紅魔館、大図書館。
膨大な蔵書が収められたその空間に、今日も静かな時間が流れていた。
もっとも、その静寂は長く続かなかった。
「……くそっ!」
突如、少女の声が響く。
霧雨魔理沙。
黒い帽子を被った魔法使いは、手にした八卦炉を睨みつけていた。
その周囲には、魔力の残滓が淡く漂っている。
「……また失敗かよ」
魔理沙は大きく息を吐いた。
目の前には、魔法陣が描かれた数枚の紙。
そのうちの一枚は、端が黒く焦げていた。
「……騒がしいわね」
背後から、気怠げな声がした。
パチュリー・ノーレッジ。
紅魔館に住まう魔女は、分厚い本を片手に魔理沙を見つめていた。
「図書館では静かにしてちょうだい」
「……悪い」
珍しく素直な返事だった。
パチュリーは僅かに眉を上げた。
「……何かあったの?」
「別に」
魔理沙は八卦炉を懐へしまった。
「ちょっと、上手くいかないだけだぜ」
「そう」
パチュリーはそれ以上追及せず、椅子に腰掛けた。
そして、再び本を開く。
しばらくの沈黙。
やがて、魔理沙が口を開いた。
「……なあ、パチュリー」
「何?」
「お前、霊夢のことどう思う?」
パチュリーの指が止まった。
「……唐突ね」
「いいから」
パチュリーは少し考えた。
「そうね。非常識な巫女、かしら」
「ははっ。違いない」
魔理沙は小さく笑った。
だが、その笑みはすぐに消えた。
「……あいつ、強いよな」
「ええ」
パチュリーは即答した。
「少なくとも、普通の人間とは比較にならないわ」
「……だよな」
魔理沙は俯いた。
「私だって、結構頑張ってるつもりなんだけどな」
パチュリーは何も言わなかった。
手のひらを見つめる。
「それでも、あいつには届かない」
「……」
「霊夢は、何でも簡単にやっちまうんだ」
魔理沙は苦笑した。
「新しい技だって、ちょっと考えただけで形にする。私が何日もかけてようやく覚えるようなことを、あいつは当たり前みたいにやるんだぜ?」
パチュリーは静かに本を閉じた。
「……嫉妬しているのね」
「……悪いかよ」
「別に」
パチュリーは淡々と答えた。
「自然な感情だと思うわ」
魔理沙は少し驚いたように顔を上げた。
「……お前にしては優しいな」
「事実を言っただけよ」
パチュリーは椅子に深く腰掛けた。
「でも、一つ勘違いしているわね」
「……何が?」
「霊夢が努力していないと思っていることよ」
魔理沙は眉をひそめた。
「……してるのか?」
「しているわ。本人が自覚していないだけで」
「……?」
パチュリーは指を一本立てた。
「私の考えでは、天才と秀才の違いは、努力を意識しているかどうかよ」
「……どういうことだ?」
「秀才は、自分に足りないものを理解して、意識的に努力する」
パチュリーは続ける。
「一方、天才は努力を努力として認識していない。本人にとっては、ただ当たり前のことをしているだけなの」
「……当たり前?」
「ええ」
パチュリーは窓のない天井を見上げた。
「霊夢は幼い頃から、先代の博麗の巫女や、あの男と一緒に過ごしてきたのでしょう?」
「……ああ」
「なら、考えてみなさい」
パチュリーは魔理沙を見つめた。
「普通の人間にとっては、命懸けの修練になるようなことが、あの子にとっては日常だったのかもしれない」
魔理沙は黙り込んだ。
「霊力の扱い方。身体の動かし方。危険を察知する感覚」
パチュリーは一つずつ挙げていく。
「幼い頃から、そういうものに囲まれて育ってきた。本人にとっては特別な訓練ではなく、生活の一部だったのでしょうね」
「……なるほど」
魔理沙は小さく呟いた。
「そりゃ、強くもなるわけだ」
「そういうこと」
パチュリーは頷いた。
「あなたが何年もかけて積み重ねてきたものを、霊夢はもっと幼い頃から、無意識に積み重ねてきたのかもしれない」
「……」
魔理沙は手を握り締めた。
「……それじゃ、結局勝てないってことじゃないか」
パチュリーは首を横に振った。
「そうとも限らないわ」
「……?」
「天才には、天才なりの弱点があるのよ」
魔理沙が顔を上げた。
「弱点?」
「ええ」
パチュリーは本を机に置いた。
「無意識にできてしまうからこそ、何をどうすれば上達するのか、本人にも分からないことがある」
「……ふむ」
「もちろん、天才が意識的な努力を覚えれば話は別。でも、少なくとも霊夢は、自分の能力を細かく分析して伸ばすような性格には見えないわね」
魔理沙は思わず笑った。
「……確かにな」
「あの子は、必要になれば必要なだけ力を発揮する。でも、特定の能力だけを狙って鍛えることは、あまり得意ではないでしょう」
