を見下ろした。
腕の延長。
そう考えてみる。
だが、どうにも感覚が掴めない。
「……難しいな」
「では、少し考え方を変えてみましょう」
妖夢が口を開いた。
「拳を振るう時、腕の長さを意識しますか?」
「……いや」
「では、足で蹴る時は?」
「体が覚えているな」
「そうですよね」
妖夢は微笑んだ。
「それと同じです。杖を持っていることを、忘れるくらいでいいんです」
「……なるほど」
男は静かに息を吐いた。
杖を握る手から、余計な力を抜く。
そして、再び構えた。
「……行くよ」
突き。
横薙ぎ。
打ち下ろし。
妖夢は、そのすべてを受け流した。
「まだです」
木刀が男の肩へ迫る。
杖を立て、受け止める。
しかし、衝撃に押されて一歩後退した。
「……ッ」
「杖を動かそうとしないで!」
妖夢の声が飛ぶ。
「身体と一緒に動かすんです!」
「……ああ!」
男は踏み込んだ。
再び杖を振るう。
しかし、妖夢の木刀には届かない。
何度も。
何度も。
攻防を繰り返す。
男の額に汗が滲み始めた。
対する妖夢は、呼吸一つ乱していなかった。
「……少し休憩しますか?」
「いや……もう少し頼む」
「分かりました」
妖夢は木刀を構え直した。
「では、今度はこちらから行きます」
次の瞬間。
妖夢が踏み込んだ。
先ほどまでとは違う、鋭い一撃。
男は咄嗟に杖を掲げた。
乾いた音が響く。
続けて二撃。
三撃。
男は必死に受け止めた。
しかし、妖夢の攻撃は止まらない。
木刀が、男の脇腹へ迫った。
「……ッ!」
間に合わない。
そう思った瞬間だった。
男の身体が、勝手に動いた。
腰を捻る。
肩を引く。
そして。
杖が、滑るように動いた。
木刀を受け流す。
そのまま杖の反対側が、妖夢の胴へと伸びる。
「……!」
妖夢の目が見開かれた。
木刀を引き戻し、杖を受け止める。
乾いた音が響いた。
二人の動きが止まる。
「……今のは」
男が呟いた。
妖夢は、静かに微笑んだ。
「……ええ」
男は手元を見下ろした。
杖を握っている。
しかし、先ほどまでとは感覚が違った。
腕の先に、木の棒がある。
そうではない。
自分の腕が、そのまま伸びているような。
そんな、不思議な感覚だった。
「……こういうことか」
「はい」
妖夢が頷いた。
「今の一撃は、見事でした」
「ありがとう」
「ただし、まだ一瞬です」
男は杖を握り直した。
先ほどの感覚は、すでに薄れ始めている。
意識して再現しようとすると、途端に杖が重く感じられた。
「……難しいな」
「だからこそ、修練が必要なんです」
妖夢は笑った。
「ですが、一度でも感覚を掴めたのなら、必ず上達します」
男は静かに頷いた。
「……精進するよ」
◇◇◇
稽古を終えた頃には、陽が傾き始めていた。
男は縁側に腰掛け、杖を膝の上へ置いていた。
隣には、妖夢が座っている。
「……ところで、妖夢」
「はい?」
「一つ、試してみたいことがあるんだ」
「何でしょう?」
男は杖を持ち上げた。
「杖に霊力を纏わせることはできると思うかい?」
「……霊力を?」
「ああ」
男は頷いた。
「先代から、名前だけ聞いたことがあるんだ」
「名前?」
「『周』という技術だよ」
男は杖を見つめた。
「身体の外にある物体へ、霊力を纏わせる応用技らしい」
「……なるほど」
妖夢は興味深そうに頷いた。
「では、やり方も教わったのですか?」
「いや。名前と、どんな技術なのかを少し聞いただけだ」
男は苦笑した。
「詳しいことは何も教えてもらえなかったよ」
「そうでしたか」
「だけど、さっきの感覚を思い出してね」
男は杖を握り直した。
「杖を自分の手足の延長として扱えるなら、霊力もその先へ流せるんじゃないかと思ったんだ」
妖夢は少し考え込んだ。
そして、微笑んだ。
「面白い考えですね」
「……試してみてもいいかな?」
「もちろんです」
男は静かに目を閉じた。
呼吸を整える。
霊力を巡らせる。
身体の内側から、ゆっくりと力が湧き上がる。
纏。
全身を覆う霊力。
その流れを、腕へ集中させる。
手首。
掌。
そして、指先。
男は杖を握り締めた。
霊力を、その先へ流そうとする。
しかし。
「……む」
霊力が、掌で滞った。
身体の外へ流そうとすると、途端に制御が難しくなる。
「……やっぱり、難しいな」
妖夢は静かに見守っていた。
「……先ほどのことを、思い出してみてください」
「……?」
「杖を、手足の延長として扱う感覚です」
男は目を閉じたまま、頷いた。
杖は、別の物体ではない。
自分の腕の延長。
そう意識する。
霊力を、指先で止めない。
その先へ。
さらに、その先へ。
「……!」
杖の表面に、淡い光が灯った。
妖夢が目を見開く。
「……これは」
男はゆっくりと目を開けた。
手にした杖が、微かな霊力を帯びている。
「……できた」
男が小さく呟いた。
妖夢は感心したように頷いた。
「見事ですね」
「……いや」
男は杖を見つめた。
「まだ、ほんの少しだ」
霊力の光は、すぐに消えてしまった。
だが、確かに杖へ霊力を流すことができた。
「……これが、周か」
男は静かに呟いた。
かつて、先代から名前だけを聞いた技術。
その一端に、ようやく触れることができた。
男は小さく笑った。
「ようやく、少しだけ分かった気がします」
妖夢はその横顔を見つめ、微笑んだ。
「良かったですね」
「ああ。妖夢のおかげだよ」
男は杖を膝の上へ置いた。
今日の稽古で、剣術を習得することはできなかった。
杖術も、まだまだ未熟だった。
だが、確かな手応えがあった。
自分の手足の延長として、武器を扱う。
そして、その先へ霊力を流す。
今までとは違う、新たな戦い方。
男は静かに微笑んだ。
「今日はありがとう、妖夢」
「いえ。こちらこそ、良い稽古になりました」
妖夢が頭を下げる。
「また、いつでもいらしてください」
「ああ。ぜひ頼むよ」
男は立ち上がった。
杖を手に取り、軽く振るう。
その動きは、まだぎこちない。
しかし、ほんの一瞬だけ。
杖が、自分の腕の一部になったような気がした。
男は小さく笑った。
「……先は長そうだな」
春の風が、白玉楼の庭園を静かに吹き抜けていった。