パチュリーは魔理沙を見つめた。
「そこが、あなたとの違いよ」
「……私との?」
「あなたは、自分に何が足りないのかを考えられる」
パチュリーは続けた。
「失敗した理由を探し、方法を変え、何度でも試す。意識的に能力を伸ばせるのは、秀才の強みよ」
魔理沙はしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと呟く。
「……でもさ」
「何?」
「努力できるってだけじゃ、結局あいつには届かないだろ」
パチュリーは、ほんの僅かに口元を緩めた。
「……そうね」
「おい」
「努力すれば必ず追いつける、なんて無責任なことは言わないわ」
パチュリーは静かに続ける。
「でも、あなたには一つ、私より優れているところがある」
「……は?」
魔理沙は目を瞬かせた。
「お前より?」
「ええ」
パチュリーは頷いた。
「魔力の放出量よ」
「……放出量?」
「あなたは、魔力を一度に外へ放つ能力が異常に高いの」
パチュリーは指先に小さな光を灯した。
「魔法には、魔力を蓄える能力、制御する能力、術式を構築する能力……様々な要素がある」
光は、複雑な形を描きながら空中を漂った。
「私は、魔力の制御や術式の構築には自信がある。でも、一度に放出できる魔力の量では、あなたに及ばない」
「……本当か?」
「嘘を言ってどうするの」
パチュリーは光を消した。
「あなたは、精密な魔法よりも、大量の魔力を一気に叩きつける魔法に適性がある」
魔理沙は、自分の八卦炉を見下ろした。
「……マスタースパーク、か」
「そうね」
パチュリーは頷いた。
「今のあなたは、まだその才能を十分に活かしきれていない」
「……どうすればいい?」
魔理沙が顔を上げた。
その目には、先ほどまでとは違う光が宿っていた。
パチュリーは静かに答えた。
「放出量を鍛えなさい」
「……放出量を?」
「ええ。術式の複雑さや、魔法の種類で私や霊夢と張り合う必要はないわ」
パチュリーは魔理沙を見つめた。
「あなたにしかできないことを、徹底的に磨けばいい」
「……」
「ただし、放出量を増やすだけでは駄目よ。自分の魔法で自滅したら意味がないもの」
パチュリーは指を一本立てた。
「どれだけの魔力を、どれだけ短い時間で、どれだけ無駄なく放てるか。それを突き詰めなさい」
魔理沙は、じっとその言葉を聞いていた。
「そうすれば……」
パチュリーは少しだけ笑った。
「もしかしたら、霊夢にも届くものが見つかるかもしれないわね」
「…………」
魔理沙は、しばらく黙っていた。
やがて。
「……ははっ」
小さく笑った。
「何だよ、それ」
「何が?」
「お前、結構いいこと言うじゃないか」
「失礼ね」
パチュリーは眉をひそめた。
「私はいつだって正しいことを言っているつもりよ」
「はいはい」
魔理沙は帽子を被り直した。
そして、八卦炉を取り出す。
「……よし」
「……何をするつもり?」
「決まってるだろ」
魔理沙は、にやりと笑った。
「修行だぜ!」
「……ここではやめなさいよ」
「大丈夫だって! ちょっと試すだけだから!」
「ちょっと待ちなさい、魔理沙」
パチュリーが立ち上がる。
しかし、魔理沙はすでに八卦炉へ魔力を込め始めていた。
「おいおい、何だよ。さっきは鍛えろって言ったじゃないか」
「場所を考えなさいと言っているの!」
「大丈夫だって!」
魔理沙は笑った。
「ちょっと強めに出すだけだぜ!」
「だから、それが問題なのよ!」
次の瞬間。
図書館の一角が、眩い光に包まれた。
◇◇◇
数分後。
大図書館には、再び静寂が戻っていた。
もっとも、先ほどまでとは少々様子が違っていた。
床には焦げ跡が残り、数冊の本が煙を上げている。
魔理沙は正座させられていた。
その前には、腕を組んだパチュリーが立っている。
「……反省している?」
「……はい」
「次からは?」
「……外でやります」
「よろしい」
パチュリーは小さくため息をついた。
そして、踵を返す。
「……まったく」
その背中を見ながら、魔理沙は小さく笑った。
「……ありがとな、パチュリー」
パチュリーの足が止まった。
「……何のこと?」
「別に」
魔理沙は帽子を被り直した。
「ちょっと、やる気が出たってだけだぜ」
パチュリーは振り返らなかった。
ただ、小さく呟いた。
「……そう」
そして、再び本を開いた。
魔理沙は立ち上がり、八卦炉を握り締めた。
霊夢は強い。
それは、今も変わらない。
自分がどれだけ努力しても、追いつける保証などない。
だが。
「……見てろよ、霊夢」
魔理沙は小さく笑った。
その瞳には、確かな闘志が宿っていた。